2022年3月30日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書・物部氏のまとめ1

  崇神朝の時点で物部氏の神話が終了したのでまとめてみたい。

物部氏の神は『舊事本紀』に「天譲日天狭霧國禪月國狭霧尊」と記述され、天の日国・月国から国を譲られた狭霧國王と記述され、尊すなわち神の子達で、狭霧の狭は若狭の狭国と考えられた。

宗像の丈夫国(日国)の神は後の「卑弥呼」が王なのだから日神の神子(みこ)、隠岐の周饒国(食国)の神の「おみ」・臣(海・天)、君子国(三国)の神の「きみ」・岐神で、これらの国のみ「冠帶」と王冠を帯びる王の中の王の国で、その王が日子(日神子)・君子・天(海)子、その他の国の王は霊「ち」で、大人国(大国)の人々の霊(国神)を聖人(ひじり)と呼び、船を操って交易を行っていたと思われる。

そして、大人国(大国)は周饒国(隠洲国・隠岐)の支配下となり、若狭もその支配下となって「食國政大夫」と隠洲国の大夫の狭霧尊と尊(神子人)と呼ばれ、譲日の天降陽神・禪月の天降陰神の子孫が天璽瑞寶を持った饒速日・伊香色雄達で、おそらく、天道根の子孫と思われる天道日女を妃にした天香語山(髙倉下)、大倭根子の娘の真鳥姫・御炊屋姫を妃にした宇摩志摩治を生んだと記述し、どちらも、「ぢ(下・治・遲)神」と記述され、物部氏の神の襲名が宇摩志摩治(宇摩洲遲)で、尾張氏は神刀の名と同じ天村雲なのだろう。

志摩治(洲遲)は「神霊」の冠帶する神の洲神・岐神に対する、冠帶しない独立国の国神の洲遲・岐遲で、国神の国の領域は邑程度の支配だったので、国神は邑遲・連であり、周饒国の配下の国神は臣・隠神、君子国・三(神)国の国神は耳・三神、丈夫国の国神は神霊が生まれた地域なのだから国神は日子(卑狗)が相応しく、その後、九州の各地に岡・水沼・伊覩・沙麼・筑紫など縣主が頻出し、九州の十七縣の王が都加使主と呼んでいるのだから、国(縣)神は主(爾支)である。

この、 髙倉下・宇摩志摩治の流れを汲む姓が連(邑の神・邑遲)で、句句廼馳・野槌・大己貴も同系の霊の神々で、饒速日は二岐速日と考えられ、対馬とその日別の宗像の尊(神子人)と考えられる。

そして、天道日女は、本来、宇摩志摩治を襲名した伊香色雄の妃の「山代縣主祖長溝」の娘の襲名で、その祖先の天道根は神武天皇に『舊事本紀』の「天道根命爲紀伊國造即紀河瀨直祖」と紀伊國造を賜姓され、これは、紀河瀨直とあるように、紀国・木国であり、これまでも示したとおりで、天道根は和迩臣の祖で、珍彦の子孫、伊迦賀色許賣の子の比古布都押之信と珍彦の妹との子が建内宿禰、庶兄が味師内宿禰で、『古事記』の4番目の神の宇摩志阿斯訶備比古遲も同じ系統の神で天道根の祖神の可能性が高い。

すなわち、神話の若狭の饒速日は大人の市などの分国を持つ海洋国大人国(大国)の曲浦の天道根と同盟し、宇摩志麻治は大人国(大国)の神である大神の活目色五十呉桃の娘を妃にし、子の彦湯支は出雲色多利姫を妃に大国王の出雲醜大臣が生まれ、宇摩志麻治も彦湯支も出雲醜も「食國政大夫以爲大臣」と隠洲の配下の出雲の大国の王の大臣と述べて、出雲を地盤にしたという意味である。

出雲臣女子沙麻奈姫」と出雲醜の娘は君子国(三国)の建飯勝の妃、その子孫が甘美韓日狹で、伊香色雄は「天璽瑞寶」を崇神天皇に渡して皇位に就任し、十市は出雲の「神寶」を垂仁天皇に渡して出雲にあった君子国の神寶を得て、義父の諸隅は「武日照命従天將來神寶」と大人国(大国)の神寶を得て、和迩臣の祖の建諸隅王朝は君子国・大人国・周饒国・丈夫国の領域を持つ王となり、その王朝の国名を中国で秦が統一したことに倣って、物部氏の辰国の音を引き継いだ表意文字の秦国と呼んだ。

すなわち、この頃から表意文字が使われていたと考えられ、倭が八の意味、さらに海士へとの変化がこの頃既に存在したと考えられる。

2022年3月28日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書9

  前項の続きで夢見は尾張氏・丸迩臣の祖の坐王の子達による皇位継承争い、沙本毘古の乱もその一端で、大彦・物部朝廷から尾張氏が政権を奪い、さらに、丹波道主・弟彦と水之穗眞若・豐城入彦が分朝廷を開いたのが、夢見で豐城入彦が東方、すなわち、淡海野洲朝廷を開いた。

崇神天皇の皇位継承後、豐城入彦は「紀伊國荒河戸畔女遠津年魚眼眼妙媛生豐城入彦」と丸迩臣の祖の孫の大国の遠津臣と呼ばれ、丸迩臣の祖の子の山代之大筒木眞若王の子の迦迩米雷王、恐らく、八坂入彦は遠津臣豐城入彦の子の高材比賣を妃にし、その子が息長宿禰王、その子が「息長地名在近江國坂田郡」に居る大多牟坂王である。

すなわち、「當麻・坂上君祖」の坐王の3世の孫が『古事記』「山代之大箇木真若王娶同母弟伊理泥王之女母丹波能阿治佐波毗賣生子迦迩米雷王此王娶丹波之遠津臣之女名高材比賣生子息長宿祢王・・・息長宿祢王娶河俣稻依毗賣生子大多牟坂王此者多遅摩國造之祖也」と大多牟坂王で『古事記』「大多牟坂王此者多遅摩國造之祖」と多遲摩國造の祖、『舊事本紀』「淡海國造志賀髙穴穗朝御世彦坐王三世孫大陀牟夜別定賜國造」と大多牟坂に似た名の坐王三世孫の大陀牟夜別が淡海朝廷で淡海國造なのだから天皇である。

そして、恐らく伊理泥の妃は水之穗眞若の娘で息長宿禰の息長は水之穗眞若の母の息長水依比賣の息長を引き継いでいると考えられ、安直の祖を引き継いだと思われる。

坐王と息長水依の子の水之穗眞若は近淡海の安直の祖で、遠津臣の豐城入彦、妹は野洲にある伊勢遺跡の神宮の斎王、遠津臣の子の高材比賣の夫が迦迩米雷王、その孫が大陀牟夜別・淡海天皇・成務天皇で水之穗眞若は安直の祖、『古事記』「娶近淡海之安國造之祖意富多牟和氣之女布多遅比賣生御子稲依別王」と安直の祖の意富多牟和氣、その意富多牟和氣は『日本書紀』「母皇后曰兩道入姫命活目入彦五十狹茅天皇之女也」と垂仁天皇と記述されていて、意富多牟和氣の妃が八坂入姫、成務天皇の祖父は八坂入彦で迦迩米雷王である。

八坂入彦の母は和迩臣の祖の家系の大海姫、迦迩米雷王も和迩臣の祖の袁祁都比賣の子の伊理泥王の娘の阿治佐波毘賣で、淡海朝廷も大和の朝廷も袁祁都比賣・國意祁都の子達である。

すなわち、和迩臣の祖の尾張建諸隅の王朝が分裂し、淡海の建諸隅・物部武諸遇と王朝が変質し、「物部多遅麻連公武神諸遇大連之子」の多遅麻は『日本書紀』「和珥臣祖日觸使主之女宮主宅媛生菟道稚郎子皇子」、『舊事本紀』「印葉連公多遅麻大連之子・・・姉物部山無媛連公此連公輕嶋豐明宮御宇天皇立為皇妃誕生太子莵道稚郎皇子」と和珥臣の祖を受け継ぎ、尾張氏の系図には『舊事本紀』「淡夜別命大海部直等祖弟彦命之子」と水之穗眞若らしい人物が記述されている。

そして、和珥臣の直接の祖、但馬王と思われる『舊事本紀』「志賀髙穴穗朝多遲麻君同祖」の多遲麻君は物部多遅麻がよく当てはまり、和珥臣王朝で君と呼ばれ、後代、大和の王朝では多遲麻大連と呼ばれたようだが、このように、臣・使主・君・連の姓や、大連・大臣の皇太子と同等の姓が王朝による呼び名の違いで、君・国造・王・宿祢・主も王朝による呼び名の違いだったと考えられる。

また、これら姓と同じように、王朝によって氏も職名も、武氏・建氏・天氏・息長氏のように、同一人物が混入していること、それらの人物をどの時代に当て嵌めるかで、同一人物が複数の朝廷で活躍したように錯覚され、同一人物が天皇であったり、逆賊で有ったりする、これが、日本の古代史書の真実で、古代史書は内容は正しいが、当て嵌められた時代が違うことを念頭に理解しなければならないが、空想でない信用出来る史書群である。


2022年3月25日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書8

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上 』は続けて「夏四月戊申朔丙寅以活目尊立爲皇太子以豐城命令治東國六十年春二月詔群臣日武日照命従天將來神寶藏于出雲大神宮是欲見焉則遣矢田部造遠祖武諸隅令使分明撿定獻奏焉六十五年春正月武諸(?)命為大連物部氏祖六十八年冬十二月戊申朔壬子天皇崩時年百二十歳也明年秋八月甲辰朔甲寅葬于山邊道上陵誕生皇子六男五女兒汝目入彦五十狹茅尊次彦五十狹茅尊次國方姬命次千々衝倭姬命次倭彦命次五十日鶴彦命次豐城入彦命次豐鍬入姬命始託天照太神為斎祠次入坂入彦命次渟中城入彦命次十市瓊入姬命 初託天田魂神為齋祭」、【夏四月戊申が朔の丙寅に、活目を皇太子とした。豊城には東国を治めさせた。六十年の春二月、天皇は群臣に「武日照が天から持って来た神宝は、出雲大神の宮に収めてある。これを見たい」と言った。そこで、矢田部造の遠祖の武諸隅を派遣し、詳細に調べて、報告させた。六十五年の春正月、武諸隅を大連とし、物部氏の祖だ。六十八年の冬十二月戊申が朔の壬子に、天皇が崩じた。年令は百二十歳だった。翌年の秋八月甲辰が朔の甲寅に、山辺道上陵に葬った。天皇は六男五女を生んだ。(系図は略す)十市瓊入姫ははじめて大国魂神を祀った。】と訳した。

夏四月戊申朔丙寅の立太子は、西暦69年から48年後の116年に倭奴国は都を変えた王を記述していると思われ、『後漢書』の「安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見」と107年、安帝に接見を願った帥升の王朝と考えられる。

『三国史記』の新羅では西暦73年「脱解尼師今十七年王遣角干羽烏禦之不克羽烏死之十八年秋八月百濟寇邊遣兵拒之」、これは、百濟では多婁王46年にあたり「四十七年秋八月遣將侵新羅」とやはり百濟と倭が協力して新羅を攻撃し、「桓靈之末・・・是後倭韓遂屬帶方」と倭と韓は共に帯方郡に服属したが、73年に『三国史記』の新羅脱解尼師今王の時に和睦の約束を破って、「倭人侵木出島」と新羅を侵略した。

それは、百濟と新羅が西暦70年、「多婁王四十三年遣兵侵新羅・・・四十七年秋八月遣將侵新羅四十八年冬十月又攻蛙山城拔之四十九年秋九月蛙山城為新羅所復」と西暦76年まで戦っており、70年新羅脱解尼師今王「十四年百濟來侵・・・十八年秋八月百濟寇邊遣兵拒之十九年・・・冬十月百濟攻西鄙蛙山城拔之二十年秋九月遣兵伐百濟復取蛙山城自百濟來居者二百餘人盡殺之」と76年まで新羅も記述して、倭と百濟が共同で新羅を侵略したと考えられる。

この時期に、『日本書紀』に百濟の記事が記述されず、新羅の日槍記事など、新羅との友好記事が記述され、畿内と新羅に対する百濟と倭の関係が理解できる。

48年の豐城・活目の皇位継承争いは孝昭天皇の末裔の丸迩臣の祖の日子國意祁都の妹の意祁都比賣娶った日子國意祁都をバックにした日子坐王の子の息長水依比賣を娶って生まれた丹波比古多多須美知能宇斯王とその子の丹波の河上の摩須郎女を娶って生まれた朝庭別王と、丹波比古多多須美知能宇斯王の弟の水之穗眞若王と意祁都比賣の妹の子の山代之大筒木眞若王の争いで、丸迩臣の祖は春日臣の祖でもあり、春日王だったと思われ、春日の建國勝戸賣もその一族の可能性が高く、その孫の沙本毘古王が山代之大筒木眞若王・水之穗眞若王の後ろ盾だった可能性が高い。

坐王の子の沙本毘古王は『古事記』に「沙本毗古王者日下部連甲斐國造之祖」と甲斐国造の祖、『舊事本紀』に「次大八椅命甲斐國造等祖彦與曽命之子」、「甲斐國造纏向日代朝世狹穗彦王三世孫臣知津彦公此宇塩海足尼定國造」とあり、彦與曽は弟彦の弟、尾張氏で坐王が尾張氏であると、ここでも証明された。

また、物部の祖と賜姓されない物部武諸隅が大連は奇妙で、武大連だったことが解り、尾張氏の建諸隅も建大臣で違う王朝の立場、大連が皇太子と同等の王朝と大臣が皇太子と同等の王朝から見た、同一人物を朝廷分裂後に記録したことを示していると思われる。

2022年3月23日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書7

  『日本書紀』は続けて概略「夏四月戊申が朔の丙寅に、活目を皇太子、六十年秋七月丙申が朔の己酉に、武日照(あるいは武夷鳥又は、天夷鳥という)が天から持って来た神寶を、出雲大神の宮に秘蔵し飯入根は、皇命を受けて、神寶を、弟の甘美韓日狹と子の鸕濡渟が矢田部造の遠祖の武諸隅(大母隅)に渡し、それで、内紛が起こって出雲振根を誅したため、大神を祀らなくなったので、丹波の氷上の人、名は氷香戸邊の提案で甘美の御神、底寶御寶主を祀らせた。六十二年秋七月乙卯が朔の丙辰に依網池を十一月に、苅坂池・反折池を作り、六十五年秋七月に、任那國が、蘇那曷叱知を派遣して、朝貢した。任那は、筑紫國を去ること二千餘里で。北に、海を隔てて鷄林の西南に在る六十八年冬十二月戊申が朔の壬子に崩じ百二十歳だった。明年の秋八月甲辰が朔の甲寅に、山邊道上陵に葬った。」とある。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上 』は「四年春二月丁卯建膽心命為大祢多辨命爲宿祢安毛建姜命爲侍臣並物部連公祖也三(四)十八年春正月己卯朔戊子天皇勑豐城命活目尊曰汝等二子慈愛但齋不如何爲嗣各冝夢朕以夢占之二皇子被命得沐浴而祈寐各得夢矣會明兄豐城命以夢辞奏于天皇日自登三諸山向東而八迴弄搶八迴撃刀弟活目尊以夢辞奏言自登三諸山之嶺繩絙四方逐食粟雀則天皇相夢謂二子曰兄則一片向東當治東國弟是悉臨四方冝継朕位焉」、【四年春二月丁卯、建胆心を大祢、多弁を宿祢、安毛建美を侍臣とし、これらは物部連の祖だ。四十八年春正月己卯が朔の戊子に、天皇は豊城と活目に「お前たち二人は、どちらも同じに可愛い。どちらを跡継ぎにするか考えている。それぞれ夢を見て、夢で占うことにしよう」と言った。二人は命令をきいて、沐浴して祈って寝て夢をみた。夜明けに兄の豊城は、夢のことを天皇に「三諸山に登って、東に向かって八度槍を突き出し、八度刀を振りました」と言った。弟の活目も、夢を「三諸山の頂きに登って、縄を四方に引き渡し、粟を食べる雀を追い払った」と言った。そこで、天皇は夢の占いをして、二人に「兄はもっぱら東に向かっていたので、東国を治めるとよい。弟はあまねく四方に心を配っているので、わが位を継ぐとよい」と言った。】と訳した。

ここで言う、神寶を持って来た武日照は『古事記』の「天菩比命之子建比良邊(?鳥)命此出雲國造・・・等之祖也」の建比良鳥のことで、『日本書紀』にも比良鳥の父の「天穂日命是出雲臣・・・等祖也」と記述され、神寶を祀っていた出雲振根が物部氏に神寶を献上したために出雲臣を賜姓され、『舊事本紀』には内紛が記述されずに安泰で、それは、彦湯支が「出雲色多利姫」を妃にし、出雲醜大臣と大国の出雲氏を名乗り、出雲臣の娘の沙麻奈姫を懿徳天皇の甥の建飯勝が妃として建甕槌を生み、子の大田田祢古も、その子の大御氣持も「出雲神門臣女美氣姫」、「出雲鞍山祇姫」を妃とし、その子の大鴨積が賀茂君、大友主が大神君を賜姓されるのだから、母系の出雲氏も出雲臣を賜姓されたと考えられ、それらの他王朝の姓の君・臣を崇神天皇が追認し、それが出雲振根だったとすればよく理解でき、他王朝の姓の日臣を崇神天皇も道臣と姓の臣を追認した。

それに対して、『日本書紀』は丹波道主が出雲振根を殺して、配下とみられる氷香戸邊が出雲振根の弟の甘美韓日狹達に出雲を任せ、これが、4道派遣の「丹波道主命遣丹波」の説話と考えられ『古事記』では坐王の玖賀耳之御笠殺害と役職が異なる原因で、説話発生が1世代異なる。

崇神天皇の九州の暦使用は「伊香色雄而以物部八十手所作祭神之物」、「墨坂神・大坂神を祀る」、「4道侵攻」、「故稱謂御肇國天皇」、「池造り」で、正しい暦は「皇位継承説話」・「大田田根子探索」・「正朔不採用批判」・「4道出撃」・「出雲振根説話」と宗教的説話は九州暦で政治的説話は畿内暦となっていて、宗教の代表者の物部氏と天皇の対立が想定され、4道侵攻は『古事記』が3道のように、吉備への侵攻が記述されず、神武東征で、日向から安芸まで九州暦と無関係では無く、ここの九州の暦の説話は垂仁天皇の説話の可能性があり、崇神朝の正朔の暦を拒否し、漢と同じ晦日が朔の暦を使用する分朝廷の可能性があり、分朝廷は東国を治めた豊城の朝廷である。

2022年3月21日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書6

 前項の続いて、『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて、「又遮其逃軍以斬者如鵜浮於河故号其河訶(謂)鵜河也亦斬波布理其軍士故号其地謂波布理曽能如此平訖参上覆奏故大毗古命者随先命而罷行高志國尓自東方所遣建沼河別與其父大毗古共往遇于相津故其地謂相津也是以各和乎(手・平)所遣之國政而覆奏尓天下太平人民富榮於是初令貢男弓端之調女手末之調故稱其御世謂所知初國之御真木天皇也又是之御世(作)依網池亦作經之酒折池也天皇御歳壱佰陸拾捌歳戊寅年十二月崩」、【又、その逃げる兵を遮って斬ると、鵜のように河に浮いた。それで、その河を鵜河という。亦、その兵士を斬り掃った。それで、そこを波布理曾能という。このように平げ終わって、参上して復命した。それで、大毘古は、先の命令通りに、高志國に行った。それで東方から派遣されていた建沼河別と、その父大毘古とが、相津で遭遇した。それで、そこを相津という。これで其々派遣された國の政情を落ち着かせて復命した。それで天下がとても平穏になり、人民が富み栄えた。そこで初めて男の獲物の物納と、女の織物の物納を始めた。それで、その世を稱えて、初めて國を知らした御眞木天皇という。又、この天皇の治世で、依網池を作り、亦、輕の酒折池を作った。天皇の歳は壹佰陸拾捌歳で戊寅の年の十二月に崩じた。山邊の道の勾の岡の上に葬った。】と訳した。

『古事記』が日子坐王を丹波に派遣したと書くのに対して『日本書紀』は丹波道主すなわち日子坐王の子の丹波比古多多須美知能宇斯王と記述し、大彦・坐王をどの天皇の時代に記述するかによって、それに対応する他の氏族の世代が変化する事を示し、それに合致るように主語も変化させていて、古代の日本の史書の作成法が窺える。

丹波道主は『日本書紀』に「道主王者・・・彦坐王子也一云彦湯産隅王之子也」と湯産隅の子も道主、旦波大縣主由碁理の娘の竹野比賣の子で、大縣主は大彦のこと、竹野比賣は大彦の姫にあたり、由碁理が丹波を攻撃して丹波道主、さらに大縣主すなわち大彦になり、大彦の子が丹波道主湯産隅で、その娘の丹波河上の摩須郎女を丹波比古多多須美知能宇斯王が妃にして、丹波道主となったと考えられ、多多須が湯産隅を破ってその姫を得ることで丹波が多多須に支配された記述が『日本書紀』の丹波道主派遣である。

『舊事本紀』に「品治部君等祖彦湯産隅命」とあるように、大筒木垂根も品治部君の祖と考えられ、品治部君は譽津部君の譽津別と考えられ、母の沙本毘賣は春日建國勝戸賣の孫で、春日建國は建氏の国、すなわち、尾張氏の国・建諸偶の国と考えられ、彦湯産隅は武氏に婿入りした武渟川別と考えられる。

丹波道主が存在した時代には同じ役職の道主だった、中臣の同盟者の道臣が垂仁天皇の時代に「大伴連遠祖武日」と大伴連賜姓前に配下として出現し、吉備津彦に道主日臣が配下となって、道臣となった可能性が高く、神武東征の段階で、吉備から道臣を配下に大和に入るのだから、『古事記』には西道侵攻は記述されず、崇神天皇時代以降に大和に侵入しているので、大物主の娘を娶ることもできる。

大伴連の祖は『舊事本紀』に「倭宿祢命三川大伴部直祖」と記述され、倭宿祢は倭直吾子篭宿禰が大倭國造吾子篭宿禰とあるように、倭国王でその子孫が大伴連を配下にし、仁徳天皇の時でも「大鷦鷯尊問倭直祖麻呂」と倭国王が存在せず、倭直部と倭直と倭國造と倭宿祢が同一の意味、大伴部直も大伴の統領大伴大連の祖の意味で、『日本書紀』の神武天皇の役者が揃って、「槁根津日子此者倭國造等之祖」と槁根津日子は390年頃即位した応神天皇の神武東征の説話、すなわち、「珍彦爲倭國造」と珍彦は吾子篭で、珍彦は木国造・木直・木宿祢になった。

すなわち、道臣は少国の吉備道臣のことで、大足彦とともに安芸仲国を征服し、さらに、仲足彦の子の応神天皇(『日本書紀』の葛城神武天皇)とともに、畿内を征服したと考えられ、もともと、史書は大倭を大和の表意文字にしていて、江戸時代に江戸藩がないように、大和に首都があって、大和王など有るはずがなく、大和王がいるとしたら、淡海朝の時は大和にも朝廷が有り、難波仁徳朝廷以降しか有り得ない。


2022年3月18日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書5

  『日本書紀』は続けて概略「十年の秋七月の丙戌が朔の己酉に未だに正しい朔すなわち暦を受け入れないので、九月丙戌が朔の甲午に大彦を北陸に派遣し、武渟川別を東海に派遣し、吉備津彦を西道に派遣し、丹波道主を丹波に派遣した。さらに、武埴安彦と妻の吾田媛が謀反を起こしたので、五十狹芹彦と和珥臣の遠祖の彦國葺と大彦が打ち破り、十七年秋七月丙午が朔に船舶を造った。」とある。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は「又此之御世大毘古命者遣高志道其子建沼河別命者遣東方十二道而令和平其麻都漏波奴人等又日子坐王者遣旦波國令殺玖賀耳之御笠此人名者也故大毘古命罷往於高志國之時服腰裳少女立山代之幣羅坂而歌曰美麻紀伊理毘古波夜美麻紀伊理毘古波夜意能賀袁袁奴須美斯勢牟登斯理都斗用伊由岐多賀比麻幣都斗用伊由岐多賀比宇迦波久斯良尓登美麻紀伊理毘古波夜於是大毘古命思恠返馬問其少女曰汝所謂之言何言尓少女荅曰吾勿言唯爲詠歌耳即不見其所如而忽「失故大毘古命更還参上請於天皇時天皇荅詔之此者爲在山代國我之庶兄建波迩安王起邪心之表耳伯父興軍宜行即副丸迩臣之祖日子國夫玖命而遣時即於丸迩坂居忌兊(瓮)而罷往於是到山代之和訶羅河時其建波迩安王興軍待遮各中挾河而對立相挑故号其地謂伊杼美(今謂伊豆美也)尓日子國夫玖命乞云其廂人先忌矢可弾尓其建波迩安王雖射不得中於是國夫玖迩(命)弾天(矢)者即射建波迩安王而死故其軍悉破而逃散尓追迫其逃軍到久須波(婆)之度時皆被迫窘而屎出懸於褌故号其地謂屎褌(今者謂久須婆)」、【又、この天皇の時に、大毘古を高志道に派遣し、その子建沼河別を、東方の十二道に派遣して、その平伏しない人達を平らげた。又、日子坐王を、旦波國に派遣して、玖賀耳の御笠を殺させた。それで、大毘古は、高志國に行った時、腰裳を着た少女が、山代の幣羅坂に立って歌った(略)。それで大毘古は、あやしみ馬を返して、その少女に「お前が言ったのはどういう事だ。」と問いかけた。それに少女が「私は何も言っていない。ただ歌を詠んだだけだ。」と答えて、どこかにたちまち姿を消した。それで、大毘古は、参上して、天皇に伝えたら、天皇は「これは、山代國にいる庶兄の建波迩安王が、邪心を起したのでは。伯父は、軍を興して行け。」と答えて、それで丸迩臣の祖の日子國夫玖を副えて派遣し、丸迩坂に忌瓮をおいて行った。それで山代の和訶羅河に着いた時、建波迩安王は、軍を興して待ち受け、河を間に挟んで、対抗して応戦した。それで、そこを伊杼美という。今は伊豆美という。そこで日子國夫玖は、「そちらの者よ、まず魔よけの矢を撃て。」と求めた。それで建波迩安王が、射ったが当てることが出来なかった。それで國夫玖の放った矢は、建波迩安王を射て殺した。それで、その兵は残らず逃げ散った。それでその逃げる兵を追い詰めて、久須婆の渡についた時、皆行き詰まって、屎を漏らして褌に懸った。それで、そこを屎褌という。今は久須婆という。】と訳した。

『日本書紀』に崇神天皇十年・前88年に「猶不受正朔」と天皇が発布する正しい朔の日を受け入れないと怒り、この頃は天皇が暦・正朔を発布していたことを述べているが、『二中歴』に「年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政継体五年元丁酉」と継体元年より569年前に支干が始まったと記述し、継体元年は517年で、その569年前は前53年、そこから39年間は「無号不記」と元号が無く干支を「結縄刻木」と木に刻み縄で結んで保存し、すなわち、前15年から元号が始まったと記述している。

結縄刻木がいつまで続いたか解らないが、『漢書』に「眞番辰國欲上書見天子又雍閼弗通元封二年」と前109年に辰国が中国に上書を提出し、紙に文字を書いていたことが解り、景行天皇元年71年に「因以改元」と改元し、『二中歴』の「継体」から元号が始まったということは、それ以前は違う王朝の扶桑国や尾張王朝の元号が存在した。

「継体」から秦王国の元号、すなわち、物部氏の元号が始まり、その元号が倭・日本国に引き継がれて、大長まで続いたことを示し、前53年から年号が始まったのは秦国を荒河戸畔・建諸隅・豐城入彦が建国して始まったと『二中歴』が記述したのであり、前53年以前、「猶不受正朔」の前88年以前の辰国や東鯷国でも元号を持つ暦が有り、だから、上書を送り、『日本書紀』に天文学的に正しい朔が記述され、「辛酉年春正月庚辰朔天皇即帝位於橿原宮是歳爲天皇元年」と宮元年という元号が記述されるのである。

2022年3月16日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』崇神天皇類書4

  前項に続けて、『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「・・・此謂意富多ゝ泥古人所以知神子者上所云活玉依毘賣其容姿端正於是有壮夫其形姿威儀於時無比夜半之時儵忽到來故相感共婚供住之間未經幾「時其美人妊身尓父母恠其妊身之事問其女曰汝者自妊无夫何由妊身乎荅曰有麗美壮夫不知其姓名毎夕到來供住之間自然懐妊是以其父母欲知其人誨其女曰以赤土散床前以閇蘇紡麻貫針刺其衣襴故如教而旦時見者所著針麻者自戸之鉤穴控通而出唯遺麻者三勾耳尓即知自鉤穴出之状而從糸尋行者至美和山而留神社故知其神子故因其麻之三勾遺而名其地謂美和也此意富多ゝ泥古命者神君・鴨君之祖」【この意富多多泥古という人を、神の子と知ったのは、前に言った活玉依毘賣の容姿が端正で、そこに若者がいて、その姿形や立居振舞が類なく、夜中に急にやって来て、互いに見染めて、一緒に過ごす間に、あまり時を経ず、その娘が妊娠したので、父母が妊娠した事を怪しみ、娘に「お前は知らないうちに妊身した。夫も無いのにどうして妊娠した。」と問うと、「うるわしい若者がいて、名も知らないけれど、夕毎にやって来て一緒にいる間に、妊娠した。」と答え、それで父母は、その者を調べようと、「赤土を床の前に散らし、巻き付けた紡いだ麻糸を針に通し、男の衣の襴に刺せ。」と教え、それで、教の様にして翌日に見ると、針を著けた麻は、戸の鉤穴から通り抜けて、ただのこった麻は三勾のみだったので、鉤穴から出たのを知って、糸に従って尋ねて行くと、美和山の神の社に留まってた。それで、その神の子と知った。それで、その麻の三勾を遺したため、そこを美和と名付けた。この意富多多泥古は、神君、鴨君の祖だ。】と訳した。

前項で述べたように、一人ではなく襲名した多数の大物主が存在するが、おそらく、史書は、崇神天皇の時代の説話が神話に当て嵌められたり、神武天皇の時代に当て嵌められたりしただけで、『古事記』の神武天皇の一人は崇神天皇の時代に大物主と勢夜陀多良比賣の子の比賣多多良伊須氣余理比賣を妻にし、『舊事本紀』の前2世紀頃の神武天皇は崇神天皇の時代ではなく神武天皇の時代に当て嵌めた。

実際の大物主説話は大物主の建飯賀田須と鴨部美良姫の娘を妃にした中国を建国した中臣氏の説話が大元の説話と考えられ、美良姫を活玉依毘賣に挿げ替え、実際は奇日方とその妃の賀牟度美良姫のことを述べていると思われる。

崇神天皇には、『古事記』の神武天皇、坐王・倭得玉、大御氣持などを含めて記述し、『古事記』には雄略天皇七年に「三諸岳神」を「或云此山之神爲大物代主神也或云菟田墨坂神也」と記述して大三輪神を記述せず、実は一言主が大物主だと述べ、『古事記』には葛城の神の一言主を記述し、大物主は現在の仲国に琴平宮とういう本拠が有り、元々は中臣氏が祀っていた可能性が高い。

雄略天皇は前天皇の殺害を中帯姫前皇后の子の眉輪王の仕業と記述しているが、中帯姫は中国王を意味しており、安芸を支配した前皇后の祖神と考えられる大物主、雄略天皇の妃の吉備上道臣の神を敬って、平郡氏の祖神の一言主と合祀した意味が理解でき、中臣氏の関与が窺える。

三輪神は三嶋溝橛耳が祀った神八→神倭→三輪と変質したものと考えられ、それを、大物主神や墨坂神などまとめて萬神と呼び、『日本書紀』に記述し、八十萬神は八国の十柱の萬神で、その中で、大物主神・墨坂神・神倭神を併せて三八萬神・三輪神と考えた。