2025年3月7日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 尾張氏の神話16 豐木入日子

  初代の得玉彦(美知能宇斯)は丹波の河上の摩須郎女、すなわち、丹波大彦(大伊賀彦)の娘の大伊賀姫を妃に4児を生む。比婆須比賣の夫は八坂入日子、弟比賣(飯野眞黒比賣)の子が須賣伊呂大中日子と考えられる。飯野眞黒比賣の父は杙俣長日子でその父が遠津氏の息長田別子だ。しかし、杙俣長日子の孫が応神天皇の子の若沼毛二俣で世代が異なり、須賣伊呂大中日子の娘が纏向日代天皇妃である。

須賣伊呂大中日子の妃は柴野入杵の娘の柴野比賣で、柴野入杵は豐鋤入日賣で、夫が美濃(三野)の八坂入日子、妹の弟比賣は大根の娘が弟比賣なので大根の妃、道主の跡取り、朝廷別が師木宮の分岐朝廷纏向天皇の豐木入日子なのだろう。

息長田別や杙俣長日子は後代の倭建の子孫だが、同一地域、同一氏族の王の名は継承されるので、違う時代には違う人物が同一の名を冠した可能性が高い。幾人もの垂仁朝、景行朝、成務、応神朝の弟姫、弟彦が存在し、同じ弟国の違う人物には弟に修飾語が付くように、また、兄弟姉妹の弟なら、もっと多くの名に兄を付加される。

建諸隅と伊迦賀色許男の子が互いに婚姻し合えば、名は建諸隅のままだが、尾張氏の建諸隅は名が倭得玉彦に変わった。崇神六十五年以降も建諸隅の名は継承されているのだから、倭得玉彦も実質は建諸隅だった。美知能宇斯は遠津氏の娘と考えられた息長水依比賣の子だったので、遠津氏の娘の遠津年魚目目微比賣の子の豐木入日子の可能性が高い。遠津氏は木国造の荒河刀辨なので、豐木入日子は木国造の子でもあった。共に彦狹嶋の祖父なので豐木入日子イコール大入杵、大入杵は木国造の建諸隅を継承した。

豐木入日子は東国を任され、孫の彦狹嶋は東山道十五國都督、上毛野國造能等國造の祖であり、東国の甲斐國造の祖は沙本毘古や建諸隅の後裔の尾張氏でもある大八椅、沙本毘古の曾孫の知津彦が甲斐國造、大八椅は斐陀國造に賜姓されている。豐木入日子が尾張氏を継承し、子達も八坂入日子の子達と婚姻していることがわかる。

建沼河別が丹波道と東方十二道を攻め、子の纏向王の豐木入日子が丹波道と東国を得、倭者師木登美豐朝倉曙立王の品牟都和氣が引き継ぎ、子の彦狹嶋が東山道十五國の都督、その子達が東国の國造に賜姓されたと考えられる。甲斐國造の祖の沙本毘古は品牟都和氣の義父の可能性が高い。

2025年3月5日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 尾張氏の神話15 纏向と師木の天皇

最初に大和の纏向を首都にした人物は建諸隅である。その頃の建諸隅は豐木入日子が襲名していて、崇神六十年に纏向朝廷を開き、垂仁二十三年に大新河が継承した。豐木入日子は沼名木之入日賣の婿と想定され、沼名木之入日賣は大國魂神を祀った纏向の女王で大和神社を創建したと伝えられる。通常、姫が王位を継承し、皇子が王位を継承する時、新しい王朝として史書に名が記述される。

そして、師木天皇は伊迦賀色許男(日子坐)の娘婿の建新川が継承したが、建新川は倭志紀縣主の祖なので、師木宮天皇を継承した。師木が首都でないなら、祖ではなく師木縣主と呼べばよい。『日本書紀』は磯城が首都としないので波延を磯城縣主と呼んでいる。師木宮天皇は崇神朝、垂仁朝、その後も、垂仁九十九年まで継承され、垂仁八十一年の大連就位の日干支は間違いで崇神六十八年、紀元前30年に即位した初代の十市根(大根)が『舊事本紀』の天皇だったようだ。

建諸隅を継承したのは師木宮に婿入りした倭得玉彦で、妃は淡海國谷上刀婢(タニカミのトベ)、すなわち、丹波河上(タニハカハカミ)の摩須郎女と名が似通っていて、その夫の丹波比古多多須美知能宇斯の可能性が高い。すなわち、大縣主の娘の竹野比賣の子の比古由牟須美(襲名した大毘古)である。『古事記』では四道將軍ではなく三道だが、それは、建沼河別と美知能宇斯が同一人物だったからと考えられる。崇神朝は崇神六十年に豐木入日子が纏向朝廷を開いたので、比古由牟須美の子と大伊賀姫の婿の垂仁朝時の師木宮と纏向宮の2代の記述が必要だった。

豐木入日子は荒河戸畔の娘と思われる遠津氏息長水依比賣の子で、妃は春日宮天皇の孫娘の佐波遲比賣である。日子坐は師木宮朝の4代がいつも木国造に婿入りし、木国造はいつも日子坐の娘に婿入りする。すなわち、沙本毘古が師木宮天皇で、垂仁五年に纏向朝の豐木入日子に殺害された。佐波遲比賣は沼名木之入日賣と考えられ、大國魂神を祀らせようとしたが、沙本毘古と共に薨じたので、祭れなかった。沼名木之入日賣神社は大國魂を祀る大和神社から離れて纏向宮に近い位置にある。

2025年3月3日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 尾張氏の神話14 意富阿麻比賣の子達

  彦坐の妃の意富阿麻比賣(母弟袁祁都比賣)の男子は八坂入日子(?山代之大筒木眞若)で、同母弟の伊理泥の娘を妃にしている。しかし、伊理泥の娘婿が八坂入日子では、世代が異なる。伊理泥と義兄弟の八坂入日子と伊理泥の娘婿の山代之大筒木眞若と考えないと理に適わない。

八坂入日子が丸迩臣の祖の袁祁都(木國造)の娘に婿入りし、その息子の山代之大筒木眞若が袁祁都の子の伊理泥(大根)の娘の丹波能阿治佐波毘賣に婿入りした。これで、世代も名前もスッキリし、伊勢神麻績連の祖の八坂入日子の妃は天照大神を託した木國造の孫の豐鋤入日賣(氷羽州比賣)で、伊理泥の妃は丹波道主の娘の弟比賣、その娘が阿治佐波毘賣なら理解できる。

八坂入日子の義兄弟の大入杵は、妃が不明な2代目美知宇斯ならば、妹が豐鋤入日賣、婿が水之穗眞若の八坂入日子は理に適う。初代美知宇斯の子が豐木入日子、八坂入日子の義妹の十市之入日賣の婿が名前から神大根である。

大根には兄比賣・弟比賣という娘が存在したが、十市根は八坂之入日子の娘に婿入りした。同じ師木宮に八坂之入日賣と弟比賣が存在し、十市根は八坂之入日賣を、大筒木眞若は大根の娘の弟比賣(丹波能阿治佐波毘賣)を妃にした。

品遲部君の祖が比古由牟須美なので、丹波道主は娘竹野比賣の婿で、子の豐木入日子は佐波遲比賣を妃にして、その子が品牟都和氣である。比古由牟須美は初代の丹波道主である。

豐木入日子の妃の佐波遲比賣は春日の建國勝戸賣の娘、春日宮王朝の孫に当たり、春日宮王朝の子の比古由牟須美の娘ならば理に適う。大俣の子は曙立で、倭者師木登美豐朝倉の王、後に倭と呼ばれ、淡海の師木と長髄彦の居た仲国の登美と筑後の朝倉の倭王となったと記述する。この倭は大海の野洲の倭で、伊勢の品遲部君の祖、品牟都和氣はよく符合する。

2代目美知能宇斯の弟の水之穗眞若は安直の祖なので、海直の祖の内色許男、その娘の伊迦賀色許賣、その子の比古布都押之信、子の日子坐、その子の八坂入日子である。十市根は師木朝大連だが、垂仁八十一年、大連に賜姓され、物部武諸遇の娘を妃にしているので、世代は景行朝と同時期の天皇である。天皇十市根の妃が八坂之入日賣と考えられ、子の五百木之入日子は太子である。