2022年1月19日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』綏靖天皇類書1

  『日本書紀』は概略「神渟名川耳天皇は、神日本磐余彦天皇第三子、母が媛蹈鞴五十鈴媛で四十八歳の時、神日本磐余彦天皇が崩じ、庶兄の手研耳が長く朝機を歴、親政を行っていた。神八井耳と二人で陰謀を立て手研耳を殺害したが、八井耳が怖気づいて殺害できず皇位を弟に譲り、八井耳が神事を受け持ち多臣の始祖となった。」とある。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上 』は「綏靖天皇神日本大磐余彦天皇第三子諱神渟名川耳天皇諡日綏靖天皇母日媛鞴五十鈴媛命事代主神大女也天皇風姿岐(?)少有雄拔之氣及壯容貌魁偉武藝過人而志尚沈默至四十八歳神日本磐余彦天皇崩神渟名川耳尊孝性純深悲慕無已持留心於變葬之事焉其庶兄手研耳命行年巳長久歷朝機故亦委事而親之然其王立摻厝旅本乖仁義以諒闇之際威福自由苞藏禍心圖害二弟子時也太歳己卯冬十一月神渟名川耳尊與兄神八井耳命陰知其志而善防之至於山陵事畢乃使弓部稚彦造弓倭鍛部天津真浦造真鹿鏃矢部作箭及弓矢既成神渟名川耳尊欲以射殺手研耳命會有手研耳命於片丘大寄中獨臥于大床時渟名川耳尊謂神八井耳命日今適其時色夫言貴密事冝填故我之陰謀本無預者今日之事唯吾與尓自行之耳吾當先明賞戶尓其射之因相隨進入渟名川耳尊突開其戶神八井耳命則手腳戰慄不能放矢時渟名川耳尊掣取其兄(?)持弓矢而射手研耳命一發中胸二發中背遂殺之於是神八井耳命懣默自服讓於渟名川耳尊曰吾是乃兄而懦弱不能致果汝持挺神武自誅元惡冝哉乎汝之光臨天位以來皇祖之業吾當為汝輔之奉典神祇者即多臣始祖也」、【綏靖天皇神日本大磐余彦の第三子で、諱は神渟名川耳。謚を綏靖天皇という。母は媛蹈鞴五十鈴媛で、事代主の上の娘だ。天皇は、風采が整い、賢く、幼いころから気性が雄々しく、成長して容貌がすぐれて堂々としていた。武芸はすぐれ、志を秘めていた。四十八歳に、神日本大磐余彦が崩じた。神渟名川耳は、親をとても大切にして、深く悲しみ慕い、特に葬儀に心を配った。腹違いの兄の手研耳は、年長で朝政に就いて、政事を任せられて、親の様に、葬儀を進めたが、仁義に背いて、服喪の間に、思いのままに悪事を企み、二人の弟を殺そうと考えた。太歳己卯冬十一月に神渟名川耳は、兄の神八井耳と、陰謀をひそかに知り、よく防いで、山陵を造り終わると、弓部雅彦に弓を作らせ、倭鍛部の天津真浦に鹿を射る鏃を作らせ、矢部に箭を作らせ、弓矢が出来上がったので、神渟名川耳は、手研耳を射殺そうとした。手研耳が、片丘の大殿でひとりふせっていたとき、渟名川耳は神八井耳に「今こそ好機だ。密事はひそかにするべきだだから、私の陰謀も誰も知らない。今日のことは私とお前だけでやろう。私がまず家の戸を開けるから、お前はすぐに射なさい」と言った。それで、二人は一緒に進入した。渟名川耳尊が戸を突き開け、神八井耳は、手足が震えおののいて、矢を射れなかったので神渟名川耳は、兄の持っていた弓矢を奪い取って、手研耳を射て、一発は胸に命中して、二発めを背中にあて、殺した。それで神八井耳は、押し黙って服従し、その後、渟名川耳尊に「私は兄だが、意気地なしで能無しで成果が無かったが、お前は武徳が抜きんでていて、自分の手で元凶を誅した。お前が天位に即いて、これからは皇祖の業を受けつぎ、私はお前の助けとなって、神を祀ろう」と譲った。これが多臣の始祖である。】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は「故天皇崩後其庶兄當藝志美々命娶其嫡(適)后伊須氣余理比賣之時將殺其三弟而謀之間其御祖伊須氣余理比賣患苦而以歌令知其御子等歌曰佐韋賀波用久毛多知和多理宇泥備夜麻許能波佐夜藝奴加是布加牟登須又歌曰宇泥備夜麻比流波久毛登韋由布佐礼婆加是布加牟登曽許能波佐夜牙流於是其御子聞知而驚乃爲將殺當藝志美々之時神沼河耳命曰(白)其兄神八井耳命那泥汝命持兵入而殺當藝志美美故持兵入以將殺之時手足和那々岐弖不得殺故示(尓)其弟神沼河耳命乞取其兄所持之兵入殺當藝志美々故亦稱其御名謂建沼河耳命尓神八井耳命譲弟建沼河耳命曰吾者不能殺仇汝命既得殺仇故吾雖兄不宜爲上是以汝命爲上治天下僕者扶汝命爲忌人而仕奉也故其日子八井命者(茨田連手嶋連之祖)神八井耳命者(意富臣小子部連坂合部連火君大分君阿蘇君筑紫三家連雀部臣雀部造小長谷造都祁直伊余國造科野國造道奥石城國造常道仲國造長狭國造伊勢舩木直尾張丹羽(波)臣嶋田臣等之祖也)神沼河耳命者治天下也凡此神倭伊波礼毗古天皇御年壱佰参拾漆歳御陵在畝火山之北方白檮尾上也神沼」、【それで、天皇が崩じた後、その庶兄の當藝志美美が、その嫡后の伊須氣余理比賣を娶った時、その三柱の弟を殺そうと謀っている間に、その親の伊須氣余理比賣が、悩み苦しんで、歌(略)でその子達に知らせた。また歌った(略)。そこでその子が聞いて知って驚いて、當藝志美美を殺そうとして、神沼河耳は、兄の神八井耳に「さあ、武器で當藝志美美を殺そう。」と言った。それで、兵で殺そうとした時、手足がふるえて、殺せなかった。それでその弟の神沼河耳が、その兄が持ている武器を受け取って、入って當藝志美美を殺した。それでその名を稱えて、建沼河耳という。そこで神八井耳は、弟の建沼河耳に譲って「私は仇を殺せなかった。お前は仇を殺せた。だから、私は兄といっても上に立てない。それでお前が上となって、天の下を治めなさい。私はお前を扶けて神を祀って仕える。」と言った。それで、日子八井は、茨田連、手島連の祖だ。神八井耳は、意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫の三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造、科野國造、道奧の石城國造、常道の仲國造、長狹國造、伊勢の船木直、尾張の丹羽臣、島田臣の祖だ。神沼河耳は、天の下を治めた。神倭伊波禮毘古天皇の年は、壹佰參拾漆歳。陵は畝火山の北の白梼の尾の上に在る。】と訳した。

古代の皇位継承の様子がよく理解できる説話で、よそ者の王が土地の皇位継承者の姫を娶ることで皇位を継承し、王の長男と雖も皇位継承が出来ず、皇位継承者の姫を前王死後に受け継がないと、皇位継承で国が安定せず、皇太子も前王が皇位に就いた時に自動的に決まることを示している。

そして、前王の生前に実質王権を行使するのが皇太子で、皇太子は13才以上でなければ皇太子に就任できず、弟が皇太子になり、弟は既に違う地域の姫が住む首都以外に住んで、弟が皇位を継承する時には、首都が変わることになる。

この説話の綏靖天皇は恐らく神八井耳で三八国の耳(三国王)の意味で、『古事記』の祖と記述される土地を支配下にした事を意味し、事代主の兄弟に稲羽八上姫の子の御井がいて、これは、三井耳を表し、その三井神は、 意富臣が大臣・大国王で、その他の君・国造の国々が支配下となった事を示し、葛城氏は手耳を殺害した褒賞に三国朝廷の王に加えられて、葛城王朝の右腕に近い地位を得て、神八井耳が葛城を首都にしたと考えられる。

天皇が天神(あま国かみ・倭国神)の意味・耳は三国神(み国かみ)の意味で、『日本書紀』は神話の天神と歴史時代の天神を字面で振り分け、『三国志』も「韓・・・諸國邑各以一人主祭天神號為“天君”」と天神を天君(王)と記述し、日本語では天王は「天岐神(あまきみ)」で、仲哀天皇九年に「東有神國謂日本亦有聖王謂天皇」と新羅王が述べているが、これは、新羅王が東に「み」国が有り「みや」と言い、「ひじり」の「岐神(きみ)」がいて「あまみ(天神)」というように述べ、平郡氏が神・あま神を君や天皇と書き換えたと考えられる。

『三国志』は三韓の言葉が「有似秦語故或名之為秦韓」と中国の秦の言葉に似ているから秦韓と呼んでいる、と記述するが、元々秦韓は辰韓で、北方民族の秦はまだ建国されておらず、秦語は中国語で秦語とは言わず、朝鮮語は日本語と同じウラルアルタイ語で、『古事記』や『日本書紀』が朝鮮語で読めると言われており、すなわち、『三国志』の時代には日本に秦があり、以前は辰と呼ばれていたことを示している。


2022年1月17日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』と海外文献 倭国2

  引き続き、前回の立太子の掘り下げの続編です。

倭奴国は燕が山東半島を失うなど弱体化したので前253年に燕から離れて倭奴国王が中心勢力に成長し、前222年に倭の宗主国の燕が滅亡し、朝鮮や韓が不安定になり、倭奴国が丈夫国を受け継ぐ狗奴国や畿内政権・辰国に対抗するために、漢の庇護を求めたと考えられる。

倭は燕の滅亡で、狗奴国や辰国と対抗するために、漢に庇護を求めて『漢書』に「海中有倭人分為百餘國以歳時來獻見云危四度至斗六度謂之析木之次燕之分也」と貢献して、燕の南西方向の分地で漢の支援を得たようだ。

大和朝廷の辰国は「會稽海外有東鯷人分為二十餘國以歳時來獻見云」と漢に貢献したと記述し、「眞番辰國欲上書見天子又雍閼弗通元封二年」と前109年に親書を上程している。

『三国史記』の阿達羅尼師今の「二十年夏五月倭女王卑彌乎遣使來聘」は奈解尼師今の20年、215年の当て嵌め間違いと考えられ、215年なら卑弥呼即位後で、新羅に出向いたと思われる。

そして、309年以前の306年に「遣阿知使主都加使主於呉」と親子が記述されるが、倭国の立太子309年の翌年の310年に「阿知使主等自呉至筑紫・・・是則今在筑紫國御使君之祖」と筑紫の「君(王)を使役する神」になると記述され、都加使主は記述されずに政権交代が起こったことを証明し、阿知使主の直系が阿知使主を名乗り、日直や倭漢直と呼ばれ、日直は日国造と同等である。

そして、421年、『宋書』に「永初二年倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授」と讃が貢献しているが、『日本書紀』「去來穗別天皇二年立爲立爲皇太子」と401年立太子の王都、「太祖元嘉二年讃」以降に「讃死弟珍立」で元嘉「二十年倭國王濟遣」、元嘉「二十八年・・・濟死丗子興遣使」、「興死弟武立・・・順帝昇明二年遣使」、『梁書』「天監元年・・・鎮東大將軍倭王武進號征東大將軍」と続き、珍と濟は続柄を記述しないので、恐らく次男以降の親子で、続いて濟の長男、そして、弟武であるが、武は少なくとも41年間在位しているので、即位は若く、妃がいないうちに即位した可能性があり、同じ王都で即位したと思われ、434年「廿三年春三月甲午朔庚子立木梨輕皇子爲太子」の立太子は珍の容姿先を王都とし、濟・丗子興と同じ王都、雄略二二年、478年「白髮皇子爲皇太子」で同年昇明二年に武が貢献し、間に4回王都を変え、その後、磐井・葛子・火中君と554年に欽明「十五年春正月戊子朔甲午立皇子渟中倉太珠敷尊爲皇太子」と火中君の弟の筑紫火君が皇太子になって王都が変わり、568年「廿九年立爲皇太子」で東漢直駒、皇太子多利思北孤、592年「漢直駒弑于天皇・・・駒奸嬪事顯爲大臣所殺」と王の駒が死に、591年に皇太子だった多利思北孤が王となって、591年に皇太子になった王の子はまだ不在で、皇太子は弟が即位し、593年「夏四月庚午朔己卯立厩戸豐聰耳皇子爲皇太子」と利歌彌多弗利が皇太子になったが、ただし、東漢直駒は利歌彌多弗利が襲名した可能性が高く、崇峻天皇暗殺は629年の可能性が高い。

そして645年皇極4年「庚戌譲位於輕皇子立中大兄爲皇太子」と橘豐日天皇之孫高向王」、橘豐日は馬子、高向王は東漢直駒の子で、漢皇子は天智天皇、その母の『新唐書』「天豐財」中宮天皇は『薬師寺東塔の擦管』に「清原宮馭宇天皇即位八年庚辰之歳建子之月以中宮不悆」と680年まで存命で、671年に天智天皇の伯父・孝徳天皇の弟の東宮太皇弟が失脚して、天智天皇の弟が皇太子となって大津に遷都、天武天皇十年「立草壁皇子尊爲皇太子」・『新唐書』「天智死子天武立と天智天皇の子で天武天皇の兄が皇太子になって681年飛鳥浄御原に遷都したと考えられる。

孝徳天皇は持統四年記事に「天命開別天皇三年・・・筑紫君薩夜麻・・・博麻謂土師富杼等曰・・・得通天朝汝獨淹滯他界於今卅年」と690年から30年前、すなわち660年代に唐に残り、当然、白村江敗戦の後なのだから662年以降で、671年では20年で年数が合わず、664年なら天智摂政3年で、「夏五月戊申朔甲子百濟鎭將劉仁願遣朝」と唐使が来日しいて、664年6月の乙巳の日のクーデタで政権奪取した天萬豊日が筑紫君薩夜麻、中宮天皇の弟恐らく義弟で、高向王の弟、東漢直駒の子・馬子の孫と思われ、孝徳天皇が蘇我蝦夷で、中宮天皇は皇極天皇とは別人物、蝦夷の娘なので、『新唐書』「孝德死其子天豐財立」と孝徳天皇の子と述べ、天萬豊日は蝦夷が生存中に死亡し、『新唐書』に記載されなかったようだ。

2022年1月14日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』と海外文献 倭国1

  今回は、前回の立太子を掘り下げたい。

前回、神武天皇42年の立太子は倭奴国の初代王朝の42年目の春甲寅の日に王都が変わった、すなわち、実質は帝である太子が帝の宮殿と異なる自分が住んでいる宮殿、太子妃の父が支配する土地を首都にしたことを示す。

それは、『隋書』に「俀王以天為兄以日為弟天未明時出聽政跏趺坐日出便停理務云委我弟」と、この場合、兄が帝で弟が帝太子、帝が宗教的世界の天すなわち天子に対する天で天神や夜を司り、実際の政治は弟が担って、皇太子が実質の天皇や帝なのである。

『三国志』には明帝死亡時、「時年三十六。〈臣松之桉:魏武以建安九年八月定鄴文帝始納甄后明帝應以十年生計至此年正月整三十四年耳時改正朔以故年十二月爲今年正月可彊名三十五年不得三十六也」と景初三年正月丁亥は改正朔で景初2年12月晦日となったから36ではなく35死亡と述べた。

『日本書記』も『三國志』も景初三年が有ったとしていてたが、『晉書』に「泰始元年冬十二月行魏正朔」と265年12月に正朔と魏が正朔、朔が1日に改めたので、『三國志』まで日蝕が天文学的朔の日干支の晦だったのが、『晉書』では日蝕が晦日ではなく天文学的朔の日干支の朔日に発生し、266年泰始訪中以降、倭国の日干支が高千穂宮がある伊都の暦ではなく、中国の暦で畿内との年月日が対応可能になったと考えられる。

すなわち、伊都の畿内政権と対応した、畿内の朔と伊都の晦と対応した暦を利用していたのを、中国の晉朝以降の元号年と畿内の『二中歴』「年始五百六十九年内丗九年」と継体元年より569年前の前53年から有る元号と対応させることが出来た。

そのため、立太子の発生年の算定は、倭国→高千穂宮・伊都一大率→畿内の変換が、倭国→晉→畿内と変換して割り振り、「魏志云明帝景初三年六月倭女王遣大夫難斗米等詣郡求詣天子朝獻」より後、畿内朝廷と倭奴国の発生年が合致するようになったと考えられ、309年、「四十年春正月辛丑朔戊申・・・天皇常有立菟道稚郎子爲太子之情・・・甲子立菟道稚郎子爲嗣」の朔が天文学的朔の日干支で合致したと考えられる。

すなわち、倭奴国王都が西暦270年から西暦309年までの40年間続き、そこからさかのぼって、『日本書紀』が神功皇后69年を『三國志』の女王の為に付け加え、202年から69年目の270年が王朝変更の269年までが卑弥呼・台与の政権で247年「其八年・・・卑彌呼以死・・・更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人復立卑彌呼宗女壹與」と男王が同王朝内、恐らく男弟王の子が王になったが国が纏まらず、249年に男弟王の娘か義父の娘・従妹が即位したと考えられる。

すなわち、この249年が「成務四十八年春三月庚辰朔立甥足仲彦尊爲皇太子」のことで、成務前期の「大足彦天皇卌六年立爲太子年廿四」と景行「五十一年・・・秋八月己酉朔壬子立稚足彦尊爲皇太子」は卑弥呼が前の男王おそらく卑弥呼の男弟王の義父若しくは義姉の夫が5年間統治したところ纏まらず、義子男弟王の姉卑弥呼が王に即位したと考えられる。

すなわち、152年から50年統治した男王朝の後に202年卑弥呼が即位、垂仁「卅七年春正月戊寅朔立大足彦尊爲皇太子」と116年から36年間、崇神「四八年・・・夏四月戊申朔丙寅立活目尊爲皇太子」と69年から47年間、開化「廿八年春正月癸巳朔丁酉立御間城入彦尊爲皇太子」と42年から27年間、孝元「廿二年春正月己巳朔壬午立稚日本根子彦太日日尊爲皇太子」と21年から21年間、孝霊「卅六年春正月己亥朔立彦國牽尊爲皇太子」と前15年から35年間、孝安「七十六年春正月己巳朔癸酉立大日本根子彦太瓊尊爲皇太子」と前90年から75年間、孝昭「六十八年春正月丁亥朔庚子立日本足彦國押人尊皇太子」と前157年から67年間、懿徳「廿二年春二月丁未朔戊午立觀松彦香殖稻尊爲皇太子」と前178年から21年間、安寧「十一年春正月壬戌朔立大日本彦耜友尊爲皇太子」と前188年から10年間、綏靖「廿五年春正月壬午朔戊子立皇子磯城津彦玉手看尊爲皇太子」と前212年から24年間、神武「四十有二年春正月壬子朔甲寅立皇子神渟名川耳尊爲皇太子」と前253年から41年間王都が続いたことを示す。

次項に続く。 

2022年1月12日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』神武天皇類書15

  『日本書紀』は四年春二月壬戌が朔の甲申に、海内事無く天神の郊祀を鳥見山に立てて、其地を上小野の榛原・下野原の榛原として皇祖天神を祭り、三十有一年夏四月乙酉が朔に、秋津州を日本國といい、四十有二年春正月壬子が朔の甲寅に、神渟名川耳を皇太子にし、七十有六年春三月甲午が朔の甲辰に、天皇崩、年一百二十七歳、明年秋九月乙卯が朔の丙寅に、畝傍山東北陵に葬った。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上 』は「四年春二月壬戌朔甲申天皇御正安殿詔曰我皇祖之靈矣自天降鑒光助朕躬今諸虜已平海内無事可以郊祀天神用大孝者矣乃立靈疇於鳥見山中其地号曰上小野榛原下山小野榛原用祭皇祖天神焉于時皇輿巡桒因登腋々上嗛間丘而廻望國状日妍哉平國獲矣雖内木綿之真迮國猶蜻蛉之臋吐焉由是始有秋津洲之号矣昔伊弉諾尊因此國日日本浦安細戈千足國磯輪上秀真國矣復大巳貴大神因之日玉壚内國及至矣復饒速日命乗天磐舩而翔行大虚也睨是郷而降之故因目之日虚空見日本國是欤四十有二年春正月壬子朔甲寅立皇子神)川耳尊為皇太子七十有六年春三月甲午朔甲辰天皇崩于橿原宮年一百二十七歳也明年秋九月乙卯朔丙寅葬畝傍山東北陵神武天皇子四處兒手研耳命無(?)次神八井耳命意保臣嶋田臣雀部造等祖次神渟井(?川)耳尊即天皇位次彦八井耳命茨田連等祖」、【四年の春二月壬戌(129日の日干支)が朔の甲申の日、天皇は正安殿で「皇祖の霊が、天から降り威光でわが身を助けた。いま、敵は既に平らげ、海内は何ごともない。それで、天神を祀ることで至孝としたい」と詔勅した。それで、霊廟を、鳥見の山中に立てて、そこを上小野の榛原・下小野の榛原といい、皇祖の天神を祀った。天皇の巡幸で、腋上の嗛間丘に登り、国の状況見て「なんと穏やかな国を得たか。垂れ下がった木綿がすぐそこまで迫るが、それでも蜻蛉が交尾している」と言った。それで、秋津州の名がついた。昔、伊奘諾がこの国を「日本は、安らかな入り江で、細戈千で国を支配し、磯の周りの本当に優れた国だ」と言った。また、大己貴の大神は名づけて仰せられた。「玉垣に囲まれた国」また、饒速日は、天の磐船に乗って大空を飛びめぐって、ここを見て降ったので、名づけて「虚空から見た日本国」と言った。四十二年の春正月壬子が朔(書記は32年12月30日の日干支)の甲寅の日、皇子の神渟名川耳を皇太子とした。七十六年の春三月甲午が朔(2月29日の日干支)の甲辰の日、天皇は、橿原宮で崩じ、百二十七歳だった。翌年の秋九月乙卯が朔(正しい日干支)の丙寅の日、畝傍山の東北の陵に葬った。神武天皇に、皇子が4人、手研耳、後は無い。次に、神八井耳。意保臣、島田臣、雀部造の祖だ。次に、神渟名川耳は天皇に即位。次に、彦八井耳、茨田連の祖だ。】と訳した。

四年春二月壬戌朔は 1月29日晦日の日干支で晦日を朔と記述する九州の暦と考えられるが、これまでは晦日が30日の前提で変換されていたので、天文学的朔の日干支と違うことから、別の日付の記事を神武4年二月に挿入したとも考えられる。

紀元前28年垂仁天皇二年に「意富加羅國王之子・・・傳聞日本國有聖皇」と既に日本国が有り、安芸国の記事であることから、紀元前28より前、紀元前73年1月30日が壬戌晦日で合致しそうである。

立太子の四十有二年春正月壬子朔は12月30日晦日の九州の暦で、以降の立太子も多くが晦日が朔の九州の暦で、天智天皇の代まで継続しているので、私は倭国の立太子と考えていて、天皇は即位した時、システマチックに皇太子が決定され、立太子は元年若しくは2年に実施され、正統な太子が死亡しても継承順位が決まっていて立太子は発生しない。

朔が1日ズレる立太子の暦が倭国の暦とするのは、倭王の末裔の天智天皇の血筋の桓武天皇の時、『続日本紀』に即位元年「天応元年三月甲申詔曰朕枕席不安稍移晦朔雖加醫療未有効驗」、「天応元年十二月甲辰・・・頻移晦朔」と晦を朔に頻繁に取り換えたと記述し、「宝亀八年二月壬子壬子晦日有蝕之」と晦日に日食があったと記述するが、この日干支は天文学的に朔の日干支の3月1日で、この年は「六月辛巳朔」は6月2日、5月は29日が晦日と記述され九州の暦である。

光仁天皇も桓武天皇も倭王天智天皇の末裔のため、784年に「延暦三年十一月戊戌朔勅曰十一月朔旦冬至者是歴代之希遇而王者之休祥也」と『史記』の「始皇帝二十六年朝賀皆自十月朔孝武齊人公孫卿曰:「今年得寶鼎,其冬辛巳朔旦冬至・・・」と同じ知識の天皇で、九州の暦に父の病の治癒を願った。

また、綏靖天皇は神武天皇死後に手耳を暗殺して兄から皇位を譲られ、天皇死亡前に立太子するとしたら手耳若しくは彦八井のはずで、神武42年の事件なら、神武42年が綏靖元年である。

すなわち、古代は女系なので、立太子イコール、違う王朝が始まったことを意味し、首都が変わることになるので、王朝の途中の立太子は矛盾をきたし、天智天皇まで続く王朝は倭国の王朝のみで、倭国は燕や漢と交流が有り、漢の晦が朔の暦を受け入れ、さらに、高千穂王朝も「帝俊妻娥皇生此三身之國」と帝俊の影響で紀元前660年より以前から晦が朔の暦を使用していたと考えられるので、倭国の王の首都交代と理解した。

その為、立太子の日干支四十有二年春正月壬子朔は倭国の初代王が遷都した、すなわち、第2代の王が擁立されたのが、前王42年春の甲寅の日だったので、朝廷の初代橿原宮天皇の42年春の甲寅の日に割り当て、その記録が高千穂の宮の記録に付加されたと考えられる。

天皇崩御の七十有六年春三月甲午朔も2月29日晦日で別の日付を挿入し、正しい天文学的朔の日干支の埋葬に繋げたと思われ、天皇手耳を暗殺したため、朝廷の記録が無く、高千穂王朝の記録を流用したと考えられる。

2022年1月10日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』神武天皇類書14

 『日本書紀』は二年春二月甲辰が朔の乙巳に、天皇、論功行賞決め、道臣に宅地築坂邑居して、寵愛、大來目を來目邑、珍彦を倭國造、弟猾を猛田縣主、弟磯城黒速を磯城縣主、劒根を葛城國造、頭八咫烏に褒賞した。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上 』は「二年春二月甲辰朔乙巳天皇定功行賞詔宇摩志麻治曰汝之勳功矣念惟大功也公之忠節焉覆惟至忠也因斯先授神靈之劔崇酬不世之勳今配股肱之職永傳不貳之美自今已後生々世々子々孫々八十聯綿必胤此軄永昌亀鏡則宇摩志麻治命天日方奇日方命倶拜申食國政大夫其申食國政大夫者今之大連亦云大臣也但天日方奇日方命者皇后之兄大神君祖也詔道臣命曰汝忠而且勇能有導功因先改日臣以為道臣加之師大來目督時元戎奉承密(?)傳能以諷歌倒語掃蕩妭氣如此功能(?)爲軍將流傳後裔其倒語用始發此時即大伴連等祖矣復道臣宅地居于築坂邑以優寵矣復使大來目居于畝傍山以西川邊之地今号來目邑即此其縁謂久米連祖也詔椎根津彦曰汝迎引皇舟表續香山之巔因譽爲倭國造其國造者自此而始矣此則大倭連等祖也詔弟磯城黒速曰汝有兄磯城逆賊之機首奏之勇因裔為磯城縣主矣詔頭八咫烏曰汝有道皇之功因入賞例其裔孫者葛野縣主部是也」、【二年春二月甲辰が朔の乙巳の日、天皇は論功行賞決め、宇摩志麻治命に「お前の勲功は大功と思う。お前の忠節は最高の忠義だと思う。だから、もう神霊の剣を授け類いない勲功を称え、報いた。いま、重職を、永く二つとない褒美と伝えなさい。今より、子々孫々代々、必ずこの職を継ぎ、永遠に鑑とせよ」と詔勅した。それで、宇摩志麻治と天日方奇日方は共に食国の政大夫を拝命した。この政大夫は、今の大連、大臣のことだ。天日方奇日方は、皇后の兄で、大神君の祖だ。道臣に「お前は忠実で勇敢で、よく案内した功績がある。それで、さきの日臣を改めて、道臣の名を与えた。それに加えて、大来目と、将軍として敵を取り締まった時、密命で、よく歌い、合言葉で、打ち払うような功績があった。将軍にして、子孫に伝なさい」と詔勅した。道臣は、大伴連の祖だ。また、道臣に宅地を与え、築坂邑に住ませ、寵愛した。また、大来目を畝傍山の西の川辺に住ませた。大来目は久米連の先祖といわれる。椎根津彦に「お前は皇船を迎えて案内し、また、天香山で功績が有った。だから、倭国造とする」と詔勅した。大和の国造の始りで、大倭連の祖だ。弟磯城黒速に「お前は、逆賊の頭の兄磯城のくわだてを教える勇気があった。だから、子を磯城県主にする」と詔勅した。頭八咫烏「お前は皇軍を案内した功績がある。だから、褒美をやる」と詔勅した。頭八咫烏の子孫は、葛野県主だ。】と訳した。

二月甲辰朔は天文学的朔の日干支だが、前半の宇摩志麻治・天日方奇日方の功績は後付けで、『日本書紀』の大夫の初出が崇神天皇八年の「即宴竟之諸大夫等歌」と、前項の分析通りに物部氏の神武天皇として受け入れたのが崇神天皇だったことを示している。

すなわち、宇摩志麻治・天日方奇日方は家系の初代の名跡を継承した名前で、実際は建大尼・大田田祢古(大直根古)が、すなわち、大国(出雲ではない)の神殿を守る神と大国の王が大夫として仕えたと考えられる。

この方法は、『舊事本紀』だけでなく、『日本書紀』も同じで、珍彦の倭國造は大和ではなく八国造と考えられ、橿原を首都にして大和王など有り得ず、難波王朝の時に仁徳天皇前紀「倭直祖麻呂」→仁徳天皇六二年「遣倭直吾子篭令造船」と倭国造となる。

珍彦は『古事記』に「木國造祖宇豆比古」と記述され、珍彦の子孫が崇神朝に木国そして安国、朝廷が河内に移ると大倭国の王となったと述べている。

そして、国造も初出は景行天皇四年の「天皇聞美濃國造名神骨之女兄名兄遠子弟名弟達子」で、それ以前はこの説話だけで、後は祖が記述されて國造ではない。

『舊事本紀』でも系図に現れるのは孝昭天皇の時の「天戸目命之子此命紀伊國造智名曽妹中名草姫」が最初で、「天忍男命葛󠄀木土神劔根命女賀奈良知姫」・「羸津世襲命亦云葛󠄀木彦命尾張連等祖」・「大海姫命亦名葛󠄀木髙名姫命此命礒城瑞籬宮御宇天皇」と葛城國造を表記せず、葛城國造は崇神天皇の時と考えられる。


2022年1月7日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』神武天皇類書13

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上 』は「十一庚寅宇摩志麻治命奉齋殿内於天璽瑞寶奉爲帝后崇鎮御魂祈禱壽所(?)謂御魂祭自此而始矣凡厥天瑞謂宇摩志麻治命先考饒速日尊自天受來天璽瑞寶十種是矣(?)謂贏都鏡一邊都鏡一八握劔一生玉一足玉一死反玉一道反玉一蛇此礼一蜂此礼一品物此礼一是矣天神教導若有痛處者令茲十寶謂一二三四五六七八九十而布瑠部由良由良止布瑠部如此爲之者死人返生矣即是布瑠之言本矣(?)謂御鎮魂祭是其縁矣其鎮魂祭日者猨女君等率百歌女舉其言本而神樂歌儛尤是其縁者矣」、【十一月庚寅、宇摩志麻治は、殿内に天の璽と瑞宝を祀り、天皇と皇后のために魂を崇め鎮めて、幸福を祈った。鎮魂祭はここから始まった。天の瑞宝とは、宇摩志麻治命の父の饒速日が天神から授けられて来た天の璽・瑞宝十種だ。それは、瀛都鏡、辺都鏡、八握剣、生玉、足玉、死反玉、道反玉、蛇比礼、蜂比礼、品物比礼のことだ。天神は「もし痛んだら、十の神を、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十といってふるわせ。ゆらゆらとふるわせ。こうすれば、死人も生き返る」と教えた。これが「ふるの言葉」の起源で、鎮魂祭の由来だ。鎮魂祭で、猿女君が歌う女と「ふる」の言葉を唱え、神楽を歌い舞う由来だ。】と訳した。

この十一庚寅の日干支は『日本書紀』には記述されず、天璽瑞寶を持っている宇摩志麻治は天皇だと宣言しているのと同じだが、正確な日干支を記述できないということは、記述すると間違いが解ってしまうことを証明している。

すなわち、物部氏が天皇だった時期は鬱色謎・伊香色謎が皇后の時代・皇后が天皇を継承したので、この2人が皇后だった時代に天璽瑞寶を持ち、それを、崇神天皇が天璽瑞寶を受け継いだ紀元前97年11月丁丑朔庚寅の説話と考えられ、物部氏の神武天皇の崇神天皇狭野を史書として挿入する時に、神武天皇に当て嵌めたことが解る。

中国の史書も朝鮮の史書も朔日や晦日の日干支が極端に少なく、ほとんどが日蝕記事で、その日干支は天文学的な朔の日干支を記述して、中国の史書は『三国志』まで朔の日を晦日と記述したことは以前記述した。

そのなかで、一部朔日を朔と記述する日食があり、それは、朝鮮の史書も朔日と晦日が混在するが、一王朝に暦法が二制度というのは有り得ず、『三国志』以前の朔日が朔の制度が他王朝、それは日本の畿内政権の資料と考えるのが基本と考えられる。

なぜなら、『日本書紀』は朔の日干支が朔日の宝庫で、紀元前660頃から記述され、計算できるのなら、中国の史書も記述するはずなので、『日本書紀』も記録資料とわかり、日本は暦先進国と解る。

そして、『晋書』以降は朔日が朔になるが、晦日が朔の日干支が少数見受けられ、これは、『史記』や『尚書』で堯が暦を作るように命じた、『大荒南經』・『大荒東經』の「羲和」の国の暦先進国日本の九州地方の暦である可能性が高い。

中国史書や朝鮮史書には晦日と朔日の朔が正しい日干支に計算で行うのは不可能で、計算なら朔・晦日の一方のはずであり、同一時代に記述された「羲和」が其々異なる人物なら、同姓同名で異なる人物と記述しなければならない。


2022年1月5日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』神武天皇類書12

  『日本書紀』は辛酉年正月庚辰が朔に、天皇が橿原宮で帝位に就いた。是歳を天皇の元年とし、正妃を皇后と尊んだ。皇子神八井・神渟名川耳を生んだ。道臣・大來目部に役割を与えた。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上 』は「辛酉為元年春正月庚辰朔都橿原宮肇即皇位尊正妃媛鞴五十鈴媛命立為皇后則大三輪大神女也宇摩志麻治命奉獻天瑞乃堅神楮以齋亦立今木亦五十櫛判繞於布都主劔大神崇齋殿内藏于十寶以侍近宿因號足尼其足尼之號従此而始矣天富命率諸忌部捧天璽劔奉於正安殿天種子命奉天神壽詞即神世古事類是也宇摩志麻治今(?)率内物部乃堅矛楯嚴增威儀也導臣命師來目部護衛宮門掌其開門矣並令四方之國以觀天位之貴亦俾率土之民以示朝廷之重者也于時皇子大夫率群官臣連伴造國造等元正朝賀禮拜也凡厥即位賀正御都践祚等事並發比時者矣復御従皇天二祖詔建樹神籬矣復所謂髙皇産霊神皇産霊魂留産霊生産霊足産霊大宮賣神事代主神御膳神命御巫齋祭矣復櫛磐門戶豊磐門戶神並命御門巫(?)奉齋矣復出嶋是大八州之靈今生嶋御巫齋禮矣復坐摩是大宮地之靈命坐摩御巫齋祭矣復天留命率齋部諸氏作種々神寶鏡玉矛楯木綿摩等也復櫛明玉命孫造新玉古語美保代玉是謂新諱(?祈祷)矣復天日鷲命孫造木綿及麻并織布矣古語云荒妙也復天宮命率天日鷲命分造肥饒地播殖穀麻矣復天宮命更求沃壤地分殖好麻木綿永奉麻大嘗會縁復天富命於安房地之大玉命社謂安房社是也復手置帆負命孫造矛竿命讃岐地求貢八百竿立縁也復天兒屋命孫天種子命解(?)天罪國罪主事也復日臣命率來目部衛護宮掌其開門矣復饒速日命兒宇摩志麻治帥内物部造備矛楯復天富命率諸齋部棒天璽鏡劔奉正安殿矣復懸瓊玉陳幣物而祭大殿次登宮門矣復天富命陳幣祝詞(?+)祀皇天偏秩群望以荅神祇之恩矣復中臣齋部二氏俱掌祠祀之儀者矣復命猨女君氏供神樂矣自餘諸氏各有其軄矣復當斯之時帝之與神其際未遠同殿共床以此爲恒故神物宮物亦未分別矣復宮内立藏號曰齋藏令齋部氏永任其軄矣」、【辛酉を元年とし、春正月庚辰が朔の日に、橿原宮で、はじめて皇位に就いた。尊んで、正妃の媛蹈鞴五十鈴媛を皇后とし、大三輪の大神の娘だ。宇摩志麻治は天の瑞宝を献上し、神木の楮をたてて祀った。また、今木を立て、五十櫛を布都主剣のまわりに刺し巡らせて、大神を祭殿内で十種の瑞宝を供えて崇めた。そのような近侍となったため、足尼といわれた。足尼の号は、ここから始まった。天富は、諸々の忌部を率いて天の璽と剣を正安殿に捧げた。天種子は、天神の寿詞を奏上した。この内容は、神代の古事のようなものである。宇摩志麻治は内物部を率いて、矛・盾をたてて増々いかめしくした。道臣は来目部を指導して、宮門の護衛して、開閉した。それから、四方の国に天位の貴さを見せ、土地の民を従わせて、朝廷の大切な中心と示した。それで皇子と大夫は、役人・臣・連・伴造・国造達を率いて、元日の年始の礼で拝んだ。即位・賀正・都の践祚などの儀式は、みなこのときに起こった。また、二柱の祖神の詔勅で、神座の垣を建てた。(以下略:下の役割を決めた)」と訳した。

辛酉年正月庚辰朔は天文学的朔の日干支で、この日干支は現代の2001年までの1月1日に一度も現れなかった特異日、間違えようがない日であった。

門番の日臣以外は『日本書紀』に現れず、宇摩志麻治が足尼、すなわち、王が祀る神の宮殿の基礎の根を管理する人物、すなわち、王が神で、その言葉を皆に伝える役割が足尼で、後に、神の伝言者こそ王ということで、王を宿祢と呼んだと考えられ、安寧天皇の皇后の「大間宿禰女糸井媛」と記述され、大間宿禰が最初と考えられ、譯語田宮は「海部王家地與絲井王家地」、「尾張大海媛一云大海宿禰女」と記述されることから、尾張邑の王がこの説話のモデルと考えられる。

物部氏の宿祢は崇神朝の大水口宿禰が初出で、『舊事本紀』で孝安朝に「三見宿祢・・・宿祢奉齋大神其宿祢者始起此時」矛盾があり、実際は尾張邑の王が最初で、孝昭朝に建諸隅が「葛󠄀木直祖大諸見足尼女子諸見巳姫生一男」と葛󠄀木の宿禰を受け継ぎ、葛城氏は「倭足彦」・「大倭根古」と天皇になったが、姻戚の物部氏、尾張氏の皇位を奪還が『舊事本紀』のこの年の説話である。

神武即位に既に「臣・連・伴造・国造」が存在し、地盤のない神武が地元の姫の皇后に従う「臣・連・伴造・国造」の前に君臨したことを示し、皇后の家系が既に「臣・連・伴造・国造」を割り当てた王朝だったことを示している。