師木宮は伊迦賀色許男の娘と竟富那毘の娘の子の建諸隅の皇子の王家だった。纏向宮朝の天皇の大新河は師木宮に建諸隅天皇が存在するので、師木宮から高穴穂宮に遷都するまで、建諸隅を継承できなかった。
すなわち、建諸隅は意富阿麻比賣の子の八坂入日子が豐鋤入日賣に婿入りして継承し、その娘の大中姫・八坂入日賣に婿入りした十市根が師木玉垣宮を引き継いで、高穴穂宮の天皇になった。そして、物部武諸遇を名乗ったのは、十市根の子の初代の膽咋の娘の清媛の婿の物部武諸遇で、後継者の2代目膽咋は景行五十八年に高穴穂宮に遷った。
十市根と大新河は纏向宮朝の大連とされているが、垂仁八十七年に印色入日子が神庫を大中比賣に、そして、十市根に授けた時に大連に賜姓されている。大新河は二十三年秋八月丙申朔に大連に賜姓されている。しかし、この朔の日干支は間違いの日干支で、正しくは25年、垂仁五十四年である。
纏向宮大連は多遅麻も賜姓されているが、神功元年に賜姓されて、矛盾がある。纏向宮は珠城宮と日代宮があり、纏向珠城宮は武諸遇が崇神六十五年に大連に賜姓、垂仁五十四年に大新河が日代宮大連に賜姓されたと考えられる。
垂仁の遷都は十市根が大連に賜姓された、垂仁八十一年春二月壬子朔は間違いの日干支で、垂仁元年の前年の紀元前30年に初代十市根が賜姓されたと考えられる。十市根は纏向日代宮世代の大連なので、師木玉垣宮の十市根は大根、八坂入日子の妹の十市之入日賣の婿と考えられる。従って、『日本書紀』の垂仁朝は纏向の朝廷ではなく、師木の朝廷だった。
垂仁朝は建諸隅が崇神六〇年に纏向朝、垂仁元年に大根が師木に朝廷を開いた。意富阿麻比賣の子の大入杵と十市之入日賣の婿の大根、息長水依比賣の子の多多須道主と神大根、沙本之大闇見戸賣の子の沙本毘古と沙本毘賣の夫の豐木入日子、弟袁祁都比賣の子の比古意須と伊理泥が二人の天皇だった。
纏向天皇は豐木入日子と大新河、師木の天皇は初代大根(?沙本毘古)と大根を継いだ娘婿の印色入日子と穴穂に遷都した十市根だろう。大入杵と多多須道主と豐木入日子と比古意須は同一人物か親子、大根と沙本毘古と初代の伊理泥も同様である。崇神・垂仁朝は150年以上続き、7代以上の人物に継承されている。親子孫の三代が三世代続けば、180年師木宮が続き、伊理泥の兄弟が伊理泥の娘を妃にしており、少なくとも二代の伊理泥が存在した。
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