2019年4月26日金曜日

最終兵器の目 天降り4

  続けて、『日本書紀』 慶長版は
天稚彥之妻下照姫哭泣悲哀聲達于天是時天國玉聞其哭聲則知夫天稚彥已死乃遣疾風舉尸致天便造喪屋而殯之即以川鴈爲持傾頭者及持帚者又以雀爲舂女而八日八夜啼哭悲歌先是天稚彥在於葦原中國也與味耜髙彥根神友善故味耜髙彥根神昇天弔喪時此神容貌正類天稚彥平生之儀故天稚彥親属妻子皆謂吾君猶在則攀牽衣帶且喜且慟時味耜髙彥根神忿然作色曰朋友之道理宜相弔故不憚汚穢遠自赴哀何爲誤我於亡者則拔其帶剱大葉刈以斫臥喪屋此即落而爲山今在美濃國藍見川之上喪山是也世人惡以生誤死此其縁也
【天稚彦が妻の下照姫が嘆き悲しむ声が天に達した。この時に、天國玉はその嘆く声を聞いて則ちその天稚彦の死を知った。乃ち疾風を遣わして屍を持ち上げて天に連れ帰った。すなわち喪屋を造って殯をした。川鴈で傾けた頭を祓い通り道を掃き清めた。又、雀に米をつかせた。そうして八日八夜、嘆き啼いて悲しみの歌を歌った。これより先、天稚彦が葦原の中国に在った日に、味耜高彦根神と友となった。なので、味耜高彦根神は天に昇って喪を弔った。時にこの神の容貌は天稚彦が平生の姿に似ていた。従って、天稚彦が親族・妻子、皆、「我が君はまだ生きている」と謂った。すなわち衣帯に縋りついて、喜びかつ嘆いた。そこで味耜高彦根神憤って、「朋友としてふさわしい形式で弔った。したがって、汚穢を憚らないで遠くから赴むいて哀しんでいる。どうして私を亡者と間違える」。と言った。すなわちその帯びた劒の大葉刈を抜き、劔で喪屋を切り倒した。これで落ちて山となった。今、美濃国藍見川の川上に在る喪山がこれである。世の人、生きているのに死んだと誤ることを悪く思うのは、これがその所以だ。】と記述する。
『古事記』では「阿遅鋤高日子神者今謂迦毛大御神」、「意富多ゝ泥古命者神君・鴨君之祖」と鴨君の活躍を記述し、「胸形奥津宮神多紀理毘賣命生子阿遅鋤高日子根神」と中国は天降り時も筑紫の影響下に有ったことを示している。
続いて、『日本書紀』 慶長版は
是後髙皇産靈尊更會諸神選當遣於葦原中國者僉曰磐裂根裂神之子磐筒男磐筒女所生之子經津主神是将係也時有天石窟所住神稜威雄走神之子甕速日神甕速日神之子熯速日神熯速日神之子武甕槌神此神進曰豈唯經津主神獨爲丈夫而吾非丈夫者哉其辭氣慷慨故以即配經津主神令平葦原中國
【この後に、高皇産靈尊は更に諸神を集めて葦原の中国に派遣する者を選んだ。みな「磐裂根裂神の子、磐筒男・磐筒女が生んだ子、經津主神がいい」と言った。この時に天石窟に住む神、稜威雄走神の子の甕速日神、甕速日神の子速日神、速日神の子武甕槌神がいた。この神が進み出て、「經津主神独り大夫で地位が高いが、私は大夫ではありません」その語気は意気盛んだった。そのため、即ち經津主神にそえて葦原の中国を平定させようとした。】とある。
經津主には「主」と地域の首長で「大夫」と呼ばれる支配者階級だが、武甕槌は支配階級に属していないと述べ、地域名ではなく武という姓と思われるものを既に持っている。
『史記』の周本紀に「辛甲大夫之徒皆往歸之」、『論語』の公冶長に「則曰猶吾大夫崔子也」、『論衡』の恢国篇第五八に「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」と 周初期から交流が有り、その身分制度を知っていて、硯とともに漢字が導入された漢時代から始まる日本の有史時代に「大夫」の文字を使用するのは当然の帰結で、『後漢書』に「建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫」、『三国志』「自古以來其使詣中國皆自稱大夫・・・景初二年六月倭女王遣大夫難升米」など、『続日本紀』にも大宝二年に「以從三位大伴宿祢安麻呂爲式部卿正五位下美努王爲左京大夫」と記述され、江戸時代でも家老が「大夫」とよばれ、現代でも、小説「山椒大夫」や遊女を呼んだり、多くの人々が良く知っている歴史的呼び名である。

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