垂仁朝は纏向と師木の王朝があるため、師木水垣宮での名前と師木玉垣宮、葛城珠城宮での名があった。宗教上の天皇・大連・足尼ならば、史書を記述した王朝にとっては一王朝となる。しかし、統治上の実力者の大臣の史書は同時に3大臣が存在するので、最大、3柱の天皇の名前が出現する。そのため、若帶日子と倭建、五百木之入日子の三王は、太子と呼ばれた。そして、それを挟むように大中日子が存在し、大帯日子と帯中日子、若帶日子という天皇が存在した。大中日子は分裂の始まりと終わりなのかもしれない。
須賣伊呂大中日子(十市根)の娘の迦具漏比賣は大江を生み、『日本書紀』「彦人大兄之女大中姫」とあるように、大江が伊那毘能若郎女の娘の庶妹銀王に婿入りして、大中比賣を生んでいる。大中比賣は仲哀の妃とされていて、仲哀の崩後、多遅麻が大連になっている。多遅麻は武諸遇の子なので、大中比賣の娘婿に当たり、多遅麻は纏向日代宮大連(天皇)、妃は五十琴彦の娘の安媛と記述される。
すなわち、大中比賣の夫は五十琴彦、娘が五十琴姫、婿の多遅麻(五十功彦)と考えられる。多遅麻は纏向宮大連で神功元年、『舊事本紀』では202年の即位、五十琴彦の娘の多遅麻の妃の安媛が神功皇后世代である。神功三年、間違いの日干支の春正月丙戌朔戊子、纏向宮は崩壊し、五十琴宿祢が磐余若櫻宮に朝廷を開いた。纏向宮は240年頃まであったと炭素同位体で結論がでており、遷都の正しい日干支の正月丙戌朔の日干支があったのは234年で、符合する。
そして、杙俣長日子の孫の須賣伊呂大中日子、叔母が息長眞若中比賣なので、その子の若沼毛二俣と同世代なのだから、額田大中日子の可能性が高い。当然、宇遲能和紀郎子は皇太子なのだから、額田大中日子は皇太弟である。
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