続けて、『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は「・・・素戔鳥尊白日吾(?所)以更昇來者衆神處我以根國今當就去若不取姉相見終不能忍離故實以清心覆上來耳今則奉覲既訖當随衆神之意自此永歸根國請姉照臨天國可乎安坐且吾以清心(?所)生兒等亦奉於姉而覆還降焉大日孁貴亦名天照太神亦名天照大日孁尊亦名大日孁尊可御髙天原也又可治髙天之原也又(?所)知髙天原也月夜見尊亦名月讀尊亦名月弓尊可以配日血知天事也又可以治滄海原潮之八百重也又(?所)知夜之食國也素戔烏尊 亦名神素戔烏尊亦云建素戔烏尊亦名速建素戔烏尊可以治滄海之原也又可治滄海之原也可治天下也<・・・天神本紀は地神本紀の後にする・・・>素戔烏尊與天照太神共爲誓約化生三之神羸津嶋姬命湍津嶋姫命市杵嶋姫命素戔烏尊所行無狀故八十万諸神料以千座置戶而遂逐矣素戔烏尊帥其子五十猛神降於新羅曽尸茂梨之處矣乃興言日此地吾不欲居遂以埴土作舩乗之東渡到于出雲國簛之河上安藝國可愛之河上所在鳥上峯矣」、【素戔烏が日の神に「私がまたやって来たのは、諸神が根の国へ行けというので、今から行こうとしている。もし姉に会わなかったら未練が残るので心の底から会いたくてまた遣って来ました。これが最後です。神々の意のままに、これからずっと根の国にいるから、どうか姉よ、天の上を治め、平安であるように。また私が穢れなく生んだ子供たちを、姉に捧げます」と言って帰り降った。大日孁貴、またの名を天照太神、またの名を天照大日孁、またの名を大日孁といい、高天原に居るべき、また治めるべきは高天の原、また高天原を治めている。月夜見、またの名を月読、またの名を月弓といい、日の神に従って天の上を治めている。また、青海原の潮の八百重を治めるべきだ。また、夜の食の国を治めている。素戔烏、またの名を神素戔烏、または建素戔烏、またの名を建速素戔烏、青海の原を治めるべき、また治めるべきは青海の原、天の下を治めている。<・・・地神本紀の後で・・・>素戔烏が、天照と共に誓いあって、生れた三柱は、瀛津嶋姫・湍津嶋姫・市杵嶋姫。素戔烏の行いはいいようがないほどで、八の十柱の万の諸神は、千日間の置戸での座罰を科して追放した。素戔烏は、子の五十猛を率いて、新羅の曽尸茂梨に天から降った。「この地に、居たくない」と不満を言った。ついに土で隙間を埋めて船を修理し、乗って東へ渡り、出雲国の簸川の川上で安芸国の可愛川の川上にある、鳥上の峰についた。】と訳した。
前項に続けて、『大荒東經』の「大荒之中有山名曰孽搖頵羝上有扶木柱三百里其葉如芥」の「扶木」と「扶桑」が同一なのか結論付け出来ないが、絲があって桑が無いはずがなく、「有谷曰溫源谷湯谷上有扶木」と『海外東經』の「下有湯谷」とは大荒と太平洋の中の火山で、日本海の「黑齒」国と「雨師妾國」とに挟まれた国と別国で、『西次三經』にも「而西南流注于湯谷」とあり、「湯谷」は温泉が湧き出る場所を意味し、国名ではない。
そして、栽培を始めた人物が「神皇産霊」となっていて、「神皇産霊」は「神倭伊波礼毘古」や「神沼河耳命」の神と同じで、「神(み)」国の配下の「皇産霊」と日神で、『海外東經』の湯谷や黑齒國は火炎土器などが出土する地域の近辺の可能性が高い。
そして、新羅の曽尸茂梨説話は「御間城天皇之世額有角人乘一船泊于越國笥飯浦故號其處曰角鹿也問之曰何國人也對曰意富加羅國王之子名都怒我阿羅斯等」と崇神天皇の時に新羅の皇子が遣って来たが、新羅建国が紀元前57年の崇神天皇の時代で崇神朝時代・前漢時代は畿内が辰国と考えられ、良く合致し、垂仁朝に物部分王朝が琵琶湖東岸に出来て、これが秦国と考えられ、「新羅王子天日槍來歸」の天日槍の「近江國鏡谷陶人則天日槍之從人也」と従者がこの秦国の近江に住み、日槍の末裔は田道間守で田道間守は常世の国から橘を持ち帰り、日槍の説話が流用されて神話になった可能性が有る。
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