続いて、日本書紀慶長版一書は、一書(3)「一書曰素戔嗚尊欲幸奇稻田媛而乞之脚摩乳手摩乳對曰請先殺彼蛇然後幸者宜也彼大蛇毎頭各有石松兩脇有山甚可畏矣将何以殺之素戔嗚尊乃計釀毒酒以飲之蛇醉而睡素戔嗚尊乃以蛇韓鋤之剱斬頭斬腹其斬尾之時剱刃少缺故裂尾而看即別有一剱焉名爲草薙剱此剱昔在素戔嗚尊許今在於尾張國也其素戔嗚尊斷蛇之剱今在吉備神部許也出雲簸之川上山是也」、「一書に、素戔嗚は、奇稻田媛に婿入りを願った。脚摩乳・手摩乳は、「お願いします、まずその蛇を殺して、その後で婿入りするとよろしい。 その大蛇は、頭毎に各々石松が有り、両方の脇に山が有る。とても恐ろしい。どうやって殺すのか」と答えた。素戔嗚は、計略を立てて、毒の酒を醸造して飮ませ、蛇は酔って眠った。素戔嗚は、それで蛇は韓鋤の劒で、頭を斬り腹を斬る。その尾を斬った時に、劒の刃が、少し欠けた。それで、尾を裂いてみたら、別に一つの劒が有った。なづけて草薙劒という。この劒は昔、素戔嗚の許に在った。今は尾張國に在る。その素戔嗚の、蛇を絶った劒は、今、吉備の神部の許に在る。出雲の簸の川上の山がこの舞台だ。」と訳した。
一書(3)は出雲の勢力下の吉備の神話の様で、時代が下っていて、『日本書紀』本文が石剣対銅剣の戦いだったが、『山海經』には朝鮮半島に「帯剣」の記述が無く、「韓鋤劒」は銅剣のようで、その剣が欠けるのだから、草薙劒は鉄剣若しくは高度な技術で作った銅剣と考えられ、石上ではなく吉備に保管されているのだから、物部王朝が大和から伊勢遺跡に退いた時代、もしくは、葛城王朝が伊勢遺跡の王朝を倒した時代のかなり後代の神話と考えられる。
続いて一書は、一書(4)「一書曰素戔嗚尊所行無狀故諸神科以千座置戸而遂逐之是時素戔嗚尊帥其子五十猛神降到於新羅國居曾尸茂梨之處乃興言曰此地吾不欲居遂以埴土作舟乗之東渡到出雲國簸川上所在鳥上之峯時彼處有呑人大蛇素戔嗚尊乃以天蠅斫之剱斬彼大蛇時斬蛇尾而刃缺即擘而視之尾中有一神剱素戔嗚尊曰此不可以吾私用也乃遺五世孫天之葺根神上奉於天此今所謂草薙剱矣初五十猛神天降之時多将樹種而下然不殖韓地盡以持歸遂始自筑紫凢大八洲國之內莫不播殖而成青山焉所以稱五十猛命爲有功之神即紀伊國所坐大神是也」、【一書に、素戔嗚の所行は上手くいかなかった。それで、諸々の神は、千日の間置戸に座らせる刑を科し、刑を終えた。この時に、素戔嗚は子の五十猛をつれて、新羅の國に降り着いて、曾尸茂梨の所に居た。それで思いついたように、「この地に私は居ようと思わない」と言って、埴土を塗って舟を作り、乗って東に渡って、出雲の國の簸の川上ある、鳥上の峯に着いた。そこに人を呑む大蛇がいた。素戔嗚は、天蝿斫劒で、その大蛇を斬った。その時に、蛇の尾を斬った刃が欠けた。それでさいてみたら、尾の中に一つの神劒が有った。素戔嗚は、「これを私の為に使ってはいけない」といって、五世の孫の天之葺根を遣いにして、天に上奉した。これが今、いわゆる草薙劒だ。はじめ五十猛は、天から降る時に、多くの樹の種をもって降った。しかし韓地に殖えないで、残らず持ち帰った。遂に筑紫から始めて、すべて大八洲國の中に、播き殖して青山に成らない所が無かった。それで、五十猛を有功の神と名付けた。即ち紀伊國にいる大神がこれだ。】と訳した。
九州から朝鮮半島を経て「肅慎之國」と北の国まで記述する、『山海經 海外西經』に「諸夭之野」という若死する地域があり、「卵食之」と記述、『三国史記』に新羅赫居世居西干に「只有大卵剖之有嬰兒出焉」と卵から生まれたと記述され、身近な卵を基にした卵生神話の発生がよく理解できる。
その赫居世居西干の建国は五鳳元年紀元前57年で、これ以前は長く生きれず、「曾尸茂梨」はかつて屍だらけの梨が茂る土地で、野生の梨は朝鮮南部に自生し、酸味が強くて食用にはならず、これらの文献と合致し、したがって、この地に樹木を植えないで、日本列島で植樹したというのも、よく対応している。
続いて、日本書紀慶長版一書は、一書(5)「一書曰素戔嗚尊曰韓鄕之嶋是有金銀若使吾兒所御之國不有浮寶者未是佳也乃拔鬚髯散之即成杉又拔散胸毛是成檜尻毛是成柀眉毛是成櫲樟已而定其當用乃稱之曰杉及櫲樟此兩樹者可以爲浮寶檜可以爲瑞宮之材柀可以爲顯見蒼生奧津棄戸将臥之具夫湏噉八十木種皆能播生于時素戔嗚尊之子號曰五十猛命妹大屋津姫命次枛津姫命凢此三神亦能分布木種即奉渡於紀伊國也然後素戔嗚尊居熊成峯而遂入於根國者矣棄戸此云湏多杯柀此云磨紀」、【一書に、素戔嗚が、「韓郷の嶋には、金銀が有る。もしそうなら私の子が治める國に、浮く宝(?船)が無いのはよくない」と言って、鬚髯を拔いて散らした。それが杉に成った。また、胸毛を拔いて散らした。これが桧に成った。尻の毛は、柀に成った。眉の毛は櫲樟に成った。その用いかたを定めた。すなわち「杉及び櫲樟は、予備の宝(船)とするべきだ。桧は瑞宮を造る材料にすべきだ。柀は人々が良く見えるの奧津の棄戸の臥の具えとしなさい。調査対象の八の十木種は、皆よく播いて生やしなさい」と言った。その時に、素戔嗚の子を、五十猛と名付けた。妹は大屋津姫。次に枛津姫。この三神も、能く木種を広めた。それで紀伊國に渡って祀った。そうした後に、素戔嗚、熊成峯に居て、とうとう根國に入った。棄戸これを「すたへ」という。柀これを「まき」という。】と訳した。
一書(4)も一書(5)も、新羅が領地と述べ、『日本書紀』垂仁紀に「新羅王子天日槍來歸焉」と友好関係をもち、それに対して『三国史記』には新羅に対して「倭」が攻撃し、『三国志』には「弁辰亦十二國・・・國出鐵,韓、濊、倭皆從取之」と弁辰は倭と友好関係で、新羅に敵対する倭が金銀を取って来るが、この一書の国はそれを手に入れられないと述べ、倭とも辰国とも異なる国である。
仲哀天皇は新羅の場所を知らず、神功皇后は新羅を侵略したが、この2人の国が、まさに、倭でも辰でもない第3の国で、神功皇后は穴門に首都を持ち、新羅征伐のため香椎から新羅を攻めて、香椎に倭が有って、倭が主で神功皇后が従だから、『三国史記』に倭が侵略と記述している。
そして、一書(4)も一書(5)もやはり、紀伊に移住した、日神に支配される、津姫と記述するように対馬出身の、神武が熊野出身の物部氏と協力関係にある氏族の神話と考えられ、穴門の国は三国時代の頃はまだ神話時代だったということが解る。
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