2021年8月18日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第八段3

  続いて、日本書紀慶長版一書は、一書()一書曰大國主神亦名大物主神亦號國作大己貴命亦曰葦原醜男亦曰八千戈神亦曰大國玉神亦曰顯國玉神其子凢有一百八十一神夫大己貴命與少彥名命戮力一心經營天下復爲顯見蒼生及畜産則定其療病之方又爲攘鳥獸昆蟲之灾異則定其禁厭之法是以百姓至今咸蒙恩頼嘗大己貴命謂少彥名命曰吾等所造之國豈謂善成之乎少彥名命對曰或有所成或有不成是談也蓋有幽深之致焉其後少彥名命行至熊野之御碕遂適於常世鄕矣亦曰至淡嶋而縁粟莖者則彈渡而至常世鄕矣自後國中所未成者大己貴神獨能巡造遂到出雲國乃興言曰夫葦原中國本自荒芒至及磐石草木咸能強暴然吾已摧伏莫不和順遂因言今理此國唯吾一身而巳其可與吾共理天下者蓋有之乎于時神光照海忽然有浮来者曰如吾不在者汝何能平此國乎由吾在故汝得建其大造之績矣是時大己貴神問曰然則汝是誰耶對曰吾是汝之幸魂奇魂也大己貴神曰唯然廼知汝是吾之幸魂奇魂今欲何處住耶對曰吾欲住於日本國之三諸山故即營宮彼處使就而居此大三輪之神也此神無子即甘茂君等大三輪君等又姫蹈鞴五十鈴姫命又曰事代主神化爲八尋熊鰐通三嶋溝樴姫或云玉櫛姫而生兒姫蹈鞴五十鈴姫命是爲神日本磐余彥火火出見天皇之后也初大己貴神之平國也行到出雲國五十狹狹之小汀而且當飲食是時海上忽有人聲乃驚而求之都無所見頃時有一箇小男以白蘞皮爲舟以鷦鷯羽爲衣隨潮水以浮到大己貴神即取置掌中而翫之則跳囓其頰乃怪其物色遣使白於天神于時髙皇産靈尊聞之而曰吾所産兒凢有一千五百座其中一兒最惡不順教養自指間漏墮者必彼矣宜愛而養之此即少彥名命是也顯此云于都斯蹈鞴此云多多羅幸魂此云佐枳彌多摩奇魂此云倶斯美拕磨鷦鷯此云娑娑岐」、「一書に、大國主、またの名は大物主、または國作大己貴という。または葦原醜男という。または八千戈という。または大國玉という。または顯國玉という。その子はすべてで百八十一神いる。その大己貴と少彦名と、力をあわせて心を一にして、天下を経営し、人々によく見られ、畜産の爲に、その病の治療法を定めた。また、鳥獣・昆虫の災い・異変を防御するため、そのまじない法を定めた。それで、百姓は今になるまで、のこらず恩恵を被った。むかし、大己貴は、少彦名に「私たちが造った國が、どうしてよくなったといえるのか」と言った。少彦名は「成功したところも失敗したところもある」と答えた。この話は、思うに奥深い結果をもたらした。その後に、少彦名は、熊野の御碕に行きついて、とうとう常世の郷に頼って行った。または、淡嶋について、粟莖の縁を頼ったが、彈かれ渡って常世の郷についた。後に、國の中がまだ成功していない所を、大己貴、ひとりで能く巡って造った。ついに出雲國について、「この葦原中國は、本から荒芒としていた。磐石草木にいたるまで、のこらず邪魔をした。しかし私はとうとう打ち砕いて屈伏させ、従わないものが無かった」と言った。とうとうそのため「今、この國がおさめるのは、ただ私一人だけだ。私と共に天下をおさめるべき者はいないのか」といった。その時に、神々しい光が海を照して、忽然と浮び上がってきた者がいた。「もし私でなかったら、お前はどうやってこの国を平定するのだ。私がいるから、お前の大きな業績を作り上げた」といった。この時、大己貴は「それならお前は誰だ」と問いかけた。「わたしはお前の乱れを纏める力だ」と答えた。大己貴は、「なるほど。それなら知りたいが、お前はその乱れを纏める力だ。今はどこに住みたいか」と言った。「私は日本國の三諸山に住みたい」と答えた。それで宮をそこに設営して、居る。これが、大三輪の神だ。この神の子は、甘茂君達・大三輪君達、また姫蹈鞴五十鈴姫だ。また、事代主は、八尋熊鰐に化って、三嶋の溝樴姫(あるいは、玉櫛姫)のところに通った。それで子の姫蹈鞴五十鈴姫を生んだ。これを神日本磐余彦火火出見天皇の后にした。はじめ大己貴が、国を平定したとき、出雲國の五十狹狹の小汀に行き到って、飮食しようとした。この時に、海上に人の声が聞こえた。すなわち驚いて探したが、まったく見えなかった。少しして、一人の小男がいて、白蘞の皮をはった舟を造り、鷦鷯の羽を衣にして、潮水どおりに浮んできた。大己貴は、それで取り挙げて掌中に置いて、弄ぶと、跳びあがって頬に噛みついた。それでその様子を不思議に思って、使を派遣して天神に言った。その時、高皇産靈は聞いて「私が産んだ子は、すべてで一千五百いる。その中の一子は最も劣って、教えに順わない。指の間から漏れ墮ちたのは、きっとそいつだ。愛おしんで養え」といった。これが即ち少彦名だ。顯、これを「うつし」という。蹈鞴、これを「たたら」という。幸魂、これを「さきみたま」という。奇魂、これを「くしみたま」という。鷦鷯、これを「さざき」という。】と訳した。

『日本書紀』の本文では 大國主という名は出現せず、大己貴が国譲りの対象として登場するが、同じ国譲りに登場する顯國玉が大己貴のまたの名と記述せず、全くの別人と『日本書紀』を記述していた王朝は認識した。

そして、大国主の子が百八十一神居るとして、『舊事本紀』も同じく百八十一神だが、『日本書紀』の本文では、事代主が記述されるだけ、『古事記』でも木俣神・阿遲鋤高日子根・事代主・鳥鳴海の4人で、『舊事本紀』で沼河比賣との子の建御名方と記述するが、『古事記』では記述しないで、国譲りのとき突然子と記述するように、各説話の時代に世代単位の開きがあって、各世代の大国の支配領域の王たちが大国主と合祀・習合した結果だと考えられ、大国は最大181国(集落・小字単位?)が支配下だったと考えられる。

『舊事本紀』の出雲国は安寧天皇の義兄の建飯勝が出雲臣の娘の沙麻奈姫を娶り、その子が建甕槌で、その7代後、崇神天皇の時代に賀茂君や大神君を賜姓され、崇神天皇が神武天皇とする氏族の神話で、建飯勝の頃に出雲臣、すなわち出雲の国神が居たのだから、また、同世代の出雲醜大臣の母が出雲臣を名乗っていないので、綏靖天皇の頃に出雲国が建国され、沙麻奈姫を娶った頃は出雲国ではなく葦原中国だったと記述している。

「少彦名」は『舊事本紀』では「少彦根命鳥取連等祖」・「少彦名彦」と「少彦」が記述されるが、私は「大彦」に対する「少彦」なのではと考えていて、大国将軍大彦 とその補佐をする 少彦ということだ。

そして、大国の大彦に対して、吉備の児島すなわち、吉備が小国を意味し、吉備の王と大国王が連合したと思われ、「大彦命遣北陸武渟川別遣東海吉備津彦遣西道丹波道主命遣丹波」と、吉備津彦が少彦で、「大毗古命之子建沼河別」と武渟川別は大彦の子で吉備津彦は『古事記』では記述されず、この一書はこの頃の神話と考えられる。

また、垂仁紀の常世は済州島のようだが、神話時代の常世は、「六合之閒四海之內」にあり「三身國」のある「日」国より東の地域を記述する『山海經 海外南經』の「狄山帝堯葬于陽帝嚳葬于陰・・・文王皆葬其所一曰湯山」と王を埋葬する「湯山」ではないかと考えていて、それなら、粟国や熊野から舟で運べそうだ。


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