倭得玉彦は谷上刀婢を妃に1男、大伊賀彦の娘の大伊賀姫を妃に4男を生んでいるが、5男1女を記述する。そして、次の2世代続けて、妃を記述しない。これは、師木朝の纏向朝との分裂の影響で、師木朝は崇神朝・垂仁朝と続いてから高穴穂へ、師木朝から分裂した纏向朝は桃の種の分析から240年頃まで続いた影響と考えられる。倭得玉彦の子には、纏向天皇の豐木入日子と師木天皇の八坂之入日子の家系が交錯しているのだから、万世一系の分王朝を認めない史書記述は苦労したのだろう。
弟彦は子が大海部直の祖の淡夜別なのだから婿の八坂入日子である。置津(部)與曽の子の大原足尼が筑紫豊國國造の祖なので、拘奴國を破る、息長帶比賣の父の息長宿禰などと考えられ、遠津臣の娘の高材比賣の婿の迦迩米雷が置津(部)與曽である。彦與曽の子の大八椅は甲斐國造の祖なので、豐木入日子の娘の高材比賣の婿である。五百木部連の祖の若都保は五百木之入日子を生む八坂入日子の娘の八坂之入日賣の婿なのだろう。ただし、「斐陀國造・・・尾張連祖瀛津襲命大八椅」とあるように、大八椅は置津(部)與曽と彦與曽の共通の子である。
玉勝山代根古は山代氷主雀部連、軽部造、蘇冝部首の祖なので、跡取りの日女の婿の山代内臣の可能性が高い。真敷刀俾の父は尾張大印岐で、印岐は忌寸、凡河内國造の後裔の凡河内忌寸のことなのだろうか。
倭得玉彦の子の弟彦の王朝は垂仁三二年に比婆須比賣が薨じたため、神庫を管理していた印色入日子が後継者になり、垂仁八七年に神宝を大中姫に託し、大中姫は十市根に任せた。すなわち、皇太弟は須賣伊呂大中日子で大中姫の婿の十市根・若都保である。垂仁八十一年に十市根は大連、皇位に就いて、大中姫は八坂入日賣である。三十年程度の親子や五十年程度の親子孫、氏族の中の家族での王朝交代である。それに対して崇神朝、垂仁朝、景行朝は氏族(皇后の氏族)の王朝交代である。
0 件のコメント:
コメントを投稿