次に『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は続けて「・・・伊奘諾尊詔日吾與汝矣改往巡柱吾矣自左汝矣自右巡柱相逢而為御戸婦昆如此約束竟矣伊奘諾伊弉冉二尊如約巡行天柱會逢同處之時伊奘諾尊先唱曰妍哉可愛少女欤伊弉冉尊後和曰妍哉可愛少男欤伊奘諾尊問伊弉冉尊日汝身有何成耶伊奘諾尊對日吾身具成而有成餘雄元之處耶伊弉冉尊對日吾身具成而有不成合雌元之處耶伊奘諾尊詔日思欲以吾身成餘處雄元之處判塞汝身不成合雌元之處以為産生國土如何伊弉冉尊對日冝然善矣於是雌雄初會欲將交合産於國土而不知其術于時鶺鴒然飛來搖其首尾二神見而學之即得交通之術矣先産生淡路州為胞意所不快故日淡道州即謂吾恥也次生伊豫二名州次生築紫州次生壹岐州次生對馬州次生隠岐州次生佐渡州次生大日本豐秋津州因茲以先(?所)生謂大八州矣然後還生之時生吉備兒嶋次生小豆嶋次生大嶋次生姫嶋次生(?値)鹿嶋次生兩兒嶋凡産生十四嶋其處處小嶋皆是水沫潮凝而成者也先生大八州兄生淡路州謂淡道之穂狭別嶋也次伊豫二名嶋謂此嶋身一而有面四海面有名伊豫國謂愛止比賣讃岐國謂飯依比古阿波國謂大宜都比賣土佐國謂速依別次隠岐之三子嶋謂天之忍許呂別次筑紫之嶋謂身一而面四海面而有名筑紫國謂白日別豊國謂豊日別肥国謂建日別日向國謂豊久士比泥別次熊襲國謂建日別次伊岐嶋天比祭都柱次津嶋謂天之狭手依比賣次大倭豊秋嶋謂天御虚空豊秋津折別次生六小嶋兄吉備兒嶋謂建日方別次小豆嶋謂大野手止比賣次大嶋謂大多麻止流別次姫嶋謂天一根次血鹿嶋謂天之忍男次両兒嶋謂天両屋総産生大八洲次六小嶋合十四箇嶋其處處小嶋皆是水沫潮凝而成者也」、【伊奘諾が「私とあなたとで、改めて柱を回ろう。私は左から、お前は右から柱を回ってお互いが会ったところで夫婦となろう」と約束して、二神は約束どおり天の御柱を回り、同じところで出会った。この時、伊奘諾が、「おお、何とすばらしいおとめだ」とまず唱えた。伊弉冉は「まぁ、何とすばらしい男だ」と後で答えた。伊奘諾が伊弉冉に「あなたの体はどうなっている」と尋ねた。そして、「私の体は、出来上がって余った、雄の元という所がある」と言った。伊弉冉は「私の体は、できあがらない、雌の元という所があります」と答えた。伊奘諾は「私の体の出来上がって余ったところで、お前の出来上がっていないところを合せてふさいで、国を産もうと思うが、どうだ」と言った。伊弉冉は「いいですね」と答えた。ここで、初めて交じり合い、国を産もうとしたが、その方法を知らなかった。このとき、鶺鴒が飛んできて、その頭と尻尾を振った。二神はそれを見習って、互いに通う方法を知った。まず、淡路州を生んだが、不満足な出来だった。そのため淡路州という。「わがはじ」の意である。次に、伊予の二名の州を生む。次に、筑紫州を生む。次に、壱岐州を生む。次に、対馬州を生む。次に、隠岐州を生む。次に、佐渡州を生む。次に、大日本豊秋津州を生む。これによって、以上の生んだ国を大八州という。その後、生んで帰るときに、吉備の児島を生む。次に、小豆島を生む。次に、大島を生む。次に、姫島を生む。次に、血鹿島を生む。次に、両児島を生む。計十四の島を生んだ。その所々にある小島は、水の泡の潮が固まってできたものだ。まず、大八州を生んだ。兄として淡路州を生んだ。淡道の穂の狭別島という。次に、伊予の二名島、この島は身体は一つで顔が四つあり名がある。伊予国を愛比売。讃岐国を飯依比古。阿波国を大宜都比売。土佐国を速依別。次に、隠岐の三つ子の島を天の忍許呂別という。次に、筑紫の島で体は一つで顔が四つあり顔に名がある。筑紫国を白日別。豊国を豊日別。肥国を建日別。日向国を豊久士比泥別。次に、熊襲の国を建日別という。次に、伊岐島を天比登都柱という。次に、津島を天の狭手依比売という。次に、大倭豊秋津島を天御虚空豊秋津根折別といいう。次に、六つの小島を生んだ。兄の吉備の児島を建日方別という。次に、小豆島を大野手比売という。次に、大島を大多麻流別という。次に、姫島を天一根という。次に、血鹿島を天の忍男という。次に、両児島を天両屋という。大八島すべてを生んだ。次の六つの小島と合わせて十四の島になる。その所々にある小島は、水の泡の潮が固まってできたものだ。】と訳した。
『古事記』前川茂右衛門寛永版は「・・・如此言竟而御合生子淡道之穂之狭別嶋次生伊豫之二名嶋此嶋者身一而有面四毎面有名故伊豫國謂愛止比賣讃岐國謂飯依比古粟國謂大宜都比賣土左國謂建依別次生隠伎之三子嶋亦名天之忍許呂別次生筑紫嶋亦身一而有靣四毎靣有名故筑紫國謂白日別豊國謂豊日別肥國謂速日別日向國謂豊久士比泥別熊曽國謂建日別次生伊岐嶋亦名謂天比登都柱次生津嶋亦名謂天之狭手依比賣次生佐度嶋次生大倭豊秋津嶋亦名謂天御虚空豊秋津根別故因此八嶋先所生謂大八嶋國然後還坐之時生吉備兒嶋亦名謂建日方別次生小豆嶋亦名謂大野手上比賣次生大嶋亦名謂大多麻上流別次生女嶋亦名謂天一根次生知訶嶋亦名謂天之忍男次生兩兒嶋亦名謂天兩屋」とあり、ほゞ同様の内容である。
国生みすると言うが、その国は既に存在する国に出張所を創った程度の事と思われ、それを証明するように、すでに「伊予国・讃岐国・粟国・土左国・筑紫国・豊国・肥国・熊曽国」という国が存在し、隠伎之三子嶋(天之忍許呂別)・伊岐嶋(天比登都柱)・津嶋(天之狭手依比賣)・大倭豊秋津嶋(天御虚空豊秋津根別)・女嶋(天一根)・知訶嶋(天之忍男)・兩兒嶋(天兩屋)と天がつく天国の領域、淡道之穂(狭別)と狭国の分国、土左國(建依別)と建国の分国、筑紫國(白日別)豊國(豊日別)・肥國(速日別)・熊曽國(建日別)と日国の分国、日向國(豊久士比泥別)・大倭豊秋津嶋(天御虚空豊秋津根別)と「ね」国の分国、吉備兒嶋(建日方)と建国の分国、粟國(大宜都比賣)・小豆嶋(大野手上比賣)と大国の分国らしき名前が記述されて、『山海經』の「大人國」と思われる丹波大縣王が大人の市の一つである吉備や阿波まで領域をもっているように、主導権を持った国が存在する状況だ。
そして、『舊事本紀』が「大倭豊秋嶋謂天御虚空豊秋津折別」、『古事記』も「大倭豊秋津嶋(天御虚空豊秋津根別」と『日本書紀』は「天」は「海」だが、2書は「天」の文字を「虚空」のことと理解し、『日本書紀』を表意漢字の文書として理解し、『日本書紀』を知った上の史書で、また、壱岐の女王の出身地が女嶋だったことが別名の一根からうかがえる。
そして、『日本書紀』では壱岐・対馬が直接統治でなかったものが、390年即位の応神廿年409年に「倭漢直祖阿知使主其子都加使主並率己之黨類十七縣而來歸焉」と倭国は帰順したが、403年の「始之於諸國置國史記言事達四方志」の後年で、壱岐・対馬が資料に無く、『日本書紀』では壱岐・対馬を大八島にできなかったが、巨勢氏の『古事記』以降は大八島に入れた。
『舊事本紀』の肥国が「建日別」とあり、熊襲国も「建日別」と同じで、『古事記』では肥国が「速日別」とあり、これは「速須佐之男」の速で、もともと、「速日別」が熊襲に奪取されて、「建日別」と記述する熊襲が豊前・豊後・日向・肥後を領地と記述する景行天皇の時代、『後漢書』の「自女王國東度海千餘里至拘奴國雖皆倭種而不屬女王」と豊前が「拘奴國」で景行天皇は周防から豊前に出撃して、筑後まで平定していて、これを背景にした神話なので、『舊事本記』の記述が熊襲を筑紫に含めなかった原因であろう。
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