前項の続きで、坐王が辰国の天子の辰君の下の辰王と述べたが、辰国のもっとも古い時代を記述したと考えられるのが、『遼史』の「渤海改爲蓋州又改辰州以辰韓得名」で、前57年建国の新羅・辰韓より以前は渤海にある蓋州まで辰の領域で、その辰州と呼ばれた最初は衛満が倒れた前108年からで前195年から前108年までが蓋州で、それ以前は燕の領地の渤海で、衛満によって混乱した時の前109年に「眞番辰國欲上書見天子又雍閼弗通」と漢の皇帝に上書を送ったが漢は無視して、辰州の北部は漢が郡を置いて『漢書』「滿得以兵威・・・眞番臨屯皆來服屬方數千里」と250Km四方程度の現在の北朝鮮の地域を統治し、南部は辰が統治したと思われる。
『後漢書』に「辰韓伝辰韓耆老自言秦之亡人・・・馬韓割東界地與之・・・有似秦語故或名之為秦韓・・・三韓、韓有三種一曰馬韓二曰辰韓三曰弁辰・・・皆古之辰國也馬韓最大共立其種為辰王都目支國尽王三韓之地其諸國王先皆是馬韓種人焉・・・馬韓人・・・諸國邑各以一人主祭天神號為天君」と三韓(馬・辰・弁辰)は元々辰と呼ばれた。
『魏略』「諫右渠不用東之辰國時民隨出居者二千餘戸」、『三国志』「弁辰・・・辰王常用馬韓人作之世世相繼辰王不得自立爲王」と辰国は東国(韓地は南で東と言えない)であり、秦語は中国語ではなく、韓地は元々後代の辰韓では無く「辰(秦)」で天神を祀って天君と呼んだ。
馬韓(百濟)建国は前18年、辰韓(新羅)建国は前57年と馬韓建国前で、まだ存在しない馬韓王が辰韓に土地を与えて辰韓が建国され、弁辰は馬韓人ではない辰王が馬韓人に支配を任せて代々辰王と呼ばれたが、辰君ではなく辰王で、辰の天子に支配される王が辰王と考えられ、辰の天皇(皇=神)・天君の辰岐神(君)が支配することを示し、辰韓に土地を与えたのは天神の配下の辰王となる。
『魏略』にも「辰鑡因將戸來(來)出詣含資縣縣言郡,郡即以鑡爲譯從芩中乘大船入辰韓逆取戸來」と郡を縣と呼び、漢人戸来を従えて「辰韓」に大船で来るのだから、辰鑡は辰韓人ではなく、日本では、郡ではなく縣と呼んでいて、辰鑡は日本人と考えられる。
「二十八年春正月癸巳朔」の立太子は天文学的朔の日干支だが、開化と同じく、この太子だけ特別崇神天皇の立太子とは考えにくく、やはり、倭国が西暦42年から28年後の西暦69年に王都を遷したと考えられる。
この倭王朝が57年『後漢書』の「建武中元二年倭奴國奉貢朝賀光武賜以印綬漢委奴國王」と印を授けられた王で、同年、新羅は「脫解本多婆那國所生也其國在倭國東北一千里初其國王娶女國王女爲妻」と『山海經』の「女子國在巫咸北兩女子居水周之」と壱岐・対馬を思わせる女王の国の姫を娶って、59年、『三国史記』に「三年夏五月與倭國結好交聘」と倭国と講和を行っている。
それは、「特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史」と壱岐・対馬の宗主国が倭奴国王だった事を示し、倭奴国が漢と交流することで、倭奴国を漢の暦に対応させ、それを畿内政権の暦と対応させたので天文学的朔の日干支を記述出来たと考えられ、この時期は、中国は晦日が朔で晋朝から朔が朔日となったため、この時から、倭奴国の晦日が畿内の朔の理解が出来、『日本書紀』に30日を晦日としないで朔とする変換の間違いを発生させたと思われる。