2024年5月31日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 物部神・天祖の狹霧尊の子達2

天八下は野洲に分祀され、天三降は三国に分祀された神と思われる。そして、三(国)と八(国)を「あわせて」合祀した天合、淡海道で祀られた神だろう。合と似た発音の愛を使った宿場に愛知(エチ)川宿があり、愛知川が有る。八百日は八国の兵士たちであり、「お」は尾、後ろに付いてくる兵士を意味するのだろう。八十萬魂は十人の八国将軍を意味すると思われる。魂は玉や王を意味し、萬神、つまり野洲の神十柱が寄り合い、その王の王が高御産巣日なのだろう。滋賀県には老上という地名があり、萬は寄る津、つまり軍港に集まる神を意味するのだろう。

八十は八十梟帥、例えば磯城八十梟帥や赤銅八十梟帥などがいる。これは、大将がたくさんいるのではなく、八十梟帥という将軍の官位を意味する八国の大将で、十の軍隊があったのだろう。八岐大蛇は八の頭、将軍に率いられたのだから、国は2軍で守ったのだろう。

高御産巣日は宗像の日国神の分祀と高島の神を合祀した神で、その神子の思金が仕切った。高御産巣日の祖の産巣日の神々は、対馬昼ヶ浦の洲の日神が速日別の宗像に分祀された。宗像から同時に、和久産巣日が若狭に、神産巣日が敦賀に、高御産巣日が高島に分祀されたと考えられる。

神産巣日の御祖は、大氣都比賣が持参した種を栽培した神だ。この神産巣日の御祖が和久産巣日であり、後に記述されたと考える。神産巣日が三国、高御産巣日が高島の神に合祀されたと考えられ、元々住んでいた国神がいたから地名が付加できる。神の名は地名が先で、逆ではない。

現代でも、若国である若狭と三国の敦賀を二州と呼ぶそうだ。二州は、二国・二岐(饒)を意味し、これは偶然なのか。木製の戸しか無いのに木戸と昔から呼ばれた。木根を祀る入口だから木戸だろう。言葉や神の歴史は人が集団生活を始めた時が最初、地名説話はこじつけで、地名は人が住むときが始まりで元々有った地名で、それを持ち運んだ。

2024年5月29日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 物部神・天祖の狹霧尊の子達1

  『舊事本紀』によると、饒速日が天から降ってくるときに渡された「天璽瑞宝」が10種類あった。それは、贏都鏡、邊都鏡、八握劔、生玉、死反玉、足玉、道反玉、蛇此禮、蜂此禮、品物此禮だ。これらは、隠岐の贏津鏡、胸形の邊津鏡、野洲の剣、活玉依姫のいた三方の玉など、各地の国々の王の璽だったと考えられる。足玉は統治の象徴である帯玉、蛇は将軍を意味し、此禮は旗印、蜂は兵士、品物は兵站を意味する印だったのだろう。

饒速日の母は栲幡千千姫であり、隠岐の三つ子の島にある焼火山の姫、大人様を祀る姫だったと考えられる。大人様は宇都須山祇の子であり、宇都須山祇は大海祇から分祀された神だ。また、高皇産霊も名前から考えて、宗像の産霊神が高島に分祀された神のようだ。饒速日は天津神の対馬の神の美豆別之主の王朝の子と考えられ、美豆別は久米部・綾部・工部・玉造部の民を率いて大人様の後を継いだ。饒速日の「天璽瑞宝」は率いた氏族の王の璽なのだろう。

勝速日天之忍穂耳は狭霧から生まれた饒速日の祖神が祀られる対馬から来た速日別の子孫であると考えられる。物部氏の祖である饒速日の祖神は、天祖天譲日天狭霧国禅月国狭霧尊と考えられる。『舊事本紀』が物部氏の歴史書であり、最初に登場する神であることから当然のことだ。この神は伊弉諾・伊弉冉が瑞穂の地を治めるよう詔勅した。天祖天譲日天狭霧は、天神の流れを汲む神で、その天神日神を祀る昼ヶ浦を譲り受けた。そして、月国を継承して合祀した月国の対馬の狭霧である。

2024年5月27日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 流れ宮の神3

  神直毘と大直毘は「禍を直す」という意味で、「なほび」と訓読されているが、他の例では「直」の使われ方が異なる。例えば、「詔雖直猶其悪態不止」、「朝日之直刺國」、「從徒手直取」、「天皇置直幸女鳥」、「日下之直越道幸行」、「故巳直参上」の文が、使われている全てである。しかし、直接命令したのであり命令を変えていない、朝日は直接刺さっているのであって、刺さらないようにしていない、徒手で直接取っているのであって、手を治療していない。また、直接言っているのであって、何も直していない、直接越えて行っただけ、直接参上しただけである。

これらの例では、「直」は「直接」という意味で使われており、矛盾が生じている。したがって、「直」は「直接(ジカ)」の意味であり、禍を「ただした」と読むべきである。つまり、「ただび」と読むのが正しいだろう。

朝日之直刺國」の神が大直毘であり、神直毘は分祀されて直刺國に来たペアの神だろう。小浜には多田があり、若狭彦と若狭姫の神社がある。ここは狭州国で、天若日子が来た場所だ。天若日子の妃は下照比賣で、後に稚國玉や若国王と呼ばれている。小浜は「出雲國之多藝志之小濱」と記述され、「底津石根宮柱」として朝廷が開かれた場所である。

美豆別之主は饒速日と考えられた。彼は天津神の神子であり、大海祇の神子とも考えられる。美豆別之主は小之凝呂島を奈岐命から譲り受け、奈岐浦命と呼ばれた。奈岐浦命は海部首であり、さらに安曇首とも呼ばれた。つまり、彼は王ではなく、美豆臣安曇首だった。美豆臣は速日別や加須屋の大神祇との関連をうかがわせる。

饒速日の後裔には出石心がいて、父の彦湯支の妃が久流久美の娘だった。丹波の久美浜町には出角があり、伊豆志彌神社がある。伊豆志彌は伊豆邑神の意味で、直毘と同時に伊豆能賣を生んでいる。

その後、三柱の綿津見を生み、安曇連の祖神として筑紫斯香宮で祀られている。なお、安曇連は仁徳天皇の時代に賜姓され、日臣と共に大和に入ったようだ。箇之男の「墨江之三前大神」も宇佐の住江を指すのだろうか。

2024年5月24日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 流れ宮の神2

  『神異經』に「東方荒外有豫章焉此樹主九州」と、太平洋と日本海の接点に九州があると述べる。「東方有人焉」と九州に住む人物は,「男皆朱衣縞帶元冠」と冠をかぶっている。ところが、『舊唐書』に、倭国は「佩銀」で「明貴賤等級」と、簪で貴賤を表し、冠は無かった。日本国は「冠進徳冠其頂」と、冠をかぶった。『日本書紀』の冠の初出は、熊襲建から名を賜ったと思われる倭武の冠を墓に収めた。次は雄略紀、雄略天皇は日向の出身の王朝である。『古事記』には、これ以降に記述されない。

その冠から生まれたのが飽咋之宇斯である。周饒國は帯冠の国だった。王の象徴の杖から衝立船戸が生まれた。義均が定めた九州の丈夫國の速国の説話と考えられる。衝立船戸が三身國を生んだ聖人の帝俊の曾孫の番禺なのだろうか。衝立船戸は対馬や常立を行き交った神だろう。帝俊は「大荒西經」の「常羲」、東南海の外の太平洋につながる瀬戸内の「羲和」と、幾つもの地域に住み、妃がいた。

伊邪那伎は日向ケ浦から中瀬、宮津の中津の瀬で八十禍津日、大禍津日を生む。穢繁國の神なので、「奢比之尸」、比婆の山で生まれた大日孁貴なのだろう。三柱の神生みに二柱は奇異であって、八十禍津日と大禍津日と大日孁貴の三柱が生まれたと考えられる。野洲と大国と宗像の神である。宇都須山祇山祇、出雲の大山祇、流宮加須屋大海祇だろうか。宇都須山祇の願いで大海祇が軍を出し、出雲の大山祇の娘を妃に、大人様は出兵した。すなわち、流宮加須屋の海祇が分祀された大海祇と伊邪那伎の子達がこの三柱だろう。日向(ヒル)ヶ浦の神、小浜の松ヶ崎の神、野洲の対岸の真野浜の神だろうか。

2024年5月22日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 流れ宮の神1

加須屋の大神祇の祖である加須屋の神が但馬に分祀された際には「大神祇」、隠岐に分祀された際には「大海祇」と呼ばれた。筑紫の伊邪那伎、つまり火之迦具土(河神木津霊)は帝俊ではなく、「伎」であるため、土地神や女神の娥皇であると考えられる。そして、海津美が火之炫毘古の帝俊であると考えられる。

衝立船戸は、対馬の神と常立の神が習合した港の神であると思われる。海の中道から隠岐への中継点である長乳齒(長門の神)、そして時量師は博多の港(門岐)の神(氏)と思われる。景行天皇は、襲の国の姫である御刀媛を妃とし、日向国造の祖である豊国別を生んだ。「ミハカシ」も博多の神と考えられる。

和豆良比能宇斯と飽咋之宇斯の「宇斯」は、『日本書紀』が「大背飯三熊之大人」の「大人」という文字を「ウシ」に充てたその「ウシ」だ。これは「大人國」の神だからなのだろう。「大人之市」はシナ海にあった。また、「大荒東經」には「東海之外大荒之中」、すなわち黄海と太平洋東岸の間の瀬戸内にもあった。大人国の交易の場が六合で黄海の倭と安芸に大人国の市があった。すなわち、「和豆良比」は倭人の島の津神で、「良比」は中国語でおおらかの「磊(Lěi)」を意味する。「飽咋」は安芸の神だと思われる。

倭は「海内東經」に記述されており、「倭屬燕」とあるように、倭は燕に支配されていた五島列島や済州島、全羅南道の島々のことを指しているのだろう。三身國は白()・豊・建の熊襲の国のことだ。日本海の速、瀬戸内の安芸を含む豊、そして熊襲の倭奴を指す。

道俣は海の道が分かれる場所で、豊後半島に真玉があり、俣の間のことだろう。奥疎は隠岐に去った神、大海祇のことかもしれない。奥津那藝佐毘古は、速国・長門から隠岐へ渡った奈岐の佐之男の佐毘古を指しているのだろう。

奧津甲斐辨羅の「甲斐辨羅」については不明だ。しかし、港に関係する「かひ」という言葉は、「槁根津日子」が「渡槁機引」として使ったように、船頭が枯れた木の幹を加工した櫂で舟を漕ぐその櫂を指しているのかもしれない。

2024年5月20日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 九州の神生み2

  海士は当然、津で漁をして津の神、つまり祇を祀る。野では智()が木を祀る。智は木を切って津に運び、木根を祀る津智(椎)と呼ばれる。竹を束ねた筏を参考に、木根を束ねた筏になり、津美と交流して筏で漁をする。筏は淵の根で舟と呼ぶ。「番禺是始為舟」とは、番禺が初めて木の筏を造ったことを意味するのだろう。大人国は舟を削るのだから、削らない番禺は結ぶだけなのだろう。

また、『大荒北經』に「帝俊竹林在焉大可為舟竹南有赤澤水名曰封淵」とあるように、帝俊が竹で筏を造って浮かべた場所が淵である。竹は寒冷地には自生しないため、温暖な時代でもオホーツク海の南辺りが淵と考えられる。帝俊は舟が無い時代から存在し、初めて竹の筏を造った。

帝俊の行動範囲を考えると、丸木舟なしでは移動できず、帝俊は長く続いた王家であったと考えられる。竹の筏は淵に浮かべたというように、橋代わりである。木の筏では海流を渡れないため、遭難して、一本の木の舵の効き具合を知り、丸木舟を創った。そして、若狭の大人国で丸木船が量産され、交易で市を開いた。『大荒北經』には肅慎氏之国の近辺に大人之国の分国があると記述されている。これは国引き神話の「北門良波乃国」のことだろう。ここが封淵なのだろうか。しかも、帝俊が生んだ三身国の綱が武器、舟を繋いでおく道具である。

筏では海流を渡れないので、沿岸を航行し、海流に流されて筏がばらばらに、一本の木にしがみついて助かったことから、木を木場で寝かせて舟を造ることを思いついたのだろう。これは自然なことだ。筏も、木や竹が浮かぶ様子を見て使ったことは、十分想像でき、束ねて筏に変化した可能性がある。そして、鹿児島県には舟を造る道具の丸のみ石斧があった。

2024年5月17日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 九州の神生み1

  木葉比等は木神、鬼道ではなく木道、木国の神を祀る人と考えられた。『古事記』の記述者は、木神を「久久能智」と理解し、その後に山の神、次に野の神が生まれたとしている。しかし、本来は水を生む山の神が最初で次が河、その次に野の神、最後に木の神の順序であったと考えられる。

そのため、『古事記』では、木神ではなく、山と野の神が八神を生み、古い形の神名として名も「津神の土」の狹土、「流木の神の霧」の狹霧、「門の神の戸」の闇戸、「戸の女」の大戸惑女、「戸の子」の大戸惑子が生まれた。そして、後に「鹿屋野比賣」「久久能智」という名前が追加されたが、これらはおそらく河神の「カミ」を祀る津にある野と山神の「ヤマ」を意味しているのだろう。

追加された神々である鹿屋野比賣と久久能智は、どちらも九州の神だ。昼ヶ浦の日女を祀る人々が、野洲(ヤス)ではなく野(ノ)の国の野智(ノチ)を日女と考え、野の国の人々が野比賣を祀ったことを示す。海の神である津見の日女を祀った港神の津日子が天降り、その到着地の津に定住した神が津日女で、その場所は風神の志那都比古の国であり、志賀島の国の那珂川の津で日女を祀る日子の国と記述している。ここは、加須屋の大神祇の出身地でもある。

九州は帝俊の子である義均が定め、その支配地を「奴()」、つまり日本語で「それ」の「襲」と呼んだ。「奴()」も日本語の「主」の「ヌ」かも知れず、倭奴国は「その倭種の国」の久魔()国の九州を意味するのだろう。鹿屋は「鹿文」で「熊襲之渠帥」とあり、熊襲王を意味する。熊襲国王である熊襲姫が鹿屋野比賣である。

また、久久能智の「久」も中国語では“jiǔ”と読み、九州は中国語で“jiǔzhōu”と言う。九州には久住川があり、中国語読みで“jiǔ zhù”川となる。狗奴国王は狗古智卑狗であり、これは偶然とは思えない。『三国志』には「鬼奴国」があり、木(神)之鬼奴智を久久能智に当てた可能性がある。現代の中国語と周や漢の中国語と発音は異なるかもしれないが、久住と九州が似た発音であることは変わらないだろう。