2018年12月28日金曜日

最終兵器の聖典 葛城王朝・神皇王朝4

 倭武が『日本書紀』景行天皇二七年「海路還倭到吉備以渡穴海 其處有惡神 則殺之 亦比至難波 殺柏濟之惡神」と崇神天皇の西道侵攻で得たはずの吉備と戦っていて、周防から出発した王と物部王朝とは敵対関係で、神話でも『先代旧事本紀』は「生六小嶋 兄吉備兒嶋」と瀬戸内を吉備が支配していると述べるに対し、『古事記』は同等である。
『古事記』大帯日子「倭建命、言向和平東方十二道之荒夫琉神及摩都楼波奴人等而、副吉備臣等之祖、名御鋤友耳建日子而遣」とまだ吉備臣になっていない建日子は「娶吉備臣建日子之妹、大吉備建比売、生御子、建貝児王」と吉備臣を得、 景行二七年の戦いの勝利で吉備の領主になって、吉備臣を得た。
そして、難波の戦いは「忍熊王、以難波吉師部之祖、伊佐比宿祢為将軍、太子御方者、以丸迩臣之祖、難波根子建振熊命為将軍。」と難波で代理戦争を行い、「追退到山代」・「逃退逢坂、対立亦戦」と畿内で戦っている。
ところが、『日本書紀』「忍熊王復引軍退之。到菟道而軍之」と最終決戦は菟道で『日本書紀』は尾張王朝の内紛を記述し、大国王(大足彦)はそれに乗じて吉備を得て、その中に紀伊国造の武内宿祢がいたので、神功皇后に記述した。
さらに、その中に「日向諸縣君牛仕于朝庭」と日向諸縣君がいて、尾張朝廷に仕えることとなるが、日向は『日本書紀』景行天皇十七年の遠征で「號其國曰日向也」と日向国ができたが、垂仁天皇五年「狹穗彦與妹共死于城中。天皇於是美將軍八綱田之功。號其名謂倭日向武日向彦八綱田也」と狹穗彦との戦いで功績があった八綱田に日向彦の名を与え、葛城氏の領地の人物である。
すなわち、葛城氏の中に日向彦を名乗る人物がいて、景行天皇四年「次妃日向髪長大田根生日向襲津彦皇子」と日向襲津彦すなわち倭国造日向襲津彦、葛城襲津彦が誕生し、葛城襲津彦が中国王(足中彦)、そして、豊国・襲国の大君になり、景行天皇十三年「豐國別皇子是日向國造之始祖也」と葛城襲津彦の弟を日向國造にした。
葛城襲津彦は尾張朝廷では日向諸縣君と呼ばれ、応神天皇二年「日向泉長媛生大葉枝皇子小葉枝皇子。」、応神天皇十一年「日向國有孃子名髪長媛即諸縣君牛諸井之女也」、仁徳天皇二年「妃日向髮長媛生大草香皇子幡梭皇女」と葛城襲津彦は外戚として勢力を伸ばした。
品陀和気は中国王(帯中日子)と『古事記』品陀和気「葛城之高額比売命此者息長帯比売命之御祖」とやはり葛城氏の姫が親で、品陀和気が『日本書紀』の応神天皇の一人である。
『日本書紀』応神天皇二五年「百濟直支王薨即子久爾辛立爲王」・応神天皇三九年「百濟直支王遣其妹新齊都媛以令任」記事は396年に即位した応神天皇葛城襲津彦で、その子允恭天皇五年「葛城襲津彦之孫玉田宿禰」・雄略天皇七年「葛城襲津彦子玉田宿禰之女也」と2代襲名しているように、2代目の応神天皇なのだろう。
同様に神功皇后摂政五五年「百濟肖古王薨」・神功皇后摂政五六年「百濟王子貴須立爲王」・神功皇后摂政六四年「百濟國貴須王薨」・神功皇后摂政六五年「百濟枕流王薨王子阿花年少叔父辰斯奪立爲王」も西暦321年に即位した神功皇后が存在したことを示している。
神功皇后摂政五年「皇太后則聽之因以副葛城襲津彦而遣之」と325年に新羅に出兵した襲津彦から神功皇后摂政六二年382年「即年遣襲津彦撃新羅百濟記云壬午年新羅不奉貴國貴國遣沙至比跪令討之」、この382年は壬午で証明していて、応神天皇十四年「皆留加羅國爰遣葛城襲津彦」は403年、応神天皇十六年「襲津彦久之不還」は405年、仁徳天皇四一年「紀角宿禰訶責百濟王時百濟王懼之以鐵鎖縛酒君附襲津彦而進上爰酒君來之則迅匿于石川錦織首許呂斯之家則欺之曰天皇既赦臣罪」記事は年代が不明だが、紀角宿禰と対立しており、父方武内(木国造)若帯日子(紀氏)と母方(倭国造・日向王)葛城氏の主導権交代期と思われる。

2018年12月26日水曜日

最終兵器の聖典 葛城王朝・神皇王朝3

 『古事記』の神武天皇は『日本書紀』の「神日本磐余彦」、『先代旧事本紀』の「狭野」と異なり、「若御毛沼命、亦名豊御毛沼命、亦名神倭伊波礼毘古命」と東征して若国王になった神武と豊国王になった神武、そして、神倭の磐余の邑長になった神武がいたと述べている。
伊波礼毘古は『古事記』で「高千穂宮」・「豊国宇沙」・「竺紫」・「阿岐国」・「吉備」を経て大和侵略を行うが、「豊国宇沙」・「竺紫」・「吉備」が自領になるのは後代なので、それらを領有する大物主の娘を豊の「阿岐国」から娶るのだから、大物主の配下として大和侵略を行ったようだ。
そして、「熊野之高倉下」の力を借りて大和に侵入して神倭の磐余の邑長になり、『先代旧事本紀』「羸津世襲命 亦云葛󠄀木彦命尾張連等祖・・・葛󠄀城尾治置姫為妻」と神倭の磐余の邑長になったのは兄弟倉下の乱・饒速日来襲以前のことだ。
豊国王の御毛沼は「豊国謂豊日別」の王になったが、豊国は、『先代旧事本紀』の先記の州の分類が「築紫州・・・大日本豐秋津州」で『日本書紀』も同様で、本来、豊秋津が豊国の発祥で、その豊国の王になったのが豊御毛沼で、豊日別は京都群に都をおいたときの地名と思われる。
この時の景行天皇十二年「碩田國」の敵「土蜘蛛」を破ったが、この敵土蜘蛛は神武天皇即位前紀己未年「和珥坂・・・高尾張邑有土蜘蛛」の敵と同じで、神武天皇と『古事記』は呼んだ。
それでは、若国王の御毛沼はどのような人物なのかというと、若国を治めた若帯日子が天皇の系図に有り、そこには成務天皇三年「武内宿禰爲大臣也」と記述され、武内宿禰も若国王となる。
『古事記』大倭根子日子国玖琉に「娶木国造之祖、宇豆比古之妹、山下影日売、生子、建内宿祢。」と宇豆比古の妹に武内宿禰の父が婿入りし、『日本書紀』神武天皇即位前紀「至速吸之門・・・臣是國神。名曰珍彦。・・・以爲海導者。乃特賜名爲椎根津彦。此即倭直部始祖也」と珍彦を椎根津彦に被せて、倭国王の祖、『先代旧事本紀』「椎根津彦曰汝迎引皇舟表續香山之巔因譽爲倭國造其國造者自此而始矣此則大倭連等祖也」と大倭連の祖としている。
そして、天皇名は神倭国造伊波礼毘古、大倭連日子すき友・大倭連帯日子国押人・大倭連根子日子国玖琉、さらに、『先代旧事本紀』「健額赤命之子多治比連津守若倭部連葛󠄀木尉直祖」と若倭部連根子日子大毘ゝのように『先代旧事本紀』と矛盾が無い。
『先代旧事本紀』で「天忍人命此命異妹角屋姫亦名葛󠄀木出石姫」・「天忍男命葛󠄀木土神劔根命女賀奈良知姫」・「羸津世襲命 亦云葛󠄀木彦命尾張連等祖」・「建額赤命此命葛󠄀城尾治置姫」・「天戸國命天忍人命之子 此命葛󠄀木避姫」・「健額赤命之子多治比連津守若倭部連葛󠄀木尉直祖」・「建斗禾命・・・此命紀伊國造智名曽妹中名草姫」と尾張氏が葛城氏・紀伊国造に婿に入りした。
『古事記』では「伊迦賀色許売命、生御子、比古布都押之信命」と物部氏の皇子比古布都押之信が「比古布都押之信命、娶尾張連等之祖、意富那毘之妹、葛城之高千那毘売生子、味師内宿祢又、娶木国造之祖、宇豆比古之妹、山下影日売、生子、建内宿祢。」と物部氏の皇子が尾張氏に婿入りし『紀氏系図』では、孝元天皇皇子に彦太忍信、その子に屋主忍雄、その子が建内宿祢とされ、屋主忍雄は彦太忍信を襲名したようで、屋主忍雄が木国造に婿入りしている。
まさに建斗禾で、神倭王朝で不遇な屋国王の忍雄が兄嫁の倭国造になった珍彦・葛城氏の本家の出身地讃岐王?の姫影日売に婿入りし、大彦に伴って物部氏が皇位に就いた功で 建内宿祢が紀伊国造になったことが見えてくる。
すると、若倭部連根子日子大毘ゝ・比古布都押之信の長男葛城氏の味師内宿祢は物部政権では御真木王、尾張政権で伊久米王、そして、出雲征伐で大国王さらに中国王帯中日子と出世し、拘奴國の地を征服してついに大君となり、品陀和気と役職名がなくなり、肥後・日向・豊(宗像・豊前・豊後・瀬戸内海沿岸・出雲・紀伊)にまたがる、大王国だったのだろう。
そして、葛城氏の直系品陀和気が大王位を継ぎ、紀伊国造建内宿祢の直系の若帯日子の兄弟の五百木之入日子の子品它真若、その子中日売の子が大雀で建内宿祢の娘婿葛城氏の直系大雀が大王を継いだ。

2018年12月24日月曜日

最終兵器の聖典 葛城王朝・神皇王朝2

 拘奴國との戦いの時、その帰りに、倭建は『古事記』「倭建命、抜其刀而打殺出雲建」と記述するが、『日本書紀』には記述が無く、『古事記』伊久米伊理毘古伊佐知「曙立王・兎上王二王、副其御子遣時、自那良戸遇跛盲」、『先代旧事本紀』崇神天皇「武日照命従天將來神寶藏于出雲大神宮是欲見焉則遣矢田部造遠祖武諸隅令使分明撿定獻奏焉」と恐らく同じ記事の崇神天皇六〇年「則遣矢田部造遠祖武諸隅而使獻。當是時。出雲臣之遠祖出雲振根主于神寶。」と同じにしている。
すなわち、『日本書紀』・『先代旧事本紀』では名目上、出雲はすでに自国の領地だが、『古事記』は、この拘奴國との戦いの時に出雲を支配下にしたことを述べていて、出雲は物部氏と出雲醜大臣以来の姻戚で尾張氏大倭国とは友好的でなかったようだ。
そして、さらにこの王は「到吉備以渡穴海。其處有惡神。則殺之。」と吉備でも戦いがあり、吉備と敵対しているが、『日本書紀』では孝霊天皇二年「妃倭國香媛生倭迹迹日百襲姫命。彦五十狹芹彦命。亦名吉備津彦命・・・某弟生弟稚武彦命。是吉備臣之始祖也。」と孝霊天皇の子が始祖の吉備津彦が崇神天皇十年に「吉備津彦遣西道」と吉備を征服し、巻向遺跡には吉備産の土器が出土する。
吉備征服譚は、『古事記』には記述されておらず、吉備は『古事記』に「熊曽国謂建日別・・・生吉備児島亦名謂建日方別」と国生みの時、熊襲は拘奴國の分国で、『日本書紀』では普通の独立した国、『先代旧事本紀』「肥国謂建日別 日向國謂豊久士比泥別・・・生六小嶋 兄吉備兒嶋謂建日方別」と肥国の分国、日向国は豊国の分国、そして吉備は肥国の分国で六小嶋の兄貴分で記述した史書によって立場が異なる。
拘奴國との戦いの説話の王の出発地周防は宗像氏が支配する宗像以東の筑紫、隣国「大倭豊秋津島」と安芸は豊国の領域で大倭に支配された国だと述べ、元々吉備は肥国(日国)の分国で「筑紫国謂白日別、豊国謂豊日別」と筑紫も豊も日国(三身国)で領域は大八島を支配した八国の隠岐の王者の国から分裂した拘奴國が肥後・熊襲・豊・東筑紫・穴門・周防・安芸・吉備を領有していたが、物部氏が吉備を四道侵攻で領有した。
『日本書紀』景行天皇四〇年「初至駿河・・・號其處曰燒津・・・從上總轉入陸奥國。大鏡縣於王船 海路廻於葦浦 横渡玉浦至蝦夷境蝦夷・・・甲斐國 號山東諸國。曰吾嬬國也」と東を攻めるが、『古事記』では「焼津也。・・・足柄・・・甲斐」と足柄のみで、おそらく、足柄の王が陸奥國を支配した説話を混入させたのだろう。
『日本書紀』では逃げ帰ったが『古事記』では「其国越科野国、乃言向科野之坂神而、還来尾張国」と攻略しており、かなり後代の説話で、『日本書紀』景行天皇五一年の「神山傍之蝦夷。是本有獸心。難住中國。故隨其情願。令班邦畿之外。是今播磨。讃岐。伊豫。安藝。阿波。凡五國佐伯部之祖也。」は朝廷の命令で行った、周防の王者が蝦夷討伐の功績に与えられた蝦夷を中国周防に連れてきた様子が書かれ、それを更に中国の配下に分け与えた説話で、この邦畿之内の中国が祀る神こそ『古事記』の主神の御中主である。
『古事記』は葛城氏の分家の巨勢氏が記述した氏族史、『日本書紀』は葛城氏若しくは平郡氏が記述した日本の正史で、『古事記』は、もし、『日本書紀』の説話が全て葛城氏の説話なら『古事記』で省略する必要が無く、『古事記』に記述されない『日本書紀』の説話は尾張氏の事績、若しくは尾張氏が主体となって行った事績であると考えなければならない。
そして、尾張氏の事績は全て後から天皇になった葛城氏は、遠慮なく自分の事績として記述すればよく、『先代旧事本紀』も馬子が記述しているので、それを引き継ぎ、歴代の天皇妃は物部・尾張・葛城の妃を一人の王妃として記述している。

2018年12月21日金曜日

最終兵器の聖典 葛城王朝・神皇王朝1

  『古事記』と『日本書紀』の安康天皇以前は葛城氏が書いたため、それ以前の歴史は支配者の立場でなく、傍証の史書になるため、物部・尾張王朝のことは解りにくい『先代旧事本紀』の家系を中心に考えてきたが、葛城王朝は『古事記』・『日本書紀』が中心の歴史分析が始まり、『先代旧事本紀』が傍証となる。
ところで、『古事記』では「降出雲国之肥上河上」と素戔嗚が出雲に天降った時、「高志之八俣遠呂知・・・毎年来喫」と毎年人質を含めた貢物を盗りに来ると嘆き、その人物が「高志之八俣遠呂知」と越の人物だと述べ、この頃出雲は越の領地である。
そして、「八千矛神、将婚高志国之沼河比売」と大国主が高志を得るが、まさに、越前からは船が出土し、事代主は「為鳥遊・取魚而往御大之前故爾、遣天鳥船神、徴来八重事代主神而、問賜之時、語其父大神言、恐之」と御大之前で漁業を行っていると記述して三国は継体天皇の出身地だ。
そして、「迫到科野国之州羽海、将殺時、建御名方神白、恐」と尾張氏の先祖は信濃に逃げ、物部氏と賀茂氏の共同統治した国が神倭国で追い出した国が東鯷国で、信濃から越後は高度な縄文土器の出土地で、中国からは君子国と呼ばれて帯刀帯冠していた国だ。
そして、大倭国の尾張氏は『日本書紀』景行天皇四〇年「初至駿河 號其釼曰草薙也 號其處曰燒津・・・從上總轉入陸奥國。大鏡縣於王船 海路廻於葦浦 横渡玉浦至蝦夷境蝦夷賊首嶋津神國津神等」と蝦夷を鎮圧し、「甲斐國 號山東諸國。曰吾嬬國也」とその征服地関東平野を吾嬬と呼んだ。
しかし、「唯信濃國。越國。頗未從化」と東鯷国の信濃と越はまだ従っていなかったので、「則自甲斐北轉。歴武藏。上野。西逮于碓日坂・・・吾嬬者耶 故因號山東諸國・・・遣吉備武彦於越國。令鑒察其地形嶮易。及人民順不。則日本武尊進入信濃。」と勝ったとは記述しないが、景行天皇五四年西暦124年「自伊勢還於倭居纒向宮」と纒向に宮を作り、纒向には越などの土器が出土し、出土した桃の種は135から230年に年代推定され、時期的には符合する。
『古事記』には「悉言向荒夫琉蝦夷等、亦、平和山河荒神等而、還上幸時、到足柄之坂本、於食御糧処、其坂神化白鹿而来立。爾、即以其咋遺之蒜片 端待打者、中其目乃打殺也」と白鹿を蝦夷に見立てているが、『日本書紀』の信濃に対して、『古事記』は足柄で日本書紀は足柄を攻略しているが、信濃は「爰王忽失道不知所出時白狗自來有導王之状隨狗而行之得出美濃」と逃げ帰っている。
そして、『後漢書』「會稽海外有東鯷人分爲二十餘國」と記述され、後漢は220年頃崩壊しており、このころまでに東鯷国は崩壊したことを証明し、『日本書紀』も西暦124年まで東鯷国が存続していたことを述べている。
『後漢書』は「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種 而不屬女王」と記述し、『三国志』も「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」・「南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王」と後漢時代は邪馬台国の東度海千餘里が拘奴國で魏時代は倭種拘奴國が南に押しやられて、同じ倭種が拘奴國と入れ替わっている。
唐の原から沿岸航行で50Kmは丁度宗像になり、後漢末に、『日本書紀』には景行天皇十二年西暦82年に「熊襲反之不朝貢」「幸筑紫」「到周芳娑麼。時天皇南望之」と周芳(周防も拘奴國筑紫と認めている)にいる王者が熊襲で反乱を起したことから、菟狹・御木・高羽・緑野・豐前國長峽縣(號其處曰京也)・碩田國・日向國・熊縣葦北小嶋(水嶋)・火國八代縣豐村・高來縣渡玉杵名邑(阿蘇)・筑紫後國(御木國)・八女國之名由此(浮羽)が戦乱の場で拘奴國の領域が筑後川北岸に押しやられ「山門縣。則誅土蜘蛛田油津媛・・・妹被誅而逃之」と200年頃倭国と戦い『三国志』には250年頃も「南有狗奴國」と敵対関係だ。
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2018年12月19日水曜日

尾張王朝に繋がる系図


最終兵器の聖典 尾張王朝・天皇王朝4

 「もろすみ」宮は賀茂氏と物部氏と尾張氏が重なった宮だったが、その宮の所在地はもちろん大彦の姫の御間城姬が居る磯城謂瑞籬宮に物部氏の天皇が入宮した地の磯城で、崇神朝で三輪神を祀った賀茂氏の大田田祢古の前の世代は建飯賀田須、尾張氏の建諸隅の妹は崇神天皇妃、物部氏の武諸遇は「磯城瑞籬宮御宇天皇即位六十年詔・・・命使分明檢定獻奉覆命之時乃爲大連」と崇神天皇に大連を与えられている。
ちなみに、物部氏の天皇は紀元前157年から春日宮で大倭と呼ばれ、葛城氏や饒速日が侵入し、建御名方や都味齒八重事代を追い出したのは紀元前214年で神倭と呼ばれ、輕地境原宮で物部氏宇摩志摩治・賀茂氏天日方奇日方の共同統治が始まり、多紐文鏡が出土する天照の磐戸隠れの世界だ。
そして、尾張「七世孫建諸隅命此命腋上池心宮御宇天皇御世爲大臣」と羸津世襲から続く磯城王の妹が崇神天皇の妃の実質天皇の皇太子以上の権限を持つ大臣に建諸隅がなり、正統な後継者で義兄の沙本毘古から政権を奪って纏向に遷ったりが、今のところ135年から230年の桃の種が出土しているので纒向珠城宮で、景行天皇からは葛城氏の宮の年代も予想されるので尾張氏の宮は『日本書紀』から確定できない。
纒向珠城宮の天皇は「八世孫倭得玉彦命 亦云市大稲日命 此命淡海國谷上刀婢爲妻生一男伊我臣祖大伊賀彦女大伊賀姫生四男」と淡海國や伊賀に宮を遷し、淡海國は成務天皇の宮である。
『日本書紀』神功皇后摂政元年忍熊王との戦いで「返屯於住吉・・・紀伊水門・・・船直指難波・・・忍熊王復引軍退之。到菟道而軍之」と難波に向かっていて、「即以山背根子之女葉山媛令祭」と山背根子の娘を宮殿で祀り、「玉勝山代根古命 山代氷主雀部連軽部造蘇冝部首等祖」と尾張氏九世の娘が神功皇后のようで、仁徳天皇は難波高津宮御宇天皇である。
應神天皇「三十年・・・大鷦鷯尊為太子輔之令知國事矣以物部斤葉連公為大臣」と應神天皇の時に皇太子から終焉の大臣となり、別朝廷の大臣物部印葉で滅び妹物部山無媛が「輕嶋豐明宮御宇天皇立為皇妃」で娘「矢田皇女次嶋鳥皇女其矢田皇女者難波高津宮御宇天皇立為皇后」と物部氏の王の象徴の女王を難波高津宮御宇天皇は得ることができた。
そして、尾張氏「十三世孫尾綱根・・・妹尾綱真若刀婢命此命嫁五百城入彦・・・次妹金田屋野姫命此命嫁甥品色真若王生三女・・・仲姫命立爲皇后誕生・・・次大萑天皇・・・品太天皇御世賜尾治連姓爲大江大連」と尾張氏の皇子が仁徳天皇で尾綱根の子たちが尾治連姓と天皇でなくなった。
五百城入彦は『日本書紀』景行天皇四年「八坂入媛爲妃 生七男六女 第一曰稚足彦天皇 第二曰五百城入彦皇子」と垂仁と八坂入媛の子で、八坂入媛は『日本書紀』成務天皇即位前紀「皇后曰八坂入姫命。八坂入彦皇子之女也」と八坂入彦の娘、八坂入彦は『日本書紀』崇神天皇元年「尾張大海媛・・・生八坂入彦命」と尾張七世孫建諸隅の妹である。
共に尾張氏の皇子仁徳天皇は男系も足仲彦王は「大足彦天皇第二皇子童名小碓命日本武尊第二王子足仲彦王尊諱名也母日兩道入姬皇女活目入彦天皇皇女也」と活目入彦天皇の直系、神功皇后は「氣長足姬尊立爲皇后開元(化)天皇兒彦坐皇子命兒山々代大筒城真若王兒迦尓氣長姫命是 朱雷王児息長宿祢女五世」と尾張氏坐王の子孫で、尾張氏十四世「尾治弟彦連次尾治針名根連次意乎巳連此連大萑朝御世爲大臣」と仁徳朝の皇太子で政権を失う。
尾張氏は高倉下が磯城に侵入し、天彦が入り婿してその子孫羸津世襲家が磯城の王者になり、尾張七世孫建諸隅家が物部氏から政権を奪い、仁徳が政権を失った。
そして、『日本書紀』垂仁天皇二年「于斯岐阿利叱智于岐。傳聞日本國有聖皇」と朝鮮から日本と国名を、聖皇と王を呼ばれ、『日本書紀』景行天皇元年「太子即天皇位。因以改元」と改元した王朝が尾張天皇王朝で、淡夜別 大八椅・大縫・小縫・乎止与には氏姓が無く天皇に苗字も役職名もいらない。

2018年12月17日月曜日

最終兵器の聖典 尾張王朝・天皇王朝3

 倭得玉を叔父に持つ垂仁天皇は神倭王家と 羸津世襲家の嫡流の丹波道主王の父坐王の娘を『古事記』「日子坐王・・・又、娶春日建国勝戸売之女、名沙本之大闇見戸売、生子、沙本毘古王・・・次、沙本毘売命、亦名佐波遅比売 此沙本毘売命者、為伊久米天皇之后」と皇后にし、春日氏は『古事記』「天押帯日子命者、春日臣・・・之祖也」とやはり神倭王家・羸津世襲家の姫の子でもあり、その兄の神倭王朝で物部氏の娘婿である羸津世襲の正当な継承者狹穗彦を『日本書紀』垂仁天皇五年「狹穗彦與妹共死于城中」と壊滅させた。
『古事記』若倭根子日子大毘ゝ「息長水依比売、生子、丹波比古多ゝ須美知能宇斯王」と沙本毘古の兄弟の多ゝ須美知能宇斯王の子が「美知能宇志王、娶丹波之河上之摩須郎女、生子、比婆須比売命次弟比売命 次真砥野比売命 次朝庭別王」と垂仁天皇の妃で、朝庭別王と分朝廷を継続し物部氏も石上神宮を祀る大連家と実質皇太子の大臣家に分裂し、『日本書紀』景行天皇十二年「物部君祖夏花」が物部膽咋宿祢のようだ。
それが、「大新河命此命纏向珠城宮御宇天皇御世元爲大臣次賜物部連公姓則改爲大連」で大新河は天皇でなくなったのだから物部姓を授けられて大連となったが、「志賀髙穴穗宮御宇天皇御世元爲太臣次爲宿祢奉齋神宮其宿祢之宮始起此時奉齋矣」と宿殿を祀る宿祢になって「物部膽吐宿祢為大臣也都志賀髙穴穗宮」、「大鷦鷯尊為太子輔之令知國事矣以物部斤葉連公為大臣」と分朝廷の天皇として成務天皇から仁徳天皇まで続いた。
分朝廷は「物部山無媛連公此連公輕嶋豐明宮御宇天皇立為皇妃誕生太子莵道稚郎皇子次矢田皇女次嶋鳥皇女其矢田皇女者難波高津宮御宇天皇立為皇后」と仁徳天皇が婿入りして終了し、莵道稚郎の義弟稚野毛二泒皇子の子孫、「品太天皇五世之孫」と五世之孫が物部後期王朝を復活させて「秦王国」と呼ばれる。
ここに、神倭王朝と物部王朝と尾張家の血を引く垂仁天皇が誕生して沙本毘古の姪を皇后に迎え卑弥呼の宮と呼ばれる纒向珠城宮に入城し、「八世孫物部膽咋宿禰」は「志賀髙穴穗宮御宇天皇御世元爲太臣次爲宿祢奉齋神宮其宿祢之宮始起此時矣 市師宿祢祢(?祖)穴大足尼女比咩古命爲妻」と記述して成務天皇の時代としている。
このように、膽咋宿禰には足尼がすでに終了しているように、孝昭天皇時代の説話が混じり、同じ八世武諸遇は「磯城瑞籬宮御宇天皇即位六十年詔」と崇神天皇末、垂仁天皇時代の人物で、尾張氏の七世孫建諸隅は「腋上池心宮御宇天皇御世爲大臣供奉葛󠄀木直祖大諸見足尼女子諸見巳姫生」と孝昭天皇の時代で妹大海姫は「亦名葛󠄀木髙名姫命 此命礒城瑞籬宮御宇天皇立爲皇妃誕生」と崇神天皇の時代と入り混じっている。
すなわち、ほぼ同世代に漢字が導入されたばかりなので、名前はひらがなで解釈しなければならない時代に同姓同名が存在し偶然とは思えず、賀茂氏の建飯勝命・建甕尻・建飯賀田須、物部氏の武建・武諸遇、尾張氏の建額赤・・・建稲種は尾張氏を中心に姻戚関係となり、同じ地域「たけ」という地域に住んだのではないのだろうか。
すなわち、「もろすみ」宮で尾張氏と物部氏が血縁関係になり、同じ宮を尾張氏と物部氏に記述していると考えた方が辻褄が合い、『日本書紀』崇神天皇六〇年「矢田部造遠祖武諸隅 一書云 一名大母隅也」と『先代旧事本紀』「弟物部大母隅連公 矢集連等祖 巳上三連公志賀髙穴穗宮御宇天皇御世並爲侍臣供奉」と、崇神天皇から成務天皇まで「もろすみ」宮が続いている。
そして、「もろすみ」宮は「大諸見足尼」が足尼の存在できる孝昭天皇時代の「出石心大臣命此命掖上池心宮御宇天皇御世爲大臣奉齋大神新河小楯姬為妻」と出石心の配下になり、出石心の妻が新河氏の姫で「大新河命此命纏向珠城宮御宇天皇御世元爲大臣次賜物部連公姓則改爲大連奉齋神宮」と大新河が「奉齋神宮」で新河の宮が垂仁天皇時に神宮を祀っていて、出石心と大新河は4世代の差とは考えられなず、大新河は初代の新河の意味で、この場合は初代物部連の新河宮の家長の意味なのだろう。

2018年12月14日金曜日

最終兵器の聖典 尾張王朝・天皇王朝2

  前項は尾張氏の祖「羸津世襲」を中心に尾張氏の家系を記述したが、ここでは、天皇の系図と尾張氏の大彦の国盗り物語を考える。
「天日方奇日方」の妹「鞴五十鈴命」の子神渟名河耳(綏靖)と同じく妹五十鈴依姫の子磯城津彦玉手看(安寧)と「天日方奇日方」の子渟中底姫との子大日本根子彦耕支(懿徳)、さらに孝照天皇「母日皇后天豊津媛命息石耳命之女也」と あるように、 懿徳とその兄弟の息石耳の娘との子が觀松彦香殖稻(孝昭)で孝昭 天皇は神倭王朝の天皇である。
觀松彦香殖稻(孝昭)は「世襲足姬命大臣瀛津世襲・・・尾張氏」世襲足姫を皇后にして日本足彦國押人(孝安)を産み孝安の兄弟天彦國押人の娘「姪押媛」を皇后にして大日本根子彦太瓊(孝霊)が生まれ、神倭王朝に尾張氏が姻戚になった。
息石耳は瀛津世襲とおそらく「おき」の同郷で、世襲足姬の子天彦國押人は天氏で四世世襲足姬の時代五世「孫建斗禾命 天戸目命之子」で天彦國押人と天戸目が同一人物の可能性がある。
大日本根子彦國牽(孝元)は「母日皇后細媛命磯城縣主大目之女也」と孝霊は磯城彦の娘婿で当然この天皇の宮は磯城に遷り磯城王磯城彦で、孝元は物部氏欝色謎命を皇后にして「兒大彦命次稚日本根子彦大日日尊」と大彦と稚日本根子彦大日日(開化)が生まれ、大彦は磯城彦と物部氏の姫の子で正室は「河内青王繫埴安姬」と埴安姬で長男武埴安彦で河内の戸見の長髄邑の王である。
物部氏は「乘天磐舩而天降坐於河内國河上哮峯則遷坐於大倭國鳥見白庭山天降」と鳥見(鵄)に天降り(鵄降り)、「長髓彦妹御炊屋姬爲妃」と武埴安彦の妹を妃とするのだから、欝色謎の兄欝色雄が「活目長砂彦妹芹田真誰姬」と芹田真誰姬が御炊屋姬で活目長砂彦が長髓彦になり、河内の鳥見の長髄邑は活目という地域でもある。
その活目は宇摩志麻治が「活目色五十呉桃女子帥長姫為妃」と活目に婿入りし、葛城氏は「伊久米伊理毘古伊佐知」と活目の長官になっている。
そして、本来の神倭王家は稚日本根子彦大日日ではなく武埴安で「和珥臣達祖姥津命之妹姥津媛生彦坐王」と初めて王が付加される坐が『日本書紀』孝昭天皇六八年「天足彦國押人命此和珥臣等始祖」とこれも世襲足姬の家系の姫からうまれていて、大彦との戦いの前で実際に戦った人物である。
欝色雄が「活目長砂彦妹芹田真誰姬為妻」と武埴安彦に婿入りしていて、その妹鬱色謎に神倭の分家の開化が婿入りし、物部氏と神倭王朝の血統の子が「春日宮御宇天皇」(開化)で、 春日宮御宇天皇も欝色雄の子の武建の妻の妹で大綜杵の子伊香色謎に婿入りして生まれた子が「磯城瑞籬宮御宇天皇」(崇神)だ。
神倭王磯城彦の武埴安彦は『古事記』「大毘古命者、遣高志道、其子建沼河別命者、遣東方十二道而・・・又、日子坐王者、遣旦波国、令殺玖賀耳之御笠」と新たに領地を拡げたが、『古事記』「建沼河別与其父大毘古」のように、領地を拡大したのは大彦親子で、大彦が反乱を起こして武埴安彦親子を駆逐して坐王は「彦坐皇子命子丹波道主王」と丹波に逃れた。
日本では、力があって王を倒したからと言っても王とは認められず、国をまとめるためには血統が重要で、神倭王家とその姻戚物部氏との皇子「磯城瑞籬宮御宇天皇」(崇神)を「御間城入姬即大彦皇子命之女也」と迎え入れ、「纏向珠城宮御宇天皇」(垂仁)が皇位に就いて大彦の王朝が樹立された。
そして、前項で述べたように、『日本書紀』孝元天皇七年「大彦命・・・伊賀臣 凡七族之始祖也」及び「八世孫倭得玉彦命・・・伊我臣祖大伊賀彦女大伊賀姫生四男」と倭得玉彦が大彦の娘婿となって、御間城入姬は倭得玉彦の兄弟で大彦の宮は60年間に3から4世代世襲している。
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2018年12月12日水曜日

最終兵器の聖典 尾張王朝・天皇王朝1

 尾張氏は饒速日の末裔としているが、実際は尾張氏の先祖熊野の高倉下が饒速日の軍門に下り姻戚関係になったのであり、それが饒速日神武の東征で、兄弟磯城の戦いのモデルの高倉下の娘婿香語山の孫すなわち「天忍人命此命異妹角屋姫亦名葛󠄀木出石姫」「天忍男命葛󠄀木土神劔根命女賀奈良知姫為妻」と弟倉下の天忍男の葛木家義兄弟倉下との戦いが饒速日の軍門に下った戦いである。
そして、天忍男の子羸津世襲が孫羸津世襲命 亦云葛󠄀木彦命尾張連等祖 天忍男命之子此命池心朝御世為大連」と尾張氏の祖で「世襲」は「しこお」と同じく宮名で、役職名が葛城の将軍と言ったところだろう。
ここで、第一の矛盾が物部七世大新河「此命纏向珠城宮御宇天皇御世元爲大臣次賜物部連公姓則改爲大連奉齋神宮其大連之號始起此時」と垂仁天皇の時始まった大連が孝昭天皇の時に記述されているということだ。
これは、本来、神倭王朝が大連を制定したのであり、『日本書紀』安寧天皇十一年「弟磯城津彦命 是猪使連之始祖也」と後に得る姓は唯の祖で始祖としていないので、この時すでに連は使われていた、連の一段上の連が居れば大連で、大新河は物部氏の大連の始めということのようだ。
第二の矛盾が四世羸津世襲の子が十世淡夜別の弟「次大原足屋 筑紫豊國國造等祖 置津與曽命之子 」と記述されるが、これは、羸津世襲の宮が世継ぎでなくなり、大原足屋(?尼)の叔父淡夜別に皇位を奪われたのだと思われる。
第三の矛盾が四世羸津世襲が「池心朝御世為大連」で「七世孫建諸隅命此命腋上池心宮御宇天皇御世爲大臣」とやはり世代がとんでいて、建諸隅は「此命腋上池心宮御宇天皇御世爲大臣供奉葛󠄀木直祖大諸見足尼女子諸見巳姫」と葛󠄀木氏の祖の娘を娶って子は葛󠄀木氏だ。
「此命秋津嶋宮御宇天皇御世並縁近宿元爲 足尼次爲宿祢奉齋大神其宿祢者始起此時也」と足尼(たらしね)が宿祢(すくね)にかわったのが孝安天皇で矛盾が無いが、妹大海姫が「妹大海姫命 亦名葛󠄀木髙名姫命 此命礒城瑞籬宮御宇天皇立爲皇妃」と崇神天皇妃だが、これも、羸津世襲の宮の皇子や姫の説話を当てはめているのである。
そして、羸津世襲の妹世襲足姫に「世襲足姫命 亦名日置姫命 此命腋上池心宮御宇観松彦香殖稲天皇立爲皇后」と神倭王朝の孝昭天皇が婿入りし、「世襲足姬命立為皇后誕生二皇子彦國押人命次日本足彦國押人尊」と彦國押人が神倭王朝を継ぎ、孝安天皇「姪押媛爲皇后誕生日本根彦太瓊命」と彦國押人の娘婿が 孝安天皇、孝霊天皇「細媛命爲皇后誕生皇子一柱兒・・・細媛命磯城縣主大目之女也」と孝霊天皇が磯城彦の娘婿となり、その子孝元天皇は磯城彦である
そして、饒速日が天降った「河内國河上哮峯則遷坐大倭國鳥見」、鳥見は『日本書紀』神武紀「長髄是邑之本號焉 因亦以爲人名 及皇軍之得鵄瑞也 時人仍號鵄邑 今云鳥見」の長髄彦がいて、妃河内青王繫埴安姬生武埴安彦命」と埴安彦は河内の姫の子で長髄は地名なので、埴安彦も長髄彦である。
さらに、埴安彦を討ったのは兄弟の大彦で『日本書紀』孝元天皇七年「大彦命・・・伊賀臣 凡七族之始祖也」と大彦は伊賀臣の祖で、『先代旧事本紀』「八世孫倭得玉彦命・・・伊我臣祖大伊賀彦女大伊賀姫生四男」と孝昭天皇に仕えた七世建諸隅の次の世代で大彦より前の世代の倭得玉は大伊賀彦の婿で伊賀彦と考えられ、大伊賀彦が初代伊賀彦で大彦の可能性があり、倭得玉の義父で尾張氏だ。
そして、『古事記』崇神天皇「娶大毘古命之女、御真津比売命、生御子・・・次、伊賀比売命」大彦の孫が伊賀比売で大伊賀姫に対する伊賀姫で、都味齒八重事代主の神倭王朝に出雲醜が侵略し、葛城彦の羸津世襲が協力した神倭王朝の義兄弟、その直系で物部氏の姫の子で息子尾張氏の大彦が神倭王朝を壊滅させた。

2018年12月10日月曜日

最終兵器の聖典 欠史8代 前期物部王朝3(大倭国・天孫王朝)

 そして、物部王朝は「遷建布都大神社於大倭國山邉郡石上邑則天祖授饒速日尊自天受來天璽瑞寶」と開化天皇の時に璽を新しく遷建した石上神宮に収め、皇子に王の地位を与えて開化天皇は宗教の王・天皇になり、勿論この時期は天皇ではなくおそらく『日本書紀』の「天日槍對曰 僕新羅國主之子也 然聞日本國有聖皇」のように聖皇と呼ばれ、実際は宿祢と考えられる。
「近宿殿内矣因號足尼其足尼之號自比而始矣」と「たらしね」を、漢字を理解しているから当てた造語で、宿祢は本来の用法の「宿殿」の神官・禰宜の尼のことで、多くの尼の中で宿殿に居る多くの尼を支配する尼、王の中の王で、「大峯大尼此命者春日宮御宇天皇御世爲大尼供奉其大尼之起始發此時矣」と尼の中の尼の大尼は開化天皇の時始まったが、皇太子と同等の地位で大王と同じだ。
そして、開化天皇「八年春正月以大祢大綜押命為大臣武建命大峯命並爲大祢」と大峯大祢と記述され、大峯大尼と同じ、すなわち大尼イコール大祢も証明され、三世大祢命は役職名で、物部系図も襲名する役職名や宮名と考えるべきで大祢の家系の始まりなのだろう。
従って、「三世孫大祢命此命片塩浮穴宮御宇天皇御世為侍臣奉齋」は安寧天皇の時代ではなく、開化天皇の時の人物で大彦と同世代でその弟が「弟出雲醜大臣」でよく符合し、更に、「大峯大尼」の兄弟「妹鬱色謎命輕境原宮御宇天皇立爲皇后誕生三皇子則大彦命」と兄欝色雄命が宇摩志麻治の孫世代に記述される。
すなわち、「しこお」は役職名の継承で出雲醜イコール欝色雄イコール伊香色雄で「遷建布都大神社於大倭國山邉郡石上邑則天祖授饒速日尊自天受來天璽瑞寶同共蔵齋号日石上太神」と天皇の璽を石上に祀り神武紀「天璽鏡劔奉正安殿」の正安殿である石上神宮で『日本書紀』崇神紀「朕初承天位。獲保宗廟」を意味する石上朝廷、出雲・欝・伊香は生まれた土地である。
「大木食命 三河國造祖出雲大臣之子・・・弟三見宿祢命 此命秋津嶋宮御宇天皇御世並縁近宿元爲足尼次爲宿祢奉齋大神其宿祢者始起此時也」と、「出雲色多利姬」の子の出雲醜では人心を得られず、「倭志紀彦妹真鳥姬爲妻」と志紀王に婿入りしてその子が三見宿祢「足尼次爲宿祢奉齋大神其宿祢者始」と朝廷の主となった。
そして、同じ構図が伊香色雄「倭志紀彦女真鳥姫爲妾」で、伊香色雄の宮の子は磯城瑞籬宮崇神天皇で、この場合、出雲醜が志紀彦・開化天皇と婿入りした義兄弟で伊香色雄が志紀彦・孝元天皇と義兄弟で志紀彦・孝元天皇は欝色雄の宮に婿入りしていている。
出雲醜・欝色雄・伊香色雄3人とも天皇の義兄弟で大臣と呼ばれて外戚の皇太子を意味し、伊香色謎皇太后・伊香色雄天皇で伊香色謎の宮が磯城瑞籬宮で天皇に即位したと思われ、物部氏が宿殿(朝廷)を象徴とした、天皇(宿祢)と一心同体の長男大王(大尼)と皇太后の娘婿若しくは外戚の娘婿義兄弟が大臣というシステムを作り出し、志紀宿祢と物部宿祢とが互いに大臣と呼び王朝交代をスムーズに行った。
伊香色雄の宮の子建膽心大祢は「此命磯城瑞籬宮御宇天皇御世始為大祢供奉」と初めて物部王朝の皇太子・大王である大祢となったのであり、出雲醜の父大祢が畿内に地位を築き、しこおの宮は高宮と呼ばれ「大綜杵命此命輕境原宮御宇天皇御世為大祢」・「髙屋阿波良姫爲妻」と大綜杵大祢が高宮に初めて婿入りして伊香色雄の子たちが天皇を継いだ。
そして、同じ物部七世大新河は「此命纏向珠城宮御宇天皇御世元爲大臣次賜物部連公姓則改爲大連奉齋神宮其大連之號始起此時」と物部姓を持って皇室ではなくなり、十市県主の十市根大連の子の物部膽咋宿禰は「此宿祢志賀髙穴穗宮御宇天皇御世元爲太臣次爲宿祢奉齋神宮其宿祢之宮始起此時矣」と元宿殿だった石上神宮を祀る君となり、『日本書紀』景行天皇十二年西暦82年「物部君祖夏花」と夏花が十市根のことか。
物部氏は紀元前660年から続く磯城彦の王朝の宮の記録を引き継ぎ、物部氏の系図を当てはめた。

2018年12月5日水曜日

最終兵器の聖典 欠史8代 前期物部王朝2(大倭国・天孫王朝)

 宇摩志麻治は「橿原宮御宇天皇御世元爲足尼」と物部王朝の神武天皇で、足尼は漢字の無い倭語としては「タラシネ」の意味で国を支配する王の意味と思われ、配下に大尼(尼の中の尼)・『日本書紀』大田田根子・山背根子・眞根子・難波根子等は「尼」の配下である。
三世出雲醜大臣は三河国造の祖、子たちがいくつかの連の祖と領地を広げ、天日方奇日方の子建飯勝の妃が「出雲臣女子沙麻奈姫」、醜の父彦湯支も出雲色多利姫を妃として出雲氏の姫で醜は出雲氏を名乗り、大田田祢古も出雲神門氏の女を妃、子の大御氣持の妃も出雲氏だ。
『古事記』では垂仁天皇「若坐出雲之石くま(石+冋)之曽宮、葦原色許男大神」と出雲氏、開化天皇「朝庭別王者、三川之穂別之祖」と丹波之河上之摩須郎女の皇子朝庭別王も三河の祖で、姉妹の比婆須比売は景行天皇の母、このように、三輪・賀茂氏と物部氏・尾張氏が接点を持ち、これが物部王家の始まりで、紀元前88年から紀元前25年のことだ。
物部氏は「六世孫武建大尼命 欝色雄大臣之子」「七世孫建膽心・・・弟大新河・・・賜物部連公姓」「弟建新川命 倭志紀縣主等祖」とやはり武(たけ)氏を名乗ってから物部姓を使い始める。
賀茂氏は天日方奇日方の弟「四世孫建飯勝」「五代孫建甕尻」「六世孫豊御氣主命 亦名建甕依命」「八世・・・次建飯賀田須此命鴨部美良姫為妻」、尾張氏は「四世孫羸津世襲命・・・次建額赤命此命葛󠄀城尾治置姫為妻」・・・「七世孫建諸隅」と建(たけ)姓が続く。
そして、「八世孫倭得玉彦命」と倭得て璽を持つ王と初代の王名で、後、苗字が無くなり、「十三世孫尾綱根命・・・賜尾治連姓爲」と尾治姓を使い始める。
すなわち、賀茂氏・物部氏・尾張氏は建御名方から続く磯城の王者の後ろ盾がない限り王権を維持できず、王になったときは当然氏姓等は無いが、王を追放されたとき「たけ」氏を名乗るということは「たけ」氏に婿入りしていたため、氏が「たけ」氏だったということで、王を追放されたら不遇になるので、賀茂氏・物部氏・尾張氏に身を寄せて、王家につながる名誉ある人物であり、氏族にとって名誉である為、それぞれの氏を皇子が継いで行くのである。
「建飯勝命此命娶出雲臣女子沙麻奈姫」・「彦湯支命・・・出雲色多利姬為妾」と賀茂氏建飯勝が王位を追放されたとき、出雲氏の姫に彦湯支が婿入りして出雲醜大臣が誕生して長男大祢が王位を継ぎ、出雲醜が皇太子だ。
出雲醜は出雲からやってきた宇摩志麻治で大臣に、それと同時に、「世襲足姬命大臣瀛津世襲」「瀛津世襲・・・次建額赤」と葛城の弟が建氏を名乗り始める瀛津世襲が天日方奇日方で共に大臣で、醜は大臣を続け、瀛津世襲は大臣でなくなるが、妹は皇后で皇子が足彦天皇・率川宮の歴史でこの時の天皇は長髄彦である。
「七世孫建諸隅・・・御世爲大臣供奉葛󠄀木直祖大諸見足尼女子諸見巳姫」と追放される大新河・十市根も前に述べたように葛󠄀木氏の志紀彦の皇子で尾張氏建諸隅が葛城氏に婿入りして皇太子・大臣になった。
伊香色雄「倭志紀彦女真鳥姫爲妾」は出雲醜も「倭志紀彦妹真鳥姬爲妻」と妾ではなく妻にしていて、伊香色雄と出雲醜は親子の物部氏の神武天皇で、伊香色雄は「石上邑則天祖授饒速日尊自天受來天璽瑞寶同共蔵齋号日石上太神以為國家」と天皇の璽を祀ったと述べている。
このように、物部氏は彦湯支命「大神早部馬津名久流久美女阿野姫為妻」・「出雲色多利姬為妾」とこの大神は神倭大神の姫で、出雲氏は大巳貴や饒速日の出身地で出雲・神倭2氏の力と「出雲醜・・・倭志紀彦妹真鳥姬爲妻」と記述するように磯城彦の力で大祢が王位を得て弟 出雲醜が皇太子となりそれが懿徳天皇にあたるとしている。
『古事記』懿徳天皇「娶師木県主之祖、賦登麻和訶比売命、亦名飯日比売命」とこの時磯城彦は縣主になっておらず出雲醜が王位を継いだ時県主になったと考えられる。
『以爲大臣奉齋大神其大臣之号始起此時也』と王家の子以外の実力者が王家の皇太子に成り代わって出雲醜が国を統治する体制が出来上がり、大臣という名が付き、国を統治する権限が移った時、その権力はもう戻らず、物部氏が王権を簒奪した。

2018年12月3日月曜日

最終兵器の聖典 欠史8代 前期物部王朝1(大倭国・天孫王朝)

 史書は一人の王に複数の王を割り当て、中国の年表と対応させた倭国年号と干支を使った東鯷国年号があり、倭国年号の先史時代の欠史8代は紀元前186年以前の孝元天皇までだった。
『日本書紀』履中天皇四年「記言事達四方志」記事直後より『古事記』「坐高千穂宮、伍佰捌拾歳」と四方志の筆者が硯を出土する文字先進地域の伊都の歴史を書いたときに580年高千穂宮が残っていて、580年程度前の紀元前180年頃に分国したと書き、『日本書紀』の倭国建国がよく符合する。
東鯷国年号は「橿原宮・高丘宮・浮孔宮・曲峽宮・池心宮・秋津嶋宮・廬戸宮・境原宮・率川宮・瑞籬宮」の紀元前660年から紀元前98年まで、東鯷国からつながる物部年号は「瑞籬宮」で紀元前97年から紀元前28年で天皇としては崇神天皇となって有史天皇と言える。
『先代旧事本紀』・『日本書紀』共に孝昭天皇の皇后世襲足姫だが、『日本書紀』では復の名として「一云磯城縣主葉江女渟名城津媛」、次代の孝安天皇の皇后も「 一云磯城縣主葉江女長媛 一云十市縣主五十坂彦女五十坂媛也」、その次の孝霊天皇も「一云 春日千乳早山香媛 一云 十市縣主等祖女眞舌媛也」と磯城王の姫である。
そして、『先代旧事本紀』で綏靖天皇は「五十鈴依姫為皇后即天皇之姨・・・五十鈴媛命事代主神之少女也」、安寧天皇は「淳名底中媛命事代主神孫鴨玉女」、懿德天皇は「天豊津媛命息石耳命之女」とすべて事代主の家系で事代主を背景にした王で、次の孝昭天皇の皇后「世襲足姬命大臣瀛津世襲命之妹尾張氏」と尾張氏が背景だとしている。
ここで、『先代旧事本紀』懿徳天皇「渟中底姫命此命輕地曲峽宮御宇天皇立爲皇后」と安寧天皇の皇后と皇后が一代ずれているが、息石耳の娘も渟中底姫を襲名し懿德天皇が婿入りし先代の淳名底中媛は義母だったのが表現されたと考えられる。
皇后の兄羸津世襲は「亦云葛󠄀木彦命尾張連等祖」と葛城彦で尾張氏の祖で次代の孝安天皇の皇后は「姪押媛爲皇后」と誰の姫か書かないが、その次の孝靈天皇は「細媛命磯城縣主大目之女」と磯城県主が兄弟、もちろん義兄弟で、孝安は天足彦妃の兄弟が磯城縣主でその娘を妃にして、孝靈も同様で瀛津世襲も葛城彦で神武東侵の世界・磯城彦と兄弟磯城がいる世界である。
さらに、『先代旧事本紀』で「素戔烏尊三世孫」「大神君祖天日方奇日方命」の「天日方奇日方命者皇后之兄也」と三輪神を祀る天日方奇日方の妹「鞴五十鈴命」が神武天皇の皇后で、「妹五十鈴依姫命」が神武の子の綏靖天皇の皇后だ。
天日方奇日方の娘「兒建飯勝命妹渟中底姫命此命輕地曲峽宮御宇天皇立爲皇后」と綏靖の子安寧天皇の皇后、安寧天皇の子懿德天皇の皇后は兄息石耳の子天豐媛で全て皇后は大神王家と呼べ、「九世孫大田田祢古命」と6世代後に崇神天皇の伝説があるはずなのに、『先代旧事本紀』には出現しない。
そして、懿德天皇は安寧天皇の長男ではなく本来息石耳が正当な天皇後継者と考えるのが順当で、ある王が正当な天皇の姫を皇后にして、その皇太子が「出雲醜大臣此命輕地回峽宮御宇天皇御世元為申食國政大夫以爲大臣奉齋大神」と出雲醜で懿德天皇の大臣すなわち外戚の皇太子となった。
紀元前87年の『日本書紀』の「四道將軍以平戎夷之状奏焉」と大彦によって神国勢力を駆逐したのであり、『漢書』の対象時代前漢に「會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國 以歳時來獻見云」と東鯷国が存在し、『後漢書』には記述されないのだから、前漢の時代に神国東鯷国は滅び大倭国になった。
これで、神国王家が事代主の子たち、「大神君祖天日方奇日方」が弟倉下・弟磯城・長髄彦だったことが解り、懿徳天皇までは饒速日の宮の神国の歴史、開化天皇までは宇摩志麻治の宮の尾張氏を背景にした歴史で、紀元前98年までの物部王朝建国前夜だ。
系図はややこしくて大変だが避けて通れない重要な話題であるので許してほしいが、要は孝靈天皇まで葛城彦の王朝だということである。