木の葉人たちは船に乗って火を起こす道具や釣り具を持ってきており、船の作成先進地は南九州で、海流の上流の天にあたり、「陀琉」は足で於母足・大足すなわち「於母」を治めた人、「訶志古泥」は尊い禰宜、「立」は建で国を建てた人の意味で、『日本書紀』は「次有神埿土煑尊沙土煑尊次有神大戸之道尊大苫邊尊次有神面足尊惶根尊」と記述して「於母」を面、「陀琉」を足、「訶志古」を惶、「泥」を根と表記して、漢字を意味ある表記に使用して、『古事記』は発音を文字化した文書を流用していると考えられ、もしかすると、所謂神代文字の資料を使って神話を流用したかもしれない。
『古事記』・『旧事本紀』には国を生む前に「高天原」を記述しているが、『旧事本紀』にはその「高天原」の創始者が記述され、
『舊事本紀』原文
前川茂右衛門 寛永版に
「別高皇産霊尊兒天思兼命次天太玉命次天忍日命次天神立命次神皇産霊尊次天御食持命 次天道根命次天神玉命次生魂命次津速魂尊兒市千魂命兒興登魂命兒天兒屋命次武乳遺命 次振魂尊兒前玉命次天忍立命次萬魂尊兒天剛風命巳上七代天神伊弉諾伊弉冉尊并八代天神並天降之神也」
と別系統の神々を記述しているが、これも、「葦牙彦舅」→「常立尊」・「中主」→「豊國主」と並ぶ物部氏の「狭霧尊」そして、物部氏が奪った「高皇産霊」の神話の上に『旧事本紀』が創られていることを示して、畿内には地祇「たま」神の地域に「あま」神や「たけ」神がいて、物部氏の侵略時には高皇産霊を祀る氏族が畿内を領有していたということなのだろう。
そして『日本書紀』 原文慶長版は
「次有神伊弉諾尊伊弉冉尊凢八神矣乾坤之道相參而化所以成此男女自國常立尊迄伊弉諾尊伊弉冉尊是謂神世七代者矣伊弉諾尊伊弉冉尊立於天浮橋之上共計曰底下豈無國歟廼以天之瓊矛指下而探之是獲滄溟其矛鋒滴瀝之潮凝成一嶋名之曰磤馭慮嶋
」
【次は伊弉諾・伊弉冉がいて、だいたい八人は天からの道が互いに交じり合ってそこで生まれた男女で常立から伊弉冉までは神代七代である伊弉諾・伊弉冉は「天浮橋」に立って共に踏み入れるべき国が無いからと、瓊矛を差し入れて引き上げると滴が落ちてそれが固まって島が出来「磤馭慮嶋」と名付けた。】とあり、乾坤は西北から西南の『山海經』の天がある方向で、黄海の東で創始者が生まれたと述べている。
『出雲風土記』の「国引き」は「八束水臣津野命」が「三身之綱」で国を広げた説話をもち、「磤馭慮嶋」も同様に船に乗った伊弉諾・伊弉冉が綱で嶋を引き寄せた説話、更に、木の葉人は釣り道具を持っていたのだから、銛を引き抜いて滴り落ちる滴で島を生んだ説話がより現実的で、国を得る道具は時代によって変遷する。
そして、「木の葉人」の伝説を述べた『伊未自由来記』の中に「隠岐は小之凝呂島と称えた。それは小さな島の集まりであったからである。この大島を於母の島、南の小島三島を三つ子の島」と記述する。
私は、これに否定的で、後に隠岐全体を凝呂島といったのであり、隠岐の大島が大の凝呂島で、『古事記』「生隠伎之三子嶋亦名天之忍許呂別」と小島三島が忍許呂別なのだから於母嶋が忍許呂島で全て併せて大岐すなわち大嶋・大国で、「三身」国出身の「八束水臣津野命」が大国を統一したとすると『伊未自由来記』の「沖津久斯山祇神が大津の宮にいて」すなわち「津の命」が統治していたが、「於漏知は踏鞴を踏んで金を作り、鎧・兜・盾・剣を作」って強かったが「加須屋」(三身の糟屋)「の大神祇大神の援助を受け」、「於漏知」を大人様が討伐した。
大人は『山海經』「海外東經」・「大荒東經」・「大荒北經」に大人国が記述され「海内東經」に市を持ち、日本海岸や太平洋・朝鮮に影響力が有ったと記述されている。
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