2024年6月28日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天照大御神4

  韴霊は、『古事記』では伊都之尾羽張神と記述され、大国主から国譲りを迫った尾羽張の子の建御雷之男のものであった。それを継承したのが出雲臣の祖である建比良鳥なのだろう。その韴霊を沙麻奈姫が継承し、建甕槌が建御雷の名を襲名して、高倉下に韴霊を献上したと考えられる。沙麻奈姫の父の出雲大臣は、食国の賜姓の臣と考えられ、懿徳朝の時代は2王朝が対峙していたようだ。

高倉下も懿徳朝の頃の人物のようで、足尼は宇摩志麻治が最初の賜姓だが、孝安天皇の時に六見宿祢と三見宿祢が「其宿祢者始起此時也」と食い違う。漢字の無い時代の足尼と宿祢は同じだが、異なる文字を使ったのは、異なる王朝の官位だったからなのだろう。「スク」は「梳く」の意味なのだろう。

出雲の大山祇から出雲臣の祖の建比良鳥、出雲色多利姫、出雲大臣、そして、その娘の沙麻奈姫と出雲氏が継承された。出雲大臣の世代に隠岐が大国の支配下になったと考えられる。隠岐も奈賀命が統治したが、美豆別主も勢力を残していたと記述され、美豆別主の後ろ盾が出雲大臣だったのだろう。奈賀命は阿曇首を賜姓され、出雲の大山祇の勢力下だったことが解る。

隠岐の王が主を任命し、大臣は名目上隠岐の配下だったが、実際には大国主や大臣が統治していた。大山祇の末裔の出雲氏は懿徳朝の滅亡によって亀岡や島根半島の出雲に逃れたのだろう。出雲臣の祖の出雲振根を誅した時に出雲臣が存在したように、出雲臣を賜姓した別の朝廷が存在したことを示している。

『日本書紀』の出雲臣の賜姓は仁徳朝に淤宇宿禰かその子が賜姓されたのだろう。崇神朝の時に国造に賜姓された宇迦都久努は東の「拘奴國」に賜姓された国造と考えられ、これが、崇神朝の出雲臣なのだろう。大臣は『古事記』や『日本書紀』の朝廷にとって、自分たちが制定した官位では無かったので、初出が建内宿禰大臣である。それまで、大臣は大連とともに天皇であったと思われる。

2024年6月26日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天照大御神3

  『日本書紀』には「武日照命從天將來神寶藏于出雲大神宮」、すなわち、「武日照は、天から来て出雲大神宮に神宝を収めた」と記されている。また、『丹波国風土記』には、亀岡の出雲神社から出雲の出雲大社に大国主を遷したとあるそうだ。亀岡の出雲神社の正式名称は出雲大神宮で、『日本書紀』を記述した人々がこの説話からそう呼んだのだろうか。『日本書紀』記述者は『丹波国風土記』を読んではいないので、『日本書紀』の説話は出雲大社が既にあった時の説話である。

『日本書紀』では、天菩比の子である武日照が建比良鳥を別名としており、建比良鳥は崇神朝に賜姓された出雲国造の祖である。武日照は大国主の正統な後継者であり、その名を襲名したものと考えられる。『日本書紀』によれば、天穂日の子は武三熊之大人で、小浜には熊野がある。大人は『舊事本紀』に「齊主神號齊之大人」と記されており、主を意味する。大国主が主の起源であったのだろう。

建比良鳥は、菩比と共に天から降りてきた人物で、『日本書紀』の天夷鳥のように、鳥はその住んだ場所を意味し、元々は天比良という名だったと考えられる。比良鳥は黄泉比良坂の人物とも考えられ、黄泉は対馬のことを指し、黄泉と思われる上縣郡ではないものの、厳原には平(ヒラノ)神社がある。

三熊之大人の娘が鳥に住み、菩比の子の比良がその娘を妃にして鳥の比良を名乗り、大人(主)の称号を継承したのだろう。菩比が仕えた大國主は三熊之大人だったと考えられる。

菩比は出雲臣の祖であり、出雲臣の最初の記録は沙麻奈姫の父である。沙麻奈姫は建甕槌の母であり、建甕槌の父は建飯勝、建飯勝は安寧天皇の義兄である。建甕槌が持っていた剣の韴霊を髙倉下に渡し、髙倉下の子が即位したのだろう。崇神朝60年の武日照と武諸隅の説話は出雲国造が武日照ではなく宇迦都久努と世代が異なり、高倉下の説話の可能性が高い。武諸隅(建諸隅)は孝昭朝の大臣である。

2024年6月24日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天照大御神2

  天照國照彦天火明櫛玉饒速日は、加須屋大海祇の庇護下にあった人物で、敦賀や隠岐の三子島に天降ってきた。『伊未自由来記』によれば、久米部、綾部、工部、玉造部の民を率いて大山祇の指示で隠岐に来島したとされている。饒速日は若狭と敦賀の二岐に住み、その子供たちが敦賀の櫛川の王()と隠岐の王になったと考えられる。

饒速日は「天譲日天狹霧國禪月國狹霧尊」を祀る、すなわち対馬の月神と日神を祀る氏族で、物部氏の始祖だ。物部氏の史書の『舊事本紀』の最初に記述されるのだから当然のことである。饒速日の分祀である美豆別之主之命は、奈岐の浦の岬に城を建てた。これは「國引」をした「八束水臣津野命」のことを指しているのだろう。

前代の王の大人様が大津の神の宇都須山祇神の子なのだから、美豆別之主も大津の神の影響下の可能性が高い。八束は野洲川の津の出身で、三国の津、敦賀から来島して於国の国神になり、姓は臣や主だ。すなわち、賜姓した上位者の大山祇が存在する。美豆別之主の時代に大山祇大神の勢力が落ちたということは、大津や三国の勢力が強まったことを意味する。

さらに、饒速日は速日別の出身で、大国に住み、対馬から分祀した天神狹霧を祀った人物だ。『舊事本紀』によれば、神武天皇は「狭野尊」であり、速日別から隠岐に渡った海人の於佐神と同族だと考えられる。狹霧尊を祀る「狭野尊」が王になったと『舊事本紀』は述べている。饒速日は鳥見(鳥浜)の王の長髄彦を屈服させ、妹の御炊屋姫を妃にした狭野尊なのだろう。

(テラス)は帯(タラス)の「アシ」が「タ」国を支配することに対して、「帯」人物の指示で「タ」国を直接統治することを意味すると思われる。天狹霧の娘の遠津待根が遠津山岬帶という「帶」す神を生んで、須佐之男の神生みが終わる。遠津山岬帶の指示で狭野尊が統治したことを示したのだろうか。天照大御神が自分の支配する田を「阿多良斯登許(アタラシトコ) ()」、吾が帯す所と言った意味が理解できる。

2024年6月21日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天照大御神2

  天照國照彦天火明櫛玉饒速日は、加須屋大海祇の庇護下にあった人物で、敦賀や隠岐の三子島に天降ってきた。『伊未自由来記』によれば、久米部、綾部、工部、玉造部の民を率いて大山祇の指示で隠岐に来島したとされている。饒速日は若狭と敦賀の二岐に住み、その子供たちが敦賀の櫛川の王と隠岐の王になったと考えられる。

饒速日は「天譲日天狹霧國禪月國狹霧尊」を祀る、すなわち対馬の月神と日神を祀る氏族で、物部氏の始祖だ。物部氏の史書の『舊事本紀』の最初に記述されるのだから当然のことである。饒速日の分祀である美豆別之主之命は、奈岐の浦の岬に城を建てた。これは「國引」をした「八束水臣津野命」のことを指しているのだろう。

前代の王の大人様が大津の神の宇都須山祇神の子なのだから、美豆別之主も大津の神の影響下の可能性が高い。八束は野洲川の津の出身で、三国の津、敦賀から来島して於国の国神になり、姓は臣や主だ。すなわち、賜姓した上位者の大山祇が存在する。美豆別之主の時代に大山祇大神の勢力が落ちたということは、大津や三国の勢力が強まったことを意味する。

大国主と同一視される大山祇は丹波の出雲の神だ。出雲大社の大国主は『丹波国風土記』によれば、亀岡市の千歳出雲の出雲神社から遷されたとされている。大国主が建ててもらった宮は亀岡の出雲神社のようだ。

さらに、饒速日は速日別の出身で、大国に住み、対馬から分祀した天神狹霧を祀った人物だ。『舊事本紀』によれば、神武天皇は「狭野尊」であり、速日別から隠岐に渡った海人の於佐神と同族だと考えられる。狹霧尊を祀る「狭野尊」が大国主を追い出したと『舊事本紀』は述べている。饒速日は鳥見(鳥浜)の王の長髄彦を屈服させ、妹の御炊屋姫を妃にした狭野尊なのだろう。

2024年6月19日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天照大御神1

  天照大御神は「汝命者所知高天原」として高島を任された。天照大御神は琵琶湖の高島を任された琵琶湖岸の神で、「照」という地域の大国および三国の神を合祀した神を意味する。「照」という地域の人物には以下の5名がいる。日名照額田毘道男伊許知迩、天照國照彦饒速日、下照姫、高照光姫、武日照である。

武日照は武夷鳥とも呼ばれ、「鳥」が「照」と同じ地域を指している可能性がある。若狭町には鳥浜があり、三方五胡には日向湖(ヒルガコ)という湖がある。これは対馬の昼ヶ浦と同じ音だ。また、対馬の美津島には阿麻氐留神社があり、美浜への地名の移動が起こったのかもしれない。「テル」はナンバーツーとして統治する意味だろう。ナンバーワンは津島神の月神と考えられる。

日名照額田毘道男伊許知迩は、八島牟遲の孫である鳥鳴海の妃であり、國忍富を生んでいる。八島牟遲は胸形神の血を引く八島の神で、野洲にある日野川から鳥浜の近辺に遷った神だと考えられる。

「富」は「トミ」と読ませるが、『古事記』では全て「意富」・「富登」などと表記し、「ホ」と読む。これは尖った穂先の「穂」と同じ読み方で、特別に富を使っている。これは、穂が多くあることを表現したのだろう。

國忍富は、大八国を富ませたことを示していると考えられる。國忍富は葦那陀迦神を妃に、天忍穂耳は豐葦原之水穗國すなわち葦という、三国の穂の邑が目的地で無縁ではなさそうで、「天」の意味が琵琶湖に変化したと考えられる。神の名は履歴書のようなもので、使われる文字によって後代の評価が反映されている。倭が大和を指すようになったのも、「あま」を倭と表現したのも、後代の評価である。

2024年6月17日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 三貴子

『古事記』の三貴子は『日本書紀』や『舊事本紀』の「日神」、「月神」、「素戔鳴」ではない。両書の大日孁貴は史書を記述する時に「日神」を「大日孁貴」のことと述べたもので、本来は日神だ。『古事記』は最初から「天照大御神」と「月讀」で、「素戔鳴」は「()速須佐之男」である。「()」は後で省いているので、建も後付けなのだろう。「大日孁貴」の原型は「日孁」、「女子國」対馬の「兩女子」の一方、もう一方は「対岐」「月」だろう。すなわち、分祀による世代交代によって、神の名の変遷があったことを示す。

これまでの法則にしたがうと、対馬「女子國」に、土地神の「津岐」がいた。対馬には美津島(神津島、神の津の島)と、美津島に昼ヶ浦がある。その昼ヶ浦の海神が「日神」の「日孁(ヒルメ)」である。そして、月が対馬海流の下流の「世」に分祀し「世神(ヨミ)」と合祀され、祀る神を習合した「津岐世神」を祀った。津岐の「日孁」と津岐「世神」の2柱の土地神を祀る「女子國」が出来上がった。土地神は女性が継承する。そして、昼ヶ浦の神の「ヒル」神の神子(ミコ)が「蛭子」である。「蛭子」は宗像に分祀の日孁貴、さらに、大国に「大日孁貴」へと分祀及び合祀された。木の葉比等の娘は三子島の王で奈岐と呼ばれたのだろう。

海人の於佐神」は佐之男が隠岐の島後の「於母島」の奈岐の浦に分祀したから於佐神だ。佐の臣(於神)である。出身は「海人」、対馬と考えられる津神の神子の佐之男である。野槌の次の世代の時の名は国名が無い唯の「州」()で、速国に分祀された。佐は狭と同じで突き出た岬、速須佐之男は東の「拘奴國」の「くきの海」の洞海湾にある岬に宗廟を造ったのだろうか。「洞此云久岐」すなわち久国・久州と『日本書紀』は記述する。

「速須佐之男」は「日孁貴」と共に「多紀理毘賣」と「市寸島上比賣」と「多岐都比賣」を生む。「市寸島上比賣」は壱岐の神、「多岐都比賣」は但馬の神で佐之男は分家を壱岐と但馬に造った。「多紀理毘賣」のまたの名が「奧津島比賣」である。分家の隠岐の佐臣が更に「タ(島の)キリ」という土地に移住したのだろうか。兵庫県豊岡市周辺に霧や切、桐がつく地名が多い。「須佐之男」は大穴牟遲に国を譲った義父であり、丹波大国の王だった。そして、物部氏の祖神も狹霧尊、速日の狹霧尊が豊岡市周辺に霧の名を持って移住したのだろうか。尊は神子人、すなわち、天子の子、天孫を意味する。

2024年6月14日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 伊耶那伎の貴子たち4

  出雲の鞍山祇は、「加須屋大海祇」の分祀であった可能性が高い。海神(天神)の於佐神の後、出雲の鞍山祇之大神の神子が三子島を支配した。「加須屋大神祇」の分祀である大山祇と国神の野椎のペア神、その分祀に国闇戸がいて、つまり鞍山椎を意味する。婿が天闇戸で、合祀して鞍山祇、習合して闇淤加美、すなわち闇淤神→闇臣となったと考えられる。

蘇我倉臣や倉皇子、倉稚綾姫といった「倉」という地名があったようで、若狭に闇見神社があり、生倉がある。習合した神名は婿入りによって移動する。紀里がその例であり、紀氏は莵道、木津の紀伊(木国)、平群県の紀里、そして現代の紀伊に移動した。

闇山津見と同様に迦具土から生まれたのが石拆、根拆、石筒之男の三貴子である。伊邪那岐は筑紫で神生みをしたので、筑紫の神が伊邪那岐に書き換えられたと考えられる。そして、迦具土は帝俊の流れを汲む神と考えられた。帝俊が生んだ三身国の神だから、やはり三神生む。

石根は宮柱を立てる「もと」の礎石となるもので、石筒は柱を補強するための保護材として、穴に石や木を巡らせるものだと思われる。つまり、石筒之男は朝廷を守る跡取りとして裂けない存在だ。分家は、水流の上流と下流の隣り合わせに増やすのが合理的である。

それで、伊耶那伎は底筒之男、中筒之男、上筒之男を生んでいる。表筒男、中筒男、底筒男は「日向國橘小門之水底所居而」とあり、日向国の神であり、大伴氏の神である。彼らは墨江三前大神と記述され、神武東征後に墨江に祀られた。そして、襲津彦の孫が住吉仲皇子で、大伴氏の支援を受けた皇子である。それに対して、伊邪那岐が生んだというのは加須屋の大海祇が生んだと考えられる。川の神ではなく海の神の志賀島の阿曇連の祖神なので、加須屋の対岸である。

2024年6月12日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 伊耶那伎の貴子たち3

神功皇后は敦賀で伊奢沙和氣大神と御食津大神の名を交換した。つまり、気比神社がある敦賀には「伊奢」があったということだ。奈神の分祀である伊奢の奈神は伊邪那美であり、国神は伊耶那伎だ。さらに、近江への分祀が沫の奈神である沫那美、国神が沫那藝である。大津、すなわち宇都須山祇がいた場所には粟津がある。大人様の父の宇都須山祇は、大人国の王家の比賣が妃なのだろう。

淡海の多賀の伊邪那伎大神は大国の神で、本来は気比の伊奢大神だ。男女は逆で、国神の伊奢伎大神は女神であり、だからこそ伊邪那美が死んでも子を生んだのだ。土地の血筋を守るのは女神である。

那美と伊奢大神が合祀されて伊奢那美大神となり、若狭に分祀されて伊奢沙和氣大神となる。同じように、粟津、つまり粟国・淡国の大宜都比賣は三国神と習合して御食津大神となった。神国三国の敦賀には気比神社や御井宮、あるいは皇大神宮が井川の近辺にあり、これは偶然であろうか。

沫那美と沫那藝は速秋津日子と速秋津比賣の子と記述されている。しかし、加須屋の大神祇と野洲の神の山椎(ツチ)の子が、大津の粟津の宇都須山祇である沫那美、その沫那美と宇都須山椎の沫那藝の子が大人様なのではないかと考えられる。

沫那美と沫那藝を粟国の神としたため、金毘羅様の出身地である安芸の神を親にしたのではないだろうか。「アキ」は「私の(木)神・吾の故郷・我がお国」の意味なので、秋田など日本中にある。豐秋は豊国の王の国、朝廷の「アキ」は岐神がいる三国が「吾岐」、大漢国王だった蘇我大臣が「アキ」と言えば、広島の安芸である。

その為、雄略天皇は小野を自分の国として蜻蛉野に名前を変えた。それまで、唯の吾岐は恐らく女国がある近江か三国だったのだろう。葛木氏の神武東征は大伴氏と共に、関門海峡から安芸、吉備、明石海峡を避けて阿波から河内に侵入した。

2024年6月10日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 伊耶那伎の貴子たち2

  底筒之男、中筒之男、上筒之男は三前大神と呼ばれ、天照大神と同世代の神、つまり貴子である。伊邪那美・伊耶那伎が生んだ子には上下関係や尊卑などはなく、すべて尊い子と考えられた。そのため、尊い子に尊ではなく「貴い」の文字を使い、『古事記』は全て「命」を使っている。

『日本書紀』では雄略天皇より前の「貴」は熟語として使われ、「き」と読まれている。神(海)子に対する岐(貴)子、つまり陸の神子、木神の神子を指しているのだろう。三つの史書は同一人物に異なる文字を使っているが、これは異なる氏族の記述を使い、異なる時代の神を指している可能性が高い。同じ集団の中では、同じ文字を使わないと理解されないためである。

天常立と国常立については、天神、すなわち海の神の子が分家し、但馬の「常」の神である常立に婿入りした。元々の在来の神は国常立であり、婿の神は天常立である。国常立の子が奈岐の浦に婿入りすると奈神(ナミ)、そして在来の神は奈岐(ナギ)だ。海神「ミ」を「ナ」と呼んで祀る人々の神(ミナ)である。

自分を「ア」と、目の前の人を「ナ」と呼び、その向こうの人を「ナタ」(汝方)と呼ぶ。「ナ」の名前を聞く「名は?」という表現から生まれたのだろうか。国でも名が無い自国の「岐」に対して、「タ岐」(但馬)と呼ぶ。目線は但馬を一つ隔てた国の人物が但馬に向けている。

伊邪那美は島根県の出雲の出身と言われるが、古代の出雲は若狭・丹波と考えられ、伊邪那美は比婆、恐らく伊根の経ヶ岬に葬られた。すなわち、三国の岐神に対して汝神(汝が居る伊津)が「出雲」、汝方神が「タ岐」であると考えられる。

三方五湖の常神半島と美浜には「常神社」、敦賀には「常宮神社」がある。「常」と呼ばれる六合の海の半島の先端が「天の常」と「国の常」かもしれない。三国に含まれていたと思われる三方五湖には丸木舟が発掘された縄文遺跡の鳥浜貝塚があり、想像が膨らむ。三国の隣の若狭湾の奥まった海岸には「常宮」がある。

2024年6月7日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 伊耶那伎の貴子たち1

  天照大神は三つの世代が存在した。最初は、伊邪那美と伊耶那伎の子として木祖と草祖を生んだ後の日神の世代である。次に、『舊事本紀』の大日靈貴の世代がある。そして、伊邪那美の死後に伊耶那伎が生んだ天照大御神の世代がある。

天照大神は、『舊事本紀』を記述した馬子も祀る大神であるため、『舊事本紀』にも詳しく述べられている。

伊邪那美が「神避之」の時に生まれた子の中には、埴安彦、埴安姫、稚彦靈日(または稚産霊)がいる。しかし、「火神軻遇突智娶土神埴安姫生稚皇産靈」とも記述されている。稚皇産靈は、伊邪那美・伊耶那伎の子ではなく、軻遇突智と埴安姫の子であり、稚皇すなわち稚国の神子・貴子だとされた。しかし、稚皇産靈も伊邪那美の子と数えられるため、埴安姫も伊邪那美と同等、同世代の神と見なされ、王朝の創立者の母の一柱とされた。軻遇突智は埴安彦を書き換えた可能性が高い。

伊邪那美は黄泉津大神、道敷大神とも呼ばれる。しかし、同じ世代に複数の名前がある場合、神を特定できなくなるため、別の神と見なさなければならない。

人名については、二人だけなら「(オマ)エ」と「吾」で済む。家族内では「父母兄弟姉妹爺婆」でよいだろう。二家族なら吾と「エ」(兄ちゃんと相手を呼ぶことが有る)の家族で済む。三家族以上になると名前が必要になり、住む場所で特定することになる。住む場所が変われば、新しい場所の名前を付け加えて使い、前の名前は使わなくなる。両方の名前を使うと、どこの人物か特定できなくなるからである。前の名前は家族が襲名し、自分は習合されて新しい場所の祖神となる。

住む場所が変わるというのは、婿入りして分家を建てる分祀を意味する。分家には修飾語が付加される。例えば、天常立と国常立の「天」と「国」、伊邪那美と伊耶那伎の「美」と「伎」、底筒之男、中筒之男、上筒之男の「上中底」などである。「上中底」は三身国が白・豊・建に分かれたことを意味するのだろう。

伊邪那美、黄泉津、道敷は、時代が異なる分家が名乗った神、あるいは同じ地域の別神が同じ神だと主張したものと考えられる。

2024年6月5日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 貴子2

  貴子の生まれる前と後では、神の概念が異なる。貴子は王朝が祀る祖神であり、貴子が生まれた後の神々は貴子に従属する存在だ。貴子が王朝の祖神であるため、貴子を生んだ伊邪那岐と伊邪那美は、王朝によって異なる場所に葬られ、祀られている。

『日本書紀』には葬られたことは記述されていないが、『古事記』には「伊耶那美神者葬出雲國與伯伎國堺比婆之山」と書かれている。また、『舊事本紀』にも「伊弉冉尊者葬於出雲國與伯耆國堺比婆之山」と記述されている。しかし、さらに追記があり、「伊弉冉尊葬於紀伊國熊野之有馬村」とも書かれている。

ここで、『舊事本紀』の紀伊についてだが、これは木津や宇治がある木国のことだ。京都市には有馬という地名があり、そこには熊野神社も存在する。若狭湾や琵琶湖周辺にも多くの熊野神社があり、これらの地名は人々とともに移動したと考えられる。すなわち、『舊事本紀』には二柱のイザナミが存在した可能性があるのだ。

『日本書紀』では、伊邪那岐と伊邪那美を祀った場所については記述されていないが、素戔嗚が出雲からさらに根の国へ行ったことが記されている。そして、物語はそこで終わる。しかし、素戔嗚が生んだ三姫を胸肩君が祀り、丈夫国は素戔嗚の末裔であると主張している。つまり、大伴氏は丈夫国の血を引いていると自負しているのだ。

大人国の時は、大臣ではなく、まだ大国の王(大国玉)であり、大国は周饒国の配下では無かった。そのため、大国主や大臣という役職は存在しなかった。

大国では、出雲の大山祇と、出雲の国を奪った於漏知、流宮の加須屋の大神祇大神が跋扈していた。出雲の大山祇は比婆と比古爺、すなわち天常立神を祀る大国王だった。大神祇は丈夫国から来た速素戔嗚を祀る勢力だった。於漏知は於島に来た霊で、「漏」は動詞で、於島に降り立った霊という意味だろう。

そして、多賀の伊耶那岐を祀る宇都須山祇の子である大人様が奈岐(奈国)に住んで奈神(ナミ)となった奈岐命である。この奈岐命が周饒国を統治し、宇都須山祇が周饒国の支配下で大国主という役職を賜姓された。

2024年6月3日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 貴子1

  『日本書紀』の伊弉諾・伊弉冊は国生し、その後、海川山木祖草祖、さらに、日神、月神、蛭兒、素戔鳴の貴子を生んだ。そして、「號大日孁貴」と『日本書紀』は記述時に日神の名を変えた。ところが、『古事記』は伊邪那美の死後に伊邪那岐が貴子を生んでいる。天照大御神、月讀、建速須佐之男と名前も異なる。『舊事本紀』は『古事記』に類似している。しかし、三貴子は『日本書紀』と同じく木祖や草祖の後、伊弉諾・伊弉冊を2説を記述するが、最初、生きて生んでいる。しかも、名前も『古事記』ではなく、『日本書紀』の名前である。そして、『古事記』も木祖と草祖は伊邪那美の生前に貴子の前に生んでいる。すなわち、『古事記』の貴子は伊邪那岐・伊邪那美ではない、別神が生み、生んだ神は伊邪那岐の後代の神の子達と考えるべきであろう。

すなわち、『古事記』には高御産巣日を祖神とする伊邪那岐・伊邪那美が征服した伊邪那岐・伊邪那美がいた。すなわち、伊邪那岐を祖神の高木神とする神が存在して、伊邪那岐・伊邪那美以外のペア神が天照大御神を生んだと考えるべきだろう。そして、『舊事本紀』の貴子が生まれて以降の生まれた神は、物部氏や大連となった氏族の神だと主張しているのだろう。大臣の祀る神は、天照大御神ただ一柱なのだから、それ以降は不要である。しかし、大連の大神は尾張氏、葛木氏、大伴氏、物部氏の祀る神が存在し、『舊事本紀』の作成者の馬子の祀る神が天照大御神である。

『古事記』は葛木氏が書いた史書なので、天照大御神を伊邪那岐が生んでもらわなくては困る。しかし、『舊事本紀』の伊弉諾・伊弉冉が大日孁貴を生んだと述べている。これは、『日本書紀』も『舊事本紀』と同じで、大伴氏と物部氏に共通する大連が祀る神であったためだろう。そして、現代、天照大御神を祀るのは大倭根子と大臣の末裔の国だからである。

そして、貴子の王生み説話に月讀が記述されないのは奇妙である。消された月神と蛭子の2貴子の説話があったのだろう。生まれる子も、胸形の姫は3柱、伊邪那岐が筑紫で生む神も3柱のグループである。すなわち、三身国の神話だったことを想像させる。実際は、伊邪那岐と伊邪那美ではなく、伊邪那美が葬られた国の神の比婆と比古爺が天照大神を生み、比婆を伊邪那美、比(古)爺を伊邪那岐に充てた。