2024年10月30日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話14 春日から葛城

  大毘毘は春日の伊邪河宮の大綜杵の娘の伊迦賀色許賣に婿入りした分王家で、『日本書紀』に記述されない、春日の建國勝戸賣はその後継者、その後、大闇見戸賣、沙本毘賣と継承されたと考えられる。一世代後の妃なのだから、可能性は高い。そして、妹の倭迹迹姫が輕の堺原宮の跡取りなのだから、比古布都押之信が安曇川近辺に住んで輕宮の王位を継承した。

春日臣の祖は孝安天皇彦國押人(天戸目)、その娘の春日千乳早山香媛の娘の婿が蝿伊呂杼、その娘が建國勝戸賣なのだろう。すなわち、春日千乳早山香媛の娘は弟波延、その子が大綜杵で妃は内色許男の娘の伊迦賀色許賣、すると、大綜杵の妹には内色許男の子の大峯大尼が婿になった可能性が高い。

竟富那毘の妹が葛城の高千那毘賣なのだから、父は同じ葛城の垂見宿禰で、母は葛󠄀城尾治置姫、葛󠄀木尉直(󠄀木直)の祖の建箇草(󠄀木宿禰垂見)の娘の鸇比賣の婿が比古布都押之信なのだろう。葛城の垂見、神を「帯す」のは、大倭根古の国玖琉で、官位は王家によって呼び方が異なる。

󠄀木直の祖の諸見足尼(垂見宿禰)の娘が諸見巳姫、夫が建諸隅である。建諸隅の子の倭得玉彦が竟富那毘と同名の亦の名が大稲日なので、倭得玉彦が竟富那毘の娘の意富阿麻比賣(󠄀木髙名姫)を妃にして、その子が物部武諸遇を継承したと考えられる。

大毘毘が婿入りした先は大綜杵の娘の伊迦賀色許賣で、子が御眞津比賣と御眞木入日子、御眞津比賣の夫が御眞木入日子である。三国山の山麓の琵琶湖側の高島市のマキノ町、三()のマキ()に大荒比古神社がある。大荒田の娘は玉姫で婿が建稲種、子が270年からの応神朝大臣の尾綱根なので、琵琶湖西岸に首都があった。そして、318年に尾治弟彦が難波で朝廷を開き、伴って荒田彦が葛城の高額比賣の婿となって大和の葛城に遷ったのだろう。荒田彦の娘が葛比売、その子が襲津彦、葛城野伊呂賣へと継承され、伊奢能麻和迦が生まれた。葛比売が帯中日子の妃なのだろう。

2024年10月28日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話13 葛木氏と木国

  比古布都押之信の妃である葛城の高千那毘賣が登場した後、362年に薨じた息長帶比賣の母である高額比賣までの間、葛木氏の記述が欠落している。『紀氏家牒』には、紀武内宿祢が紀伊国造である莵道彦の娘の子供として紀氏を名乗ったと記録されている。

紀氏は「歴事六代君」と開化、崇神、垂仁、景行、政務、仲哀の6代の天皇に200年頃まで仕えた。紀氏はその後、「凡春秋二百八十余歳家大倭国葛城県」とあるように、春秋280回、つまり約140年にわたって大倭葛城縣に340年頃まで居住したと考えられる。彼の住んでいた大倭国は、『紀氏家牒』が清寧天皇以降に記述されたのだから大倭は大和、その大和の葛城地方に140年間宮を持っていたようだ。つまり、紀氏は淡海(近江)にある紀里から木国を経て大和の葛城に移り、後に平群県の紀里に居住し、さらに紀伊国に移った。紀里という名を持ち歩いた。

葛木では、帯中日子の子の394年に崩じた襲津彦が、葛城国造荒田彦の娘・葛比売の子として生まれた。すなわち、品陀真若が応神天皇で、襲津彦が品陀和気と思われるので、362年に薨去した息長帯比賣は葛比売であり、その母が葛城の高額比賣だったと考えられる。襲津彦の妃は、大伴氏の孫と思われ、『日本書紀』で日向を名乗る泉長媛の可能性が高い。子が大葉枝、小葉枝と安寧天皇波延の名を引き継いでいるので、姉妹に婿がいるのだろう。それが、襲津彦の娘の石之日賣と髪長比賣、孫は石之日賣の子の伊耶本和気天皇である。幡日之若郎女は長男が日向諸縣君に婿入りしたと考えられる。

このように、比古布都押之信は春日で生まれ、彼の子孫は後に山代の内臣や屋主(野洲王)と少日子(小国王)という人物が生まれたのだろう。比古布都押之信は葛木の輕に住み、妃である内色許賣が「しこぶちさん」を祀る安曇川南の葛川近辺にいたと考えられる、葛城の高千那毘賣に婿入りしたのだろう。高千那毘賣の兄は木国造の婿で、尾張連の祖なので、この姻戚関係が履中朝まで続いた。

2024年10月25日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話12 葛城天皇の系図

孝霊天皇の子の孝元天皇の妃は内色許賣で、伊迦賀色許賣は皇后の兄の内色許男の娘として記されている。開化天皇の妃である伊迦賀色許賣が大綜杵の子であることから、内色許男の娘である1代目の伊迦賀色許賣は大綜杵の妃だったことが解る。孝霊天皇から複数の妃が記述されているが、急に複数の妃を記述する理由が無い。

王朝は、代々、皇后の娘と皇后の兄弟の子との婚姻で継承されたのだから、複数の妃がいたとしても、記述する妃は一人である。他の妃の子は王朝交代に関係が無いので、記録として残す必要がない。複数の妃は孝元天皇の妃に、皇后の内色許賣の兄弟の娘を記述したように、皇后の親族を記述したと思われる。その王朝は、皇后の王朝なのだから。

2代目伊迦賀色許賣の子、比古布都押之信は尾張の連の祖の竟富那毘の妹である葛城の高千那毘賣を妃とし、山代の内臣の祖を生んだ。安曇川近辺の葛城の毘賣ということから、「しこぶちさん」を祀る内色許賣の娘である可能性が高い。『日本書紀』には記述されていないが、注釈では内色許賣の子の少名日子建猪心という天皇の母弟とされる人物が登場する。これは、「母弟武石彦」と同じように、大毘毘の義母の伊迦賀色許賣の系統の弟だということを意味している。

大毘毘の妃である2代目伊迦賀色許賣は大綜杵の娘であり、その弟が少名日子建猪心で、『日本書紀』でいう倭迹迹姫の婿と考えられる比古布都押之信に該当する。すなわち、少名日子建猪心と書き換えられた倭迹迹姫が葛城の高千那毘賣であると推測される。

『紀氏家牒』や『日本書紀』には、景行天皇の時代に孝安天皇の曽孫の屋主忍男武雄心が比古布都押之信の子の武内宿禰の父として記されている。つまり、高千那毘賣の子、味師内宿禰が少名日子建猪心の名を引き継いで吉備の王になり、後裔は成務天皇の時代に野洲の王である屋主武雄心(田心)となった。彼の子の建内宿禰が大臣になり、屋主武雄心の孫である市入が高志国造になった。

2024年10月23日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話11 孝霊天皇

  孝霊天皇の妃は細比賣であり、彼らの子供が孝元天皇である。しかし、孝霊天皇には他にも倭國香媛(別名:絚某姉)と絚の某妹という妃がいたとされ、彼女らは縣主波延の末裔である可能性が高い。ただし、「イロネ」・「イロド」は姉の夫、妹の夫の意味で、天皇の義兄弟である。

安寧天皇の子である師木津日子には子に某姉と某妹をもつ和知都美と別の子供もおり、その子孫が須知、那婆理、三野の王家を築いた。そして三野国造の祖は八瓜(神大根)、三野国造は弟彦で、これらが師木津日子は尾張氏の祖である。ただし、三野後國造は出雲大臣の孫の臣賀夫良で、もう一人の師木津日子の子が懿徳天皇と姻戚だった。

孝霊天皇の子である孝元天皇の妃は内色許賣で、彼は首都を懿徳天皇と同じ輕に遷した。内色許賣は、出雲大臣と同じ地域の女性であり、それに対応して、出雲大臣の孫と和知都美の子が婚姻し、波延の土地を引き継いだ可能性が高いと考えられる。王家は相互に婚姻しあって存続を図る。

孝霊天皇の妃である細比賣の姉妹または従姉妹が、絚某姉と絚某弟だったと考えられる。また、『日本書紀』に記載のない孝霊天皇の兄弟、大吉備諸進は細比賣の兄であり、孝安天皇の子・建斗禾だと推測される。後に絚某姉と絚某弟の子供たちが「吉備臣」と名乗ったのも偶然ではないだろう。

 孝安天皇の娘である細比賣は尾張氏のむすめなのだから、義兄妹の大吉備諸進は妙斗米であると考えられる。建箇草は「多治比連津守若倭部連葛木尉直」の祖先であり、これらの姓は葛木氏の末裔にあたる。孝霊天皇の日子賦斗迩は天忍男の家系であり、建箇草と合致する。また、絚某姉は建斗禾の妃である中名草姫と考えられ、また、六人部連の祖・妙斗米が絚某弟に婿入りした。妙斗米は大綜杵の孫であり、六人部連の祖である安毛建美とも繋がっている。このことから、賦斗迩、建斗禾、妙斗米はいずれも十市縣の王名によく合う。

 

2024年10月21日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話10 葛木氏の天皇

  孝安天皇、彦國押人は、姪の大倭帯日子國押人の娘である押媛を妃に迎え、孝霊天皇の皇后となる細比賣を産んだ。また、大倭帯日子國押人は孝安天皇の娘、忍鹿比賣を妃にし、孝霊天皇、日子賦斗迩を産んだ。勿論、83年も王朝が続いているので、互いの婚姻で氏族を存続させて、彦國押人も大倭帯日子國押人も4代程度、押媛も忍鹿比賣も両家の娘の従妹である。前項の氏族間の婚姻制度そのもので、葛木日子と師木日子の主導権争いを伴う氏族の維持である。

『日本書紀』では、孝安天皇の妃は磯城縣主の葉江の娘や十市縣主五十坂彦の娘として記されている。また、『古事記』では孝霊天皇の妃も十市縣主の祖、大目の娘であるとされている。このような経緯で、葛木氏の大倭帯日子は、天皇縣主波延朝廷の娘である忍鹿比賣を妃にし、その息子の日子賦斗迩が葛木氏の孝霊天皇として即位したと考えられる。

すなわち、十市縣主になっていない、天皇縣主大目の跡継ぎの長女は皇位を奪われ、十市縣主に賜姓された。後継者が阿禮比賣だったのだろう。また、首都が葛木なのだから、葛木氏が優位になるのは当然の帰結である。

その十市縣主の祖の縣主大目の娘の細比賣を孝霊天皇は妃に迎えた。天皇が細比賣に婿入りしたのに前天皇が十市縣主になったのは、春日千千速眞若比賣の住む黒田に遷都したからだろう。長浜には春日神社があり、木之元に黒田があり、黒田神社がある。黒田廬戸宮によく合致する。

後の十市縣主の皇子は建斗禾と妙斗米と考えられ、彼らの父である天戸目の妃は葛木避姫である。孝安天皇の首都、婿入り先が葛木の室の秋津島、押媛が葛木彦の子の日本足彦國押人の子であるため符合する。すなわち、天戸目が孝安天皇であったことが解る。この後、また師木が首都になるということは、師木日子の末裔が妃になって、皇位を奪取することを意味する。それが意富阿麻比賣で、師木宮の皇后である。

2024年10月18日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話9 氏族間の婚姻制度

孝昭天皇は、御眞津日子の子と葛木彦の子を婿として迎えたと述べた。『後漢書』には、「國多女子大人皆有四五妻」とあり、大人(日本人が言う主)の男性が多人数の妻を持っていたことが記されている。「餘或兩或三」とその周りの臣下は2・3人。しかし、通常は男女比では男子が少し多いはずだが、『後漢書』の日本では男子が少ないと記述する。これは、多くの男子が他の氏族に婿入りして、外に出、下層民は嫁を得られないためだと考えられる。

『後漢書』には、「歴年無主」とあり、王は主、また、「卑彌呼年長不嫁事鬼()神道」、卑弥呼は嫁がず鬼国(木祖を祀る国)の国神を祀る神子(禰宜)だったことが記されている。古代の皇后は、子を産む神と見なされ、氏族を維持する重要な役割を果たしていた。氏族を存続させるためには、主(縣主)の后()の長男・長女と、后の兄弟の使主()の長男長女が婚姻関係を結ぶ。后の娘は使主の長男を迎え、その後も従兄妹の間で婚姻が続いたと考えられる。同じ宮、同じ集落内での婚姻である。

こうして、氏族の長男は、次世代の氏族を維持するための婚姻相手となり、次男以降の男子は他の氏族に婿入りして新たな近縁氏族を形成していく。しかし、全ての男子がこのように婚姻できるわけではなく、多くの男子は氏族を離れ、結果として男子の数が少なくなったと考えられる。

葛木氏と波延の家系は、長い間、婚姻関係を保ち続けた。しかし、同族間で婚姻が続けば遺伝的な問題が生じ、男子が育ちにくくなる。そこで、婿入りを通じて他の氏族と次女との婚姻関係を結ぶことで、氏族の存続を図る。それが、依姫のような波延某弟による孝安王朝の相続である。

孝昭天皇の次女に孝安天皇が婿入りし、これによって葛木の掖上から同じ葛木の秋津嶋宮に首都が遷された。同様に、孝元天皇も懿徳天皇と同じ氏族の軽宮に婿入りし、氏族を存続させた。これにより、内色許賣が懿徳天皇と同じ氏族に属していたことが示されている。これは、男系の王朝交代である。

2024年10月16日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話8 葛木氏と尾張連

  御眞津日子訶惠志泥は、奧津余曾の妹である余曾多本毘賣を妃に迎え、大倭帶日子國押人を生んだとされている。和知都美は奧津余曾の妹である世襲足媛を妃に迎え、蝿伊呂泥と蝿伊呂杼を生んだが、『舊事本紀』では、彦國押人と日本足彦國杵()人を生んだとされている。孝昭天皇は御井宮から葛木の掖上に婿入りし、孝安天皇も首都は葛木で、奧津余曾は葛木彦になっている。『古事記』によれば、孝昭天皇の子は、波延の姉の夫と妹の夫なので、二人とも婿であったと考えられる。

御眞津日子の子である日本足彦國杵()人が蝿伊呂泥の婿となり、奧津余曾の子である彦國押人が蝿伊呂杼の婿となった可能性が高い。古代の王位継承は長女が相続し、同じ氏族間の王朝交代は長女で無い姫の依姫が継承する。

比古布都押之信の義理の兄である竟富那毘は、尾張連の祖であり、その父は建斗禾で、建斗禾の父は天戸目、天戸目の父は忍人で、忍男の子の尾張の連の祖の奧津余曾とは別系統である。尾張の連の祖の奧津余曾の子が忍人の婿の天戸目(彦國押人)であれば整合性が取れる。また、比古布都押之信の妃の竟富那毘の妹が葛木之高千那毘賣で、比古布都押之信が葛木の氏を引き継いで、竟富那毘は尾張連の祖を引き継いでいる。

天忍人の子供は天戸目と大蝮壬生連の祖である2代目の天忍男であり、奧津余曾の父の名の忍男を襲名しているのは婿になったためと考えられる。奧津余曾の()弟である建額赤が奧津余曾の妹の婿の御眞津日子である。建額赤の妃が葛󠄀城尾治置姫であったのだから、兄の奧津余曾も葛木氏なので葛木彦を名乗った。尾張氏の祖でもあったのは、葛󠄀城尾治置姫(余曾多本毘賣)が妹でないと奧津余曾が尾張出身とは言えなくなる。額赤の子供である建箇草は、若倭部連や葛木尉直の祖であり、若倭根子の末裔が若倭部で葛木氏を引き継いでいる。

2代目忍男が祖の大蝮壬生連の壬生部は伊邪本和氣の御名代であり、葛城部も同時に定められた。蝮部も水齒別のために作られた御名代であり、葛木氏の部民であったと考えられ、どちらも天忍男の後裔である。