2021年8月20日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第八段4

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は「故所避追而降出雲國之肥上河上名邊(鳥)髪地此時箸從其河流下於是須佐之男命以爲人有其河上而尋覓上往者老夫與老女二人在而童女置中而泣尓問賜之汝等者誰故其老夫荅言僕者國神大山上津見神之子焉僕名謂足上名椎妻名謂手上名椎女名謂櫛名田比賣亦問汝哭由者何荅白言我之女者自本在八稚女是高志之八俣遠呂知(此三字以音)毎年來喫今且(其)可來時故泣尓問其形如何荅白彼目如赤加賀智而身一有八頭八尾亦其身生蘿及檜榲其長度渓八谷峡八尾而見其腹者悉常靣(血)爛也(此謂赤加賀知者今酸醤者也)尓速須佐之男命詔其老夫是汝之女者奉於吾哉荅白恐亦不覺御名尓荅詔吾者天照大御神之伊呂勢者也故今自天降坐也尓足名椎手名椎神白然坐者恐立奉尓速須佐之男命乃於湯津爪櫛取成其童女而判(刺)御美豆良告其足名椎手名椎神汝等醸八塩折之酒亦作廻垣於其垣作八門毎門結八佐受岐毎其佐受岐置酒舩而毎舩盛其八塩折酒而待故随告而如此設備待之時其八俣遠呂智信如言來乃毎舩垂入己頭飲其酒於是飲酔死由伏寝尓速須佐之男命抜其所御佩之十拳釼切散其蛇者肥河變血而流」、【それで、逃げ出して、出雲國の肥の河上で、鳥髮といふ所に降った。この時に箸が河上から流れ下ってきた。そこで須佐の男は、人がその河上にいると思って、尋ね求めて上ったら、老夫と老女の二人がいて、童女を中に置いて泣いていた。そこで「お前たちは誰だ。」と問うた。それで、その老夫が「私は國神の大山の津見の子だ。私の名は足名椎といい、妻の名が手名椎といい、娘の名は櫛名田比賣という。」と答えた。また「お前がなくのはどうしてだ。」と問いかけたら、「私の娘は、本々八の稚女だが、高志の八俣の遠呂智が年毎に来て食らう。今がその来る時です。それで泣いています。」と答えた。それで「その風体はどんなものだ。」と問いかけたら、「その目はホオズキのように血走り、1国に頭目が八人に軍が八有る。またその身に蘿と桧や榲と着けてカモフラージュして、全軍を集めると八国の山を越えて続き、その腹を見ると、みないつも返り血を浴びている。」と答えた。「赤加賀知」と言うのは今の「ほおずき」だ。そこで速須佐の男は、その老夫に「お前の娘を私にほしい。」と命じると、「畏れ多いのですが名を知りません。」と答えた。それで「私は天照大神の弟だ。それで今、天より降ってきた。」と答えた。そこで足名椎と手名椎は、「それは畏れ多いこと。差し上げましょう」と言った。そこで速須佐の男は、童女を湯津爪櫛にして、美豆良に刺して、足名椎手名椎に「お前たちは、八の鹽を取り分ける樽(?桝)の酒を釀もし、また垣根を作り廻して、その垣根に八の門を作り、門毎に八の桟敷を組み立て桟敷ごとに酒台を置いて、台毎にその八の桝に酒を盛って待て。」と命じた。それで、言われたままに、このように置いて待っていると、八俣の遠呂智が、本当に言われたように来た。それで酒台毎に各々の頭から酒台に垂らし入れて、その酒を飮んだ。飮み、醉って、そのまま顔を伏せて寝てしまった。そこで速須佐の男は、帯びた十拳の劒を拔いて、蛇を切り散らかしたら、肥の河が血に染まって流れた。】と訳した。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は「素戔烏尊到於出雲國簛之河上石鳥髪地之時自其河上箸流下者矣素戔烏尊以爲人有其河上而尋覔上往者聞河上有啼哭之聲故尋聲往上有一老翁與婆中間置小女而哭矣素戔烏尊問曰汝等誰也何爲哭如何之耶對曰吾是國神号腳摩乳我妻号手摩乳此童女是吾兒号奇稻田姬矣所以哭者往時吾兒有八筒少女矣是爲髙志八岐大蛇每年來喫今臨被吞時故哀傷矣素戔烏尊問其形如何荅曰大蛇一身八頭尾各有八岐眼如赤酸醬其身生蘿亦松栢椙檜於背上其長度於谿八谷峽八尾而見其腹者悉常血爛矣素戔烏尊詔老夫曰是以汝之女者奉吾之耶對曰恐矣亦不覺御名矣素戔烏尊詔日吾者天照太神之弟也今自天降焉荅曰隨勑矣奏請先殺彼蛇然後幸者爲冝也素戔烏尊立化奇稻田姬爲湯津爪櫛而插於御髻矣乃使脚摩乳手摩乳釀八醞酒八甕亦造迴垣則於其垣作立八間造八(?)庪各置槽一口而盛酒矣則隨詔而如此語備而侍之時八岐大蛇如所言蔓延於八丘八谷之間而至矣素戔烏尊勑蛇日汝是可畏之神不敢饗之午乃以八甕酒得每頭一槽領醉而睡伏寢矣素戔烏尊乃拔所帶十握之劔寸斬其蛇」で訳はほゞ同様である。

『舊事本紀』と『古事記』はほとんど同じで、違いは『古事記』が肥河・足名椎が大山津見の子、その娘八稚女で、『舊事本記』は、それに対して簛河、親の名が記述されず、八筒(?箇)少女と『古事記』は大山津見が大国の神、娘たちが稚女と「日女」が「日国」の女王なのだから、稚女は「稚国」の女王と若狭の説話の可能性が有り、『古事記』が大国建国説話で「三身国」の綱が速須佐男の力を意味し、『舊事本紀』は若狭を大国と八国とが取り合っている説話と考えられる。

この年代は、出雲国が既に出来た時代の説話とまず考えるべきで、『日本書紀』の出雲国の初出は垂仁天皇二年の「經出雲國至於此間也是時遇天皇崩」と崇神天皇が崩じた時で、出雲臣の初出は崇神天皇六〇年「以誅出雲振根故出雲臣等畏是事」で、この頃に完成した神話を疑うべきだろう。

『舊事本記』でも出雲臣は懿徳天皇の頃の「出雲臣女子沙麻奈姫」が初出で懿徳天皇の大臣の出雲醜大臣の母は「出雲色多利姫」で出雲臣ではなく、『舊事本記』の神武天皇は崇神天皇と考えられ、宇摩志麻治自体が多紐文鏡が見つかる孝元天皇頃の人物の可能性がある。

また、『日本書紀』では脚摩乳と天皇名で支配することを意味する足ではなく、脚を使ったが、『古事記』は天皇名に帯を使ったので、足名椎と足を使用しており、『古事記』の原文の表音文字が葦などでは意味をなさない『日本書紀』の足と同じ表音の人物名で有ることを示し、安万呂の時代には支配すること帯を垂らして引っ張る意味で帯を使い、平郡氏は足で踏みつける意味で足を使ったことが解る。


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