2020年4月8日水曜日

最終兵器の目 継体天皇3

 『日本書紀』慶長版は
二月辛卯朔甲午大伴金村大連乃跪上天子鏡剱璽符再拜男大迹天皇謝曰子民治國重事也寡人不才不足以稱願請𢌞慮擇賢者寡人不敢當大伴大連伏地固請男大迹天皇西向讓者三南向讓者再大伴大連等皆曰臣伏計之大王<??ここから違う場所に誤入して記述されている??>子民治國最宜稱臣等爲宗廟社稷計不敢忽幸藉衆願乞垂聽納男大迹天皇曰大臣大連將相諸臣咸推寡人寡人敢不乖乃受璽符是日即天皇位以大伴金村大連爲大連許勢男人大臣爲大臣物部麁鹿火大連爲大連並如故是以大臣大連等各依職位焉庚子大伴大連奏請曰臣聞前王之宰世也非維城之固無以鎮其乾坤非掖庭之親無以繼其趺萼是故白髮天皇無嗣遣臣祖父大連室屋毎州安置三種白髮部以留後世之名嗟夫可不愴歟請立手白香皇女納爲皇后遣神祗伯等敬祭神祗求天皇息允荅民望天皇曰可矣
【二月の朔が辛卯の甲午の日に、大伴の金村の大連は、跪いて天子の鏡と剱と璽と書付を上程してもう一度お辞儀した。男大迹天皇は、「人民を子として国を治めることは、重大なことだ。わたしごときには才能もなく、天皇を名乗るに値しない。お願いだ、よく回りを見て賢者を選んでほしい。わたしごときはどう考えても当たらない」と断った。大伴の大連は、地面に頭を押し付けてかたくなに願った。男大迹天皇は、西側にいる者に皇位を譲ると言うこと三度、南側にいる者に皇位を譲るともう一度言った。大伴の大連達は皆「私達が首を垂れて対象者を数えたが、大王が人民を子として国を治めるのに、最も適している。私達は、天皇の祖先の霊をまつり、国家の経営の為に、考えたことをおろそかにしないでほしい。幸いなことに皆が即位を願っているので、出来ましたら聞き入れてください」と言った。男大迹天皇は「大臣と大連と将軍と宰相と諸臣ら、残らずわたくしごときを推してくれる。どうしてわたしごときがさからえようか」と言って、璽と書付を受けた。この日に、天皇に即位した。大伴の金村の大連を大連とし、許勢の男人の大臣を大臣とし、物部の麁鹿火の大連を大連としたことは、みな前のとおりだ。それで、大臣と大連達は、それぞれ、その位どおりの仕事をした。庚子の日に、大伴の大連は「私が聞いたところ、前の王の世が家臣の長となったが、都を継ぎ守れず、その天神や地神をやすらかにできなかった。後宮の中心が無く、御殿を継ぐ者がいない。それで、白髮天皇は、皇嗣が無かったので、私の祖父の大伴の大連の室屋に、国毎に三種の白髮部を置いて、後世に名を残した。ああ、なんと痛ましい事でしょうか。お願いですから、手白香の皇女を召し入れて皇后に立てて、神祇伯達を派遣して、神祇を敬い祀って、天皇の子息が出来るよう願い、人民の望みに答てほしい」と願い奏上した。天皇は「わかった」と言った。】とあり、標準陰暦と合致する。
大王が天皇の璽を受け取り、天皇に即位したことを記述し、王朝が変わった事を表明したが、この、王朝交代は扶桑国の巨勢王朝から物部氏の秦王国王朝への交代で、大王と呼べるのは許勢男人大臣か蘇我稻目か物部目大臣で皇太子か皇太子と同等の人物以外大王とは呼んでいない。
この中で、許勢男人大臣は扶桑国の最後の皇太子で天皇の璽を渡す側の人物、蘇我稲目は馬子の側の大王で倭国王、残るは物部目大臣となり実際の継体天皇で、『二中歴』の「継体五年 元丁酉」と517年に即位する天皇である。
目大連は『日本書紀』の雄略天皇即位前紀に「平群臣眞鳥爲大臣以大伴連室屋物部連目爲大連」と雄略天皇の時の大連としているが、『舊事本紀』では「弟物部目連公此連公継體天皇御世為大連奉齋神宮」と継体天皇の時の大連で「物部尾輿連公為大連物部目連公為大臣」と物部尾輿と同じ時代で、『日本書紀』の欽明紀の「大伴金村大連・物部尾輿大連爲大連及蘇我稻目宿禰大臣爲大臣」とそれを裏付けている。
ちなみに、雄略天皇時の大連は『舊事本紀』では「物部布都久留連公此連公大長谷朝御世為大連」と布都久留が大連、その弟が物部目で「弟物部目大連公此連公磐余甕栗宮御宇天皇御世為連奉齋」と清寧天皇の時に大連としている。
しかし、実際の清寧天皇の時代は20年程度後の時代で、この頃は倭国・文身国・大漢国・扶桑国と『梁書』が記述して分裂状態だったことが解っていて、私は倭国が後の俀国で武・磐井、 文身国が後の倭国で蘇我稻目、 大漢国王が「なか国」王朝・平群王朝を滅ぼした大伴金村、扶桑国が後の秦王国で巨勢王朝を滅ぼした物部目・物部麁鹿火連合ではないか、もちろん、王朝は長男が襲名するので複数の親子関係がある。
なお、この項の後半が別の位置に記述されているが、これは、慶長版の制作者が余分な思惑を排除して、淡々と版木を作ったことが解り、誠実さがよくわかり、後代の自分の考えが一番という奢った考えで出版した人々との差を感じる。
これら、奢った人々が歴史を捏造し(本居宣長・新井白石をはじめとする)、権力を後ろ盾に世間にその史観を拡散して、権力を後ろ盾にした教科書の歴史とそれに対抗するやはり、史書を間違いと奢った史観から歴史を捏造してご飯を食べている人たちが跋扈して、史書などは後代適当に書いたものだから信じるに値しないと、何物にも依拠しない妄想とその人物の高名さを背景に荒唐無稽な歴史を真実の歴史としている。
しかし、本来は残された史書は原則真実を記述していると考え、史書の矛盾を検証して、史書の性格を導き出して、真の歴史を構築することが科学的な究明姿勢だ。

2020年4月6日月曜日

最終兵器の目 継体天皇2


 『日本書紀』慶長版は
元年春正月辛酉朔甲子大伴大連金村大連更籌議曰男大迹王性慈仁孝順可承天緖冀慇懃勸進紹隆帝業物部麁鹿火大連許勢男人大臣等僉曰妙簡枝孫賢者唯男大迹王也丙寅遣臣連等持節以備法駕奉迎三國夾衞兵仗肅勲容儀警蹕前駈奄然而至於是男大迹天皇晏然自若踞坐胡床齊列陪臣既如帝坐持節使等由是敬憚傾心委命冀盡忠誠然天皇意裏尚疑久而不就適知河內馬飼首荒籠密奉遣使具述大臣大連等所以奉迎本意留二日三夜遂發乃喟然而歎曰懿哉馬飼首汝若無遣使來告殆取蚩於天下世云勿論貴賤但重其心?()荒籠之謂乎及至踐祚厚加荒籠寵待甲申天皇行至樟葉宮
【元年の春正月の朔が辛酉の甲子の日に、大伴の金村の大連が、また、「男大迹の王は、性格がなさけ深くまごころをこめて親につかえる。最初の天子うけ入れてもらうべきだ。できたら礼儀正しく説得して、国を統治する事業を受け継いで、さらに盛んにしてもらおう」と討議した。物部の麁鹿火の大連と許勢の男人の大臣達みなが、「選りすぐりの天孫から別れた王を選ぶのに、道理に通じた人は男大迹王以外ない」と言った。丙寅の日に、臣連達を派遣して迎えの印の剣を持って、正式な駕籠で、三国に迎えに行った。武器を持った衛士に守らせ、礼儀にかなった姿はつつしみかしこまって立派で先払いが掛け声を掛けて、息も絶え絶えやってきた。そこで、男大迹天皇は、安らかで落ち着いて少しもあわてず、胡坐でうずくまり、臣下をきれいに並ばせて、すでに皇帝が座っているようだった。徴の刀を持つ使者は、尊敬して、心を傾けて一生を委ねて、忠誠を尽くそうと願った。しかし天皇は心の中ではまだ疑って、なかなか皇位に就任しなかった。たまたま河内の馬飼の首の荒篭を知っていて、密かに使者を派遣して、詳しく大臣や大連達が迎える本当の理由を奏上した。二日三夜留まって、出発した。溜め息をつくようにして「なんと嬉しい事か、馬飼の首よ。お前がもし使者を派遣してきて教えてくれなかったら、きっと天下の笑いものとなっただろう。世の人が『貴賤をどうのこうのと言ってはならない。ただその心だけ重視しろ』というのは、きっと荒篭のような者をいうのだろう」と誉めたたえた。皇位を受け継ぐ時になって、手厚く荒篭を特別にかわいがった。甲申の日に、天皇は、樟葉の宮に着いた。】とあり、標準陰暦と合致する。
倭彦に対して天皇に即位する継体は物部麁鹿火大連と河内馬飼首荒篭が活躍するが、河内は「葬天皇於河内國長野陵」と神功皇后が葬られた場所で葛城氏の神功皇后の摂政時の応神天皇と考えられる履中天皇の馬車の馬を「河内飼部等從駕執轡」と管理し、反正天皇のとき「都於河内丹比是謂柴籬宮」と河内に遷都して、そこで神功皇后が崩じて河内國長野陵に葬ったことは十分考えられる。
それ以降、平群朝・巨勢朝では河内馬飼首らしき人物は現れず、葛城王家の後ろ盾の大伴金村に対して、その分家の倭国蘇我氏と物部麁鹿火大連と倭奴国の分家の東漢直と河内馬飼首が連合して大伴金村や物部目の秦王国と対抗したと考えられ、河内馬飼首は朱鳥元年に「倭河内馬飼部造各誄之」と天武天皇を追悼し倭河内馬飼部造と呼ばれていることからも類推できる。
雄略天皇以降から推古天皇までの『日本書紀』と仁賢天皇以降の『古事記』と『舊事本紀』は馬子が書かせた史書なのだから、倭国の内容を中心に記述し、秦王国の内容は当然記述せず、記述する場合も倭国の成果、秦王国の天皇が行った事績は蘇我氏の成果、悪者に書かれている人物が秦王国側の人物の可能性が高い。

2020年4月3日金曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第十七  継体天皇1

 『日本書紀』慶長版は
男大迹天皇譽田天皇五世孫彥主人王之子也母曰振媛振媛活目天皇七世之孫也天皇父聞振媛顏容姝妙甚有媺色自近江國髙嶋郡三尾之別業遣使聘于三國坂中井納以爲妃遂産天皇天皇幼年父王薨振媛廼歎曰妾今遠離桑梓安能得膝養余歸寧髙向奉養天皇天皇壯大愛士禮賢意豁如也天皇年五十七歲八年冬十二月已亥小泊瀬天皇崩元無男女可絶繼嗣壬子大伴金村大連議曰方今絶無繼嗣天下何所繋心自古迄今禍由斯起今足仲彥天皇五世孫倭彥王在丹波國桑田郡請試設兵仗夾衞乗輿就而奉迎立爲人主大臣大連等一皆隨爲奉迎如計於是倭彥王遙望迎兵懼然失色仍遁山壑不知所詣
【男大迹天皇は、譽田天皇の五世の孫で彦主人王の子だ。母を振媛といい、活目天皇の七世の孫だ。天皇の父は、振媛の容貌が言いようもなく美しく、とてもよい表情だと聞いて、近江国の高嶋の郡の三尾の別業(私は別業を別荘ではなく領地・国元と考えている)から、使者を、三国の坂中井へ求めさせて、妃として迎え入れ、天皇を産んだ。天皇が幼い時に、父王が薨じた。振媛はそれで「私は今、遠く故郷(桑梓:詩経小雅小弁「維桑與梓必恭敬止靡瞻匪父靡依匪母)を離れている。どうやって子を膝に乗せてのんびり養うことが出来ましょう。残された私は、高向に里帰りして天皇を養いたい」と嘆いた。天皇は、大きく立派で、軍人を慈しみ、賢い人を敬い、心は大きく小事にこだわらない。天皇が年齢五十七歳の時、武烈天皇八年の冬十二月の己亥の日に、小泊瀬天皇が崩じた。元から男女の子が無く、後継者が絶えるので、壬子の日に、大伴の金村の大連が「今跡継ぎが無く王朝が絶えようとしている。天下をどこに繋げたらよいのだろう。昔から今まで、災いはこんな時に起こる。現在、足仲彦天皇の五世の孫で倭彦王が、丹波国の桑田の郡にいる。武器を持った衛士に守らせた御輿で迎えに行って主になってもらおう」と相談した。大臣や大連達は、皆一緒になって相談したとおりに迎えに行った。そこで、倭彦の王は、遠くから迎えに来た行軍を見て、恐れおののいて、顔面蒼白になって、山奥に逃れてゆくえ知らずとなった。】とある。
『二中歴』の「継体五年元丁酉」から517年に継体天皇が即位したと述べたが、男大迹がこの継体天皇なら6世代経った人物が517年に即位するのだから、1世代(親子差)20年とすると410年頃に皇位にあった応神天皇の末裔となり、396年にはじまり453年に滅ぼされた葛城王朝の初代天皇の応神天皇である建内宿禰の末裔である蘇我氏の王の記述と考えられる。
もちろん、実際の継体天皇は『隋書』に秦王国と呼ばれる大国・大人国・辰()国・神国と呼ばれた国の末裔の物部氏の天皇であるが、『日本書紀』の継体紀を記述したのは扶桑国を継ぐ倭国王の蘇我馬子なのだから何の遠慮もいらないし、男大迹は巨勢王朝最後の天皇名で、これ以降舒明天皇までは蘇我氏の役職王名である。
そして、最初に候補に挙がった倭彦で推挙したのが大伴氏であるが、倭と呼ぶ地域を雄略天皇は『史記』『漢書』『三国志』を読んで天国から天降った尾張氏を倭王と考え大和を倭と表記し、『三国志』の韓に接する倭から香椎宮の神功皇后を倭女王と表記しているので、倭はこの時日本海側に移動したとかんがえたのだろう。
それで、畿内の王朝は大倭、さらに葛城氏は日本と書き、百済の木滿致も大倭の支配下の人物とし、最初に書いた雄略天皇の『日本書紀』は日本> 大倭> 倭・百済という上下関係を記述し、さらに、推古紀に記述した『日本書紀』にも継承され、『隋書』の中の倭は蘇我氏の王朝として記述された。
そして、足仲彦天皇の五世の孫で倭彦は、「菟狹國造祖號曰菟狹津彦」のように、その土地の代表者が土地の名を冠して名付けられ、「名曰珍彦・・・賜名爲椎根津彦此即倭直部始祖也」「珍彦爲倭國造」と地位が倭国造で氏姓が倭直である。
『舊事本紀』に「孫物部伊莒弗連・・・此連公稚櫻柴垣二宮御宇天皇御世為大連奉齋神宮倭國造祖比香賀君女玉彦媛為妻」と雄略天皇のときの倭国造が推古天皇時の倭国造ではないことから、4世紀後半に神武東侵があって珍彦が倭国造になった可能性が有る。
そして、『古事記』「娶木國造之祖宇豆比古之妹山下影日賣生子建内宿祢」、『日本書紀』「屋主忍男武雄心命・・・娶紀直遠祖菟道彥之女影媛生武內宿祢」と武内宿祢の叔父が倭国造になり、武内宿祢の子が襲津彦すなわち熊襲の津の長官で日向が熊襲、日向国から神武天皇は出発し、信頼する配下は日臣すなわち火国の王で「大伴氏之遠祖日臣」と倭彦を推薦する氏族で最後の葛城氏の神武東征の人々が出揃って、それらの5世の孫が天皇の擁立の立役者になった。
神話に直結する時代に臣はそぐわないが、300年代なら不自然でも何でもないので、日向から日臣とともに襲津彦(屋主忍男武雄心)が紀伊の珍彦の力を借りて葛城の地に入り、神武天皇の武内宿祢が皇位を奪った。



2020年4月1日水曜日

最終兵器の目 武烈天皇3

 『日本書紀』慶長版は
元年春三月丁丑朔戊寅立春日娘子爲皇后是年也太歲已卯二年秋九月刳孕婦之腹而觀其胎
三年冬十月解人指甲使掘暑預十一月詔大伴室屋大連發信濃國男丁作城像於水派邑仍曰城上也是月百濟意多郎卒葬於髙田丘上四年夏四月拔人頭髮使昇樹巓斮倒樹本落死昇者爲快
是歲百濟末多王無道暴虐百姓國人遂除而立嶋王是爲武寧王五年夏六月使人伏入塘楲流出於外持三刃矛刺殺爲快六年秋九月乙巳朔詔曰傳國之機立子爲貴朕無繼嗣何以傳名且依天皇舊例置小泊瀬舍人使爲代號萬歲難忘者也冬十月百濟國遣麻那君進調天皇以爲百濟歷年不脩貢職留而不放七年春二月使人昇樹以弓射墜而咲夏四月百濟王遣期我君進調別表曰前進調使麻那者非百濟國主之骨族也故謹遣斯我奉事於朝遂有子曰法師君是倭君之先也八年春三月使女躶形坐平板上牽馬就前遊牝觀女不淨沾濕者殺不濕者沒爲官婢以此爲樂及是時穿池起菀以盛禽獸而好田獵走狗試馬出入不時不避大風甚雨衣濕而忘百姓之寒食美而忘天下之飢大進侏儒倡優爲爛漫之樂設奇偉之戲縱靡靡之聲日夜常與宮人沈湎于酒以錦繡爲席衣以綾紈者衆冬十二月壬辰朔巳亥天皇崩于列城宮
【元年の春三月の朔が丁丑の戊寅の日に、春日の娘子を皇后に立てた。この年は太歳が己卯だった。二年の秋九月に、妊娠した夫人の腹を裂いて、その胎児を観察した。三年の冬十月に、人の生爪を剥いで、夏野菜(自然薯?)を掘らせた。十一月、大伴の室屋の大連に「信濃国の一人前の男を集めて、城に似せた砦(?)を水派の邑に作れ」と詔勅した。それで城上と言った。この月に、百済の意多郎が亡くなった。高田の丘の上に葬った。四年の夏四月に、人の髪の毛を引き抜いて、木のてっぺんに登らせて、根元から木を切り倒して、転落死させることを楽しんだ。この歳に、百済の末多王が、人の道にはずれて、むごいことをして百姓をを苦しめた。国の人は、それで、王を排除して、嶋王を立てた。これを武寧王という。五年の夏六月に、人を溜池の樋に俯せに入れて、外に流れ出てきたところを、三刃の矛で、刺し殺してよろこんだ。六年の秋九月の乙巳が朔の日に、「国の要を伝えていくには自分の子を皇太子に立てることで貴ばれる。私は、後嗣が無い。何で王朝を伝えればよいのか。それで、天皇の旧例によると、小泊瀬の舍人を置いて、治世の名として、長く忘れられないようにしなさい」と詔勅した。冬十月に、百済国は、年貢を献上するため麻那君を派遣した。天皇は百済が何年も貢ぐ役割をしないので留めたまま放免しなかった。七年の春二月に、人を樹に昇らせて、弓で射墜して屈託なくわらった。夏四月に、百済の王が、斯我君を派遣して、貢物を献上した。別に上表文で、「前回に貢物を献上するために派遣した麻那は、百済国の王族ではない。それで、謹んで斯我を派遣して、朝廷のために献上した」とあった。それで斯我に子がいて、法師君といった。これは倭の君の先祖だ。八年の春三月に、女を裸にして、平板の上に坐らせて、馬を目の前に牽いてきて交尾させ、女の性器を観察した時、濡れ潤った者は殺し、湿らせていなかった者は奴隷にして、楽しんだ。この頃になると、池を掘って庭を造り、動物をたくさん放し、狩を楽しみ、犬を走らせて馬と競わせ、入ったきり出てこなかった。暴風雨が居座って、着物が濡れても、百姓が凍えることを忘れ、美食して天下の人々が飢えていることを忘れた。見識のない人や芸人を周りに置き、音楽が咲き乱れ、並はずれてりっぱな芝居小屋を設けて、華やかな嬌声を上げた。日夜いつも宮人と、酒色にふけってすさんだ生活を送り、刺繍を施した織物を晴れ着とし、染めた絹の衣を着た者が多かった。冬十二月の朔が壬辰の己亥の日に、天皇は、列城の宮で崩じた。】とあり、六年九月乙巳朔は9月2日、八年十二月壬辰朔は12月2日、共に前の月は小の月で大の月なら合致し、他は標準陰暦と合致する。
皇后春日娘子、『舊事本紀』は「春日娘女立為皇后」呼ばれる父が推古天皇の時代には残っていなくて不明、『古事記』には皇后すら記述されていないが、今までの実質女系による皇位継承から考えると、春日大娘皇女の娘、すなわち、天皇の従妹か「和珥臣日爪女糠君娘生一女是爲」と記述される春日山田皇女の可能性が高く、『日本書紀』には「一本云和珥臣日觸女大糠娘生一女是爲山田大娘皇女更名赤見皇女」と春日山田なのか山田なのか赤見なのか解らないがこれらの人物の一人が皇后でなければ武烈天皇の正統性が危うい。
百済記事は『三国史記』の東城王二十三年に「是以怨王 至是使人刺王至十二月乃薨諡曰東城王」、武寧王に「牟大在位二十三年薨卽位春正月佐平苩加據加林城叛王帥兵馬至牛頭城命扞率解明討之苩加出降 王斬之」と502年武烈天皇四年記事と合致し、同時代の両国の暴政を対比するように描いている。
しかし、武烈天皇の暴政記事には日干支が記述されず、武烈天皇六年の継嗣が無いと言う記述は顕宗天皇の記事と思われ、実際の悲惨な事件は507年以降の、継体25年531年に記述される「日本天皇及太子皇子倶崩薨由此而辛亥之歳當廿五年矣後勘校者知之也」の記事で崩じた仁賢天皇親子の事と考えられ、それが皇后の父の不記・不明の原因と考えられる。
そした、武烈天皇の母は雄略紀に「曰童女君生春日大娘皇女」と春日大娘、すなわち祖父が雄略天皇で実際の悪政が平郡王朝か巨勢王朝を対象にしたのか確証が得られず、後の王朝が前王朝を簒奪した言い訳を記述したことは確かなのだろう。

2020年3月30日月曜日

最終兵器の目 武烈天皇2

 『日本書紀』慶長版は
冬十一月戊寅朔戊子大伴金村連謂太子曰真鳥賊可擊請討之太子曰天下將亂非希世之雄不能濟也能安之者其在連乎即與定謀於是大伴大連卒兵自將圍大臣宅縱火燔之所撝雲靡真鳥大臣恨事不濟知身難兔計窮望絁(?)廣指鹽詛遂被殺戮及其子弟詛時唯忘角鹿海鹽不以爲詛由是角鹿之鹽爲天皇所食餘海之鹽爲天皇所忌十二月大伴金村連平定賊訖反政太子請上尊號曰今億計天皇子唯有陛下億兆欣歸曾無與二又頼皇天翼戴淨除凶黨莫略雄斷以盛天威天祿日本必有主主日本者非陛下而誰伏願陛下仰荅靈祗弘宣景命光宅日本誕受銀鄕於是太子命有司設壇場於泊瀬列城陟天皇位遂定都焉是日以大伴金村連爲大連」
【冬十一月の朔が戊寅の戊子の日に、大伴の金村の連が、太子に「眞鳥を賊として討つべきだ。頼まれれば討ちます」と言った。太子は「天下が今乱れようとしている。世にまれな勇者でなければ、なしとげられない。鎮められるものそれは連ではないか」と言った。それで一緒に計略を決めた。それで、大伴の大連は軍を率いて自ら将軍となって、大臣の邸宅を囲んで。火を放って焼くように指図したら敵は雲を蹴散らすように逃げ去った。眞鳥の大臣は、事業を成し遂げられないことを恨みつつも、己の死が免れないことを知り、計略は身動きが出来なくなって望みが絶たれた。回りを指差して塩に呪いをかけた。それでとうとう斬り殺され、その子弟にも及んだ。呪う時に角鹿の海の塩だけ忘れて、呪わなかった。その為、角鹿の塩は、天皇が食べる物として、その他の塩を、天皇は忌み嫌った。十二月に、大伴の金村の連が、賊を平定し終わって、政務を太子に返し、天皇を名乗ることを要請して、「今、億計天皇の子は陛下だけです。万民がよろこんで落ち着くところは昔から二つとありません。また、 天をつかさどる神に頼んで、上位にいただくと、悪党を取り除いて清らかとなり誰もはかりごとをしない。勇ましい決断で天子の威光と天の恵みが満ち溢れる。日本には必ず主がいる。日本の主は陛下以外誰でしょうか。土下座してお願いします。陛下が、神々を崇めた答えが世の中に述べ広まって大命となり、立派な邸宅のような日本が生まれ輝く国を受け取ってください」と言った。それで、太子は、役人に命じて、祭壇を泊瀬の列城に設けて、天皇の位に登った。それで都を定めた。この日に、大伴の金村の連を大連とした。】とある。
前項に続いて、この時の清寧天皇の太子は仁賢天皇で、この時に顕宗天皇に譲ったと顕宗天皇紀に記述され、『古事記』では「今者志毘必寐亦其門無人故非今者難可謀即興軍圍志毘臣家乃殺也」と鮪が殺害されただけになっていて、鮪が平群氏の祖なのだだから、鮪が真鳥を襲名し殺害され、大魚との子の襲名した鮪は存命だった可能性がある。
そして、逆上して皇太子の鮪を殺してしまった仁賢天皇は大伴の室屋を頼って、室屋が天皇を殺害して平群王朝を崩壊させたのだろう。
また、『古事記』の「凡朝庭人等者旦参赴於朝庭昼集於志毘門」と朝には、朝廷に出仕してその後鮪の所に赴くと記述しているのは、真鳥が天皇で、朝、真鳥の所に出仕して挨拶し、実質政務を行う皇太子の鮪の所で政務を行うことを意味している。
そして、「反政太子」と、もし、本当に太子なら政を返すとの記述は異様で、元々天皇が崩じたら、太子が政務を行い返されるいわれが無く、やはり、実態は平群氏が天皇で、それを、室屋が滅亡させ、仁賢天皇に天皇位を「定策禁中」で委ねたことを意味している。
しかし、逆賊である仁賢天皇、しかも、平群氏の皇后になるべき女性を横から奪おうとした仁賢天皇に人望が集まるはずが無く、弟の顕宗天皇に皇位を譲ったことが真相なのではないだろうか。


2020年3月27日金曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第十六 武烈天皇1

 『日本書紀』慶長版は
小泊瀬稚鷦鷯天皇億計天皇太子也母曰春日大娘皇后億計天皇七年立爲皇太子長好刑理法令分明日晏坐朝幽枉必達斷獄得情又頻造諸惡不修一善凡諸酷刑無不親覽國內居人咸皆震怖十一年八月億計天皇崩大臣平群真鳥臣專擅國政欲王日本陽爲太子營了即自居觸事驕慢都無臣節於是太子思欲聘物部麁鹿火大連女影媛遺媒人向影媛宅期會影媛曽姧真鳥大臣男鮪恐違太子所期報曰妾望奉待海柘榴市巷由是太子欲往期處遣近侍舍人就平群大臣宅奉太
子命求索官馬大臣戲言陽進曰官馬爲誰飼養隨命而已久之不進太子懷恨忍不發顏果之所期立歌場衆執影媛袖躑躅從容俄而鮪臣來排太子與影媛間立由是太子放影媛袖移𢌞向前立直當鮪歌曰之裒世能儺鳴理鳴彌黎磨阿蘇寐倶屢思寐我簸多泥伱都都摩陀氐理弥喩鮪荅歌曰
飫瀰能古能耶陛耶哿羅哿枳瑜屢世登耶瀰古太子歌曰飫裒陀㨖鳴多黎播枳多㨖氐農哿儒登慕湏衞婆陀志氐謀阿波夢登茹於謀賦鮪臣荅歌曰飫裒枳瀰能耶陛能矩瀰哿枳哿哿梅騰謀儺嗚阿摩之耳弥哿哿農倶弥柯枳太子歌曰於弥能姑能耶賦能之魔柯枳始陀騰余瀰那爲我與釐據魔耶黎夢之魔柯枳太子贈影媛歌曰舉騰我瀰伱枳謂屢箇皚比謎?()摩儺羅磨婀我裒屢?(柁)摩能婀波寐之羅陀魔鮪臣爲影媛荅歌曰於裒枳瀰能瀰於寐能之都波?()夢湏寐陀黎陀黎耶始比登謀阿避於謀婆儺倶伱太子甫知鮪曾得影媛悉覺父子無敬之狀赫然大怒此夜速向大伴金村連宅會兵計策大伴連將數千兵傲之於路戮鮪臣於乃樂山是時影媛逐行戮處見是戮已驚惶失所悲淚盈目遂作歌曰伊湏能箇瀰賦屢嗚湏擬底舉慕摩矩羅?()箇播志湏擬慕能娑幡伱於裒野該湏擬播屢比箇湏我嗚湏擬逗摩御暮屢嗚佐裒嗚湏擬?()摩該伱播伊比佐倍母理柂摩暮比伱瀰逗佐倍母理儺岐曽裒遲喩倶謀柯㝵比謎阿婆例於是影媛收埋既畢臨欲還家悲鯁而言苦哉今日失我愛夫即便灑涕愴矣纏心歌曰婀嗚伱與志乃樂能婆娑摩伱斯斯貳暮能瀰逗矩陛御暮梨瀰儺曽曽矩思寐能和倶吾嗚阿娑理逗那偉能古
小泊瀬の稚鷦鷯天皇は、億計天皇の太子だ。母は春日の大娘皇后という。億計天皇の七年に、皇太子に立った。生長して法や道理に興味を持って、決まりを明らかにして分類した。昼間から遅くまで朝廷に居て、かすかにねじ曲がった事を必ず見つけ出して、裁きを決断して、真理を得た。またしきりに諸々の悪事をこしらえ、ひとつも善い事に目を向けなかった。おおよそ諸々の極刑を見ないことは無かった。国内の人々は、残らず皆震え怯えた。十一年の八月に、億計天皇が崩じた。大臣の平群の眞鳥の臣が、一人で国政をほしいままにして、日本の王になろうと思った。太子の為にといつわって陣屋をつくり、終わると直ぐに自分が入った。傲慢にも政策を司どり、臣下としての節度も無く取りまとめた。あるとき、太子は、物部の麁鹿火の大連の娘の影媛を呼び寄せようとして、仲立ちを派遣して、影媛の邸宅に向わせて会う約束をした。影媛は、それより前に眞鳥の大臣の子の鮪と恋仲だった。太子との約束を違えることになる事を恐れて、「私は出来ましたら、海柘榴市の街中で待っています」と報告した。そのため、太子は、約束の場所に行こうとした。近習の臣下を派遣して、平群の大臣の邸宅に赴いて、太子の命令を奏上して、官馬を請い求めた。大臣は、ふざけて「官馬は誰のために飼っているか。思いのままに」と偽って、ちっとも献上しなかった。太子は、恨みを胸にしまい、忍んで顔に出さなかった。それで約束の所は多くの男女が歌を交換する人々が立っていた。それで影媛の袖を掴んで、つつじの木の所に誘った。しばらくして鮪臣がやって来て、太子と影媛との間に押しのけて立った。それで、太子は、影媛の袖を放して、移動して鮪の前に直接向かい合って歌った()。鮪は、歌で答えた()。太子が歌った()。鮪臣が歌って答えた()。太子が歌った()。太子は、影媛に歌を贈った()。鮪臣が影媛の為に歌って答えた()。太子は初めて鮪が以前から影媛を得ていたことを知った。平群大臣親子が全てにおいて敬意が無い様子が解って、顔色を変えて大変怒り狂った。その夜、すぐに大伴の金村の連の邸宅に向って、軍隊を集めて策略を練った。大伴の連は、数千の兵士を率いて、道の上で待ち伏せて、鮪臣を乃樂山で斬り殺した。この時に、影媛が、斬り殺された所に行きつくと、既に斬り殺された姿を見た。驚き恐れおののいて当てもなくさまよい、余の悲しさに涙を流し目から溢れ落ちた。そして歌を作った()。それで影媛が鮪を埋葬し終わって、家に帰ろうとして、小骨でも刺さったような声でむせび泣いて、「苦々しいことだ。今日、私の吾する夫を失なった」と言った。それで涙を流して泣き悲しみに包まれて歌った()。】とある。
『日本書紀』は武烈紀に鮪との確執を記述しているが、『古事記』では清寧記に「平群臣之祖名志毘臣」、「凡朝廷人等者且(旦)参赴於朝廷晝集於志毘門亦今者志毘必寐亦其門無人故非今者難可謀即興軍圍志毘臣家乃殺也」と記述し、この理由を、『日本書紀』はこの時期の記事を推古天皇が記述し、『古事記』が仁賢天皇によって記述されたことから、清寧記に起こったとのべ、武烈紀に『日本書紀』が記述したのは498年頃に事件が起こったからだと前項で述べた。
『舊事本紀』には「大伴室屋大連平群真鳥大連並如」と金村ではなく室屋が同時代の人物と記述され、「冬十月己巳朔壬申大伴室屋大連率臣連奉璽於太子」と室屋が天皇の璽を奉じ、内容も臣下が天皇を推挙する「定策禁中」そのもので、鮪を斬り殺した時に、まだ、大連に就任していないのに大連と記述され、『舊事本紀』で天皇の璽を奉じた時に室屋大連と呼ばれていて、大連就任前に大連と呼ばれているのと合致する。
すなわち、ここから『日本書紀』の記述方法がよくわかり、天皇や皇太子は特定しないで対象の重要人物のみ実名を記述し、干支が解っている実際に発生した実年代に当てはめ、当て嵌めた時代の天皇の頃の重要人物に対応する氏族を当て嵌め、天皇の時代の同じ氏族の人物に名を書き換えるという手法で、私たちは、当て嵌めた天皇の時の人物は各氏族が誰であるか特定できる『舊事本紀』のような資料を持っている。
そうすると、この大伴大連は室屋だったが、武烈天皇の時の大伴氏は金村という資料があるので金村に変更する、また、菟田の首達とは物部氏の一族であったと考えられ、物部氏にとっては真鳥も大臣ではなく大連と呼んでいることから、大連は皇位継承権をもつ皇太子と同等の大王だったことがわかる。
そして、大伴金村の祖父若しくは叔父の室屋の頃、仁賢天皇が清寧天皇が鮪の時代に清寧天皇を殺害して、臣下が 定策禁中で顕宗天皇を指名し、その後、仁賢天皇が皇位を簒奪した可能性が高い。

2020年3月25日水曜日

最終兵器の目 仁賢天皇2

 『日本書紀』慶長版は
五年春二月丁亥朔辛卯普求國郡散亡佐伯部以佐伯部仲子之後爲佐伯造六年秋九月巳酉朔壬子遣日鷹吉士使髙麗召巧手者是秋日鷹吉士被遣後有女人居于難波御津哭之曰於母亦兄於吾亦兄弱草吾夫?()怜矣哭聲甚哀令人斷腸菱城邑人鹿父聞而向前曰何哭之哀甚若此乎女人荅曰秋葱之轉雙納可思惟矣鹿父曰諾即知所言矣有同伴者不悟其意問曰何以知乎荅曰難波玉作部鯽魚女嫁於韓白水郎𤳉生哭女哭女嫁於住道人山杵生飽田女韓白水郎𤳉與其女哭女曾既倶死住道人山寸(杵)上姧玉作部鯽魚女生麁寸麁寸娶飽田女於是麁寸從日鷹吉士發向髙麗由是其妻飽田女徘徊顧戀失緖傷心哭聲尤切令人腸斷是歲日鷹吉士還自髙麗獻工匠湏流枳奴流枳等今倭國山邊郡額田邑熟皮髙麗是其後也七年春正月丁未朔已酉立小泊瀬稚鷦鷯尊爲皇太子八年冬十月百姓言是時國中無事吏稱其官海內歸仁民安其業是歲五穀登衍蠶麥善收遠近清平戸口滋殖焉十一年秋八月庚戌朔丁巳天皇崩于正寢十月已酉朔癸丑葬埴生坂本陵
五年の春二月の朔が丁亥の辛卯の日に、広く国郡に散り逃れた佐伯部を探した。佐伯部の仲子が後に、佐伯造となった。六年の秋九月の朔が己酉の壬子の日に、日鷹吉士を、高麗に使者として派遣して、技術者を招待した。この秋に、日鷹の吉士が遣使された後に、女が、難波の御津にいて、「母にも大事な人、私にも大事な人。優しい私の夫の哀れなことか」と声をあげてないた。泣き声は、とても哀れで、はらわたが断ち切れるようだった。菱城の邑の人の鹿父がそれを聞いて前に立って、「泣き声の哀れなこと、どうしてこのように甚だしいのか」と言った。女は、「秋の葱が二つぐるっと重なって、袋の中にあるのを考えてください」と答えた。鹿父は、「解った」と言った。それで言う意味を知った。一緒に居た者は、その意味が解らないで、「どうしてわかったのか」と問いかけた。「難波の玉作部の鯽魚が韓白水郎𤳉に嫁いで、哭女を生んだ。哭女は、住道の人の山杵に嫁いで、飽田女を生んだ。韓白水郎𤳉とその娘の哭女とは、共に、すでに死んだ。住道の人の山杵は、以前、玉作部鯽魚女に、麁寸を生ませた。麁寸は、飽田女を娶った。麁寸は、日鷹の吉士について、高麗にだって向かった。このために、その妻の飽田女は、あてもなく歩き回り、いとおしく思い、心を乱して、傷ついた。泣き叫ぶ声は、とても切なく、はらわたが断ち切れるようだった。」と答えた。この歳に、日鷹の吉士は、高麗から還って、技術者の須流枳と奴流枳等を献上した。今、大倭国の山邊の郡の額田の邑の熟皮の高麗は、この子孫だ。七年の春正月の朔が丁未の己酉の日に、小泊瀬の稚鷦鷯の尊を皇太子に立てた。八年の冬十月に、百姓が「この時、国中は何事もなく、官吏は、その官位道理に呼ばれた。黄海も、思いやりの心を取り戻し、民は、それぞれの仕事は何事も無かった」と言った。この歳は、五穀はたくさん収穫でき、蚕や麦を多く納められた。遠くも近くも清々しく平穏で、門の垣根が益々大きくなった。十一年の秋八月の朔が庚戌の丁巳の日に、天皇は、正殿で崩じた。冬十月の朔が己酉の癸丑の日に、埴生の坂本の陵に葬っむった。】とあり、朔日の日干支は標準陰暦と合致する。
朔日の日干支が間違いないと言うことは、実際に498年にある天皇が崩じ、善政を行ったこの崩じた天皇は平群氏の天皇で、何代目かの真鳥だったのであり、このあと、鮪が継承すべきだったがまだ成人していないため、飯豊姫が皇位に就き、鮪が皇太子であった可能性が高い。
そして、飯豊姫の従弟の顕宗・仁賢兄弟を迎え入れ、鮪が成人して真鳥を襲名して皇位を継ごうとした時、顕宗・仁賢兄弟が鮪を殺害して王朝を奪取したと考えられ、『日本書紀』は武烈天皇の記述の中に詳しく述べた。
そして、ここの立太子は、本来立太子が倭国の王朝交代で、494年は武が『宋書』「順帝昇明二年遣使上表」のから478年から『梁書』「鎮東大將軍倭王武進號征東大將軍」の502年は武が在位していて、仁賢7年の立太子はおそらく武烈7年505年に倭国の王朝交代があり、磐井が即位したと考えられる。
『三国史記』には高句麗の文咨明王494年に「三年・・・秋七月我軍與新羅人戰於薩水之原羅人敗保犬牙城我兵圍之百濟遣兵三千援新羅我兵引退」、497年に「六年秋八月遣兵攻新羅牛山城取之」、新羅の炤知麻立干497年に「十九年夏四月倭人犯邊秋七月旱蝗命羣官擧才堪牧民者各一人八月高句麗攻陷牛山城 」と日本の友国の倭と高句麗が共同して新羅を討ち友好関係にあったと思われ、高句麗との交流があり、『梁書』の「貴人第一者爲大對盧第二者爲小對盧」と高句麗の冠位が導入されたこととよく対応する。