2025年8月25日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 崇神天皇5

     夢見診断と「豐城命令治東國」は前30年崇神六十八年冬十二月戊申朔壬子の「崩時年百二十歳」の前、特に十一月は相応しかった。前38年崇神六十年秋七月丙申朔己酉の「武日照命從天將來神寶」記事は亀岡の出雲神社から、媛蹈鞴五十鈴媛が宇摩志麻治から受け取った天皇の璽・神寶を「武諸隅而使獻」と武諸隅が得た。勿論、大新河の子の武諸遇や大母隅は生まれていないので、世代的に建宇那比の子の建諸隅が天皇の璽を得た。亀岡の出雲神社の勢力は大田田根子が河内に居て、大物主を祀ったように、河内・纏向を勢力下にしていた。その纏向の勢力の天皇の璽を建諸隅が得て、河内・纏向も勢力下にした。

そして、前36年崇神六十二年秋七月乙卯朔丙辰、吉備の日干支の記事の「河内狹山埴田水少・・・其多開池溝」とある。すなわち、出雲神社の領土だったと考えられる河内を建諸隅が領有して開墾した。

『舊事本紀』は前33年崇神「六十五年春正月武諸隅命為大連」と天皇即位を宣言し、「六十五年秋七月天皇踐祚」と崇神天皇が建諸隅に皇位を譲ったと認めた。豐城入彦が纏向天皇で、遷都していないので、建諸隅は豐城入彦では無かったと解る。

前30年に「豐城命令治東國」と豐城入彦から河内や纏向を奪おうとしたと考えられる。当然、豐城入彦は反発して、前天皇の崇神天皇と建諸隅大連側に勝利して、崇神天皇は前30年六十八年冬十二月戊申朔壬子の「崩時年百二十歳」と崩じた。

明年秋八月甲辰朔甲寅の日干支は九州・吉備の日干支で甲辰は8月2日で、「葬于山邊道上陵」とある。資料には八月癸卯晦甲寅とあったのだろう。すなわち、河内や纏向で権力を持っていた豐城入彦が葬儀を遂行して、皇位を引き継いだと宣言したのだろう。

それに対抗した人物が建諸隅大連、皇后狹穗姫(淳名城入姫)の兄の狹穗彦(おそらく大根)で、崇神天皇の首都の師木水垣宮で政権を維持したと考えられる。


年候補

己卯朔 -454月 -405月 -309月 -3011月 -2510月 -142

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2025年8月22日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 崇神天皇4

  崇神天皇は大彦と旦波大縣主の娘の竹野媛との子の丹波道主、彦湯産隅である。皇后は伊香色雄の義姉妹の木国造の娘で、彦湯産隅の皇子は丹波の姫、伊香色雄の娘を妃にし、伊香色雄の皇子も木国造の娘(真木姫・荒姫・玉手姫)を妃にしたようだ。実質の最高権力者は伊香色雄である。

前86年崇神十二年春三月丁丑朔丁亥は正しい日干支で「詔曰朕初承天位」と四道の侵攻の成功で、領地の拡大を祝っている。崇神十二年秋九月甲辰朔己丑の日干支は1月のズレがあり、10月朔日が正しい。11月に閏月があるので、正しいかもしれないが、保留である。記録は「故稱謂御肇國天皇也」で、初めての天皇だと祝っている。何故即位12年目に宣言するのか不明である。相応しい日干支は前210年、孝元天皇が輕地境原宮に遷都した翌年なら相応しいかもしれない。翌年に孝霊天皇を埋葬し、その翌年に欝色謎を皇后にしている。

前81年崇神十七年七月丙午朔の「造舩舶」は正しい日干支で、崇神四八年夏四月戊申朔丙寅の「立活目尊爲皇太子」は閏三月の日干支である。立皇太子は九州倭国の王朝交代記事は変わらない。しかし、前50年崇神四十八年春正月己卯朔戊子の「不知曷爲嗣各宜夢」記事の夢見で後継者を決める説話が奇妙だ。

『舊事本紀』には崇神「三十八年春正月己卯朔戊子」と間違いの日干支を記述している。当然、夢見で後継者を決めるにしても、崇神四八年は奇異である。立皇太子記事が四月なので、前30年の九月か十一月は朔日が己卯、翌年正月に垂仁天皇が即位している。

夢見で武諸隅大連の後継者を八坂入彦にしようと画策したので、豐城入彦が纏向天皇を名乗った。師木天皇の武諸隅大連は狹穗彦(大根)、妃が十市瓊入姫、豐城入彦の妃が淳名城入姫(佐波遲比賣)、八坂入彦の妃が豐鍬入姫(日葉酢媛)、義兄弟である。

 

年候補

甲辰9月朔 -303 -241 -210 -117 8 101

己卯朔 -454月 -405月 -309月 -3011月 -2510月 -142

2025年8月20日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 崇神天皇3

  崇神六年の「託渟名城入姫」は崇神六〇年に武諸隅が大連(天皇)になって6年目の崇神六十五年、前33年と考えられる。崇神七年秋八月癸卯朔己酉の「祭倭大國魂神之主」の候補に前34年や前29年があった。前29年は垂仁元年で、首都が変わり、祀る神も変わった年である。前33年頃に纏向宮の建設が始まり、豐鍬入姫が伊勢の女王となったのは垂仁六年、狹穗姫死後の可能性が高く、垂仁十五年に皇后になった。

それに対して、前89年崇神九年春三月甲子朔戊寅の記事の「盾八枚矛八竿祠墨坂神祠大坂神」や夏四月甲午朔己酉の「祭墨坂神大坂神」は九州や吉備の暦である。九州の暦は中国の影響下の暦で中国は日干支の暦の最初の記事は『史記』の前179年、「孝文本二年十一月晦日有食之」が最初である。日本の孝元天皇の頃からで、使用量から考えても、朔日や晦日は日本からの輸出、高千穂宮からの輸出と考えられる。琵琶湖の津には神様達が集まるから「ついたち」、神様が居ない九州や吉備は一日から数えて「三十日」である。すなわち、中国は晦日イコール朔日、晦と朔が入り混じる原因なのだろう。

前88年崇神十年秋七月丙戌朔己酉は正しい日干支で、「猶不受正朔」天皇が正しい朔を使っていないと怒っている。正しい日干支で天皇が怒るのだから、朔日を朔と使用する天皇は朔日を晦と使っている氏族に怒りを向けている。その結果、崇神十年九月丙戌朔甲午の九州の日干支を使う「以大彦命遣北陸武渟川別遣東海吉備津彦遣西道丹波道主命遣丹波」の四道を攻めた。北陸と吉備と東海と丹波道が九州・吉備の暦を使っていて、天皇は琵琶湖南部の人物である。

そして、琵琶湖南部にいる天皇は正しい日干支の崇神十年冬十月乙卯朔に「詔群臣曰今返者悉伏誅畿内無事」と勝利宣言を、前87年、九州の暦の崇神十一年夏四月壬子朔己卯に「四道將軍以平戎夷之状奏焉」と九州の暦を使う地域からの報告があった。負けても、記録を持つのは高千穂宮なので、記録は九州の暦なのだろうか。

 

年候補

癸卯8月朔 -158 -91 -34 -29 

2025年8月18日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 崇神天皇2

  崇神七年秋八月癸卯朔己酉の「倭迹速神淺茅原目妙姫穗積臣遠祖大水口宿禰伊勢麻績君三人共同夢」、「大田田根子命爲祭大物主大神之主亦以市磯長尾市爲祭倭大國魂神之主」と大田田根子に大物主を祀らせろと占った。

ところが、前91年崇神七年十一月丁卯朔己卯の「即以大田田根子爲祭大物主大神之主」はこの年にも、それ以外にも相応しい年が無い。前90年の九月朔日が丁卯朔であり、それなら、前90年崇神八年冬十二月丙申朔乙卯の「天皇以大田田根子令祭大神」が一連の流れになる。変えた原因は崇神六年前92年に天照大神と倭大國魂二神を豐鍬入姫と渟名城入姫に託した記事を挿入したためだろう。豐鍬入姫と渟名城入姫は崇神朝末年が相応しく、大國魂を祀るのが市磯長尾市とするために早めたのだろうか。長尾市は垂仁朝で活躍している。丁卯10月晦が前23年、垂仁七年、長尾市が野見宿禰を呼んだ年だ。

1年のズレがまだ続いている。『舊事本紀』の政権と『日本書紀』の政権の統合は、崇神十年の「猶不受正朔」のため、四道侵攻を行うまで、待たなくてはならなかったようだ。大彦が北陸、武渟川別が東海、吉備津彦が西道、丹波道主は丹波、『古事記』は西道を記述しない。それは『古事記』の崇神天皇は吉備出身だったからなのだろう。これら、四道は暦が違っていたことを示す。『二中歴』には「年始五百六十九年」に継体元年(517年)が始まったと記述される。すなわち、前53年、崇神45年に元年が始まった。

前90年崇神八年夏四月庚子朔乙卯の記録の「以高橋邑人活日爲大神之掌酒」は正しい日干支である。活日は御眞木入日子と御眞津比賣の子の伊久米伊理毘古と無関係とは考えられず、伊久米伊理毘古は琵琶湖北部の皇子と考えられる。長浜には高橋や高月があり、天理は大国魂大神を祀る大和神社、創建は渟名城入姫で崇神朝末期の出来事だ。

 

年候補

癸卯8月朔 -158 -91 -34 -29 

丁卯11月朔 -333 -240 -54 4 71

丁卯10月晦 -204 -147 -80 -23 

丁卯朔 -1005月 -958月 -909月 -8512月 -793

2025年8月15日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 崇神天皇1

崇神天皇は師木の水垣宮を首都にする天皇で、『日本書紀』には前95年崇神「三年秋九月遷都於磯城是謂瑞籬宮」と記述される。しかし、日干支を記述しない、すなわち、日干支の記録が無かったのだろう。今まで、記録を持っていた朝廷が滅び、記録を持っていなかった場所に朝廷が遷った。

すなわち、この遷都は記録を持っていた春日宮王朝が滅亡した記録と考えられる。そして、大縣主の大毘古の子が前97年、崇神元年春正月壬午朔甲午に「皇太子即天皇位」と即位した。天皇比古由牟須美、大臣伊香色雄日子坐、最高実力者は木国造の建宇那比である。

崇神元年二月辛亥朔丙寅の「立御間城姫爲皇后」の記事は九州・吉備の暦で1月30日晦が辛亥である。実際の皇后は木國造荒河刀辨の娘の遠津年魚目目微比賣で息長水依比賣と考えた。子は丹波比古多多須道主、旦波大縣主由碁理の娘の竹野比賣の子なのだから、丹波道主は相応しい。

前94年崇神四年冬十月庚申朔壬午の「惟我皇祖諸天皇等光臨宸極者豈爲一身乎」記事は十一月で、ひと月のズレがある。吉備の暦の十月庚申晦(30日目で実際は11月1日)すなわち、十一月庚申朔なのだろうか。

前91年崇神七年春二月丁丑朔辛卯の「昔我皇祖大啓鴻基其後聖業逾高王風轉盛」にも即位の宣言らしき記事が存在する。この時、大物主が現れて、大田田根子に祀らせるように言った。すなわち、吉備や出雲神社の勢力が河内や奈良に進出して、勢力を築き始めたと考えられる。

2025年8月13日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 開化天皇2

前153年開化五年春二月丁未朔壬子に「葬大日本根子彦國牽天皇于劒池嶋上陵」と6年も後に前天皇を埋葬している。そして、翌年の前152年開化六年春正月辛丑朔甲寅の「立伊香色謎命爲皇后」と政権交代が起こっている。

しかし、やはり『舊事本紀』は「七年春正月伊香色謎命立為皇后」と一年のズレがある。これは、孝元天皇を「継承した」王家と、「継承しなかった」王家が有ることを示している。しかも、「六年春正月辛丑朔甲寅立伊香色謎命爲皇后」の日干支は九州(吉備)の暦、辛丑朔は12月30日で、伊香色謎が皇后である。すなわち、伊香色雄が最高実力者、吉備小国の少彦男心が倭迹迹姫に婿入りして比古布都押之信と呼ばれた。

ズレがあるのだから首都は春日と違う場所の朝廷、「しこぶちさん」の安曇川近辺なのだろう。根子の名を引き継ぐ兄磯城・十市縣主→纏向朝廷(十千根大連)と、もう一つ、磯城彦葉江の名を引き継ぐ弟磯城の、磯城朝廷である。

舊事本紀』は「八年春正月以大祢大綜杵命為大臣武建命大峯命並爲大祢」、「二月伊香色雄命爲大臣並物部連公」とある。前151年1月に大綜杵が大臣になったが、2月に伊香色男が別の朝廷の師木の大臣になったのだろう。大綜杵は春日率川宮大臣、伊香色雄は磯城瑞籬宮大臣と『天孫本紀』で記述され、伊香色雄は師木の大臣だった。すなわち、大臣を持たない王朝を含めて3王朝分立状態。

前98年六十年夏四月丙辰朔甲子の「天皇崩」も九州の暦で丙辰朔は3月30日である。すなわち、前158年に皇位継承したのは大毘古で、大毘古は前98年冬十月癸丑朔乙卯に大毘毘を「葬于春日率川坂本陵」と葬って、朝廷を統一したようだ。大毘古は旦波の大縣主を意味し、旦波(丹波)は道主が跡継ぎ、その婿が垂仁天皇である。

2025年8月11日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 開化天皇1

  孝元天皇は磯城彦葉江の分家の大目の子の兄磯城と葛木彦の朝廷で、弟磯城黒速が絚某姉の夫なのだろう。その子が欝色雄大臣、『日本書記』が記述しないもう一つの朝廷のよう。『日本書紀』は開化天皇まで、大臣や大連・政大夫を記述しなかった。すなわち、大臣を賜姓する『舊事本紀』の朝廷と、賜姓しない『古事記』の朝廷、もう一つ、大臣を賜姓しないし、『古事記』とはやや異なる『日本書紀』の朝廷が存在した。

開化天皇は前158年孝元五七年冬十一月辛未朔壬午、11月12日に「太子即天皇位」と即位した。しかし、『舊事本紀』は「元年癸未春正二月皇太子尊即天皇位」と前157年で即位が一月か二月か一二日か意味不明である。『日本書紀』には、前157年開化元年春正月庚午朔癸酉の「尊皇后曰皇太后」、開化元年冬十月丙申朔戊申の「遷都于春日之地」とある。

しかし、『舊事本紀』「二年春正月尊皇后曰皇太后尊皇太后追贈」「冬十月都遷春日地謂率川宮」と一年のズレがある。すなわち、『日本書紀』の記録は『舊事本紀』の記録者と異なる勢力が記録したことを意味する。書いた勢力が違うのだから当然である。

同じ内容に1年のズレを持つ、2つ以上の暦が存在したことを示している。『漢書』は「東鯷人,分為二十餘國」と20国余が前漢朝に中心国が現れたと記述している。前漢は、前200年頃から紀元後7年まで、孝元天皇から垂仁天皇までの間である。そして、垂仁天皇時に十千根大連を記述する。大連を持たない勢力が権力を弱めたことを示し、崇神朝は両勢力が統合した東鯷人の国だった。

2025年8月8日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 孝元天皇

  前214年孝元元年春正月辛未朔甲申の「太子即天皇位尊皇后曰皇太后」、前211年孝元四年春三月甲申朔甲午の「遷都於輕地是謂境原宮」、前209年孝元六年秋九月戊戌朔癸卯の「葬大日本根子彦太瓊天皇于片丘馬坂陵」は九州の日干支で、孝靈朝の最高実力者の建斗禾の記事と考えられた。この頃の人物に天道根の孫の比古麻夜真止が存在し、大屋首の祖とされ、大屋は大倭の意味で、国名が付加されない比古だが、大屋神社近辺の最高実力者なので、大屋比古の大屋を略した野洲の王である孝元朝の首都は輕境原宮なので、孝安天皇の娘婿が出雲大臣の血を引く大水口で天戸目を継承し、欝色謎の娘婿が孝元天皇である。

前209年孝元六年に前朝廷が滅亡したことを宣言して、大水口の子達が政権を奪取したようだ。前208年孝元七年春二月丙寅朔丁卯の「立欝色謎命爲皇后」によって、欝色雄の政権が樹立された。すなわち、「八年春正月鬱色雄命爲大臣亦大綜杵命為大祢」とあるように、鬱色雄が大臣と政務の最高実力者になった。大綜杵は大祢、大倭根子より格下なのだろう。暦を管理する宮の大祢ならば、『舊事本紀』の孝安朝から開化朝まで、日干支を記述していないのと矛盾する。日干支を管理していれば、「八年春正月鬱色雄命爲大臣亦大綜杵命為大祢」の記事に正しい日干支が記述されなければならない。

孝元廿二年春正月己巳朔壬午の「立稚日本根子彦太日日尊爲皇太子」は正しい日干支だが、立太子は九州の王家の継承である。倭人が百余国を纏めたのが前漢である。なので、卑弥呼に繋がる九州の王家の倭王朝は孝元天皇の時代から始まったと考えられる。前158年孝元五十七年秋九月壬申朔癸酉の「大日本根子彦牽天皇崩」も正しい日干支で、欝色謎が皇后の安曇川沿いの、輕境原宮朝廷は終わった。

『日本書記』を書いた政権は大臣を書いていない。『日本書紀』の孝元天皇は物部氏の王家ではない王家、葛木の大倭根子、皇后は欝色謎ではなく、欝色雄の娘の伊香色謎と考えられる。欝色謎の夫は別人、兄磯城の十市縣主が有力、比古麻夜真止も考えられる。

2025年8月6日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 孝靈天皇2

前215年孝靈七十六年春二月丙午朔癸丑の「天皇崩」は1月30日の日干支、前214年孝元元年春正月辛未朔甲申の即位、前211年孝元四年春三月甲申朔甲午の輕境原宮遷都も日干支は1日のズレがある九州の暦と考えられる。正しい日干支を調べると、孝靈の崩御が孝靈九年や孝元二十六年、埋葬が孝元三十七年と意味不明になってしまう。

ところが。九州の記録とすれば、丸迩君の祖の阿田賀田須は大倭王になる人物と思われ、大倭國民磯姫の子である。大倭國民磯姫は名から大倭根子の娘と考えられる。民磯姫の義母は紀伊名草姫、名草姫の義母は伊勢主の娘、義父は建甕槌なので、御井宮王の和知都美王家の人々の説話と考えた方が合理的だ。紀伊名草姫は木国造になる前の天道根(伊勢主)と九州から来た日臣(木國造智名曽)が姻戚関係になった時の人物とわかる。

そして、蝿伊呂泥・蝿伊呂杼の子には吉備上道臣・下道臣の祖が存在し、吉備の別名は建日方別、熊曾建日別の分国で九州の系列国である。私は少彦男心が倭迹迹姫に婿入りして大臣比古布都押之信となり、大臣でなくなってから屋主忍男武雄心と野洲王になったと考えている。

すなわち、九州の暦を持って師木や葛木に兵士を連れて遣って来た。孝靈天皇の崩御は実質の天皇の細比賣の父の師木縣主大目(天戸目)王朝の終焉を意味する。師木縣主は師木が首都になると、十市縣主、さらに木国造と呼ばれる。天戸目の子の建斗禾は木國造智名曽の妹に婿入りして、十市縣主になった。そして、子の建宇那比は木國造に婿入りして、木國造になったと考えられる。

2025年8月4日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 孝靈天皇2

  前215年孝靈七十六年春二月丙午朔癸丑の「天皇崩」は1月30日の日干支、前214年孝元元年春正月辛未朔甲申の即位、前211年孝元四年春三月甲申朔甲午の輕境原宮遷都も日干支は九州の暦と考えられる。正しい日干支を調べると、孝靈の崩御が孝靈九年や孝元二十六年、埋葬が孝元三十七年と意味不明になってしまう。

ところが。九州の記録とすれば、丸迩君の祖の阿田賀田須は大倭王になる人物と思われ、大倭國民磯姫の子である。大倭國民磯姫は名から大倭根子の娘と考えられる。民磯姫の義母は紀伊名草姫、名草姫の義母は伊勢主の娘、義父は建甕槌なので、御井宮王の和知都美王家の人々の説話と考えた方が合理的だ。紀伊名草姫は木国造になる前の天道根(伊勢主)と日臣(木國造智名曽)が姻戚関係になった時の人物とわかる。

そして、蝿伊呂泥・蝿伊呂杼の子には吉備上道臣・下道臣の祖が存在し、吉備の別名は建日方別、熊曾建日別の分国で九州の系列国である。私は少彦男心が倭迹迹姫に婿入りして大臣比古布都押之信となり、大臣でなくなってから屋主忍男武雄心と野洲王になったと考えている。

すなわち、九州の暦を持って師木や葛木に兵士を連れて遣って来た。孝靈天皇の崩御は実質の天皇の細比賣の父の師木縣主大目(天戸目)王朝の終焉を意味する。師木縣主は師木が首都になると、十市縣主、さらに木国造と呼ばれる。天戸目の子の建斗禾は木國造智名曽の妹に婿入りし、子の建宇那比は木國造に婿入りしたと考えられる。

 

年候補

丙午2月朔 -282 -189 -158 -96

辛未1月朔 -250 -121 -64

甲申3月朔 -268 -237 -175 -144 -51

2025年8月1日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 孝靈天皇1

  孝安天皇、丸迩臣の祖の(天足)彦國押人の子の建斗禾は日臣の末裔の木國造智名曽の妹の中名草姫を妃に十市縣主になった。木國造智名曽は日臣が前446年孝昭三十年に天道根の末裔の名草戸畔を破り、名草戸畔と姻戚関係になって、木国造になったと考えられる。天道根は紀河瀨直の祖でもあり、河瀬は彦根に有り、木国に彦根の河瀬も含まれたようだ。それが、神武天皇即位前紀戊午年六月乙未朔丁巳、「軍至名草邑則誅名草戸畔者」の記事だ。

天足彦の子の建宇那比も木国造の娘と考えられる節名草姫を妃に十市縣主になったと考えられた。建斗禾の姉妹が細媛で、前290年孝霊元年元年春正月壬辰朔癸卯に「太子即天皇位」と孝靈天皇が即位し、前289年孝霊二年春二月丙辰朔丙寅に細媛が皇后になった。日干支は正しく、孝霊卅六年春正月己亥朔の「立彦國牽尊爲皇太子」も倭王朝の交代である。

神武二年二月甲辰朔乙巳に弟磯城が磯城彦になった。論功自体は、659年でよいが、沼河耳の妃が磯城縣主の祖、磯城縣はまだ無かった。磯城は孝安天皇まで、磯城にも、もう一人の天皇が住んでいた。そして、孝霊天皇の時に、兄の磯城彦は十市縣主になった。すなわち、同じ干支の前292年か168年が相応しい。すなわち兄磯城は建宇那比が継ぎ、弟磯城黒速は宇那比姫の婿の比古布都押之信がついだのだろう。崇神朝は磯城が首都なので、比古布都押之信の子が天皇になった。磯城彦の娘婿は伊香色雄である。

 

年候補

乙未6月朔 -570 -513 -446 -420 -389 -322 -296

甲辰2月朔 -659 -602 -535 -509 -478 -411 -354 -292 -168