『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「・・・茲大神初作須賀宮之時自其地雲立騰尓作御歌其歌曰夜久毛多都伊豆毛夜弊賀岐都麻碁微尓夜弊賀岐都久流曽能夜弊賀岐袁 於是喚其足名椎神告言汝者任我宮之首且負名号稲田宮主須智(賀)之八耳神故其櫛名田比賣以久美度迩起而所生神名謂八嶋士奴美神又娶大山津見神之女名神大市比賣生子大年神次宇迦之御魂神兄八嶋士奴美神娶大山津見神之女名木花知流比賣生子布波能母遅久奴須奴神此神娶淤迦美神之女名日河比賣生子深淵之水夜禮花神此神娶天之都度閇泥上神生子淤美豆奴神此神娶布怒豆怒神之女名布帝耳上神生子天之冬衣神此神娶刺國大上神之女名刺國若比賣生子大國主神亦名謂大穴牟遅神亦名謂葦原色許男神亦名謂八千矛神亦名謂宇都志國玉神并有五名故此大國主神之兄弟八十神坐然皆國者避於大國主神・・・」、【この大神が、初めて須賀の宮を作った時、ここから雲が立ち上った。それで歌を作った(略)。ここで足名椎を呼び、「お前は我が宮の首領になれ。」と命じて、官名をつけて、稻田宮主須賀之八耳とした。それで櫛名田比賣を娶って夫婦の寝所を作って、生んだ子の名は、八島士奴美という。また大山津見の娘、名は神大市比賣を娶って生んだ子は、大年神。次に宇迦之御魂の二柱。兄の八島士奴美は、大山津見の娘で名は木花知流比賣を娶って生んだ子は、布波能母遲久奴須奴。この子は、淤迦美の娘で日河比賣を娶って生んだ子は、深淵之水夜禮花神。この子は天の都度閇知泥を娶って生んだ子は、淤美豆奴神。この子は、布怒豆怒神の娘で、布帝耳を娶って生んだ子は、天の冬衣神。この子は、刺國大神の娘で刺國若比賣を娶って生んだ子は、大國主。亦の名は大穴牟遲と言い、亦の名は葦原色許男と言い、亦の名は八千矛神と言い、亦の名は宇都志國玉神と言い、併せて五つの名が有る。それで、この大國主の兄弟は八の十柱いたが、皆國は大國主の支配となった。】と訳した。
『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は「・・・素戔烏尊行覓將婚之處遂到出雲之清地亦云須賀須賀斯乃詔日吾清々之矣彼處建宮之時自其地雲立騰矣因作御歌日夜句茂立伊怒毛夜覇餓岐莬磨語昧尓夜覇餓岐莬倶盧贈迺夜覇餓岐迺乃相與遘合爲妃所生之兒大巳貴神矣亦名八嶋士奴美神亦名大國主神亦名清之湯山主三名狹漏彦八嶋篠亦名清之繫名坂輕彦八嶋手命亦名清之湯山主三名狹漏彦八嶋野素戔烏尊勑日吾兒宮首者即脚摩乳手摩乳也故賜号於二神日稻田宮主神坐出雲國神復娶大山祇神女,名-神大市姬,生二神. 兒大年神次稻倉魂神素戔烏尊曰韓鄉之嶋是金銀若使吾兒所御之國不有浮寶未是佳矣乃拔鬢髮散之是成松矣覆拔(?胸)毛散之是成檜矣覆拔眉毛散之是成橡樟矣覆拔尻毛散之是成柀矣〇覆定其當國乃稱之曰杦及橡樟此兩樹者可以爲浮寶也〇覆檜者可以爲瑞宮之材也覆柀者可以爲顯見蒼生奥津棄尸將(?臥)之具〇覆夫須噉八十木種皆能播生矣素戔烏尊居熊成峯而遂入於根國矣兒五十猛神天降之時多將八十種須(?噉)子樹種而不殖韓地盡以持歸遂始自筑紫於大八洲之内莫不殖播而成青山矣所謂五十猛命爲有功之神則紀伊國所坐大神是矣一(?説)日素戔烏尊之子號日五十猛命妹大屋姫命次抓津姫命凡三神亦能分布八十種木種則奉渡於紀伊國即此國所祭之神是也」、【素戔烏は、結婚によい所を探し、ついに出雲の清の地に着いた。須賀須賀斯ともいう。「私はすがすがしい」言って、そこに宮を建てた。このとき、盛んに雲が立ちのぼったので、歌(略)を作った。そして妃とした。生まれた子が大己貴である。大己貴神のまたの名を八嶋士奴美、またの名を大国主、またの名を清之湯山主三名狹漏彦八嶋篠、またの名を清之繋名坂軽彦八嶋手、またの名を清之湯山主三名狭漏彦八嶋野という。素戔烏が「わが子の宮の主は、脚摩乳と手摩乳である」と言った。そして、名を与えた。稲田宮主という。出雲国にいる神だ。また、大山祇の娘の神大市姫を娶って、二柱を生んだ子は大年神、次に稲倉魂神である。素戔烏は「韓国の島には金銀がある。もしわが子の治める国に、舟がなかったらよくないだろう」と言った。そこで、髭を抜いて放つと松の木になった。また、胸毛を抜いて放つと檜になった。また、眉毛を抜いて放つと樟の木になった。また、尻の毛を抜いて放つと槙の木になった。「杉と樟の木は舟をつくるのがよい。また、檜は宮殿を造る木にするのがよい。また、槙は現世の人民の棺を作るのによい。そのため沢山の種子を蒔こう」とその用途を決めて言った。素戔烏は、熊成峯に行き、ついに根の国に入った。子の五十猛は天から降るときに、沢山の樹の種や、子供たちが食べるための種を、韓国には植えないで、すべて持ち帰り、筑紫からはじめて大八州の国中に蒔き増やして、青山にならないところはなかった。このため五十猛は有功の神とされる。紀伊国にいる大神がこれである。ある説には、素戔烏の子の名は五十猛という。妹は大屋姫、次に抓津姫である。この三神がよく沢山の種を蒔いた。そして紀伊国に渡られた。この国にお祀りしている神がこれである。】と訳した。
この須賀の地は八耳の官名が有る「八國」の支配下、素戔嗚は後付けの人物で、元々須賀の王だった足名椎が「八國」の「遠呂智」を退治して、「神八(宮・神倭)」王朝が始まり、官位が八国の「耳」になったことを示し、神武天皇や綏靖天皇の時代の官位である、手名椎と関係が有りそうな手研耳や神渟名河・八井耳と良くあてはまる。
そして、子の八島士奴美は八岐の忍神の意味と考えられ、八岐に勝った人物で、忍神は大伴氏の祖の忍日も忍日神と同じ意味となり、この神がここの説話の主人公で、この部分の天忍日や素戔嗚のモデルなのではないだろうか。
さらに、大国主の別名は活躍した時代が異なる人物で、孝霊天皇の頃までは縣を使用していた可能性が高く、この説話では、大国主ではなく大耳が妥当で、前代が大穴牟遲、後代が銅矛・銅剣が出土する時代と考えられ、『山海經』から考えても、大国だけで八十も国が無く、八国の十人と考えたほうが理に適う。
そして、素戔嗚の最終目的地は大国、すなわち、丹波・山代の東が根国と解り、刺国若比賣の子が大国主と、天孫が譲られた国を「朝日之直刺國」と呼んだ国と合致し、若狭が大国主の本拠だったことが解る。
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