2019年4月15日月曜日

最終兵器の目 外伝大国王朝4

    続いて、『古事記』前川茂右衛門 寛永版は
故其所寝大神聞驚而引仆其室然解結椽髪之間遠逃故尓追至黄泉比良坂遥望呼謂大穴牟遅神曰其汝所持之生大刀生弓矢以而汝庶兄弟者追伏坂之御尾亦追撥河之瀬而意礼爲大國主神亦爲宇都志國主(玉)神而其我之女須世理毘賣爲嫡妻而於宇迦能山之山本於底津石根宮柱布刀斯理(此四字以音)於高天原氷椽多迦斯理而居是奴也故持其大刀弓追避其八十神之時毎坂御尾追伏毎河瀬追撥而始作國也故其八上比賣者如先期美刀阿多波志都故其八上比賣者雖率來畏其嫡妻須世理毘賣而其所生子者刺挾木俣而返故名其子云木俣神亦名謂御井神也
【そのため、寢ていた大神が聞いて驚き、其の部屋を引きたおした。しかし、「たりき」に結んだ髪を解く間に、遠くへ逃げた。それで黄泉比良坂に追ひ至りて、はるか遠くを見て、大穴牟遲を呼んで、「お前が持っている生大刀・生弓矢、お前の庶兄弟を、坂の尾に追ひ伏せて、河の瀬に追ひはらって、大國主となれ、また宇都志國玉神となって、我がむすめ須世理毘賣を正妻として、宇迦能山の山本に、底津石根に宮柱布刀斯理、高天原に「ひぎたかしり」て居なさい。こやつめが。」と言った。それで、その大刀・弓を持って、その八十神を追ひ退ける時に、坂の尾毎に追ひ伏せ、河の瀬毎に追ひはらって、始めて国を作った。それで、その八上比賣は、先の約束通り「みとあたはしつ」?。それで、その八上比賣を率連れて来たけれども、その正妻の須世理毘賣を畏れて、その生んだ子を、木の俣(また)に刺し挾んで返った。それで、その子を名づけて木俣神と云って、亦の名を御井神といふ。】とある。
宇迦能山の麓に宮柱を建てて宮殿を作り、刀と矢を王の璽として『舊事本紀』に「亦云國造大穴牟遅」と大国を建国して大国の王、玉神(宇迦能御玉神)になり、おそらく、この時弟猾が右腕となって兄猾が「八十神」の代表だったのだろう。
「素()」国に婿入りした隠岐の大穴牟遲はおそらく二代目以降の大穴牟遲を「八」国に婿入りして宇迦能山に宮を造って大国主という役職名の王となった。
続いて『古事記』 前川茂右衛門 寛永版は
八千矛神將婚高志國之沼河比賣幸行之時到其沼河比賣之家歌曰(略)其沼河比賣未開戸自内歌曰(略)故其夜者不合而明日夜爲御合也又其神之適告須勢理毘賣命甚爲嫉妬故其日子遅神和備弖自出雲將上坐倭國而來装立時片御手者繋御馬之鞍片御足蹈入其御鐙而歌曰(略)即爲宇岐由比而宇那賀氣理弖至今鎮坐也此謂之神語也故此大國主神娶坐胸形奥津宮神多紀理毘賣命生子阿遅鋤高日子根神・・・
【八千矛神が高志国の沼河比賣を娶ろうとして、幸行した時、沼河比賣の家について、歌って(略)それで、その夜は会ないで、明日の夜、会った。又その神の正妻の須勢理毘賣、甚だ嫉妬した。それで、その日子遲は「わびて」、出雲から倭国に上ろうとして、束裝を正す時に、片手は馬の鞍にかけ、片足は其の鐙に踏み入れて、(略)のように歌って、「うきゆひ」して、「うながけ」て今に至るまで鎭まりいらっしゃる。これを「かみがたり」という。それで、この大國主は、胸形の奧津宮にいる神、多紀理毘賣を娶って生んだ子は、阿遅鋤高日子根・・・】とある。
『山海經』の「君子国」と「三身国」に遠征して「大人国」と『山海經』に認められる国となり、倭国は隠岐から見て、海流を上り、倭国へ向かう途中に胸形の奧津宮があると述べている。
ここで、「大國主神亦娶神屋楯比賣命生子事代」と前に述べた「(違)遣於木國之大屋毘古」と大国の中の屋(八)国を述べて関係がうかがえ、屋(八)国の事代主が先で事代主のあとに大穴牟遲が大国主になったと前後関係が逆と考えられる

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