2025年3月31日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話25 弟彦の兄弟とその子供

  筑紫豊國國造の祖を生む置部與曽は「倭者師木登美豐朝倉王」の曙立・倭建の義父と考えられる。そして、沼羽田之入毘賣の子に伊賀帶日子(『日本書記』は膽香足姫)、苅羽田刀辨の子に五十日帶日子と同一人物と思われる子が存在する。すなわち、沼羽田之入毘賣と苅羽田刀辨が同一人物と考えられる。その子の中の沼帶別・落別は大荒田の父に相応しい。そして、『日本書記』では綺戸邊と記述される、苅羽田刀辨の子の石衝別は、倭建の父と考えられる石衝別なので、弟比賣と共に止めた比婆須比賣だ。

弟国になったのが木国で、建内宿禰は、その弟国から木国の名を持って山代、後の平群県紀里に遷ったと考えられる。すなわち、山代事態も木国から持ち運んだ可能性もある。建内宿禰の母も木國造の妹、大荒田の父の落別も木國造の荒河刀辨の孫と考えられ、建内宿禰の子に波多臣の祖が存在することから、名前から沼羽田之入毘賣は相応しい。

弟彦の子の大海部直の祖の淡夜別は八坂之入日賣の兄弟の大筒木眞若、子の迦迩米雷が高穴穂天皇・穴太足尼・十市根の婿である。同じく、足尼の姓を持つ、置津與曽の子の筑紫豊國國造の祖の大原足尼は倭者師木登美豐朝倉王の曙立・倭建と推定した。師木縣主の祖は建新川と印岐美なので、丹波の遠津臣の婿が建新川・曙立、遠い津の草津の王家が師木の王家である。

彦與曽の子の甲斐國造の祖の大八椅は東山道十五國都督の彦狹嶋か子の御諸別、沙本の穴太部の別の祖の伊許婆夜和氣と考えられる。沙本の穴太部への分家なのだから、沙本の土地から穴太へ分家し、妹の阿邪美都比賣は、稻瀬毘古の妃で、沙本毘古は稻城にいた。稻城は恐らく入根の出城が纏向政権に対抗するため山代の相楽に造られ、佐波遲比賣(歌凝比賣)共々崩じたと考えられる。

大縫と小縫は大碓と小碓の可能性が高い。野洲がある十市の兄遠子に婿入りした押別(忍之別)が大碓ならば、大碓と兄比賣の子が兄日子で良く合致する。小碓は太子で、子が天皇なので、十市根・穴太足尼の娘の比咩古を妃にした初代の膽咋はよく合う。膽咋の娘婿は武諸遇、纏向珠城宮大連の子で、纏向珠城宮大連だが、父の大新河も子の多遅麻も日代宮大連なのだから、世代的に日代宮大連の可能性が高い。 

2025年3月28日金曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話25 弟彦の兄弟とその子供

  筑紫豊國國造の祖を生む置部與曽は襲津彦を生む葛比売の祖父の大荒田の父と考えられる。沼羽田之入毘賣の子に伊賀帶日子(『日本書記』は膽香足姫)、苅羽田刀辨(『日本書記』は綺戸邊)の子に五十日帶日子と同一人物と思われる子が存在する。すなわち、沼羽田之入毘賣と苅羽田刀辨が同一人物と考えられる。その子の中の沼帶別・落別は大荒田の父に相応しい。

弟国になったのが木国で、建内宿禰は、その弟国から木国の名を持って山代、後の平群県紀里に遷ったと考えられる。建内宿禰の母も木國造の妹、大荒田の父の落別も木國造の荒河刀辨の孫と考えられ、建内宿禰の子に波多臣の祖が存在することから、沼羽田之入毘賣は相応しい。建内宿禰は山代の内臣である。

弟彦の子の大海部直の祖の淡夜別は八坂之入日賣の兄弟の大筒木眞若、子の迦迩米雷が高穴穂天皇・穴太足尼・十市根の婿である。同じく、足尼の姓を持つ、置津與曽の子の筑紫豊國國造の祖の大原足尼は倭者師木登美豐朝倉王の曙立と推定した。師木縣主の祖は建新川と印岐美なので、丹波の遠津臣の子が建新川、遠い津の草津の王家が師木の王家である。

彦與曽の子の甲斐國造の祖の大八椅は東山道十五國都督の彦狹嶋か子の御諸別、沙本の穴太部の別の祖の伊許婆夜和氣と考えられる。沙本の穴太部への分家なのだから、沙本の土地から穴太へ分家し、妹の阿邪美都比賣は、稻瀬毘古の妃で、沙本毘古は稻城にいた。稻城は恐らく入根の出城が纏向政権に対抗するため山代の相楽に造られ、佐波遲比賣(歌凝比賣)共々崩じたと考えられる。稻瀬毘古は豐木入日子なのだろう。

大縫と小縫は大碓と小碓の可能性が高い。野洲がある十市の兄遠子に婿入りした押別(忍之別)が大碓ならば、大碓の子が押黒之兄日子と良く合致する。小碓は太子で、子が天皇なので、十市根・穴太足尼の娘の比咩古を妃にした初代の膽咋はよく合う。膽咋の娘婿は武諸遇、纏向珠城宮大連の子で、纏向珠城宮大連だが、父の大新河も子の多遅麻も日代宮大連なのだから、世代的に日代宮の可能性が高い。

2025年3月26日水曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話24 丹波道主の娘達

五百木部連の祖の若都保は五百木之入日子の父の十市根と考えられる。十市根の父の三野()國造の祖の大根の娘が兄比賣(兄遠子)と弟比賣(弟遠子)と記述される。すなわち、大根の妃が丹波道主の娘の弟比賣だから、大根の娘が弟比賣である。大根の娘の弟比賣は十市根の姉妹である。氷羽州比賣は豐鋤入日賣で伊勢(入町)の人物だ。

『日本書紀』では弟國で薨じたのが竹野媛(?弟比賣)で、『古事記』では弟比賣が比婆須比賣と同じ地域に残っている。すなわち、『古事記』の比婆須比賣は次の世代の八坂入日賣で弟比賣は妾の子だ。そして、『古事記』には表記が違う先代の氷羽州比賣が存在し大中津日子・十市根の母(義母)である。『古事記』は比婆須比賣と氷羽州比賣を別人と考えたようだ。そして、『古事記』で子を記述しない比婆須、眞砥野、弟比賣、そして、子を記述する氷羽州、沼羽田、阿邪美能伊理毘賣が存在する。妃の候補は比婆須、弟比賣、返されて、山代で薨じた歌凝、弟國で薨じた圓野比賣である。纏向宮から返されて、弟国で薨じた弟比賣・圓野比賣と、師木宮の弟国に残された弟比賣である。

このことから、沼羽田之入日賣が弟比賣、歌凝比賣は義姉妹で沙本毘古と共に稲城で薨じた佐波遲比賣と考えられる。弟国で薨じた圓野比賣は、阿邪美能伊理毘賣の可能性が高く、沙本の穴太部の別の祖を生むのだから沙本毘古の妃である。すなわち、『古事記』の弟比賣は大根の妃、その弟比賣が『舊事本紀』の日女だろう。

弟比賣は『日本書紀』で八坂之入日賣の娘、『古事記』では妾の子の娘とされる。従って、妾の子の夫は十市根と同一人物(兄妹)のように見なされる人物である。それは、大根と十市根を同一人物とした結果である。すなわち、妾の子を妃にしたのは、伊迦賀色許男(坐王)と山代縣主の祖の長溝の娘の子が大根なのだから、十市根の妹の婿は山代の男児が相応しく、八坂之入日賣の兄妹の山代の大筒木眞若はピタリと当て嵌まる。大中津比賣に神寶を委譲した印色入日子は、丹波道主の孫の弟比賣と思われる阿治佐波毘賣を妃にした大筒木眞若が合致しそうだ。

『舊事本紀』は真砥野比賣(阿邪美能伊理毘賣)の子を盤撞別と稻別を記述し、子の中に布多遲能伊理毘賣を含まないので、稻別は布多遲能伊理毘賣の夫と考えられる。その娘と考えられる布多遲毘賣は稻依別を生む。息長宿禰が稻依別ならば、妃の名が稻依毘賣なのは相応しい。

2025年3月24日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話23 倭得玉彦の娘達

  倭得玉彦の子には5男、大海部直の祖を生む弟彦や甲斐國造の祖を生む彦與曽、八坂之入日賣が生む五百木之入日子に繋がる五百木部連の祖などが存在する。これらは、高穴穂宮天皇の構成氏族である。ところが、5男以外に日女が記述され、5男の人物の妃を全く記述しない。そして、その子の世代も妃を記述しない。

これは5柱の比賣の婿が記述され、日女は跡取りを意味したと考えられる。そして、次世代も同様に比賣の婿や分家が記述されたと考えられる。勿論、垂仁朝が100年近くも続くのだから、5代程度の従妹婚があるので、兄弟・姉妹と記述される。『古事記』には比婆須比賣、眞砥野比賣、弟比賣の三娘と朝廷別しか記述せず、後で歌凝比賣を追加している。これは、朝廷別が分朝廷の纏向宮を開いた豐木入日子で、その妃が歌凝比賣すなわち佐波遲比賣を意味しているのだろう。

弟彦は弟国が出来てから、賜姓された名なのだから、すなわち、道主の娘の死によって名付けられたのだから、道主の跡取りの婿が弟彦である。日女は国名が無い比賣なのだから天皇(皇后)、同じように、国名が無い彦の彦與曽も天皇である。その天皇は、纏向と師木の天皇で、纏向天皇の豐木入日子・玉勝山代根古の妃の日女である。歌凝比賣は山代の相樂で崩じているので、(歌凝)比賣が佐波遲比賣である。

師木天皇の彦與曽は沙本毘古で、妃は沙本の穴太部の別の祖の伊許婆夜和氣を生む阿邪美能伊理毘賣と考えられる。佐波遲比賣と同時期に薨じた、弟國の淵に落ちて薨じた眞砥野(圓野)比賣と考えられる。弟彦が後代に三野國造になるのだから美濃に住む八坂之入日子で、妃は尾張國の三野の別の大中津日子(大中津比賣)を生む氷羽州比賣である。

2025年3月21日金曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話22 記録のある太子達

  膽咋の妃の比咩古以降の3妃は『古事記』で「負太子之名」の母達と考えられた。『古事記』の太子なのだから、御真木入日子や、伊久米伊理毘古や、大帯日子を継承した大臣である。

五百木之入日子は子が品陀真若、その娘の高木之入日賣が応神天皇尾綱根の妃である。中日賣は大雀を婿に迎えるのだから石之日賣の父の曾都毘古が妃である。すなわち、五百木之入日子は御真木入日子を継承し、尾綱根大臣が戊寅の年318年の十二月に崩じた。

大帯日子を継承したと考えられる若帯日子・建内宿禰大臣は乙卯の年355年の三月十五日に崩じた。すると、残った伊久米伊理毘古を継承した、倭建は印葉大臣が壬戌の年362年の六月十一日に崩じたと考えられる。

河俣稻依毘賣の夫は建部君の祖の稻依別(息長宿禰)で、子が多遅麻纏向大連の大多牟坂である。息長宿禰の妃に葛城の高額比賣が存在するが、娘の息長帶比賣は382年に薨じ、世代が異なる。

稻依別の義兄弟の弟橘媛の子に息長田別が存在し、子が杙俣長日子で、その娘の飯野眞黒比賣が須賣伊呂大中日子を生む。須賣伊呂大中日子は額田大中日子と考えられ、眞黒比賣が高木之入日賣である。大雀は中日賣の子なので、弟日賣の子が宇遲能和紀郎子の可能性が高い。

息長眞若中比賣の子に若沼毛二俣が存在し、弟日賣(眞若比賣)を妃にして、忍坂大中津比賣を生んでいる。『日本書記』は若沼毛二俣の母が弟媛で、すなわち、若沼毛二俣は弟日賣の娘の弟日賣(眞若比賣)の婿である。それは、河派仲彦が義父、比布禮(多遅麻)は纏向から仲国(曲浦)、そして、畿内に遣って来た。

尾綱根は三皇子に仕え、すなわち、三皇子大臣だった。それが、高木之入日賣の子の大中日子と中日賣の子の大雀と弟日賣の子の宇遲能和紀郎子(?若沼毛二俣)なのだろう。そして、その皇子達が尾治弟彦・宇遲能和紀郎子、尾治針名根・大中日子、意乎巳大臣・大雀である。

高穴穂宮朝は景行・成務・神功(仲哀含む)と3朝の間の政権で、膽咋大臣(五百木・兄比賣の家系)、武内大臣(若帯日子・仲比賣の家系)、比布禮(倭建・弟比賣の家系)の大臣が太子の名を負ったと記述される三柱の天皇だった。

2025年3月19日水曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話21 皇太弟と皇太子

  垂仁朝は纏向と師木の王朝があるため、師木水垣宮での名前と師木玉垣宮、葛城珠城宮での名があった。宗教上の天皇・大連・足尼ならば、史書を記述した王朝にとっては一王朝となる。しかし、統治上の実力者の大臣の史書は同時に3大臣が存在するので、最大、3柱の天皇の名前が出現する。そのため、若帶日子と倭建、五百木之入日子の三王は、太子と呼ばれた。そして、それを挟むように大中日子が存在し、大帯日子と帯中日子、若帶日子という天皇が存在した。大中日子は分裂の始まりと終わりなのかもしれない。

須賣伊呂大中日子(十市根)の娘の迦具漏比賣は大江を生み、『日本書紀』「彦人大兄之女大中姫」とあるように、大江が伊那毘能若郎女の娘の庶妹銀王に婿入りして、大中比賣を生んでいる。大中比賣は仲哀の妃とされていて、仲哀の崩後、多遅麻が大連になっている。多遅麻は武諸遇の子なので、大中比賣の娘婿に当たり、多遅麻は纏向日代宮大連(天皇)、妃は五十琴彦の娘の安媛と記述される。

すなわち、大中比賣の夫は五十琴彦、娘が五十琴姫、婿の多遅麻(五十功彦)と考えられる。多遅麻は纏向宮大連で神功元年、『舊事本紀』では202年の即位、五十琴彦の娘の多遅麻の妃の安媛が神功皇后世代である。神功三年、間違いの日干支の春正月丙戌朔戊子、纏向宮は崩壊し、五十琴宿祢が磐余若櫻宮に朝廷を開いた。纏向宮は240年頃まであったと炭素同位体で結論がでており、遷都の正しい日干支の正月丙戌朔の日干支があったのは234年で、符合する。

そして、杙俣長日子の孫の須賣伊呂大中日子、叔母が息長眞若中比賣なので、その子の若沼毛二俣と同世代なのだから、額田大中日子の可能性が高い。当然、宇遲能和紀郎子は皇太子なのだから、額田大中日子は皇太弟である。

2025年3月17日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話20 師木と纏向の王

 


 

美濃國の八坂入日子は「ミノ」に住み、大根(八瓜入日子)は三野穂國造の祖である。三野穂國は三野()國、三野後國は出雲大臣の孫、美濃國は弟彦が国造で別国だ。師木宮の王の初代道主の建諸隅は沼河別が考えられ、纏向宮の2代目道主が豐木入日子である。纏向宮王は朝廷別や比古意須や大新河大臣に相当し、朝廷別は三川穗別の祖で三野後國造に良く当て嵌まる。出雲大臣は懿徳朝大臣、子の世代が出石心で妃が新河小楯姫、孫は内色許男で穂積氏の祖なので、穂国の穂津神(穂積)はピタリの名前だ。

日子坐(2代目伊迦賀色許男)と弟袁祁都比賣(意富阿麻比賣)の子の八坂入日子(水之穗眞若)の義弟が十市之入日賣の婿の大根(初代伊理泥)と考えられた。八坂入日子は豐鋤入日賣(水穗五百依比賣)に婿入り、娘の八坂之入日賣は大根の子の十市根の妃、八坂入日子の子の大筒木眞若は2代目の伊理泥(十市根)の娘の阿治佐波毘賣を妃にした。

豐木入日子は沙本毘賣を妃にした。十市縣の姫の弟袁祁都比賣の子は八坂入日子と十市之入日賣と考えられ、大入杵(豐木入日子)は八坂入日子の義兄、沼名木之入日賣は義弟の大根の妹、大入杵の妃という関係だろうか。大根は山代縣主の祖の長溝の娘の子で師木に婿入りしたので山代の皇子、大入杵は師木から山代の相樂に婿入りした天皇なので相応しい。

同様に八坂入日子が婿入りした豐鋤入日賣の兄が豐木入日子(大入杵)で、八坂之入日子は、『日本書紀』の五十瓊敷入彦・大中姫(八坂之入日賣)を生み、八坂之入日賣は穴穂太子の五百木之入日子を生んでいる。八坂之入日賣の夫は穴穂天皇の十市根、大根の子だ。

八坂之入日賣は襲名した(水穂)五百依比賣でもあるので、子が名を継いで五百木之入日子・五百木之入日賣である。『日本書紀』は八坂之入日賣の子に、『古事記』の妾の子の吉備之兄日子や弟比賣を含めている。この妾の子は十市根の父の大根の娘の兄比賣、弟比賣を含めた子達と思われ、吉備之兄日子は婿の大碓か子の彦人大兄と考えられる。

2025年3月14日金曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話19 二人の垂仁天皇

  師木宮は伊迦賀色許男の娘と竟富那毘の娘の子の建諸隅の皇子の王家だった。纏向宮朝の天皇の大新河は師木宮に建諸隅天皇が存在するので、師木宮から高穴穂宮に遷都するまで、建諸隅を継承できなかった。

すなわち、建諸隅は意富阿麻比賣の子の八坂入日子が豐鋤入日賣に婿入りして継承し、その娘の大中姫・八坂入日賣に婿入りした十市根が師木玉垣宮を引き継いで、高穴穂宮の天皇になった。そして、物部武諸遇を名乗ったのは、十市根の子の初代の膽咋の娘の清媛の婿の物部武諸遇で、後継者の2代目膽咋は景行五十八年に高穴穂宮に遷った。

十市根と大新河は纏向宮朝の大連とされているが、垂仁八十七年に印色入日子が神庫を大中比賣に、そして、十市根に授けた時に大連に賜姓されている。大新河は二十三年秋八月丙申朔に大連に賜姓されている。しかし、この朔の日干支は間違いの日干支で、正しくは25年、垂仁五十四年である。

纏向宮大連は多遅麻も賜姓されているが、神功元年に賜姓されて、矛盾がある。纏向宮は珠城宮と日代宮があり、纏向珠城宮は武諸遇が崇神六十五年に大連に賜姓、垂仁五十四年に大新河が日代宮大連に賜姓されたと考えられる。

垂仁の遷都は十市根が大連に賜姓された、垂仁八十一年春二月壬子朔は間違いの日干支で、垂仁元年の前年の紀元前30年に初代十市根が賜姓されたと考えられる。十市根は纏向日代宮世代の大連なので、師木玉垣宮の十市根は大根、八坂入日子の妹の十市之入日賣の婿と考えられる。従って、『日本書紀』の垂仁朝は纏向の朝廷ではなく、師木の朝廷だった。

垂仁朝は建諸隅が崇神六〇年に纏向朝、垂仁元年に大根が師木に朝廷を開いた。意富阿麻比賣の子の大入杵と十市之入日賣の婿の大根、息長水依比賣の子の多多須道主と神大根、沙本之大闇見戸賣の子の沙本毘古と沙本毘賣の夫の豐木入日子、弟袁祁都比賣の子の比古意須と伊理泥が二人の天皇だった。

纏向天皇は豐木入日子と大新河、師木の天皇は初代大根(?沙本毘古)と大根を継いだ娘婿の印色入日子と穴穂に遷都した十市根だろう。大入杵と多多須道主と豐木入日子と比古意須は同一人物か親子、大根と沙本毘古と初代の伊理泥も同様である。崇神・垂仁朝は150年以上続き、7代以上の人物に継承されている。親子孫の三代が三世代続けば、180年師木宮が続き、伊理泥の兄弟が伊理泥の娘を妃にしており、少なくとも二代の伊理泥が存在した。

2025年3月12日水曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話18 皇太弟大中日子

  須賣伊呂大中日子は十市根で、妃が八坂之入日賣と解ったが、十市根の親は父が伊迦賀色許男、母が長溝の娘であり、長溝は山代の内臣の祖の味師内宿禰と考えられる。須賣伊呂大中日子は『古事記』では倭建の子の仲哀天皇と同世代の若建の子となっているが、娘が迦具漏比賣で娘婿が景行天皇とされ、矛盾する。

迦具漏比賣の子が大枝(大江・大兄)、その彦人大兄と銀王の娘が大中比賣である。大中比賣の夫が仲哀天皇で弟橘比賣と倭建の子の若建は兄弟で、若建の子が皇太弟の大中日子、すなわち、応神天皇の後継者になったと述べている。

大中日子・大中比賣は師木玉垣宮の皇女の大中姫、彦人大兄の娘の大中姫、輕島明宮の皇子の額田大中彦、允恭妃の忍坂大中比賣が存在した。『古事記』はそれらの大中日子・大中比賣を混乱して理解したと考えられる。特に額田、忍坂を頭に付加していない大中日子が区別できていない。大中日子・大中比賣は200年続いた氏族と見做した。そして、『日本書紀』・『舊事本紀』が大中姫を『古事記』が大中津日子と記述するように大中日子・大中比賣はペアの様だ。

大中日子・大中比賣がペアとなるのは、土地や支配地を名に冠するのだから、当然の帰結で、天之常立・国之常立、伊邪那岐・伊邪那美など枚挙にいとまがない。師木玉垣宮の皇太弟の大中日子は尾張三野別の祖、その妃の八坂之入日賣は三野の王の姫である。景行世代の大中日子が十市根、垂仁世代は初代十市根の大根、妃が十市之入日賣、その子が二代目十市根、妃が八坂之入日賣・大中比賣と私は理解した。大根と十市根の違いは、師木王か穴穂王かの違い、垂仁八十七年大中比賣への神寶譲渡で切り替わった。

日子坐の三世孫の大陀牟()別が髙穴穗朝の首都の国造、すなわち、天皇になった。日子坐は崇神朝の伊迦賀色許男、子が八坂之入日子、孫が八坂之入日賣なので、須賣伊呂大中日子が高穴穂天皇である。すなわち、十市根と八坂之入日賣の子の太子の五百木之入日子も高穴穂天皇となる。

2025年3月10日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 尾張氏の神話17 倭得玉彦の子達

  倭得玉彦は谷上刀婢を妃に1男、大伊賀彦の娘の大伊賀姫を妃に4男を生んでいるが、5男1女を記述する。そして、次の2世代続けて、妃を記述しない。これは、師木朝の纏向朝との分裂の影響で、師木朝は崇神朝・垂仁朝と続いてから高穴穂へ、師木朝から分裂した纏向朝は桃の種の分析から240年頃まで続いた影響と考えられる。倭得玉彦の子には、纏向天皇の豐木入日子と師木天皇の八坂之入日子の家系が交錯しているのだから、万世一系の分王朝を認めない史書記述は苦労したのだろう。

弟彦は子が大海部直の祖の淡夜別なのだから婿の八坂入日子である。置津()與曽の子の大原足尼が筑紫豊國國造の祖なので、拘奴國を破る、息長帶比賣の父の息長宿禰などと考えられ、遠津臣の娘の高材比賣の婿の迦迩米雷が置津()與曽である。彦與曽の子の大八椅は甲斐國造の祖なので、豐木入日子の娘の高材比賣の婿である。五百木部連の祖の若都保は五百木之入日子を生む八坂入日子の娘の八坂之入日賣の婿なのだろう。ただし、「斐陀國造・・・尾張連祖瀛津襲命大八椅」とあるように、大八椅は置津()與曽と彦與曽の共通の子である。

玉勝山代根古は山代氷主雀部連、軽部造、蘇冝部首の祖なので、跡取りの日女の婿の山代内臣の可能性が高い。真敷刀俾の父は尾張大印岐で、印岐は忌寸、凡河内國造の後裔の凡河内忌寸のことなのだろうか。

倭得玉彦の子の弟彦の王朝は垂仁三二年に比婆須比賣が薨じたため、神庫を管理していた印色入日子が後継者になり、垂仁八七年に神宝を大中姫に託し、大中姫は十市根に任せた。すなわち、皇太弟は須賣伊呂大中日子で大中姫の婿の十市根・若都保である。垂仁八十一年に十市根は大連、皇位に就いて、大中姫は八坂入日賣である。三十年程度の親子や五十年程度の親子孫、氏族の中の家族での王朝交代である。それに対して崇神朝、垂仁朝、景行朝は氏族(皇后の氏族)の王朝交代である。

2025年3月7日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 尾張氏の神話16 豐木入日子

  初代の得玉彦(美知能宇斯)は丹波の河上の摩須郎女、すなわち、丹波大彦(大伊賀彦)の娘の大伊賀姫を妃に4児を生む。比婆須比賣の夫は八坂入日子、弟比賣(飯野眞黒比賣)の子が須賣伊呂大中日子と考えられる。飯野眞黒比賣の父は杙俣長日子でその父が遠津氏の息長田別子だ。しかし、杙俣長日子の孫が応神天皇の子の若沼毛二俣で世代が異なり、須賣伊呂大中日子の娘が纏向日代天皇妃である。

須賣伊呂大中日子の妃は柴野入杵の娘の柴野比賣で、柴野入杵は豐鋤入日賣で、夫が美濃(三野)の八坂入日子、妹の弟比賣は大根の娘が弟比賣なので大根の妃、道主の跡取り、朝廷別が師木宮の分岐朝廷纏向天皇の豐木入日子なのだろう。

息長田別や杙俣長日子は後代の倭建の子孫だが、同一地域、同一氏族の王の名は継承されるので、違う時代には違う人物が同一の名を冠した可能性が高い。幾人もの垂仁朝、景行朝、成務、応神朝の弟姫、弟彦が存在し、同じ弟国の違う人物には弟に修飾語が付くように、また、兄弟姉妹の弟なら、もっと多くの名に兄を付加される。

建諸隅と伊迦賀色許男の子が互いに婚姻し合えば、名は建諸隅のままだが、尾張氏の建諸隅は名が倭得玉彦に変わった。崇神六十五年以降も建諸隅の名は継承されているのだから、倭得玉彦も実質は建諸隅だった。美知能宇斯は遠津氏の娘と考えられた息長水依比賣の子だったので、遠津氏の娘の遠津年魚目目微比賣の子の豐木入日子の可能性が高い。遠津氏は木国造の荒河刀辨なので、豐木入日子は木国造の子でもあった。共に彦狹嶋の祖父なので豐木入日子イコール大入杵、大入杵は木国造の建諸隅を継承した。

豐木入日子は東国を任され、孫の彦狹嶋は東山道十五國都督、上毛野國造能等國造の祖であり、東国の甲斐國造の祖は沙本毘古や建諸隅の後裔の尾張氏でもある大八椅、沙本毘古の曾孫の知津彦が甲斐國造、大八椅は斐陀國造に賜姓されている。豐木入日子が尾張氏を継承し、子達も八坂入日子の子達と婚姻していることがわかる。

建沼河別が丹波道と東方十二道を攻め、子の纏向王の豐木入日子が丹波道と東国を得、倭者師木登美豐朝倉曙立王の品牟都和氣が引き継ぎ、子の彦狹嶋が東山道十五國の都督、その子達が東国の國造に賜姓されたと考えられる。甲斐國造の祖の沙本毘古は品牟都和氣の義父の可能性が高い。

2025年3月5日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 尾張氏の神話15 纏向と師木の天皇

最初に大和の纏向を首都にした人物は建諸隅である。その頃の建諸隅は豐木入日子が襲名していて、崇神六十年に纏向朝廷を開き、垂仁二十三年に大新河が継承した。豐木入日子は沼名木之入日賣の婿と想定され、沼名木之入日賣は大國魂神を祀った纏向の女王で大和神社を創建したと伝えられる。通常、姫が王位を継承し、皇子が王位を継承する時、新しい王朝として史書に名が記述される。

そして、師木天皇は伊迦賀色許男(日子坐)の娘婿の建新川が継承したが、建新川は倭志紀縣主の祖なので、師木宮天皇を継承した。師木が首都でないなら、祖ではなく師木縣主と呼べばよい。『日本書紀』は磯城が首都としないので波延を磯城縣主と呼んでいる。師木宮天皇は崇神朝、垂仁朝、その後も、垂仁九十九年まで継承され、垂仁八十一年の大連就位の日干支は間違いで崇神六十八年、紀元前30年に即位した初代の十市根(大根)が『舊事本紀』の天皇だったようだ。

建諸隅を継承したのは師木宮に婿入りした倭得玉彦で、妃は淡海國谷上刀婢(タニカミのトベ)、すなわち、丹波河上(タニハカハカミ)の摩須郎女と名が似通っていて、その夫の丹波比古多多須美知能宇斯の可能性が高い。すなわち、大縣主の娘の竹野比賣の子の比古由牟須美(襲名した大毘古)である。『古事記』では四道將軍ではなく三道だが、それは、建沼河別と美知能宇斯が同一人物だったからと考えられる。崇神朝は崇神六十年に豐木入日子が纏向朝廷を開いたので、比古由牟須美の子と大伊賀姫の婿の垂仁朝時の師木宮と纏向宮の2代の記述が必要だった。

豐木入日子は荒河戸畔の娘と思われる遠津氏息長水依比賣の子で、妃は春日宮天皇の孫娘の佐波遲比賣である。日子坐は師木宮朝の4代がいつも木国造に婿入りし、木国造はいつも日子坐の娘に婿入りする。すなわち、沙本毘古が師木宮天皇で、垂仁五年に纏向朝の豐木入日子に殺害された。佐波遲比賣は沼名木之入日賣と考えられ、大國魂神を祀らせようとしたが、沙本毘古と共に薨じたので、祭れなかった。沼名木之入日賣神社は大國魂を祀る大和神社から離れて纏向宮に近い位置にある。

2025年3月3日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 尾張氏の神話14 意富阿麻比賣の子達

  彦坐の妃の意富阿麻比賣(母弟袁祁都比賣)の男子は八坂入日子(?山代之大筒木眞若)で、同母弟の伊理泥の娘を妃にしている。しかし、伊理泥の娘婿が八坂入日子では、世代が異なる。伊理泥と義兄弟の八坂入日子と伊理泥の娘婿の山代之大筒木眞若と考えないと理に適わない。

八坂入日子が丸迩臣の祖の袁祁都(木國造)の娘に婿入りし、その息子の山代之大筒木眞若が袁祁都の子の伊理泥(大根)の娘の丹波能阿治佐波毘賣に婿入りした。これで、世代も名前もスッキリし、伊勢神麻績連の祖の八坂入日子の妃は天照大神を託した木國造の孫の豐鋤入日賣(氷羽州比賣)で、伊理泥の妃は丹波道主の娘の弟比賣、その娘が阿治佐波毘賣なら理解できる。

八坂入日子の義兄弟の大入杵は、妃が不明な2代目美知宇斯ならば、妹が豐鋤入日賣、婿が水之穗眞若の八坂入日子は理に適う。初代美知宇斯の子が豐木入日子、八坂入日子の義妹の十市之入日賣の婿が名前から神大根である。

大根には兄比賣・弟比賣という娘が存在したが、十市根は八坂之入日子の娘に婿入りした。同じ師木宮に八坂之入日賣と弟比賣が存在し、十市根は八坂之入日賣を、大筒木眞若は大根の娘の弟比賣(丹波能阿治佐波毘賣)を妃にした。

品遲部君の祖が比古由牟須美なので、丹波道主は娘竹野比賣の婿で、子の豐木入日子は佐波遲比賣を妃にして、その子が品牟都和氣である。比古由牟須美は初代の丹波道主である。

豐木入日子の妃の佐波遲比賣は春日の建國勝戸賣の娘、春日宮王朝の孫に当たり、春日宮王朝の子の比古由牟須美の娘ならば理に適う。大俣の子は曙立で、倭者師木登美豐朝倉の王、後に倭と呼ばれ、淡海の師木と長髄彦の居た仲国の登美と筑後の朝倉の倭王となったと記述する。この倭は大海の野洲の倭で、伊勢の品遲部君の祖、品牟都和氣はよく符合する。

2代目美知能宇斯の弟の水之穗眞若は安直の祖なので、海直の祖の内色許男、その娘の伊迦賀色許賣、その子の比古布都押之信、子の日子坐、その子の八坂入日子である。十市根は師木朝大連だが、垂仁八十一年、大連に賜姓され、物部武諸遇の娘を妃にしているので、世代は景行朝と同時期の天皇である。天皇十市根の妃が八坂之入日賣と考えられ、子の五百木之入日子は太子である。