『古事記』 原文 前川茂右衛門 寛永版に
「於是天神諸命以詔伊耶那岐命伊耶那美命二柱神修理固成是多陀用弊流之國賜天沼矛而言依賜也故二柱神立天浮橋而指下其沼矛以畫者堛(塩)許々袁々呂々迩畫鳴而引上時自其矛末垂落塩之累積成嶋是淤能碁呂嶋」
『日本書紀』は指示されることなく自主的に「磤馭慮嶋」を生んだのに対して、『古事記』は創始者が統治されずまとまりの無い国を天沼矛で統一するよう指示して「磤馭慮嶋」を統一した。
『舊事本紀』 原文
前川茂右衛門 寛永版に
「天祖詔伊奘諾伊弉冉二尊日有豊葦原千五百秋瑞穂之地冝汝住脩之則賜天瓊戈而謂寄賜也伊奘諾伊弉冉二尊奉詔立於天浮橋之上共計謂有物若浮膏其中盖有國乎廼以天元瓊矛而探之獲是滄海則投下其矛而因畫滄溟而引上之時自矛末落垂滴瀝之潮凝結為嶋名日磤馭盧嶋矣則以天瓊矛指立於磤馭盧嶋之上以為國中之天柱也」とある。
『舊事本紀』も『古事記』と同様に創始者が指示するが、そこは、既に豊国が支配する土地の中で統治が行き届いていない場所(京都郡)に国を生んだが、その内容は「磤馭盧嶋」生み神話を流用し、天柱を立てた御殿(宿殿)が統治する宮殿の象徴となったようだ。
『日本書紀』原文慶長版に、
「二神於是降居彼嶋因欲共爲夫婦産生洲國便以磤馭慮嶋爲國中之柱而陽神左旋陰神右旋分巡國柱同會一面時陰神先唱曰憙哉遇可美少男焉陽神不悅曰吾是男子理當先唱如何婦女反先言乎事既不祥宜以改旋於是二神却更相遇是行也陽神先唱曰憙哉遇可美少女焉因問陰神曰汝身有何成耶對曰吾身有一雌元之處陽神曰吾身亦有雄元之處思欲以吾身元處合汝身之元處於是陰陽始遘合爲夫婦及至産時先以淡路洲爲胞意所不快故名之曰淡路洲」
『日本書紀』もやはり、【領土を拡げる時「御柱」もつ宿殿を造って女王が主導権を持って戦った(翻訳を略)が戦果を得られず、男王が主導して戦って淡路洲を得ることができた】とあり、「磤馭盧嶋」に建国(大国を)したが、不快と言っているのは、後に領地淡路洲を奪われたからなのではないだろうか。
男女の営みの模様を流用しての記述だが、これは、男が敵地で勝利した後に敵の女王と婚姻することで、女王の子に新しい領土を治めさせる手法によって領有がうまくいくという意味で、この時代は女王が国の象徴で、女王の子だから領民が統治を受け入れ、他国の女王の子では領内はまとまらないということである。
ここで、注目すべきは「二神」と神名を示さず、伊弉諾・伊弉冉が生んだのか、面足・惶根が生んだのか解らず、『山海經』が語る5千年前には大人国が日本海岸から太平洋岸まで領土を持ち、これ以前の話で、『伊未自由来記』の「木の葉人」の後、海人が複数の船でやってきた「アカホヤ」後の話と思われ、その後、出雲を領有していた海人も来襲してきている。
従って、この淡路洲はどの神が生んだかによって対象が変わり、瀬戸内の淡路島か隠岐の大島が淡島とすれば淡島からの道に有る島で、隠岐の中にある島のこととも考えられる。
また、
「二神」と伊弉諾・伊弉冉を『日本書紀』が記述しなかったのは、おそらく元々の神話の面足・惶根神話を海人の伊弉諾・伊弉冉の神話に見えるようにしたのであり、「いざな」はクジラとされて漁の対象で、縄文時代から捕鯨を行っていたと思われる遺跡「つぐめのはな遺跡」が長崎近辺にあり、海人の神としては良く当てはまり、天伊弉諾などのように姓が無いのは、この神を他の神と区別しなくても良い海人のみに存在して国伊弉諾が存在しないからである。
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