2019年4月29日月曜日

最終兵器の目 天降り5

  『日本書紀』 慶長版は続けて、
「二神於是降到出雲國五十田狹之小汀則拔十握剱倒植於地踞其鋒端而問大己貴神曰髙皇産靈尊欲降皇孫君臨此地故先遣我二神駈除平定汝意何如當湏避不時大己貴神對曰當問我子然後将報是時其子事代主神遊行在於出雲國三穗之碕以釣魚爲樂或曰遊鳥爲樂故以熊野諸手舩載使者稻背脛遣之而致髙皇産靈尊勅於事代主神且問将報之辭時事代主神謂使者曰今天神有此借問之勅我父宜當奉避吾亦不可違因於海中造八重蒼柴柴蹈舩枻而避之使者既還報命故大己貴神則以其子之辭白於二神曰我怙之子既避去矣故吾亦當避如吾防禦者國內諸神必當同禦今我奉避誰復敢有不順者乃以平國時所杖之廣矛授二神曰吾以此矛卒有治功天孫若用此矛治國者必當平安今我當於百不足之八十隅将隱去矣言訖遂隱於是二神誅諸不順神鬼等果以復命」
【二神は出雲国の五十田狹の小汀に降り到って、則ち十握劒を抜き、地にさかさまにつきたてて、
その切っ先の横に胡坐を組んで、大己貴神に「高皇産靈尊が皇孫を降し、この地に君臨させようとしている。だから、まず我々二神を先駆けにして平定させようと派遣した。お前はどう思う。戦いを避けるか」と問いかけた。 その時、大己貴「私の子に聞いて、その後に報告する」と答えた。この時に、その子事代主神は出雲國の三穗之碕に遊行中だった。そこで魚を釣ったり鳥の狩りを楽しんでいた。それで、熊野諸手船で稻背脛を使者として同乗させて派遣した。高皇産靈の詔勅を事代主神に示し、その返事を問うた。その時、事代主神は使者に「今、天神の私が受け入れられない指示をしてきた。が、私の父は戦争を避けるように言っている。私はそれに逆らえません」と言った。それで海中に八重蒼柴籬の結界を造って、船を踏んで飛び込んで死んだ。使者は、還って復命した。そのため、大己貴神は子の事代主のことばをきいて、二神に「私が頼みにしていた子は既に死んだ。だから、私も戦いは避けよう。もし、私が、守って戦えば、国内の諸神は必ず一緒に戦うだろう。今、私が戦いを避けるなら、誰も、あえて従わない者はいないだろう」と言い、大己貴が中国を平定した時に杖として用いた廣矛を、二神に授けて、「私は此の矛を用いて、平定することができた。天孫も、もしこの矛を用いて国を統治したなら、必ず簡単に平定できるだろう。今、私は、子々孫々五代百年以上とは言わないが曽孫の代八十年位は蟄居していよう」と言い、言いおわったところでお隠れになった。 ここで二神は、もろもろの従わない鬼神等を誅殺し、そして復命した。】と記述し、かなり意訳したが、趣旨は合っていると思う。
確認すべきは、事代主がいたのは出雲国で、出雲が中国の一部であったということで、事代主が中国の実権を持っていたことと、その死んだ出雲の海が「海中」すなわち、『山海經』海外南經に「六合之閒四海之內」と海外南を「四海」に含み、六合の可能性が高いということで、『山海經』の海内南經に「蒼梧之山帝舜葬于陽帝丹朱葬于陰」、大荒南經に「帝堯帝嚳帝舜葬于岳山」、海外南經に「狄山帝堯葬于陽帝嚳葬于陰」と黄海・日本海南部・瀬戸内を含む南海海溝の地域が帝の墓場で事代帝は籬で囲った間を自分で舩を踏んだのだから生きたまま水葬したのだろうか。
また、「百不足之八十」を孫子の代より長く曽孫の代までと訳してみたが、日本での家系は大凡曽祖父から曽孫が血族で一代20年なら80年は曽孫の世代であることからの結論である。
そして、『日本書紀』には本文に「大国主」は出現しないで「大己貴」で、『舊事本紀』・『古事記』の「大国主」と異なり、『古事記』は「大己貴」が出現しなくて、『古事記』の「大国主」は「天之冬衣神此神娶刺國大上神之女名刺國若比賣生子大國主神」と「素戔嗚」→「八島士奴美」→「布波能母遲久奴須奴」→「深淵之水夜禮花」→「淤美豆奴」→「天之冬衣」→「大国主」で「素戔嗚」の子の2書とかなり異なる。
これは、当然で、『古事記』は葛城氏の私史なので、「中足彦」が「中(なか)国」王で、中国安芸の出身で御中主の末裔を詳しく述べ、『日本書紀』・『舊事本紀』は敵対する国の史書だからである。

2019年4月26日金曜日

最終兵器の目 天降り4

  続けて、『日本書紀』 慶長版は
天稚彥之妻下照姫哭泣悲哀聲達于天是時天國玉聞其哭聲則知夫天稚彥已死乃遣疾風舉尸致天便造喪屋而殯之即以川鴈爲持傾頭者及持帚者又以雀爲舂女而八日八夜啼哭悲歌先是天稚彥在於葦原中國也與味耜髙彥根神友善故味耜髙彥根神昇天弔喪時此神容貌正類天稚彥平生之儀故天稚彥親属妻子皆謂吾君猶在則攀牽衣帶且喜且慟時味耜髙彥根神忿然作色曰朋友之道理宜相弔故不憚汚穢遠自赴哀何爲誤我於亡者則拔其帶剱大葉刈以斫臥喪屋此即落而爲山今在美濃國藍見川之上喪山是也世人惡以生誤死此其縁也
【天稚彦が妻の下照姫が嘆き悲しむ声が天に達した。この時に、天國玉はその嘆く声を聞いて則ちその天稚彦の死を知った。乃ち疾風を遣わして屍を持ち上げて天に連れ帰った。すなわち喪屋を造って殯をした。川鴈で傾けた頭を祓い通り道を掃き清めた。又、雀に米をつかせた。そうして八日八夜、嘆き啼いて悲しみの歌を歌った。これより先、天稚彦が葦原の中国に在った日に、味耜高彦根神と友となった。なので、味耜高彦根神は天に昇って喪を弔った。時にこの神の容貌は天稚彦が平生の姿に似ていた。従って、天稚彦が親族・妻子、皆、「我が君はまだ生きている」と謂った。すなわち衣帯に縋りついて、喜びかつ嘆いた。そこで味耜高彦根神憤って、「朋友としてふさわしい形式で弔った。したがって、汚穢を憚らないで遠くから赴むいて哀しんでいる。どうして私を亡者と間違える」。と言った。すなわちその帯びた劒の大葉刈を抜き、劔で喪屋を切り倒した。これで落ちて山となった。今、美濃国藍見川の川上に在る喪山がこれである。世の人、生きているのに死んだと誤ることを悪く思うのは、これがその所以だ。】と記述する。
『古事記』では「阿遅鋤高日子神者今謂迦毛大御神」、「意富多ゝ泥古命者神君・鴨君之祖」と鴨君の活躍を記述し、「胸形奥津宮神多紀理毘賣命生子阿遅鋤高日子根神」と中国は天降り時も筑紫の影響下に有ったことを示している。
続いて、『日本書紀』 慶長版は
是後髙皇産靈尊更會諸神選當遣於葦原中國者僉曰磐裂根裂神之子磐筒男磐筒女所生之子經津主神是将係也時有天石窟所住神稜威雄走神之子甕速日神甕速日神之子熯速日神熯速日神之子武甕槌神此神進曰豈唯經津主神獨爲丈夫而吾非丈夫者哉其辭氣慷慨故以即配經津主神令平葦原中國
【この後に、高皇産靈尊は更に諸神を集めて葦原の中国に派遣する者を選んだ。みな「磐裂根裂神の子、磐筒男・磐筒女が生んだ子、經津主神がいい」と言った。この時に天石窟に住む神、稜威雄走神の子の甕速日神、甕速日神の子速日神、速日神の子武甕槌神がいた。この神が進み出て、「經津主神独り大夫で地位が高いが、私は大夫ではありません」その語気は意気盛んだった。そのため、即ち經津主神にそえて葦原の中国を平定させようとした。】とある。
經津主には「主」と地域の首長で「大夫」と呼ばれる支配者階級だが、武甕槌は支配階級に属していないと述べ、地域名ではなく武という姓と思われるものを既に持っている。
『史記』の周本紀に「辛甲大夫之徒皆往歸之」、『論語』の公冶長に「則曰猶吾大夫崔子也」、『論衡』の恢国篇第五八に「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」と 周初期から交流が有り、その身分制度を知っていて、硯とともに漢字が導入された漢時代から始まる日本の有史時代に「大夫」の文字を使用するのは当然の帰結で、『後漢書』に「建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫」、『三国志』「自古以來其使詣中國皆自稱大夫・・・景初二年六月倭女王遣大夫難升米」など、『続日本紀』にも大宝二年に「以從三位大伴宿祢安麻呂爲式部卿正五位下美努王爲左京大夫」と記述され、江戸時代でも家老が「大夫」とよばれ、現代でも、小説「山椒大夫」や遊女を呼んだり、多くの人々が良く知っている歴史的呼び名である。

2019年4月24日水曜日

最終兵器の目 天降り3

  前項と同様に、「天津彦根」は『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版に
大伴連遠祖天忍日命帥來目同部遠祖天槵津大來目背負天磐靫臂着稜威髙鞆手授千梔弓天羽々矢及副持八目鍴又帯頭槌劔而立天孫御前爲先駈者也詔日吾則起樹天津神籬及天津磐境當爲吾孫奉齋矣詔日天兒屋命天太玉命二神冝持天津神籬於葦原中國亦爲吾孫奉齋也
と、「天津」の神宝を岩戸と同じように中臣の祖「天兒屋」と忌部の祖「天太玉」に祀らせることで中国を治めさせ、『日本書紀』の「天忍穗耳」、『舊事本紀』の「天穂別」の説話とは符合しておらず、大伴・久米氏の天降り説話をに変質させ、「天津彦根」の「根」は「宿祢」や「大祢」の「祢」で神の代弁者の禰宜のことなのようだ。
そして、「熊野櫲樟日」は『舊事本紀』 前川茂右衛門 寛永版に
伊弉冉尊葬於紀伊國熊野之有馬村焉・・・是時其子事代主神遊行在於出雲國三穂之碕以釣魚遊鳥樂故以熊野諸手舩載使者少彦名命行到熊野之御碕遂適於常世國矣・・・兒天香語山命天降名手栗彦命 亦云髙倉下命此命隨御祖天孫尊自天降坐於木伊國熊野
と、本来は「武甕雷神」だろうが、伊弉冉を熊野の姫にして、事代主神までも熊野に集めていて、すなわち、天香語山の父祖の「熊野櫲樟日」を「饒速日」に挿げ替えていて、『日本書紀』の天降りも5人の始祖王を一つの説話に被せている。
『日本書紀』 慶長版に戻って、
故髙皇産靈尊更會諸神問當遣者僉曰天國玉之子天稚彥是壯士也宜試之於是髙皇産靈尊賜天稚彥天鹿兒弓及天羽羽矢以遣之此神亦不忠誠也来到即娶顯國玉之女子下照姫因留住之曰吾亦欲馭葦原中國遂不復命是時髙皇産靈尊怪其久不来報乃遣無名雉伺之其雉飛降止於天稚彥門前所植湯津杜木之杪時天探女見而謂天稚彥曰奇鳥来居杜杪天稚彥乃取髙皇産靈尊所賜天鹿兒弓天羽羽矢射雉斃之其矢洞達雉胸而至髙皇産靈尊之座前也時髙皇産靈尊見其矢曰是矢則昔我賜天稚彥之矢也血染其矢蓋與國神相戰而然歟於是取矢還投下之其矢落下則中天稚彥之胸上于時天稚彥新嘗休臥之時也中矢立死此世人所謂反矢可畏之縁也
【従って、高皇産靈尊は更に諸神を集めて、派遣すべき者を問うと、みなは、「天国玉の子天稚彦が意気盛んな男なので試みるべきだ」と答えた。そこで高皇産靈尊は天稚彦に天鹿兒弓及び天羽羽矢を賜わって稚彦を派遣した。稚彦は忠誠心が無く、天降って顯國玉のむすめの下照姫を娶って留り住み、「私は葦原の中国を治めようと思う」と言って復命しなかった。この時に、高皇産靈尊はなかなか報告が無いのを怪しんで、名の無い雉を派遣して様子を伺った。その雉がとび降って、天稚彦の門前に植た湯津のかつらぎの先に止った。その時に天探女を見て、天稚彦に、「怪しい鳥が来てかつらぎの先に居る」と言った。天稚彦は高皇産靈尊から賜わった天鹿兒弓と天羽羽矢を取って射て雉を殺した。其の矢が雉の胸を貫き通して、高皇産靈尊のいる前に至った。 高皇産靈尊は、その矢を見て、「この矢は昔、私が授けた天稚彦の矢だ。その矢は血に染まっている。きっと国神と戦って染まったのか」と言って、この矢を取って返し投げ下ろした。その矢が落ち下って天稚彦の胸上に当たった。その時、天稚彦新嘗をして休み臥した時で、矢に当たって死んだ。これを、世の人の所謂る「反し矢は畏ろしい」の言われだ。】と記述される。
しかし、『舊事本紀』は「大國玉神女下照姫」とし、さらに、「味鉏高彦根神」の妹が「下照姫」で、「天飛降」が「雉飛降」、「饒速日」が「天稚彦」、「味鉏高彦根神」が「長髓彦」、「下照姫」が「三炊屋媛」とセットで『日本書紀』は「櫛玉饒速日」で「顯國玉之女子下照姫」と「うつ・くしたま」と繋がり、『舊事本紀』は「天稚彦」説話と「饒速日」説話は重複した説話に流用し『舊事本紀』に「饒速日尊以夢教於妻御炊屋姬云汝子如吾形見物即天璽瑞寶矣天羽羽弓天羽羽矢」と同じ天璽瑞寶の「天羽羽矢」を渡している。
このように、かく神話は、有名な物語の名詞を挿げ替えて自身の氏族の建国物語に使用し、『日本書紀』の神話のお手本が『舊事本紀』も『古事記』もお手本となったのであり、『日本書紀』の神話を記述した雄略天皇の手元には『日本書紀』の一書群という収集物がそのお手本だったと考えられ、『日本書紀』履中天皇四年の始之於諸國置國史記言事達四方志」がそれにあたる。

2019年4月22日月曜日

最終兵器の目 天降り2

 『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は
真名井 齬然咀嚼而吹棄氣吹狹霧之中化生六男之神 乃含左御鬘玉左手掌中化生之神号日正哉吾勝勝速天穂別尊覆含左御鬘玉右手掌中化生之神号日天穂日命覆含左御髻玉著於左臂化生之神号日天津彦根命覆含右御髻玉著於右臂化生之神号日活津彦命覆含左御手腋玉自左足中化生之神号日熯之速日命覆含右御手腋玉自右足中化生之神号日熊野豫樟日命
と、「天之菩卑能命」・「天津日子根命」・「活津日子根命」・「熊野久須毘命」にも似たような天降り説話が実際は有ったと思われ、本来の「狹霧」から生まれた人物は「月國狭霧尊」で、「月読」→「狭霧」→「熯之速日」→「饒速日」が本来の説話だったのを挿げ替えたのであり、理由は『日本書紀』の作者の葛城氏の建国が筑紫の京都郡から日向国に侵略して、そこから畿内へ侵略したからである。
従って、『舊事本紀』 前川茂右衛門 寛永版
高皇産靈尊勑日若有葦原中國之敵拒神久而待戰者能爲方便欺防拒而令治平人三十二人並爲防衛天降供奉矣・・・饒速日尊襄天神御祖詔乗天磐舩而天降坐於河内國河上哮峯則遷坐大倭國鳥見白山所謂乗天磐舩而翔行於大虚空巡睨是郷而天降坐矣即謂虚空見日本國是歟饒速日尊使娶長髓彦妹御炊屋姬爲妃令妊胎矣未及産時饒速日尊既神損去坐而不覆上天之時矣
と中国遠征の陣容を述べた後、「饒速日」の説話を付け加えて船で海流に乗って天から降り、大倭国の鳥見の白山に天降って長髓彦の妹の御炊屋姫に婿入りして子が生まれ,饒速日は薨じたが、天降った時には既にそこは「大倭國」と呼ばれていたことに注目すべきだろう。
すなわち、神武東征以前から畿内は大倭国とよばれて、長髓彦が統治していたのであり、葛城氏は「大倭日子すき友命」その配下にいたことが解る。
そして、『日本書紀』で大巳貴に寝返ったとする天穂日は『舊事本紀』 前川茂右衛門 寛永版で
覆當主汝祭祀者天穂日命也大巳貴神報日天神詔敎慇懃如此不敢従命也吾(?)治顕露事者皇孫當治吾退治幽神事也乃薦岐神於二神日是當代我而奉従矣吾將自此避去即(?)被瑞之八坂瓊而長隠者矣經津主神以岐神爲御導周流削乎有逆命者而加斬形刑矣歸順者因加裒美矣是時歸順之首渠者大物主神及事代主神
と、大巳貴を祀って中国を統治して、元々の「岐神」の神話を付け加えたが、「岐神」は「国神」のことで、「八岐」・「壱岐」・「隠岐」と同じで、これらの国々を治めていた神様のこと、この「岐神」が国を拡大した相手「大物主」と「事代主」だったということで、この2神は素戔嗚の時代より以前、「足名椎」より以前の説話と思われ、その土地を大巳貴が後から支配していたのである。
同様に、「活津日子根」の天降り説話は、『舊事本紀』 前川茂右衛門 寛永版に
大巳貴神乗天羽車大鷲而覔妻妾?()下下行於節渡縣取大陶祗女于活玉依姫爲妻往來之時人非所知而密往來之間女爲妊身之時父母疑恠問日誰人來耶女子荅日神人狀來自屋上零人來坐共覆(?)耳尓時父母忽欲察顯續麻作綜以針釣係神人短裳而明旦隨係尋覔越自鎰穴經節渡山入吉野山留三諸山當知大神則見其綜遺只有三營号三輪山謂大三輪神社矣
と、「活玉依姫」が「三輪神」の子を生むが、この説話は「三輪神」と「大巳貴」を同一人物にするための説話で、『日本書紀』にも後代に「倭迹迹日百襲姫命」と「大物主」の説話に変質させている有名な説話で、本来は「活津日子根」を「三輪神」と同一人物とする説話が有ったことを否定できず、「曰事代主神共三嶋溝橛耳神之女玉櫛媛所生兒号曰媛蹈韛五十鈴媛命」と神武天皇妃はこれらの孫とされる。
「倭迹迹日百襲姫命」は倭国造の姫で、始祖は「珍彦爲倭國造」と珍彦で、「娶木国造之祖宇豆比古之妹山下影日売生子建内宿祢」と珍彦は木国造の祖でもあり、葛城氏の天降り説話の可能性が高い。

2019年4月19日金曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第二 天降り1

 『日本書紀』 慶長版は
天照大神之子正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊娶髙皇産靈尊之女𣑥幡千千姫生天津彥彥火瓊瓊杵尊故皇祖髙皇産靈尊特鍾憐愛以崇美焉遂欲立皇孫天津彥彥火瓊瓊杵尊以爲葦原中國之主然彼地多有螢火光神及蠅聲邪神復有草木咸能言語故髙皇産靈尊召集八十諸神而問之曰吾欲令撥平葦原中國之邪鬼當遣誰者宜也惟爾諸神勿隱所知僉曰天穗日命是神之傑也可不試歟於是俯順衆言即以天穗日命往平之然此神侫媚於大己貴神比及三年尚不報聞故仍遣其子大背飯三熊之大人亦名武三熊之大人此亦還順其父遂不報聞
【天照大神の子正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊は高皇産靈尊の娘の𣑥幡千千姫を娶って天津彦彦火瓊瓊杵尊を生んだ。従って、皇祖の高皇産靈尊は特にあわれみいつくしみをあつめて、尊んで育てた。遂に皇孫の天津彦彦火瓊瓊杵尊を王に立てて、葦原の中国の主にしようと思った。しかし、彼の地に螢火の光るようにゆらゆらと薄暗い神、及び五月蠅い邪神が多くいる。また領民もなかなか言うことを聞かない。それで、高皇産靈は、八十諸神を招集して、「私は葦原の中国の邪鬼を払い平らげたいと思う。誰を派遣すればよいのだろうか。諸神が知っている者を隠すな」と言い、みなは「天穗日命は、神の中で抜きんでています。試すべきです」というので、ここに俯して皆の言葉に従って、天穗日命に任せて中国に行って平定させようとした。しかし此の神は大己貴神におもねり媚びて三年に経っても尚、報告してこない。それで、その子の大背飯三熊之大人、またの名武三熊之大人を派遣した。しかしこれもまた裏切ってその父に従って報告しなかった。】とある。
主語は髙皇産靈、高天原の説話で娘が「𣑥幡千千姫」であるが、隠岐の島の西ノ島に焼火山という山があり、「たくひ」とよみ、大日孁貴尊を祀る焼火神社があり、手力雄を左、万幡姫を右に祀り、岩戸説話の原型で話の流れとしては、この場所が高天原である可能性が高い。
そして、向かうのは葦原の中国で、現代でも山陰・山陽を日本の中心でもないのに中国地方と呼んでいて、『山海經』の「海内經」に「帝俊生三身・・・是始為國禹鯀是始布土均定九州」と「三身国」を九州としたように中国でも古代の名残なのだろう。
そして、「天津彦彦火瓊瓊杵」すなわち、「速日天忍穗耳」が速日国に支配される海人の長官忍穗の子で海人の港の長官の火国の瓊瓊杵で、 瓊瓊杵が天降りすべき人物となったのだが、これは、支配する国が「耳」を官位にもつ国から「彦」の官位をもつ国に代わった、支配者が政権交代したことを示している。
すなわち、『三国志』の「投馬國水行二十曰官曰彌彌」から「至對馬國其大官曰卑狗・・・一大國官亦曰卑狗」、南九州の「速日(建日)」の「耳」から壱岐・対馬と同じ「天の火」の「彦」で、「伊都國官曰爾支・・・丗有王・・・郡使往來常所駐」と伊都国王が「主」で彦を支配して、その主を新たに女王が支配し、その王を『太平御覽』が後漢書曰王制云東方曰夷・・・至有君子不死之國焉・・・又曰會稽海外有東鯷人」と東鯷人と異なる東夷の王を君子すなわち天子と呼んで、もちろん東鯷人も君子が治め『山海經』の「君子国」が当てはまり、「葦原中国」は『山海經』の「大人国」である。
すなわち、これが「速素戔嗚」の支配から「大国主」大己貴の支配に遷って、宗像が「白日国」筑紫から大国主の支配下になった嫁取り説話の結果なのである。
天降り説話は「瓊瓊杵」が天降っているが、『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は
妃誕生天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊之時正哉吾勝勝速日天押穂耳尊奏日僕欲將降弉束之間所生之兒以此可降矣詔而許之天神御祖詔授天璽瑞寶十種謂贏都鏡一邊都鏡一八握劔一生玉・・・
と、「瓊瓊杵」ではなく、「饒速日」が天皇の璽を持って天降っているが、有名な「押穂耳」の子に「饒速日」を挿入しているだけだ。

2019年4月17日水曜日

最終兵器の目 外伝大国王朝5

 さらに続けて、『古事記』前川茂右衛門寛永版は
故大國主神坐出雲之御大之御前時自波穂乗天之羅摩舩而内剥鵝皮爲衣服有歸來神尓雖問其名不荅且雖問所從之諸神皆白不知尓多迩旦久白言此者久延毗古問時荅白此者神產巢日神之御子少名毗古那神故尓自上於神産巣日御祖命者荅告此者實我子也於子之中自我手俣久岐斯子也故與汝葦原色許男命爲兄弟而作堅其國故自尓大穴牟遅與少名毗古那二柱神相並作堅此國然後者其少名毘古那神者度于常世國也故顯白其少名毘古那神所謂久延毘古者於今者山田之首富騰者也此神者足雖不行盡知天下之事神也於是大國主神愁而告吾獨何能得作此國塾(敦)神與吾能相作此國耶是時而有光海依來之神其神言能治我前者吾能共與相作成若不然者國難成尓大國主神曰然者治奉之状奈何荅言吾者伊都岐奉于倭之青垣東山上此者坐御諸山上神也故其大年神娶神活須毘神之女伊怒比賣生子大國御魂神次韓神次曽富理神次白日神次聖神・・・
【それで、大國主神が出雲の御大の御前にいる時、波の穗から天の羅摩(かがみ)船に乗って、鵝の皮を剥いで服にして、帰って来る神が有った。其の名を聞いても答えず、且つ、従ってくる諸神に聞いても、皆「知らない」と言った。がまがえるが言うには、「この神は久延毘古が必ず知っている」と言うので、久延毘古を呼んで聞いた時に、「この神は神産巣日神の子、少名毘古那だ」と答へた。祖の神産巣日に奏上したら、「これは本当に私の子だ。子の中に、私が手の間からこぼれ落ちた子だ。だから、お前葦原の色許男の兄弟となって、その國を作り堅めなさい」と答えた。それで、大穴牟遲と少名毘古那と、二柱の相並んで、この國を作り堅た。後に、その少名毘古那は、常世の國に渡った。だから、その少名毘古那を明らかにした久延毘古を、今では山田のおびとの富騰という。この神は、「たらし」とは言っても統治しないけれど、天の下を知る神である。ここで、大國主はうれいて、「私独りでどうして此の國を得て良く作ることができるか。いずれの神と私と、よくこの國を創ろうか」と言った。この時に海を照らして来る神あった。その神が「よく私の眼前を治め、私と一緒に創ろう。そうでなければ国は成り難い」と言った。大國主、「それならばどの様に治めるのか」と言うと、「私を倭の青垣の東の山の上に「いつき」まつりなさい。」と答えた。これは御諸山の上に坐す神だ。それで、その大年神、神活須毘神のむすめ、伊怒比賣を娶って生まれた子は、大國御魂神、次に韓神、次に曾富理神、次に白日神、次に聖神・・・】とある。
神が続くが、これはまさに大国王朝造りの神話で、「大年神」が4国を領有した説話が、『出雲風土記』の「志羅紀の三埼」を治める韓神、「高志之都都之三埼」を治める曾富理神で「久延毘古」が今「山田首富騰」と呼ばれ、「北門佐伎之國」「北門良波之國」を治める白日神(筑紫)、聖神(肥後)なのだろうか。
そして、「此神者足雖不行盡知天下之事神」と述べるが「足」の付く神がおらず、これまでに出てきた神に「面足神」・「足名椎神」しかいないので、おそらく、「足名椎神」の説話で「素戔嗚」につながるのだろう。
「足雖不行盡知天下之事」は「足」の説明で、本来は「知天下之事」と天下を知らす、天下を治めることを「足」と呼ぶのであって、足王朝などとする奇怪な説があるが、国を治める人物は全てタラシで『隋書』の俀王多利思北孤は天足彦で天氏を治める王を意味するのだ。
そして、生んだ神の中に「山末之大主神此神者坐近淡海國之日枝山亦坐葛野之松尾用鳴鏑神者也」という「鳴鏑」とセットの「大主」すなわち「大国主」が記述され、まさに「底津石根宮柱」が良く似合う名前である。
そして、「此者坐御諸山上神也」と御諸山に倭を付け足して大和の三諸山に変質させ、生んだ神をまたの名で大和の神に被せ、さらに、『旧事本紀』は「大物主」の説話を「三輪神」の説話に書き換えた。
このように、大穴牟遲の神話は『日本書紀』には一書に記述されて、雄略天皇が知らないはずが無いのに本節に書いていないということは、男系の武内宿祢の武氏と女系の葛城氏の王朝のまでを記述した平群氏雄略天皇が書いた『日本書紀』と男系の武氏と女系の巨勢氏の仁賢天皇が書いた『古事記』の違いである。
すなわち、ともに天照大神の流れをくむ、女系の巨勢氏は大穴牟遲の家系で、女系の葛城氏は大穴牟遲とは縁のない紀元前660年の畿内王朝成立時に既にその有力な氏族だったことを誇りにした『日本書紀』と素戔嗚に婿として認められた大穴牟遲の氏族だったことを誇りにした『古事記』のと違いをあらわしているのである。

2019年4月15日月曜日

最終兵器の目 外伝大国王朝4

    続いて、『古事記』前川茂右衛門 寛永版は
故其所寝大神聞驚而引仆其室然解結椽髪之間遠逃故尓追至黄泉比良坂遥望呼謂大穴牟遅神曰其汝所持之生大刀生弓矢以而汝庶兄弟者追伏坂之御尾亦追撥河之瀬而意礼爲大國主神亦爲宇都志國主(玉)神而其我之女須世理毘賣爲嫡妻而於宇迦能山之山本於底津石根宮柱布刀斯理(此四字以音)於高天原氷椽多迦斯理而居是奴也故持其大刀弓追避其八十神之時毎坂御尾追伏毎河瀬追撥而始作國也故其八上比賣者如先期美刀阿多波志都故其八上比賣者雖率來畏其嫡妻須世理毘賣而其所生子者刺挾木俣而返故名其子云木俣神亦名謂御井神也
【そのため、寢ていた大神が聞いて驚き、其の部屋を引きたおした。しかし、「たりき」に結んだ髪を解く間に、遠くへ逃げた。それで黄泉比良坂に追ひ至りて、はるか遠くを見て、大穴牟遲を呼んで、「お前が持っている生大刀・生弓矢、お前の庶兄弟を、坂の尾に追ひ伏せて、河の瀬に追ひはらって、大國主となれ、また宇都志國玉神となって、我がむすめ須世理毘賣を正妻として、宇迦能山の山本に、底津石根に宮柱布刀斯理、高天原に「ひぎたかしり」て居なさい。こやつめが。」と言った。それで、その大刀・弓を持って、その八十神を追ひ退ける時に、坂の尾毎に追ひ伏せ、河の瀬毎に追ひはらって、始めて国を作った。それで、その八上比賣は、先の約束通り「みとあたはしつ」?。それで、その八上比賣を率連れて来たけれども、その正妻の須世理毘賣を畏れて、その生んだ子を、木の俣(また)に刺し挾んで返った。それで、その子を名づけて木俣神と云って、亦の名を御井神といふ。】とある。
宇迦能山の麓に宮柱を建てて宮殿を作り、刀と矢を王の璽として『舊事本紀』に「亦云國造大穴牟遅」と大国を建国して大国の王、玉神(宇迦能御玉神)になり、おそらく、この時弟猾が右腕となって兄猾が「八十神」の代表だったのだろう。
「素()」国に婿入りした隠岐の大穴牟遲はおそらく二代目以降の大穴牟遲を「八」国に婿入りして宇迦能山に宮を造って大国主という役職名の王となった。
続いて『古事記』 前川茂右衛門 寛永版は
八千矛神將婚高志國之沼河比賣幸行之時到其沼河比賣之家歌曰(略)其沼河比賣未開戸自内歌曰(略)故其夜者不合而明日夜爲御合也又其神之適告須勢理毘賣命甚爲嫉妬故其日子遅神和備弖自出雲將上坐倭國而來装立時片御手者繋御馬之鞍片御足蹈入其御鐙而歌曰(略)即爲宇岐由比而宇那賀氣理弖至今鎮坐也此謂之神語也故此大國主神娶坐胸形奥津宮神多紀理毘賣命生子阿遅鋤高日子根神・・・
【八千矛神が高志国の沼河比賣を娶ろうとして、幸行した時、沼河比賣の家について、歌って(略)それで、その夜は会ないで、明日の夜、会った。又その神の正妻の須勢理毘賣、甚だ嫉妬した。それで、その日子遲は「わびて」、出雲から倭国に上ろうとして、束裝を正す時に、片手は馬の鞍にかけ、片足は其の鐙に踏み入れて、(略)のように歌って、「うきゆひ」して、「うながけ」て今に至るまで鎭まりいらっしゃる。これを「かみがたり」という。それで、この大國主は、胸形の奧津宮にいる神、多紀理毘賣を娶って生んだ子は、阿遅鋤高日子根・・・】とある。
『山海經』の「君子国」と「三身国」に遠征して「大人国」と『山海經』に認められる国となり、倭国は隠岐から見て、海流を上り、倭国へ向かう途中に胸形の奧津宮があると述べている。
ここで、「大國主神亦娶神屋楯比賣命生子事代」と前に述べた「(違)遣於木國之大屋毘古」と大国の中の屋(八)国を述べて関係がうかがえ、屋(八)国の事代主が先で事代主のあとに大穴牟遲が大国主になったと前後関係が逆と考えられる

2019年4月12日金曜日

最終兵器の目 外伝大国王朝3

 続いて、『古事記』 前川茂右衛門 寛永版は
八十神覓追臻而矢刺乞時自木俣漏逃而云可参向須佐能男命所坐之根堅州國必其大神議也故随詔命而参到須佐之男命之御所者其女須勢理毘賣出見爲自()合而相婚還入白其父言甚麗神來尓其大神出見而告此者謂之葦原色許男命即喚入而令寝其蛇室於是其妻須勢理毘賣命以蛇比禮授其夫云其蛇將咋以此比禮三舉打撥故如教者蛇自静故平寝出之亦來日夜者入呉公與蜂室亦授呉公蜂之比礼教如先故平出之亦鳴鏑射入大野之中令採其矢故入其野時即以火廻焼其野於是不知所出之間鼠來云内者富良富良外者須須夫夫如此言故蹈其處者落隠入之間火者焼過尓其鼠咋持其鳴鏑出來而奉也其矢羽者其鼠子等皆喫也於是其妻須世理毘賣者持喪具而哭來其父大神者思已所訖出立其野尓持其矢以奉之時率入家而喚入八田間大室而令取其頭之虱故尓見其頭者呉公多在於是其妻以牟久木實與赤土授其夫故咋破其木實含赤土唾出者其大神以爲咋破呉公唾出而於心思愛而寝尓握其神之髪其室毎椽縁著而五百引石取塞其室戸負其妻須世理毘賣即取持其大神之生大刀與生弓矢及其天詔琴而逃出之時其天詔琴拂樹而地動鳴
【八十神が追い求めて、矢で刺し殺そうとした時に、木のまたから漏れ逃て、「須佐能男のいる根の堅州国へ行こう。きっと大神が考えてくださる。」と言った。それで、そのとおりに、須佐之男の所についたところ、須佐之男の娘の須勢理毘賣が出てきたのを見て、結婚の約束をして、須佐能男の宮戻って入り、「私は婿にふさわしい者です。」と言った。須佐能男大神やってきて見て、「葦原の色許男という」と告げたので、喚び入れて、蛇の部屋に寢させた。妻の須勢理毘賣が、蛇の比禮(肩掛け)を其の夫に授けて、「其の蛇を咋おうとすれば、此の比禮を三回挙げて打ち払いなさい。」と言った。それで、教のとおりしたら、蛇は自ら静まった。それで、平穏に寢ることができた。亦、次の夜は、むかでと蜂の部屋に入れたので、また、むかでと蜂の比禮を授けて、前のように教へた。それで、平穏に出てこれた。また、鏑矢を大野の中に射ち放って、其の矢を採らせた。それで、其の野に入った時、其の野を周りから焼いた。ここから出る方法が解らない時に、鼠が来て、「内はホラホラ、外はスブスブ。」と言った。このように言ったため、そこを踏んだら、落ちて隱れることができ火は過ぎ去った。その鼠は鏑矢を咥えて、持ってきた。その矢の羽は、その鼠の子等が皆咥えた。その妻須世理毘賣は、喪具を持って、哭いて来て、父の大神は、すでに死んだと思ってその野に出て立った。その矢を持って来た時、家に率き入れて、八田間の大部屋に喚び入れて、其の頭の虱を取った。それでその頭を見たら、むかでがたくさんいた。その妻はむくの木の実の赤土を取って、夫に授けた。それで、その木の実を咋ひ破って、赤土を含んで唾を出したら、大神は、むかでを咋ひ破って唾き出したとおもって、心いとおしく思って寢た。その神の髮を握って、その部屋の「たりき」毎に結びつけて、「いほびき」の石を其の部屋の戸に取り塞いで、その妻須世理毘賣を背負って、その大神の生大刀と生弓矢と、またその天の詔琴を取り、持って逃げ出した時、その天の詔琴が樹に触れて地鳴りがした。】とある。
須佐能男が根国の王としているが、「須佐之男の娘の須勢理毘賣」と親子とも「須」の人物と言っているのだから、「八国」から逃れて「素・須」の国に大穴牟遲は助けを求め、須佐之男の後継者になることに成功したのである。
すなわち、隠岐の島内の説話を素戔嗚が根国(島根郡の千酌驛)へ行った後の話に付け足した説話がこの部分で、『古事記』を記述した巨勢氏の系譜である。
これが、『日本書紀』ではこれらの説話が一書に記述され、本節の神話とならなかった理由で、葛城・平群氏の血を引く雄略天皇が書いた『日本書紀』と巨勢氏の仁賢天皇が書いた『古事記』との違いで、雄略天皇がこの説話を知っていたが日本史としては傍流の説話でしかなかったものを、巨勢氏が天皇となって日本史の主流に躍り出たのであり、その原点が須佐之男から王朝を引き継いだ大穴牟遲の末裔だと主張している。

2019年4月10日水曜日

最終兵器の目 外伝大国王朝2

  『古事記』前川茂右衛門 寛永版は続けて
因此泣患者先行八十神之命以誨告浴海塩當風伏故爲如教者我身悉傷於是大穴牟遅神教告其菟今急往此水門以水洗汝身即取其水門之捕(蒲)黄敷散而輾転其上者汝身如本膚必差故爲如教其身如本也此稲羽之素菟者也於今者謂菟神也故其菟白大穴牟遅神此八十神者必不得八上比賣雖負佩(帒)汝命獲之於是八上比賣八十神言吾者不聞汝等之言將嫁大穴牟遅神
【このため患って泣いていたら、先やってきた八十神が、『海鹽で浸かって、風に当って伏ろ』とさとして命じられたので、教えどうりにしたら、私の体はこのように傷んでしまいました」と言った。ここで大穴牟遲、菟に教へて、「今すぐに此の水門に往って、水でお前の体を洗って、其の水門の蒲を敷き散らして、其の上を転がれば、お前の体は必ずもとの膚のようになる」と言った。それで、教のようにしたら、其の身はもとのようになった。此れが稻羽の素菟である。今は菟神と謂う。それで、其の菟が大穴牟遲に「此の八十神は、絶対八上比賣を得ることができない。荷物を背負わされているけれど、あなた様が得るでしょう」と言った。そして八上比賣は八十神に「私はお前たちの言うことは聞かない。大穴牟遲に嫁ぐ」と答えた。】とある。
すなわち、稲羽というのは素がある場所で、八上比賣が治める「八国」の領地と解り、大穴牟遲は八上比賣に婿入りしてその場所が「於母 の大津の宮」で、『出雲風土記』の国引きの「八束水臣津野命」が大穴牟遲で素の地で隠岐の4島を三身の綱で引き寄せて「八」国の津神の臣下の( 於母の)津野という人物、大国の建国の始祖で、素の地は日国(三身国)の佐之男が協力者、菟神は「宇迦之御魂」の先祖であった可能性がある。
さらに、『古事記』前川茂右衛門 寛永版は
故尓八十神怒欲殺大穴牟遅神共議而至伯伎國之手間山本云赤猪在此山故和禮共追下者汝待取若不待取者必將殺汝云而以火焼似猪大石而轉落尓追下取時即於其石所焼著而死尓其御祖命哭患而参上于天請神産巣日之命時乃遣𧏛臭(貝)比賣與蛤貝比賣令作活尓𧏛貝比賣岐佐宜集而蛤臭(貝)比賣待承而塗母乳汁者成麗壮夫而出遊行於是八十神見且欺率入山而切伏大樹茹矢打立其木令入其中即打離其水自矢而拷殺也尓亦其御祖哭乍求者得見即析其木而取出活告其子言汝者有此間者遂爲八十神所滅乃速(違)遣於木國之大屋毘古神之御所尓
【それで八十神が怒って、大穴牟遲を殺そうと一緒にはかって、伯伎國の手間の山本について「赤い猪が此の山にいる。それで、私達が一緒に追いおろすから、お前は待ち伏せして生け捕れ。もし捕えなければ、絶対にお前を殺す」と言って、火で猪に似た大石を焼いて、転がして落した。追い下ろされたと思って生け捕ろうとしたので其の石で大火傷で死んだようになった。それを見て祖は、泣き憂い天に參上して、神産巣日お願いすると、𧏛貝比賣と蛤貝比賣とを遣はして、手当をし、蛤貝比賣が回復を待って、母乳を塗ったら、麗しく元気になって、出歩くまでになった。これを八十神が見て、また騙して山に引き入れて、大樹を切り倒して、茹矢を其の木に打ち立てて、其の中に入らせ、其の氷目矢を射ち離って、瀕死の状態にした。また、其の祖が、泣きついて救いを求めてまみえて、其の木を折って取り出して回復させ、「お前はこのままでは八十神の爲に滅ぼされるだろう」と言って、木国の大屋毘古の所に派遣した。】とある。
「八国」の伯耆国や根国の加賀郷で大穴牟遲は戦い、『出雲風土記』の加賀郷には「御祖神魂命御子支佐加比賣命」・「神魂命御子宇武賀比賣命」と記述され「神魂」が支配する地域で、「千酌驛・・・伊差奈枳命御子都久豆美命此處生」と伊差奈枳がいたところでもあり、「素戔嗚」の目的地である。
木国は紀州の木国ではなく、『古事記』神話の対象地域は日本海西部の越前から筑紫までで、本州側は八国、筑紫は三身国、日本海の島が天国で、天国の隠岐で大国が生まれ、大国が領域を出雲から機内に拡げて大人国、八国は東に押されて君子国と中国で呼ばれ、倭人はアカホヤ噴火で天草・奄美群島など九州西部の島々に逃げ、遼東半島の蓋州()の南に位置し、この見方が理に適う観点だと考えられる。

2019年4月8日月曜日

最終兵器の目 外伝大国王朝1

 ここで、『日本書紀』を離れて『古事記』前川茂右衛門寛永版は
老夫荅言僕者國神大山上津見神之子焉僕名謂足上名椎妻名謂手上名椎女名謂櫛名田比賣・・・足名椎神告言汝者任我宮之首且負名号稲田宮主須智賀之八耳神故其櫛名田比賣・・・生神名謂八嶋士奴美神又娶大山津見神之女名神大市比賣生子大年神次宇迦之御魂神兄八嶋士奴美神娶大山津見神之女名木花知流比賣生子布波能母遅久奴須奴神此神娶淤迦美神之女名日河比賣生子深淵之水夜禮花神此神娶天之都度閇泥上神生子淤美豆奴神此神娶布怒豆怒神之女名布帝耳上神生子天之冬衣神此神娶刺國大上神之女名刺國若比賣生子大國主神
と大国の出雲支配の神を記述し、その神は大山上津見神の子孫で「稲田宮主須智賀之八耳」とやはり「八」国の長官だと記述し、娘の「櫛名田比賣」は「八嶋士奴美」を生んで「八国」の中の神、また、「宇迦之御魂」は神武東侵の戦いのモデル兄弟猾の宇迦の山の神である。
宇迦の山の戦いは「大巳貴」の王朝の始まりで、「大巳貴」が大国すなわち隠岐の大嶋から侵略した説話で『日本書紀』の「素戔嗚」の出雲侵略説話は「大巳貴」の説話を流用した説話と解る。
そして、『古事記』前川茂右衛門寛永版に
八十神各有欲婚稲羽之八上比賣之心共行稲羽時於大穴牟遅神負佩(帒)爲從者率往於是到氣多之前時裸菟伏也尓八十神謂其菟云汝將爲者浴此海塩當風吹而伏高山尾上故其菟從八十神之教而伏尓其塩随乾其身皮悉風見吹析故痛苦泣伏者最後之來大穴牟遅神見其菟言何由汝泣伏菟荅言條(僕)在淤岐嶋雖欲度此地無度因故欺海和迩(此二字以音下効此)言吾與汝競欲計族之多少故汝者随其族在悉率來自此嶋至于氣多前皆列伏度尓吾蹈其上走乍讀度於是知與吾挨熟多如此言者見欺而列伏之時吾蹈其上讀度來今將下地時吾云汝者我見欺言竟即伏最端和迩神(捕)我悉剥我衣服
【八十神が其々稻羽の八上比賣と結婚したくて、共に稻羽に行った時、大穴牟遲神にふくろを負せ、從者として率て往った。氣多の前に到着した時、裸の菟が伏せていた。八十神、其の菟に「お前がすべきなのは、この海鹽で浴み、風が吹き当たるように、高山の尾の上でに伏せなさい」と言った。そのため、菟は八十神の教に從って伏せた。其の鹽が乾く隨にしておくと、其の身の皮が風に吹かれて皮膚が割れてしまった。それで、痛み苦んで泣き伏していたら、最後)にやってきた大穴牟遲が其の菟を見て、「どうしてお前は泣き伏せている」と言ったので、菟は「僕は淤岐の島にいて、此の地に渡ろうとしたが渡船が無かったので、海の和迩を欺して『私とお前と競べて、氏族の多少きをかぞえよう』と言った。従って、お前は氏族の在るままに、率て、此の島から氣多まで、皆伏せて列を作れ。私は其の上を踏んで走り数えて渡ろう。是で私の氏族とどちらが多いか調べよう』といった。このように言って、欺いて列を作って伏せたので、私は其の上を踏んで、数えて渡り至って、今、地に下り様とした時、私が、『お前は私に欺かれた。』と言ひ終わると、最後に伏せりた和迩が私を捕えて私の衣服を剥いだ。】と記述している。
ここのキーワードの「八十神」は「各有」と複数の神なので八国の十柱の神と読むのが理に適い、主人公は大国主ではなく、まだ王でないので「大穴牟遅」で、結婚対象が「八上比賣」でやはり「八国」の姫で、莵は素と呼ばれる土地の人物で、これは、「須佐之男(素戔嗚)」の本拠でもありそうである。
すなわち、「大穴牟遅」は後に大(於母)に住むことになる「八国」に従う人物で、『伊未自由来記』には「於佐之神」が「小之凝呂(於母)の島の東の大津の宮」に住んでいたが出雲から沖津久斯山祇が侵略してきたとのべており、「於佐之神」は「素」から「於」に遷った「素戔嗚」とつながり、出雲は「八百万神」すなわち、「八国」の百人の万神が集まる国の意味で、そのうちの十神に従って「大穴牟遅」が隠岐の大嶋の東の大津に住んで、『出雲風土記』の国引きをした「八束水臣津野命」の地を領有したのだろうか

2019年4月5日金曜日

最終兵器の目 素戔嗚王朝3

 『日本書紀』 慶長版は
是時素戔嗚尊自天而降到於出雲國簸之川上時聞川上有啼哭之聲故尋聲覓往者有一老公與老婆中間置一少女撫而哭之素戔嗚尊問曰汝等誰也何爲哭之如此那對曰吾是國神號脚摩乳我妻號手摩乳此童女是吾兒也號奇稻田姫所以哭者往時吾兒有八箇少女毎年爲八岐大蛇所呑今此少童且臨被呑無由脱免故以哀傷
【この時、素戔嗚の尊が天から海流を降って出雲国の簸の川上に着いた時、川上に大声で泣く声を聞き、声のする方向を探し求めて往くと、ひとりの老公と老婆がいて、間にひとりの少女を置いて、いたわって泣いていた。素戔嗚の尊が「お前等は誰だ。なぜこのように泣く」と問いかけると「私は国の王で脚摩乳と言います。我が妻は手摩乳と言います。此の童女は我が子です。奇稻田姫と言います。泣く理由は、元々我の子は八人の少女いましたが、年ごとに八岐の大蛇が呑み込むように連れて行きます。今、此の少女がまさに連れていかれようとしているのですがまぬかれる術がありません。だからかなしんでいます」と答えた。】と記述する。
大国・天国・日国を背景とする素戔嗚と敵対する「八岐大蛇」は『伊未自由来記』にも出雲が「於漏知」の領地で隠岐にも略奪に来ていると記述しているように、出雲は「八岐」の国で、『古事記』には「高志之八俣遠呂知」と「八岐」は「高志」が中心で、越から上納を迫っているので、かなりの大きい国で2つの勢力がぶつかり合って、出雲はその最前線である。
続けて、『日本書紀』 慶長版は
素戔嗚尊勅曰若然者汝當以女奉吾耶對曰隨勅奉矣故素戔嗚尊立化奇稻田姫爲湯津爪櫛而插於御髻乃使脚摩乳手摩乳釀八醞酒幷作假庪八間各置一口槽而盛酒以待之也至期果有大蛇頭尾各有八岐眼如赤酸醤松柏生於背上而蔓延於八丘八谷之間及至得酒頭各一槽飲醉而睡時素戔嗚尊乃拔所帶十握剱寸斬其蛇至尾剱刃少缺故割裂其尾視之中有一剱此所謂草薙剱也素戔嗚尊曰是神剱也吾何敢私以安乎乃上獻於天神也然後行覓将婚之處遂到出雲之清地焉乃言曰吾心清清之於彼處建宮乃相與遘合而生兒大己貴神因勅之曰吾兒宮首者即脚摩乳手摩乳也故賜號於二神曰稻田宮主神已而素戔嗚尊遂就於根國矣
【素戔嗚の尊が「娘を私に献上しなさい」と命じ、「命じられるままに」と答え、従って、素戔嗚の尊は奇稻田姫を湯津爪櫛としてもとどりに挿した。乃ち脚摩乳・手摩乳をに八酒を釀もし、あわせて桟敷と八方を作り、各一口の桶を置いて、酒を盛り、大蛇を待った。決まった日に約束通り大蛇がやってきた。頭・尾各八岐有り。眼は赤酸醤の様で、松・柏を背の上に生やして八丘八谷の間に伸び広がっていた。酒を飲み、各ひとつの桶を飮んで醉って眠ってしまった。その時、素戔嗚の尊は腰に帶た十握劒を拔いてずたずたに其の大蛇を斬った。尾に至って剱の刃が少し欠けた。そのため其の尾を割り裂いて視ると、中にひとふりの剱が有った。これが所謂る草薙剱だ。素戔嗚の尊が「是は神の剱だ。私には剱の威力を制御できない」と言って天神に献上した。 その後に、婿入りする場所を求めて遂に出雲の清地着いた。乃ち「私の心は清清しい」と言ってここに宮を建てた。そこで生まれた子は大己貴神という。それで、「私の子を祀る宮の首領は脚摩乳・手摩乳である」と言った。そのため、二柱の神を名付けて稲田宮主神という。そして、素戔嗚の尊は遂に根国についた。】とある。
八人の「八国」の王たち夫々に一人前の酒桶を用意して、八人の様子は木が生えているような服装だったのだろう。
素戔嗚は八人を酔わせて立なくして、不意打ちで切り殺したが、首領が帯びていた草薙剱は素戔嗚が持っていた十握剱では歯が立たず欠けてしまったのは、おそらく、草薙剱が銅剣で、十握剱は石刀だったのだろう。
そして、この説話は実際は「大己貴神」の説話を奪った説話で、稲田宮主の出雲建国説と思われる。

2019年4月3日水曜日

最終兵器の目 素戔嗚王朝2

 『日本書紀』慶長版は
又猨女君遠祖天鈿女命則手持茅纒之矟立於天石窟戸之前巧作俳優亦以天香山之真坂樹爲鬘以蘿爲手繦而火處燒覆槽置顯神明之憑談是時天照大神聞之而曰吾比閉居石窟謂當豊葦原中國必爲長夜云何天鈿女命㖸樂如此者乎乃以御手細開磐戸窺之時手力雄神則奉承天照大神之手引而奉出於是中臣神忌部神則界以端出之繩乃請曰勿復還幸然後諸神歸罪過於素戔嗚尊而科之以千座置戸遂促徵矣至使拔髮以贖其罪亦曰拔其手足之爪贖之已而竟逐降焉
【又、女君の遠祖、天鈿女命が、手に茅纏の矛を持ち、天石窟戸の前に立って、巧に演じた。また天の香山の眞坂樹を鬘とし、蘿をたすきとし、火床でを火を焚き、覆、飼い馬槽を置き、神がかりする。この時に、天照大神は、「私がこの石窟を閉ざして居ると、おもうに豊葦原中は、きっと長い夜となっている。どうして天鈿女命はこのようにたわむれ樂しむのか」と聞いて手で細く磐戸を開けて窺った。その時に手力雄神が天照大神の手をつかんで、引きて出した。それで、中臣神・忌部神が端出之繩をもって境界とした。「復た還りおいでならないでください」とお願いし、諸神が、罪過を素戔嗚尊に求めて、罪科として千座置戸で、遂に攻め懲らしめた。 髪を拔いて其の罪を贖わせる。または其の手足の爪を拔いて之を贖うという。そして、ついに放逐して追い出した。】とある。
ここでは、話がもっと進んで、説話に豊国の話を付け加えて、「豊国の中の葦原にある中(なか)国」で中臣氏と忌部氏が天照大神を仲介して、豊国も今では天照大神を祀っているとしている。
中臣も「なか国の使主」の意味で豊葦原中国の王の意味で、そこに神を祀る忌部がいて、その部の主が忌部氏、それらの主を支配する者が使主(おみ)で、中臣氏も豊国王の豊国主に支配され、豊国の宿殿を祀る禰宜が中臣氏だとこの神話は述べているのである。
『日本書紀』は「六合」の地が舞台だった岩戸を途中で「豊国」の中の「中国」と書き換えたが、『古事記』前川茂右衛門寛永版は当然最初から「高天原皆暗葦原中國悉闇因此而常夜往・・・次手力男神者坐佐那那縣也故其天兒屋命・・・」と、葦原中国で豊は豊国の話だから省略され、天兒屋も本文ではなく注釈に中臣氏を記述して『古事記』記述王朝との親密さを示している。
また、『日本書紀』には後述されて岩戸説話の思兼の父高皇産霊が、『古事記』前川茂右衛門寛永版に「高御産巣日神之子思念金神令思」、『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版に「高皇産靈尊兒思兼神有」にも思兼の親として記述されるが、『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は「別高皇産霊尊兒天思兼命次天太玉命次天忍日命次天神立命次神皇産霊尊 次天御食持命次天道根命次天神玉命次生魂命次津速魂尊」と、9神の親として出現する。
これまでの神の親子関係は多くが逆であったことを考えると、高皇産霊も逆の可能性が高く、「津速魂」神が古く、『出雲風土記』の国引きの「八束水臣津野命」との類似、更に魂神は最古の神名と考えられる。
とくに『舊事本紀』は思兼に天が付加され、『舊事本紀』の岩戸伝説を見る目が天国以外で、『古事記』・『日本書紀』の天国内での目と、異なっていて、天降り前の説話、『舊事本紀』は天降り後の伝説としての説話となっている。
『舊事本紀』には天降り時の兵士の「表春命」が「八意思兼兒」と記述され、高皇産霊と同じ世代以前の立位置で「八意思兼」が岩戸伝説の思兼神の可能性がある。

2019年4月1日月曜日

最終兵器の目 素戔嗚王朝1

 『日本書紀』慶長版は
是後素戔嗚尊之爲行也甚無狀何則天照大神以天狹田長田爲御田時素戔嗚尊春則重播種子且毀其畔秋則放天斑駒使伏田中復見天照大神當新嘗時則陰放屎(+)於新宮又見天照大神方織神衣居齋服殿則剥天斑駒穿殿甍而投納是時天照大神驚動以梭傷身由此發慍乃入于天石窟閉磐戸而幽居焉
【この後に、素戔嗚尊の行いは甚だ行為が無礼で、なぜならば、天照大神が天狹田・長田を御田としたが、或時に素戔嗚尊が春に種を播いてある上に重ねて種子を播いたり、また其の畔を毀し、秋は天の斑模様の駒を田に放って田を荒らし、また、天照大神の新嘗の祭礼を見て、ひそかに新宮に糞尿を放った。又、天照大神が神衣を織って齋服殿に居るのを見て、則ち天の斑模様の駒の皮を剥いで、殿の甍に穴を穿けて投げいれた。この時に、天照大神、は驚いて、杼で身を傷つけた。これに怒って、天石窟に入って磐戸を閉じて籠ってしまって、新しい王素戔嗚の悪行・非道ぶりを並べ立てて、素戔嗚では国が治まらないとし、女王が治めるべきだ】としている。
『日本書紀』慶長版は
故六合之内常闇而不知晝夜之相代于時八十萬神會合於天安河邊計其可禱之方故思兼神深謀遠慮遂聚常世之長鳴鳥使互長鳴亦以手力雄神立磐戸之側而中臣連遠祖天兒屋命忌部遠祖太玉命掘天香山之五百箇真坂樹而上枝懸八坂瓊之五百箇御統中枝懸八咫鏡下枝懸青和幣白和幣相與致其祈禱焉
【そのため、六合の内は常に闇く昼夜が変わったことが解らず、その時に八十萬神、天安河邊につどって、其の祈りのすべを諮って、思兼神が深く考えをめぐらせて、先のことを見通して、手抜かりのない計画を立て、遂に常世の長鳴鳥を一か所に集め、互いに長鳴きさせた。また手力雄神を使って、磐戸のかたわらに立って、中臣連の遠祖の天兒屋命・忌部の遠祖太玉命、天香山の五百箇の眞坂樹を掘って、上の枝に八坂瓊の五百箇御統を懸け、間の枝に八咫鏡を懸け、下の枝に青和幣・白和幣を懸け、一緒に其の祈りを行った。】とある。
「六合」は『山海經』海外南經の「地之所載六合之閒四海之内照之以日月經之以星辰紀之以四時要之以太歳神靈所生其物異形或夭或壽唯聖人能通其道」と日本海南部で日本海・黄海・太平洋・あと一つは瀬戸内海または玄界灘?を言う可能性が高く、神靈が生まれ日神と月神が治め、四季や星の運行を知っている地域、『山海經』大荒南經に「東南海之外甘水之間有羲和之國」の羲和が尚書 堯典』に「乃命羲和欽若昊天歷象日月星辰敬授人時」と暦を創った地域、その六というのは、『古事記』前川茂右衛門寛永版の「隠伎之三子嶋亦名天之忍許呂別・・伊岐嶋亦名謂天比登都柱・・津嶋亦名謂天之狭手依比賣・・大倭豊秋津嶋亦名謂天御虚空豊秋津根別・・女嶋亦名謂天一根・・知訶嶋亦名謂天之忍男・・兩兒嶋亦名謂天兩屋」の中の大倭豊秋津嶋亦名謂天御虚空豊秋津根別(豊国なので)を抜いた6島がその領域で、そこを天照大神は天国だと言っている。
そして、思兼・手力雄は天も大も付加されない、すなわち、姓が無い王と考えられ、元々大国の手力雄が王で太玉が神官の大日孁貴に対する説話を思兼が王で天兒屋が神官の天照大神に対する説話に付け加えたと思われる。
「八十萬」・「八坂瓊」・「八咫鏡」は「八国」の説話で「八国」の萬神10人が「八国」の曲がった瓊と「八国」の八寸(咫は八寸24cm)の鏡で決して2mの鏡では有り得ない。
すなわち、「八国」の神話に大国の人物、さらに、「天国」の人物が重層され、素戔嗚の悪行の話にしているが、実際は畔のある田を造り、斑の駒を導入し、春に種を播き秋に駒で耕し、肥料を播く当然の行為で、新嘗の時に駒に作物を載せて奉納し甍を造った名君だったと思われる。