『日本書紀』慶長版は
「六月已亥朔癸夘饗新羅客若弼於築紫賜祿各有差乙夘雩之壬戌地震秋七月戊辰朔朱雀見之辛未小錦下采女臣竹羅爲大使當摩公楯爲小使遣新羅國是日小錦下佐伯連足爲大使小墾田臣麻呂爲小使遣髙麗國丁丒祭廣瀬龍田神丁酉令天下悉大解除當此時國造等各出?(禾犮:祓)柱奴婢一口而解除閏七月戊戌朔壬子皇后誓願之大齋以說經於京內諸寺八月丁夘朔丁丑大錦下上毛野君三千卒丙子詔三韓諸人曰先日復十年調税既訖旦加以歸化初年倶來之子孫並課役悉免焉壬午伊勢國貢白茅鴟丙戌遣多祢嶋使人等貢多祢國啚其國去京五千餘里居筑紫南海中切髮草裳粳稻常豊一葅兩收土毛支子莞子及種々海物等多是日若弼歸國九月丁酉朔己亥遣髙麗新羅使人等共至之拜朝辛丒周芳國貢赤龜乃放嶋宮池甲辰詔曰凢諸氏有氏上未定者各定氏上而申送于理官庚戌饗多祢嶋人等于飛鳥寺西河邊奏種種樂壬子篲星見癸丑熒惑入月冬十月丙寅朔日蝕之癸未地震乙酉新羅遣沙㖨一吉飡金忠平大奈末金壹世貢調金銀銅鐵錦絹鹿皮細布之類各有數別獻天皇々后太子金銀錦霞幡皮之類各有數庚寅詔曰大山位以下小建以上人等各述意見是月天皇將蒐於廣瀬野而行宮構訖裝束既備然車駕遂不幸矣唯親王以下及群卿皆居于輕市而撿挍裝束鞍馬小錦以上大夫皆列坐於樹下大山位以下者皆親乗之共隨大路自南行北新羅使者至而告曰國王薨十一月丙申朔丁酉地震十二月乙刄朔甲戌小錦下河邊臣子首遣筑紫饗新羅客忠平癸巳田中臣鍛師柿本臣猨田部連國忍髙向臣麻呂粟田臣真人物部連麻呂中臣連大嶋曾祢連韓犬書直智德幷壹拾人授小錦下位是日舍人造糠?(ノ虫:蟲)書直智德賜姓曰連」
【六月の朔が己亥の癸卯の日に、新羅の客の若弼を筑紫で饗応した。俸禄を与え各々差が有った。乙卯の日に、雨乞いした。壬戌の日に、地震があった。秋七月の戊辰が朔の日に、朱雀を見た。辛未の日に、小錦下の采女の臣の竹羅を大使として、當摩公の楯を小使として、新羅の国に派遣した。この日に、小錦下の佐伯の連の廣足を大使とし、小墾田の臣の麻呂を小使として、高麗の国に派遣した。丁丑の日に、廣瀬・龍田の神のお祭りをした。丁酉の日に、天下に命令して、残らず大祓いの儀式を行った。この時に、国造達は、各々が償わせる下男下女一人を出してお祓いした。閏七月の朔が戊戌の壬子の日に、皇后は、誓願の大法会を開いて、經を京内の諸寺で説教させた。八月の朔が丁卯の丁丑の日に、大錦下の上毛野の君の三千が死んだ。丙子の日に、三韓の諸々の人に「前に十年の年貢を許したが期限が切れた。また、加えて、初めて帰化した時に一緒にやって来た子や孫も課役を許したが、同じだ」と詔勅した。壬午の日に、伊勢の国が、白いふくろうを貢上した。丙戌の日に、多禰の嶋に派遣した使者達は、多禰の国の地図を貢上した。その国は、京を去ること、五千餘里だ。筑紫の南の海中にある。髮を切って草の腰巻を着ている。うるち米がいつも豊作だ。一度植えて二度収穫が有る。産品はクチナシの実・イグサ?及び種々の海産物等多種だ。この日に、若弼が、国に帰った。九月の朔が丁酉の己亥の日に、高麗・新羅に派遣した使者達が、一緒に遣ってきて朝廷に拝礼した。辛丑の日に、周芳の国が、赤い亀を貢上した。それで嶋の宮の池に放った。甲辰の日に、「全ての諸氏の氏上でまだ決まっていなかったら、各々氏上を決めて、管理者に申し送れ」と詔勅した。庚戌の日に、多禰の嶋の人達を飛鳥寺の西の河辺で饗応した。種々の楽曲を演奏した。壬子の日に、彗星が見えた。癸丑の日に、火星が月に入った。冬十月の丙寅が朔の日に、日食が有った。癸未の日に、地震が有った。乙酉の日に、新羅は、沙㖨の一吉飡の金忠平と大奈末の金壹世を派遣して、年貢を貢上した。金・銀・銅・鉄・錦・絹・鹿皮・細布など、各々たくさん有った。別に天皇・皇后・太子に献上し、金・銀・霞んだ錦・幡・皮のなど、各々多数有った。庚寅の日に、「大山の位以下、小建以上の人達は、各々、意見を述べよ」と詔勅した。この月に、天皇は、廣瀬野に狩りをしようと、行宮を構え終わって、裝束も着用した。しかしとうとう駕籠に乗って出かけなかった。ただし親王以下及び公卿は、皆、輕市に居て、裝束を整えた鞍を付けた馬を点検した。小錦以上の高官が、皆、樹の下に列をなして座った。大山位以下は、皆、自分の馬に乗った。共に大路に従って、南から北に向かった。新羅の使者、遣ってきて「国の王が薨じた」と告げた。十一月の朔が丙申の丁酉の日に、地震が有った。十二月の朔が乙丑の甲戌の日に、小錦下の河邊の臣の子首を筑紫に派遣して、新羅の客の忠平を饗応した。十二月の癸巳の日に、田中の臣の鍛師・柿本の臣の猨・田部の連の國忍・高向の臣の麻呂・粟田の臣の眞人・物部の連の麻呂・中臣の連の大嶋・曾禰の連の韓犬・書の直の智徳、併せて十人に、小錦下の位を授けた。この日に、舍人の造の糠蟲・書の直の智徳に姓を与えて連と言った。】とあり、六月己亥朔は6月2日、九月丁酉朔は9月2日で前月が小の月と都督府の暦、十二月乙丑朔は11月30日で九州の暦、他は標準陰暦と合致する。
大規模な狩りを天皇が取りやめていて、天皇の体調不良を思わせ、前項の摂政を思わせるが、摂政は天皇が不在の時に就任し、しかも、天智天皇を参考にすると20歳未満で、20歳以上なら即位すればよいので、695年の天智天皇の体調不良を裏付けている。
また、種子島の説明も、里単位が1里400mなら五千里は2000kmなら長安からの距離だが、文意を考えると筑紫視点なのだから、ここでも、唐朝の支配下に都督府があり、681年も都督府に支配されていることが解る。
すなわち、九州にいる朝廷は、まだ、短里の1里50mを使い、有明海から多禰嶋まで270Kmで約5千里となる。
新羅の使者が言う王の薨去は『三国史記』の681年文武王二十一年「秋七月一日王薨諡曰文武」と十月の報告で凡そ一致し、9月までは天皇が筑紫に滞在し、若弼の饗応も筑紫で行っている。
朝鮮の帰化人の子・孫の納税免除は、多くの訳者が子・孫の納税免除は続けたと解釈している
が、私は取りやめたと理解したのは共に免除取りやめでなければ、意味が通らないからである。
三世代が成人して帰化した人物と、成人早々に帰化した人物との公平性を考えれば理解できる。