2024年9月18日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 神武東征1 天津日高の系譜

火火出見は『日本書紀』に記される神武天皇の伊耶本和気、もしくは大伴室屋の祖先であり、火を「ヒ」ではなく「ホ」と読む。伊耶本和気は九州出身の母親を先祖に持つ天皇であったのだろう。だから、海幸山幸の兄弟が描かれた。一方、伊耶本和気の男系の祖先の名は若御毛沼で、名前から気比の王の璽の名を持ち、若国と三国の王であった。彼は現在の気比、旧の伊奢と名を交換した大津の伊耶と考えられる日吉大社(気比社)に居を構えたと思われる。

伊耶本和気は押穂耳、番能迩迩藝、穂々手見から受け継ぐ「穂」、すなわち、尖った岬の住人の分家である。別名は豊御毛沼であり、豊秋津から東征したため「豊」の接頭語が付いた。壬戌年(362年)に崩じた丸迩臣袁祁都比賣を引き継ぐ女王は敦賀に住み、穴門や香椎に斎宮を祀り、初代葛城襲津彦の子の仲国王の妃であった。彼女は大臣を継承したと思われ、伊勢遺跡の女国の統治者であり、石上神宮の統治者である大連と対立していた可能性が高い。息長帶比賣は襲津彦の母の葛城国造の荒田彦の娘の葛比売と考えられ、尾綱根大臣の母も大荒田の娘の玉姫である。

『古事記』には、天津日高日子穗穗手見が天津日高()として、虚空津日高(コ)と併記されている。この説話は後代の中国から伝わった資料で文字を記述している。すなわち、対馬は倭国の領土を意味しており、倭国にとって「高」は「コ()」、天は王を意味するのだろう。中国では天を虚空と呼んだため、この名前は125年延光四年の室見川の永宮政権以降のものである可能性がある。従って、天を虚空と呼ぶ息長帶比賣の妹である虚空津比賣の出身地は対馬と考えられる。息長帶比賣は対馬出身の姫と義姉妹になった。

『古事記』では「日高」を「日子」とせず、「高」を高木神のように「タカ」と使用し、但馬の河神を意味する。虚空津日高は対馬の日神の末裔である加須屋の大神祇や大山祇、高御産巣日を意味するのかもしれない。

2024年9月16日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天降7 日臣と襲津彦

火火出見を豊玉彦の宮から新しい領地へ送り届けたのは、一尋和迩であり、神武東征でも曲浦の椎根津彦だった。椎根津彦は後に倭(海士)直、元の首都倭(淡海)の直()、すなわち元天皇である。『日本書記』の尾張大海媛を『舊事本紀』は尾張大倭媛と記述して、倭は淡海である。和迩臣の祖の日觸使王の娘は宮主宅媛で、子が菟道稚郎子なので、宇治川の女王、『梁書』の女国王が後裔だ。そして、曲浦の王の大倭王は大物主の建飯賀田須の兄である和迩君の祖の阿田賀田須がこれによく当てはまる。

日臣には、臣を賜姓した人物が存在することから、高千穂王家の滅亡によって、筑紫の大倭王の臣下、つまり日臣となったと考えられる。『後漢書』に記述される57年の金印は、志賀島の倭奴国を中心とする国の記録、107年の安帝永初元年には「倭國王帥升等獻生口」のように、倭奴国から倭国王が中心の国になった。125年の室見川銘板の「高暘左王作永宮斎鬲延光四年五」に従えば、倭国王が奴国に宮を造っており、すでに伊都の高千穂宮は弱体化していたと考えられる。

大倭王が、東の「拘奴國」を南の「狗奴國」に追い出し、壹国の糟屋を卑弥呼(夏磯姫)に任せた。阿田賀田須の弟の子である大田田祢古の子である大御氣持は、出雲鞍山祇姫を妃に迎え、出雲振根は筑紫国と友好関係にあった。これは、阿田賀田須と出雲氏が東の「拘奴國」を南の「狗奴國」に追い出したからと考えられる。

そして、南の「狗奴國」に対して、周芳の娑麼に住んでいた道臣と、大帯日子とその妃の日向美波迦斯毘賣一族が狗奴国を滅ぼした。安芸は帯中日子が王となり、道臣は諸縣君を、天種子の子である宇佐津は中臣を賜姓された。

日向美波迦斯毘賣は竺紫で生まれた時量師の後裔と考えられ、日向國造の祖である豐國別を生んだ。豐國別は日向髮長大田根に婿入りして日向襲津彦を生み、日向襲津彦の名をもらった葛城襲津彦の子が2代目襲津彦の帯中日子だろう。そして、3代目の襲津彦は酒君を預けられた長江襲津彦なのだろう。妃が諸縣君の娘の日向泉長媛、娘が磐之媛と考えられる。また、日向泉長媛娘の兄弟が諸縣君牛であると考えられる。

2024年9月13日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天降6 拘奴国と狗奴国

   忍日は、糸島から志賀島の不彌国まで、『三國志』によれば約5kmで、小舟()で行けたと考えられる。しかし、帰りの航路は異なり、通常数日かかる道のりを高速船によって一日で行ったとされている。もちろん、高速船は存在せず、潮の流れを熟知していた和迩氏が舟を漕いだと考えられる。

彼の目的地は、筑紫から豊玉彦が支配する国で、そこで彼の娘である豊玉姫を妃に迎えた。和迩氏は関門海峡の曲浦に住んでいた人物で、東の「拘奴國」の住人だ。この国は、三身国以前から存在し、アカホヤの時でも胸形以東で生き残った葉木国(速日別国)であり、初代の王は句句廼馳と草野姫だ。

『伊未自由来記』には、大海祇の出身地が加須屋と記述されており、恐らく大海祇は海祇(綿津見)と考えられる。『後漢書』の時代、景行・成務朝の頃には、志賀の高穴穗宮天皇の配下である大倭の王によって支配されていたため、大海祇・大綿津見と記述されたのだろう。

高穴穗宮王は、東の「拘奴國」を南の「狗奴國」に追い出し、但馬から来た天種子は菟狹津媛を妃に迎え、菟狹王になった。菟狹津彦は天種子に宇佐を譲った後、どうなったのだろうか。また、『日本書紀』の一書以外には記述されていない豊玉彦とは誰なのだろうか。

最も合理的な考えとして、豊玉彦は東の「拘奴國」の王である。火闌降は速日別王の豊玉彦の娘である豊玉姫を妃に迎え、菟狹王、すなわち日臣となった。東の「拘奴國」が南の「狗奴國」になった時、菟狹を天種子に譲り、日臣は豊の安芸や瀬戸内を得て、道臣となり、神武東征で道臣は日向の諸縣君になったと思われる。

曾都毘古の妃の祖は筑紫伊覩縣主の祖の五十迹手と考えられる。五十迹手の娘と思われる五十河媛の子は讃岐國造の始祖や播磨別の始祖となっていて、神武東征の結果だろう。大倭王は、阿多君の末裔である大御氣主と、大倭國民磯姫の子である曲浦を統治した和迩君の祖である阿田賀田須と考えている。民磯姫が阿多氏の後継者なのだろう。大御氣主の名を継承した大御氣持は出雲鞍山祇姫を妃にしているので、大御氣主が出雲臣なのだろう。出雲臣の遠祖の出雲振根は筑紫国に従っていた。

2024年9月11日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天降5 火遠理と天津日高日子

  火遠理すなわち天津日高日子は二人の人物を指しており、一人は後裔が帯中日子であり、履中天皇に繋がる人物で、高島の王である高木神に婿入りしたと考えられる。『古事記』ではもう一人の火遠理の妃として豐玉毘賣が記述されているが、彼女は速日別の女王であり、この火遠理は豊国王になったと思われる。

襲名した天津日高日子の不合の嫁は玉依毘賣であり、豐玉依毘賣ではない。また、忌部首の祖である天太玉(大国の王)の子は豊王の豊磐間戸と櫛王の櫛磐間戸で、彼らの子に娘がいれば、()玉姫と()玉依姫の可能性が高い。

そして、櫛玉は天皇の政大夫である天日方奇日方が居る国であるため、「櫛」を付けなくても名が理解される。そのような玉依姫に対して大物主や事代主の妃は活玉依姫と記述され、生倉が首都に含まれて玉依姫も継承されたようだ。天太玉は食国の政大夫が統治する神武・綏靖朝廷の時代における食国でない大国の王の大国主と考えられ、大物主の娘も()玉依姫を継承したのだろう。

また、伊都の高千穂の皇子である火遠理は小船で、筑紫の綿津見の国に向かい、豊国王の豐玉毘賣を妃にした。奇妙なのは、綿津見は伊邪那岐が竺紫の日向で生んだ安曇連の祖である斯香神であり、斯香は志賀島、筑紫なのに豊国である。加須屋大海祇、高御産巣日の出身地の速日別国の胸形や糟屋の国が豊国だった。大帯日子の子には豊国別と豊戸別が存在する。

『日本書紀』の一書には豐玉彦が登場し、豊国王の継承者が豐玉姫であることから、一書の豐玉彦は別の国の王になったと考えられる。同様に、宇沙都比古は宇沙都比賣を天種子の妃とし、宇沙を手放した。綿津見の子には宇都志日金拆が存在し、志賀島の分祀で、宇都志(宇津氏)は宇佐の氏と考えられる。すなわち、志賀島から宇佐へ分祀されたと考えられ、宇佐には金丸と日足が隣接して存在している。火遠理は豐玉彦に、そして、後裔は宇沙都比古に、更に安芸王、日向王になった。

2024年9月9日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天降4 吾田君の祖

  『日本書紀』には、火闌降、彦火火出見、火明が登場するが、『古事記』では火明が記述されず、火須勢理(褒能須素里)という不明な人物が登場し、火闌降の代わりに火照(ほでり)が記されている。これは、『古事記』が火闌降と火照を同一視し、火須勢理と火明も同じ系統と見なしていることを示唆している。

火照は『古事記』に「隼人阿多君之祖」、火明は『日本書紀』に「尾張連等始祖」と記述されている。『古事記』の火明は『舊事本紀』と同一であり、宇摩志麻治の父であるため、神武天皇の前の世代、事代主と同じ世代ということになる。つまり、『古事記』で襲名した2代目火明が火照の兄弟となり、火明が饒速日の兄弟にもなったことを意味している。『古事記』で尾張連の祖とされる奧津余曾は、葛󠄀木彦と賜姓され、劔根の孫である葛󠄀木氏なので、火火出見とは兄弟氏族の関係である。物部氏と尾張氏も火明以降に尾張氏と物部氏の同祖が出現する関係になると考えられる。

『日本書紀』では、火闌降は『古事記』の火照に該当し、火明が事代主と同世代ならば、火照も火火出見も事代主と同世代と考えられる。そのため、吾田君小橋は火火出見と火明の甥であり、隼人が分家だということになる。火明の孫である天村雲の妃は阿俾良依姫であり、阿多小椅君の妹である阿比良比賣の名前から、天村雲の妃は阿多小椅君の娘か阿比良比賣の娘の可能性が高い。

火明の曾孫である忍日女は、大伴氏の祖である忍日と同一地域(日向湖近辺)の人物と思われ、忍日女の婿となった可能性が高い。しかも、尾張氏の祖の香語山は道日女の子、道氏を受け継いだと考えられ、大伴氏は道臣を与えられる。忍日は九州に渡り、その後裔が日臣として神武東征に加わることになる。つまり、阿多君の娘婿の天村雲の娘の忍日女の婿であった忍日が隼人の祖であると考えられる。

2024年9月6日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天降3 海幸・山幸

阿多君の神武朝廷の政大夫である天日方奇日方は、別名を阿田都の久志尼といい、阿は吾国すなわち三国と丹波出雲と但馬を統治する敦賀の櫛川の津に首都を置く食国の神武朝廷の政大夫と考えられる。番能迩迩藝は、大山津見の娘である、子が阿多君の祖の神阿多都比賣を妃にしており、番能迩迩藝の孫が神武天皇になると考えられる。

『古事記』では、高御産巣日ではなく、高木神の娘として萬幡豐秋津師比賣は記述されている。高御産巣日は胸形から分祀されて高浜に来た神であり、高木神は高島の土地神だ。朝廷と同様に、祀られるのは母や祖母の土地神であり、父の出身地の土地神も祀られるが、父の祀る神は時代とともに変化していく。

大伴氏も葛木氏も、高御産巣日の末裔と言われているが、世代が異なる。高御産巣日は胸形出身の神であり、大伴氏は胸形の姫の子孫を意味し、葛木氏は高木神の子孫だ。史書は作成された時代の視点で記述されるため、大伴氏が安芸で高木神の末裔の葛木氏の帯中日子と義兄弟となったと考えられる。

神八井耳は火君、大分君、阿蘇君、そして筑紫の三家連の祖でもあり、九州で倭国の王家の阿知使主と姻戚関係を結んだことが分かる。火國造(火君)の祖は市鹿文、すなわち壹与であり、阿知使主の先祖だ。木花之佐久夜毘賣は大津の佐久奈度神社付近の姫であった可能性がある。大津から九州の王になった。

大山津見の孫、神阿多都比賣の子である海佐知毘古は火照、山佐知毘古は火遠理で、火須勢理には別名がなく、火遠理にはさらに天津日高日子穂々手見という別名が記されている。『古事記』では、火遠理は『日本書紀』で記述されない高日子すなわち高浜か高島の王と述べ、『日本書紀』に存在しない火照に吾田君小橋の本祖と九州の隼人の祖として、隼人になった、すなわち、九州に行ったと述べている。

2024年9月4日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 天降3 大伴氏の天降

仲国に天降る前にいた猿田毘古が、高天原と仲国の状況を知っていると言う。それに応対するのは、軍を率いる宇受賣で、彼女は宇治の津、大津の神のようだが、草那藝劒を持っていて、その治められる場所は伊勢なので、隠岐→九州とは一致しない。

王の璽は遠岐斯八尺勾璁、鏡、草那藝劒で、草那藝劒は須賀から、最終的には伊勢神宮の倭比賣が持っていた。すなわち、最終目的地は伊勢遺跡の伊勢神宮で、高浜から伊勢神宮への天降りに関する説話であり、和知都美の天降り説話であると考えられる。

これは、尾張氏が伊勢遺跡の伊勢で王朝を開いたという説話を流用したものであると考えられる。笠沙の御前は、伊勢遺跡の隣町である草津に笠山があり、福岡県の御笠はかなり内陸の岬ではなく、伊勢神宮に太い宮柱を建てた説話と考えられる。

それに対して、番を火と記述した火瓊瓊杵は、天の石位、石按比古比売神社や闇見神社がある若狭から、伊都(イツ)能知和岐と壱岐の津へ地を分け入って進み、さらに、海の「ウ」の宇岐士摩(小倉の宇佐の島:?彦島)や蘇理多多斯(?芥屋の大門)を経由して、終着点が日向峠の高千穗宮、高祖神社であったと考えられる。

久士布流多氣は「九州に降った」意味と考えられ、多氣の「氣」は「お化け」の「け」であり、山の「マ」と同じく神を指し、嶽は山を意味するのだろう。芥屋は神の住む家の門、港であり、征服者が文字を変えて「アクタ」とゴミ扱いしたと考えられるが、自分の土地をわざわざゴミ扱いすることはないだろう。

天降りに同行したのは、大伴連の祖である天忍日と、久米直の祖である天津久米で、五伴の天兒屋はおらず、「爲政」を命じられた思金も存在しない。神武東征の「日臣命帥大來目督將」とあるように大來目が同行しており、これは共通している。

天津神(?大津)の神子の美豆別之主は隠岐に侵攻した際に、久米部・綾部・工部・玉造部が同行した。そして、その同族を引き連れて、隠岐の焼火の姫である栲幡千千姫の子が糸島へ天降ったと考えられる。