2025年11月28日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 安康天皇2

  『舊事本紀』に安康元年十二月己巳朔壬午」に「物部木蓮子連公為大連」とあるように、天皇は木蓮子となっている。しかし、木蓮子は「石上廣髙宮御宇天皇御世為大連」とされているので、「大長谷朝御世為大連」の布都久留が即位したのだろう。布都久留は依羅連の娘を妃にしているので、太姫が草香幡梭姫である。実質は初代布都久留が天皇だったのだろうか。454年1月に男浅津間若子は薨じ、圓大臣が穴穂で継承したようで、薨去日が記述されない。伊豫に流されたのが圓・木梨輕と考えた。葛城氏は倭直の孫?の童女君が長谷に逃れ、女国は427年崩御の大雀(大別)の後を継ぐ平群氏が支配した。

安康二年春正月癸巳朔己酉も正しい日干支で、「立中蒂姫命爲皇后」とあるように、穴穂は中蒂姫を皇后にした。去來穗別の娘となっているが、世代的に初代大草香の娘の中磯媛と中臣烏賦津使主との娘の可能性が高い。中磯媛は仲国の女王のようで、その婿が中臣氏で仲国王になり、その娘が中蒂姫と考えた。『日本書紀』は安康皇后を去來穗別の娘とするが、履中(反正)天皇伊莒弗の妃の玉彦媛(津野媛)が初代忍坂大中姫なのだろう。

安康三年秋八月甲申朔壬辰も正しい日干支で、穴穂が眉輪に殺害された。大前は眉輪や圓(木梨輕)の後ろ盾になって大泊瀬幼武に殺害され、陵は大和の菅原伏見、首都大和石上なので相応しい。

2025年11月26日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 安康天皇1

允恭四十二年春正月乙亥朔戊子は正しい日干支で、「天皇崩時年若干」と記述されるが、78歳で年若干は奇異である。木梨輕は圓大臣と考えられるが、大前の兄弟の小前は顕宗天皇(大連)で世代が異なる。すなわち、市邊押磐(小前)が453年允恭四十二年に崩じた允恭天皇の後継者だったが、雄略天皇に殺害され、即位期間が年若干だったと考えられる。皇太子は允恭天皇麥入の子の大前と荑媛の婿の小前が允恭天皇の後継者だったが、共に、雄略天皇に殺害された。

允恭四十二年冬十月庚午朔己卯も正しい日干支で、「葬天皇於河内長野原陵」と河内の天皇、すなわち、二代目大草香の陵墓である。十二月己巳朔壬午も正しい日干支で、「穴穗皇子即天皇位」と安康天皇大前が石上に遷都した。穴穂宮と呼ぶのは、大津の穴穂の姫の津媛の後継者の香火姫を妃にしたからと考えられる。

穴穂の妃は「去來穗別天皇女曰中蒂姫皇女更名長田大娘皇女也」とあるように中蒂姫・長田大娘である。しかし、長田大娘は允恭朝の姫なので別人で大前の皇后である。この時期は雄略天皇が記述しているので、近い時期、誤差は少ない。

ここまでの『日本書紀』の編者は真鳥の可能性が高い。天皇の名が葛城氏の系図なのだから。ただし、葛城氏の知っていた内容は『古事記』。物部氏と尾張氏や4つの国、倭、文身・大漢・扶桑の『四方志』から引用したのだろう。

2025年11月24日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 允恭天皇3

  允恭七年冬十二月壬戌朔も正しい日干支で、「妾弟名弟姫」と弟姫を妃にしようとした説話である。『日本書紀』「弟姫焉・・・時人號曰衣通郎姫」とあるように、弟姫が衣通郎姫、『古事記』「輕大郎女亦名衣通郎」とあるように、弟姫が輕大郎女、大后の弟は田井中比賣である。すなわち、皇太子の木梨之輕王と田井連の祖の娘婿の反正天皇の説話を併せた記述である。古い話なら、これら全てを纏めて、一人の皇后の説話。それが、雄略朝で編じ、また、仁賢朝の『古事記』、最近の話だから、矛盾がでる。

允恭十一年春三月癸卯朔丙午も正しい日干支で、「室屋連依勅而奏可則科諸國造等爲衣通郎姫定藤原部」とあるように、藤原に住む衣通郎姫の為に藤原部を定めた。しかし、大伴室屋は雄略朝の大連なのだから、大伴室屋の記録で、允恭三十七年448年閏2月1日の可能性が高い。閏月は政権によって決め方に差があり、3月朔日の穀雨の決め方で中国式なら閏2月30日晦穀雨、すなわち、3月晦となる。

実質天皇は木梨輕、衣通郎姫は輕大娘で、恐らく、木梨輕と輕大娘は同じ宮に住む従妹だろう。『後漢書』に「大人皆有四五妻」とあるように、王は皇后忍坂大中姫の姉妹や従妹を総取りで妃にして纏めて忍坂大中姫と呼んでいたと考えられる。天皇も代々、木梨輕だ。

允恭十四年秋九月癸丑朔甲子は正しい日干支で、「天皇獵于淡路嶋」と淡路島に出向いている。伊豫國に流されたとされるのが木梨輕、すなわち圓大臣で、その途中の記録と考えられ、允恭十四年秋九月癸丑朔が456年ならば、良く合致する。圓が弟媛の子、輕大娘が圓皇女で、弟媛を継承したと考えれば、理に適う。456年ならば、木梨輕の後ろ盾の安康天皇大前も同じ歳に崩じている。この允恭朝の皇后は弟姫、忍坂大中姫も弟姫、太子は木梨輕、圓大臣だったのだろう。女国の女王と大臣の説話だ。女国は400年頃から雄朝津間稚子が崩ずる454年まで、弟姫の王朝だったようだ。

 

年候補

癸丑9月朔日 332 425 456 482

2025年11月21日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 允恭天皇2

允恭二年春二月丙申朔己酉は正しい日干支で「立忍坂大中姫爲皇后」と忍坂大中姫が皇后になった。実際は忍坂大中姫ではなく、年齢から考えると、二代目去來穗別の皇后と考えられ、允恭()妃は瑞齒別の妃の津野媛の娘の圓皇女なのだろう。二代目は弟姫の娘の衣通郎姫(弟姫)である。去來穗別の崩御が432年、瑞齒別の崩御が437年、雄朝津間稚子の崩御が454年で雄朝津間稚子は一代後でなければ奇異である。

允恭三年春正月辛酉朔は正しい日干支で、「遺使求良醫於新羅」と医師を求めた。八月に新羅から医師が遣って来たが、新羅は女国との交流を倭国に叱責されたようで、翌年、実聖尼師今十四年夏415年に「遣使倭國送白綿十匹」と倭国に遣使を送っている。よく合致する。倭国は新羅、扶桑国は高句麗、女国が百済と友好関係があったと考えられる。好太王が新羅を侵略し、友好国の扶桑国に助けを求めたか?

允恭四年秋九月辛巳朔己丑は正しい日干支で、「誤失己姓」と姓の間違や、失った者がいるので、氏姓を改定したとある。前項で考えたように、権力は難波朝が持っているようで、難波朝が無理やり氏姓を決め、不満を持った。その結果、允恭五年秋七月丙子朔己丑の玉田宿禰の反乱と允恭天皇五年冬十有一月甲戌朔甲申の「葬瑞齒別天皇于耳原陵」と考えられる。玉田宿禰の義子は吉備田狭、子は圓で、圓は河内丹比の天皇の後ろ盾と考えられ、和珥の木事の娘婿と思われる。そして、允恭五年に百舌鳥へ埋葬された天皇は河内の天皇である。七月に殺害された玉田宿禰だろうか?難波朝の後継者尾張連吾襲か?

2025年11月19日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 允恭天皇1

西暦412年允恭元年の「寡人何敢遂辭乃即帝位」とあるように、允恭天皇が即位したが、日干支を記述しない。河内は427年まで大別、崩じた後は大草香が統治した。畿内は反正(伊莒弗)そして、伊莒弗の娘婿の伊莒弗の甥と考えられる麥入が統治した。これが允恭天皇、おそらく、首都は遠飛鳥宮大連なのだから明日香村の遠飛鳥宮と考えられる。そして、432年允恭二十一年壬申年正月三日に大雀の後継者の去來穗別が崩じたと『古事記』は記述する。

允恭二十三年三月甲午朔庚子、「木梨輕皇子立為太子以物部麥入宿祢物部大前宿祢並為大連」とある。この日干支は九州の暦で、倭国の王朝交代の日付、さらに、遠飛鳥宮大連と石上穴穂宮大連が同時に即位するのは奇異だ。麥入は田井連の祖の娘婿で、田井比賣は弟媛なので、麥入は弟媛の娘の財皇女の夫である。434年の大連即位は安康天皇大前が即位したのだろうか。実際に434年に即位した人物は、倭王珍の即位だ。428年に倭国王讃が遣使、438年に讃の弟の珍が安東将軍になっている。434年の王位継承はピッタリだ。

允恭五年に伊莒弗を埋葬し、允恭八年に「造宮室於河内茅渟」と河内に遷都したとある。勿論、首都は遠飛鳥宮なので、允恭五年に難波大草香が河内茅渟宮に遷都したのだろう。麥入天皇は何度も茅渟宮に行幸して、権力的には大縣主と考えられる大草香が強力のようだ。二代目大草香の妃は津野媛の娘の香火姫と考えられる。大草香の子の眉輪の後見人が圓皇女の夫と考えられる圓大臣なので、圓の甥が眉輪なら理に適う。

2025年11月17日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 反正天皇2

  406年反正元年春正月丁丑朔戊寅は九州の暦で、「儲君即天皇位」は皇位を、伊莒弗が磐余から和珥氏に追われた記録だろう。427年まで大別が生存しているので、伊莒弗が大別から王位を奪ったのだろう。『舊事本紀』によると、仁徳天皇紀には「丁卯秋八月十五日天皇大別崩」、『古事記』も「丁卯年八月十五日崩也」と427年まで続いている。しかも、日付の表記法が畿内のものと違う。

伊莒弗の義父は倭国造、おそらく、圓大臣の祖父、伊莒弗の甥が圓大臣、圓の義父が和珥臣木事、圓の父の允恭天皇の妃は弟姫、忍坂大中姫の妹も弟姫、おそらく、忍坂大中姫も弟姫だ。圓の妃は木事の娘の津野媛の娘だろう。和珥臣と葛城氏の結びつきを示している。

反正元年秋八月甲辰朔己酉は正しい日干支で、「立大宅臣祖木事之女津野媛爲皇夫人」と、和珥臣の娘が皇夫人になった。瑞齒別の妃の津野媛と雄朝津間稚子の妃の弟媛で、弟媛は忍坂大中姫の妹、衣通郎姫と呼ばれ、『古事記』の衣通郎女は輕大郎女で娘である。『古事記』の瑞齒別は437年允恭二十六年に崩じ、雄朝津間稚子は454年、子の圓は456か7年に崩じているので、瑞齒別の娘婿は理に適う。

反正五年春正月甲申朔丙午は正しい日干支で、「天皇崩干正寢」と伊莒弗が崩じた。陵墓は『舊事本紀』が毛須野で埋葬年不明、『日本書紀』が同じく百舌鳥耳原へ允恭五年に埋葬している。履中天皇も允恭天皇も崩後すぐに埋葬しており、允恭五年の埋葬は異なる人物の可能性が高い。埋葬場所が百舌鳥なのだから玉田宿禰に殺害された難波大別朝の尾張連吾襲なのだろう。

2025年11月14日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 反正天皇1

    履中六年三月壬午朔丙申は正しい日干支で「天皇玉體不悆水土不調崩干稚櫻宮」は、難波の王の薨去日と考えられる。伊莒弗は柴籬宮時の天皇で、冬十月己酉朔壬子も正しい日干支の「葬百舌鳥耳原陵」と河内で埋葬されている。すなわち、河内の王が若櫻宮に来ていて薨じたのだろう。通常、宮殿で崩御すると、首都を記述しない。天皇が首都で崩御するのは当然のことだ。「立草香幡梭皇女爲皇后」の記事を挿入したのは、大伴氏が河内を掌握したのだろう。崩じたのは日向泉長媛の夫で、跡取りは髪長媛の婿と考えられる。

伊耶本和気は432年崩、反正天皇が伊莒弗で410年崩である。反正天皇の記事を編ませたのは雄略天皇なので、皇后の母親に関する記事を記しても不思議ではない。

『古事記』には2柱の幡梭皇女(波多毘能大郎子と波多毘能若郎女)が存在するが、『日本書紀』は1柱で幡梭皇女だ。従って、この草香幡梭皇后は日向髪長媛の娘ではなく、日向泉長媛の義娘の幡梭皇女で大別の子の妃だろう。泉長媛の子に大葉江・小葉江が存在し、大前・小前と類似している。

もしそうなら、大前・小前は允恭大連麥入の娘婿だろう。麥入の妃は五十琴彦の子の目古の娘、世代が違いすぎる。目大連と大伴大連は全く同時期に出現し、同一人物を思わせる。そして、長目連が目大連の弟、目古連も大伴氏と関係がありそうだ。

2025年11月12日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 履中天皇4

秋九月乙酉朔壬寅は正しい日干支で、伊奘諾神を祀り、河内飼部が従っているのだから、河内丹比の天皇の伊莒弗大連の説話だろう。冬十月甲寅朔甲子は九州の日干支で、筑紫車持君を断罪する説話で、筑紫(豊前・筑前)は和珥君の配下だったと考えられる。車持君は三月に畿内で天皇と会見し、九月に淡路島、10月に宗像近辺着の行程である。

履中六年春正月癸未朔戊子は正しい日干支だが、「立草香幡梭皇女爲皇后」の幡梭皇女は

穴穂の妃の義姉なので、431年允恭二十年が正しそうだ。伊耶本和気は「壬申年正月三日」432年に薨じているので、その直前の王位交代は相応しい。眉輪は7歳で安康天皇を殺害するので、351年生まれ、草香幡梭皇女の孫に相応しい年齢である。

履中六年二月癸丑朔の妃を召しいれる説話は正しい日干支だが、「讃岐國造阿波國脚咋別凡二族之始祖也」とあるように、吉備の説話と考えられる。吉備は九州の日干支を使用していた。死期を迎えた天皇が妃を迎えるのは奇異なので、410年1月30日に讃岐国造の祖なのだから、吉備王の説話と考えられる。吉備臣の初出は雄略妃の稚媛の父である。

神武東征は畿内を一変させた。宗像・宇佐・日向・安芸・吉備の軍が大挙してやってきた。これを、倭王武は東の「毛人五十五國」と呼んだのだろうか。少なくとも、履中天皇の後ろに、倭王阿知使主が、隼人刺領巾がいた。

年候補

 

癸未1月朔日 188 281 374 405 431

壬申年 312 372 432 492

癸丑1月晦日 317 348 410 441

癸丑2月朔日 374 405 467

2025年11月10日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 履中天皇3

履中三年冬十一月丙寅朔辛未は正しい日干支だが、「故謂磐余稚櫻宮其此之縁也・・・號膳臣余磯曰稚櫻部臣」と磐余若櫻の名前の由来を述べている。若櫻宮は242年に開かれていて、膳臣遠祖は景行天皇五三年・123年に「賜膳大伴部」と記述されているので、185年、もしくは、128年の九州の日干支の10月30日が相応しい。もちろん、402年も間違いとは言い切れない。

履中四年秋八月辛卯朔戊戌は九州の日干支なので、大伴氏が434年の記録を挿入した可能性が高い。「始之於諸國置國史記言事達四方志」と倭國、文身國、大漢國、女國の史書を記述させたのだろう。扶桑國は、自国なので、記録の必要も無いし、政権交代した新しい政権で4国史を纏めたものが『日本書紀』の原型となる。

履中五年春三月戊午朔は正しい日干支で、「筑紫・・・何奪我民矣吾今慚汝於是祷而不祠」とあり、筑紫と朝廷の不和を記述する。『好太王碑文』「十四年甲辰・・・刺倭寇潰敗斬殺無數」と倭は同年に大敗していて、朝廷の援助が無かったため、壊滅したと考えられる。扶桑国は高句麗の官位を導入するなど、友好的なので、当然の対応だろう。日向出身で倭と友好的な大伴氏が政権を奪った原因の一つかもしれない。

同時に大臣と大連が二人、女国と扶桑国ともう一つ政権があってもおかしくない。倭王武は「東征毛人五十五國」、難波・河内まで影響力があってもおかしくない。

 

年候補

丙寅10月晦日30 4 128 195 221 252 345 469

丙寅11月朔日   61 185 278 309 371 402 495

辛卯8月朔日 186 217 243 310 367 434

2025年11月7日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 履中天皇2

  皇后黒媛に対し、履中六年春正月癸未朔戊子は正しい日干支で、奇異だが、皇后が変わる。「立草香幡梭皇女爲皇后」と草香の幡梭が皇后になった。『古事記』には波多毘能大郎子と波多毘能若郎女が記述され、波多毘能若郎女は亦の名が長日比賣や若日下部と記述される。すなわち、草香幡梭皇女が大草香の妃と考えられ、履中六年西暦405年から河内の天皇は大伴氏を背景にした大草香になった。

名だけの天皇だった大草香が河内で朝廷を打ち立てたのだろう。おそらく、草香幡梭皇女が比香賀君の娘の玉彦媛、夫が大草香・伊莒弗だろう。葛城氏と大伴氏に亀裂がはいったのだろう。

履中元年夏四月辛巳朔丁酉も正しい日干支で、「召阿雲連濱子詔之曰汝與仲皇子共謀逆」と、磐余稚櫻宮はまだ不穏だった。秋七月己酉朔壬子も正しい日干支で、「立葦田宿禰之女黒媛爲皇妃」は近江の女国の記録である。

履中二年春正月丙午朔己酉も正しい日干支で、「立瑞齒別皇子爲儲君」と記述される。立太子なので、倭国の賛の王朝が始まったのだろうか。儲君とされるのは瑞齒別、木梨輕、大友皇子の三皇子のみで、木梨輕は太子になって儲君と呼ばれ、瑞齒別は儲君になって太子と呼ばれた。儲君は本来、太子になるべきでない人物が棚牡丹で太子になったので、呼ばれたのだろうか。

 

立太子と倭国王

399 ― 漢直祖阿知使主

401 ― 瑞齒別皇子爲儲君(讃もしくは讃の父が即位)

428年 ― 倭国王()遣使獻方物

434年 ― 木梨軽皇子、太子に(弟珍が即位)

438年 ― 珍(讃の弟)、安東将軍に

451年 ― 倭済(珍の子)進號安東大將軍に

461年 ― 世子興(済の子)、安東將軍に

478年 ― 白髪皇子、太子に(弟・武が即位)

  ― 武王(興の弟)、宋へ上表文を送る

※親子相続の時、立太子が無い。

2025年11月5日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 履中天皇1

  八十七年春正月戊子朔癸卯は九州の日干支で、「天皇崩」とある王が崩じた。九州の日干支なのだから葦田宿禰達の記録で、磐余稚櫻宮の天皇が交代するので、五十琴宿祢の崩御である。冬十月癸未朔己丑は正しい日干支で、「葬于百舌鳥野陵」は場所が異なる。百舌鳥野陵は仁徳六七年(379)の「定陵地」で埋葬された息長帯姫ではないかと考えている。

五十琴宿祢の子が(履中)反正天皇の伊莒弗で、伊莒弗の子が天皇になり、反正天皇の子は天皇になっていない。すなわち、反正の義父の和珥臣許碁登の義子が伊莒弗と考えられる。伊莒弗は和珥大臣比布禮の娘婿の五十琴宿祢の子で、仁徳天皇大別は多遅麻の子となっているが、世代的に孫なので、従弟にあたる。和珥大連印葉(菟道稚郎子)の妃も仁徳天皇大別の妃も記述されないが、理には適う。

履中元年春二月壬午朔は正しい日干支で、「皇太子即位於磐余稚櫻宮」、『舊事本紀』「物部伊莒弗連為大連」とあるように、伊莒弗が名だけの天皇になった。近江女国の天皇は倭國造の祖の比香賀君の葦田宿禰(娘の黒媛)で、比香賀君の娘の玉彦媛が伊莒弗の妃なのだろう。

黒媛は婿が去來穗別、黒媛は皇后ではなく名目上の皇后玉彦媛が居るので皇妃である。履中二年十月に去來穗別は圓大使主と呼ばれ、雄朝津間稚子、更に木梨輕が圓を襲名したようだ。圓大臣は雄略天皇前紀の安康三年に殺害されている。木梨輕は大前安康大連に敗れ、伊豫に流されたとあるが、殺害されていて、流されたのは小前だった可能性が高い。

2025年11月3日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 仁徳天皇4

仁徳卅五年夏六月に皇后磐之媛が筒城宮で薨じ、仁徳卅七年冬十一月甲戌朔乙酉は正しい日干支で、皇后が埋葬された。磐之媛は去來穗別を380年頃に生んでいると考えられる。この死は意乎巳が崩じた可能性がある。仁徳卅八年春正月癸酉朔戊寅も正しい日干支で、「八田皇女爲皇后」と和珥臣木事の父?の大別政権が誕生したのだろう。宮主宅媛の後継者雌鳥皇女が殺害され、若帯日子が女国の政権を奪取した。

『舊事本紀』に、仁徳八十二年春二月乙巳朔の「大別定皇子代后號為氏以為氏造改賜矢田部連公姓」は427年の日干支である。仁徳天皇の崩御日は『古事記』も『舊事本紀』も、丁卯年八月十五日で、丁卯年は427年だ。大別に皇后の矢田から矢田部を賜姓されたのは372年だった。八田皇后が薨じたのだろうか。

仁徳四十三年秋九月庚子朔は間違いの日干支で、「依網屯倉阿弭古捕異鳥」と阿弭古が異鳥を捕まえたが、依網池は紀元前36年に造られた。そして、西暦200年に「和魂荒魂依網吾彦男垂見爲祭神主」と吾彦男が和魂荒魂を祀った。その吾彦の説話が挿入された可能性が高く、西暦205年が相応しい。仁徳五十年春三月壬辰朔丙申は正しい日干支で、「茨田堤鴈産之」と「阿弭古捕異鳥」を対応させたのだろう。

仁徳六十七年冬十月庚辰朔甲申も正しい日干支で、「幸河内石津原以定陵地」と陵を造った。おそらく、初代の大別が崩じたのだろう。前方後円墳などは、用水や溜池の残土を積み上げた場所で、その盛り土を締めて、更に墓穴を掘る必要がある。その間、天皇が生き続ける保証は無い。もしかすると、次代の天皇も崩じる可能性もある。すなわち、古墳は仁徳天皇十一年に掘られた堀江や茨田堤の残土が締まり、小山が出来ていた所に、天皇が崩じたため、墓にしたというのが理に適う。

 

年候補

乙巳2月朔日 303 334 396 427 453

庚子9月朔日  76 205 262 329 386 453