2020年3月9日月曜日

最終兵器の目 清寧天皇2

 『日本書紀』慶長版は
二年春二月天皇恨無子乃遣大伴室屋大連於諸國置白髮部舍人白髮部膳夫白髮部靫負冀垂遺跡令觀於後冬十一月依大嘗供奉之料遣於播磨國司山部連先祖伊豫來目部小楯於赤石郡縮見屯倉首忍海部造細目新室見市邊押磐皇子子億計弘計畏敬兼抱思奉爲君奉養甚謹以私供給便起柴宮權奉安置乗騨馳奏天皇愕然驚歎良以愴懷曰懿哉悅哉天垂博愛賜以兩兒是月使小楯持節將左右舍人至赤石奉迎語在弘計天皇紀三年春正月丙辰朔小楯等奉億計弘計到攝津國使臣連持節以王青蓋車迎入宮中夏四月乙酉朔辛卯以億計王爲皇太子以弘計王爲皇子秋七月飯豊皇女於角刺宮與夫初交謂人曰一知女道又安可異終不願交於男九月壬子朔癸丑遣臣連巡省風俗冬十月壬午朔乙酉詔犬馬器翫不得獻上十一月辛亥朔戊辰宴臣連於大廷賜綿帛皆任其自取盡力而出是月海表諸蕃並遣使進調四年春正月庚戌朔丙辰宴海表諸蕃使者於朝堂賜物各有差夏閏五月大餔五日秋八月丁未朔癸丑天皇親錄囚徒是日蝦夷隼人並內附九月丙子朔天皇御射殿詔百寮及海表使者射賜物各有差五年春正月甲戌朔已丑天皇崩于宮時年若干冬十一月庚午朔戊寅葬于河內坂門原陵
【二年の春二月に、皇子が無いことを悔しく思って、それで大伴の室屋の大連を諸国に派遣して、白髮部の舍人、白髮部の膳夫、白髮部の靫負を置き。足跡として教え伝えるように、後世に残した。冬十一月に、大嘗の行列に加わるために、派遣した播磨国の国司、山部の連の先祖の伊豫の來目部の小楯が、赤石の郡の縮見の屯倉の首の忍海部の造の細目の新室で、市邊押磐の皇子の子の億計と弘計を見つけた。畏れ敬う気持ちで、皇子の為と思って養い、とても謹んで必要なものを与えた。それで柴の宮を起して、一時的に据え置いた。そして、馬に乗って駆け付けて奏上した。天皇は、非常にびっくりして感心し、しばらくしてからいたみをもって「おお、喜ばしいこと、天が、みんな平等に愛して、二人の子を与えてくださった」と言った。この月、小楯に左右の舍人を連れて、赤石に迎えに行かせた。この話は、弘計天皇の紀に在る。三年の春正月の丙辰が朔の日に、小楯達は、億計・弘計を奉って、攝津国に着いた。臣・連を引き連れて、王が乗る青蓋車に乗せて、宮中に迎え入れた。夏四月の朔が乙酉の辛卯の日に、億計王を皇太子にした。弘計王は皇子にした。秋七月に、飯豐の皇女が、角刺の宮で、夫と初めて交わった。人に「一つの女の道を知った。何とも奇異なことだった。もう男と交わろうと思わない」と言った。九月の朔が壬子の癸丑の日に、臣・連を派遣して、人々の日常生活を回って調査させた。冬十月の朔が壬午の乙酉の日に「犬や馬や遊び道具を献上してはならない」と詔勅した。十一月の朔が辛亥の戊辰の日に、臣・連のために大庭で宴を開いた。綿や絹を与えた。皆、勝手気ままに力の限り取り合って出て行った。この月、海外の諸藩が一緒に遣使を派遣して年貢を持って来た。四年の春正月の朔が庚戌の丙辰の日に、海外の諸蕃の使者を朝堂で饗応した。夫々差をつけて贈り物を与えた。夏の閠五月に、大宴会を五日間催した。秋八月の朔が丁未の癸丑の日に、天皇が、自ら囚人を記録した。この日に、蝦夷と隼人が、一緒に服属した。九月の丙子の朔の日に、天皇が、賭射に臨んでいた。役人と海外の使者への賜物を賭けて射た。夫々差をつけて賜物を与えた。五年の春正月の朔が甲戌の己丑の日に、天皇が宮で崩じた。その時、年齢がまだ若かった。冬十一月の朔が庚午の戊寅の日に、河内の坂門の原の陵に葬った。】とあり、三年九月壬子朔は8月30日、十一月辛亥朔は10月30日、四年春正月庚戌朔は12月30日、九月丙子朔は8月30日、五年春正月甲戌朔は12月30日、それ以外は標準陰暦と合致する。
億計王爲皇太子」が482年「四月乙酉朔」とされているが、『舊事本紀』は「四月己丑朔辛卯以億計王為皇太子」と異なっていて、502年閏4月2日が己丑、4月は小の月になっていて、大の月なら閏4月1日となり、実際の億計王の立太子は502年の可能性があり、立太子は倭国の王朝開始で、武の死亡、磐井の即位が502年の可能性がある。
市邊押磐皇子が殺害されたのは456~7年で清寧2年が481年なので顕宗天皇32歳で概ね符合し、実質天皇の飯豐皇女の弟が皇太子、鮪が実質皇太子の大臣で、鮪が皇位継承権のある正統な姫を皇后に迎えなければならなかったと考えられる。
そのため、武烈天皇前期に「物部麁鹿火大連女影媛遺媒人向影媛宅期會影媛會奸眞鳥大臣男鮪」と記述されているが、『古事記』では「天下之間平群臣之祖名志毘臣立于歌恒(垣)取其表(袁)祁命將婚之美人乎其孃子者兎田首等之女名大魚也尓表(袁)祁命」と姫が異なるが、『古事記』の記述者の巨勢氏にとって都合の悪い姫の名で、しかも、清寧天皇に記述され、姫を奪われたと記述していない。
当然、真実は『古事記』の清寧天皇の時の太子顕宗で、顕宗が姫を奪われたため平群氏を滅亡させたのであり、姫の父親が兎田首等と特定しておらず、特定できない、特定したら困る人物を鮪に取られた、だから、平郡氏を滅亡させたのである。
それを、どうして『日本書紀』が武烈天皇前紀に記述したかというと、実際に起きた時が498から9年だったからであり、『梁書』に扶桑国の王が「名國王爲乙祁」と梁が建国された502年に、扶桑国の王が乙祁だったと記述して、502年は武烈天皇に当てたため、本来、顕宗天皇の事績を、顕宗が挿入されるべき499年の即位前紀に記述したのであり、『日本書紀』は年号を正しく記述している。
ちなみに、兎田は「雌鳥皇女・・・足玉手玉雄鯽等追之至菟田迫」と足玉手玉を持っていた雌鳥皇女が逃げた土地で、雌鳥皇女は伊勢遺跡の皇女だった。
そして、仲哀天皇の時「以挾抄者倭國菟田人伊賀彦爲祝令祭」、『舊事本紀』に「伊我臣祖大伊賀彦」で、伊賀臣は大彦の末裔だ。
鮪と取り合った姫が影媛だったのか大魚だったのかは解らないが、原則先の仁賢天皇が書いた『古事記』を採用すべきで、後代の蘇我氏が書いた『日本書紀』はこの時の姫が麁鹿火の姫だと考え、清寧天皇の時代では時代が合わないので一世代後の麁鹿火の時代に挿入したと考えるべきで、鮪が得た姫はそれほど重要な姫だということになる。
当然、清寧天皇に鮪を当てはめたのだから、まだ未婚で20歳程度の人物だったのだろう。

2020年3月6日金曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第十五 清寧天皇1

 『日本書紀』慶長版は
白髮武廣國押稚日本根子天皇大泊瀬幼武天皇第三子也母曰葛城韓媛天皇生而白髮長而愛民大泊瀬天皇於諸子中特所靈異二十二年立爲皇太子二十三年八月大泊瀬天皇崩吉備稚媛陰謂幼子星川皇子曰欲登天下之位先取大藏之官長子磐城皇子聽母夫人教其幼子之語曰皇太子雖是我弟安可欺乎不可爲也星川皇子不聽輙隨母夫人之意遂取大藏官鏁閇外門式備乎難擁勢自由費用官物於是大伴室大連言於東漢掬直曰大泊瀬天皇之遺詔今將至矣宜從遺詔奉皇太子乃發軍士圍繞大藏自外拒閇縱火燔殺是時吉備稚媛磐城皇子異父兄兄君城丘前來目隨星川皇子而被燔殺焉惟河內三野縣主小根慓然振怖避火逃出抱草香部吉士漢彥脚因使祈生於大伴室屋大連曰奴縣主小根事星川皇子者信而無有背於皇太子乞降洪恩救賜他命漢彥乃具爲啓於大伴大連不入刑類小根仍使漢彥啓於大連曰大伴大連我君降大慈愍促短之命既續延長獲觀日色輙以難波來目邑大井戸田十町送於大連又以田地與于漢彥以報其恩是月吉備上道臣等聞朝作亂思救其腹所生星川皇子率舩師四十艘來浮於海既聞被燔殺自海而歸天皇即遣使嘖讓於上道臣等而奪其所領山部冬十月已巳朔壬申大伴室屋大連率臣連等奉璽於皇太子元年春正月戊戌朔壬子命有司設壇場於磐余甕栗陟天皇位遂定宮焉尊葛城韓媛爲皇太夫人以大伴室屋大連爲大連平群真鳥大臣爲大臣並如故臣連伴造等各依職位焉冬十月癸巳朔辛丑葬大泊瀬天皇于丹比髙鷲原陵于時隼人晝夜哀號陵側與食不?(噀・喫)七日而死有司造墓陵北以禮葬之是年也太歲庚申
【白髮武廣國押稚日本根子天皇は大泊瀬幼武天皇の第三子だ。母を葛城の韓媛と言う。天皇は、生れながら白髮で、生長して、民をいつくしんだ。大泊瀬天皇は、諸々の子の中で、特に人と違って不思議なところが有った。二十二年に皇太子になった。二十三年の八月に、大泊瀬天皇が、崩じた。吉備の稚媛は、陰で幼子の星川皇子に「天下の位に登ろうとするなら、まず大藏の官位を取れ」と言った。長子の磐城の皇子は、母である夫人の、幼子に教える言葉を聞いて「皇太子は私の弟と言っても、どうしてだますことが出来るか。出来ない」と言った。星川皇子は、助言を聞かないで、たやすく母の夫人の意見に従った。それで大藏の官位を取り、外門を閉じて、攻撃に備えた。力で思うままにふるまい、租税を(おほやけもの)を費やした。そこで、大伴の室屋の大連が、東の漢の掬の直に「大泊瀬天皇の遺言が、とうとう現実となった。遺言に従って、皇太子の側に立たなければならない」と言った。それで、兵をあげて大藏を取り囲み、外を守り固めて、火で焼き殺した。この時、吉備の稚媛と磐城の皇子の義兄の兄君と城の丘前の來目が星川皇子と一緒に焼き殺された。そこに河内の三野の縣主の小根が、恐れおののいて、火を避けて逃れ出てきた。草香部の吉士の漢彦の脚を抱きかかえて、それで生きたいと大伴の室屋の大連に懇願して、「私は縣主の小根で、星川皇子に仕えていたことは本当です。しかし、皇太子に背いたことなど有りません。お願いです、大恩を私に降して、命を救ってください」と言った。漢彦は、すなわち、大伴の大連のために詳しく申し上げて、刑罰などに入れなかった。小根は、それで漢彦に頼んで大連に、「大伴の大連は、私の主君で、大きないつくしみあわれんで、刑死が差し迫るのを延命して太陽を見ることが出来た」と伝えてもらった。それで難波の來目邑の大井戸の田十町を、大連に送った。また田地を、漢彦に与えて、その恩に報いた。この月、吉備の上道の臣達は、吉備の上道から生まれた星川の皇子が朝廷に反乱を起こしたこと聞いて、救おうと、軍艦四十艘を率いて、難波の海にやって来て停泊した。既に焼き殺された聞いて、難波の海から帰った。天皇は、それで使者を派遣して、上道の臣達に大声で命じて、その領有する山部を奪った。冬十月の朔が己巳の壬申の日に、大伴の室屋の大連は、臣・連達を率いて、天皇の璽を皇太子に奏上した。元年の春正月の朔が戊戌の壬子の日に、役人に命じて、皇位継承の儀式の場を磐余の甕栗に設けて、天皇位に上った。それで宮を定めた。葛城の韓媛を尊んで、皇太夫人とした。大伴の室屋の大連をそのまま大連とし、平群の眞鳥の大臣をそのまま大臣としたのは共に以前のとおりだ。臣・連・伴造達は、夫々職位を続けた。冬十月の朔が癸巳の辛丑の日に、大泊瀬天皇を丹比の高鷲の原の陵に葬った。その時、隼人が、一日中、陵の側で激しく泣き叫んだ。食事を与えても食べなかった。七日続いて死んだ。役人は、墓を陵の北に造って、礼節を以て葬った。この年、太歳は庚申だった。】とあり、標準陰暦と合致する。
雄略朝は忍坂大中姫の王朝の外戚で、安康天皇は中帯姫の夫として朝廷に入り込んだが、雄略天皇は『舊事本紀』に「次妃吉備上道臣女稚媛」と建内宿禰の家系の玉田宿禰の娘毛媛の娘と同じく孫で圓の娘の韓媛を妃、皇后は草香幡梭姫とやはり葛城王朝の外戚として皇位に就くことが出来た。
そして、星川稚宮皇子が稚宮皇子とあるように若国の正統な後継者で、そうで無ければ大蔵を任されることは無く、稚国の媛の血統を引き継いだ玉田の宿禰の媛や孫娘が皇位を持つ媛として、その夫として、雄略天皇(真鳥)が君臨し、稚国の正統な後継者が星川皇子だったが、韓媛の子で、正統な皇位継承者の忍坂大中姫の孫の清寧天皇(2代目真鳥)が皇位を簒奪し、天皇の璽と韓媛を皇太夫人に迎え入れて平群王朝が正式に発足したようだ。
しかし、天皇位システムの継承としては、韓媛は物部氏や尾張氏の血筋から外れ、皇太后ではなく皇太夫人と呼ばれ、清寧天皇は大中姫の孫だが、皇太子の鮪には後継者がいないため、正統な皇統の履中天皇の青海皇女が皇位継承の姫となったと思われる。
『日本書紀』は主人公を天皇としているが、この天皇は『日本書紀』の原本を記述した王朝が元々天皇だった、この清寧天皇の時の天皇は巨勢氏がすでに天皇だったという前提で記述され、稚日本根子が天皇に即位する前の弘計の役職名で、鮪が実際の清寧天皇で稚媛が皇位継承者のため同じ葛城氏の母の韓媛が皇太后ではなく皇太夫人だったことを示している。

2020年3月4日水曜日

最終兵器の目 雄略天皇17

 『日本書紀』慶長版は
八月庚午朔丙子天皇疾弥甚與百寮辭訣握手歔欷崩于大殿遺詔於大伴室屋大連與東漢掬直曰方今區宇一家烟火萬里百姓艾安四夷賓服此又天意欲寧區夏所以小心勵己日愼一日蓋爲百姓故也臣連伴造毎日朝參國司郡司隨時朝集何不罄竭心府誡勅慇懃義乃君臣情兼父子庶藉臣連智力內外歡心欲令普天之下永保安樂不謂遘疾弥留至於大漸此乃人生常分何足言及但朝野衣冠未得鮮麗教化政刑猶未盡善興言念此唯以留恨今年踰若干不復稱夭筋力精神一時勞竭如此之事本非爲止欲安養百姓所以致此生子孫誰不属念既爲天下事湏(?)割情今星川王心懷悖惡行闕友于古人有言知臣莫若君知子莫若父縱使星川得志共治家國必當戮辱遍於臣連酷毒流於民庶夫惡子孫已爲百姓所憚好子孫足堪負荷大業此雖朕家事理不容隱大連
等民部廣大充盈於國皇太子地居上嗣仁孝著聞以其行業堪成朕志以此共治天下朕瞑目何所復恨是時征新羅將軍吉備臣尾代行至吉備國過家後所率五百蝦夷等聞天皇崩乃相謂之曰領制吾國天皇既崩時不可失也乃相聚結侵冦傍郡於是尾代從家來會蝦夷於娑婆水門合戰而射蝦夷等或踊或伏能避脱箭終不可射是以尾代空彈弓弦於海濱上射死踊伏者二隊二櫜之箭既盡即喚舩人索箭舩人恐而自退尾代乃立弓執末而歌曰瀰致伱阿賦耶鳴之慮能古阿母伱舉曽枳舉曳儒阿羅毎矩伱伱播枳舉曳底那唱訖自斬數人更追至丹波國浦掛水門盡逼殺之
八月の朔が庚午の丙子の日に、天皇の、病気は一層酷くなった。役人に最後の別れで、手を握って咽び泣き大殿で崩じた。大伴の室屋の大連と東漢の掬の直とに、「今まさに天地四方の区切りを一つの家として、煙は万里まで見える。百姓もまた安らかにして、四方(?四族)の夷が訪れてきて服した。これもまた正しい道によってだ。農繁期を平穏にしようと、細かい心配りで自分を奮い立たせたためだ。毎日毎日慎んだのは、考えてみると百姓の為だった。臣・連・伴造は、毎日、朝廷に参内し、国司・郡司は、時に応じて朝廷に集まった。どうしてむねのうちを空しくしてしないでおれようかと、真心を込めて戒めた。忠義がすなわち君臣だ。心情は、父子とおなじだ。できたら、臣連の知恵にすがって、内外の人々の心を喜ばせ、天下を快適にしようと思った。いわれのない病にかかって長く寝込み病気が重くなった。これは、すなわち身の程の寿命で、言うに及ばない。ただし官民の衣冠の決まりのみ、まだ明確にできなかった。刑罰と政策を説き教えてきたがまだ未だに善くなっていない。この思いを言葉に出すと、ただただ悔しいと思っている。いまや少しばかり寿命をこえ、身も心もいっぺんに労り尽くした。このようなことは元々自分の為ではなく、百姓を安らかに養うことのためを思ってこのようになった。生まれた子たちの誰にもこの思いを一人に任せられないが、すでに天下のために成すべき心得は子供たちに分け与えた。星川王は、筋道に合わず正しくない心根を持って、行いは友情に欠けた。古人が言うことに、「臣下をよく知っているのはその君主が一番よく知っている。子をよく知っているのはその父親が一番だと。それでも星川は、志を持って、ともに国家を治めると、きっとはずかしめを受け、臣連の害毒が庶民隅々まで及ぶ。その好ましくない子たちは、百姓に嫌がられる。好ましい子たちは、大業を担う任に十分たえる。これは、我が家の事と言っても、道理から隠しておけない。大連達の民部は広大な国にいっぱいだ。世継ぎに上った皇太子は、いつくしみの心があって親孝行だと聞いている。その行いは、私の志を達成するのに耐える。これで、一緒に天下治めれば、私は、安らかに死んでも何の恨みもない」と遺詔した。この時、新羅を討伐する將軍の吉備の臣の尾代が、吉備国に行って家で過ごしていた。その後、率いた五百人の蝦夷達は、天皇が崩じたと聞いて「我が国を領有して統治する天皇が、すでに崩じた。時間を置いてはいけない」と言った。それで集まって、隣の郡を侵寇した。そこで、尾代は、家からやって来て、蝦夷と娑婆の水門で合戦し矢を射た。蝦夷達は、あるいは踊るように、あるいは伏せて上手く矢を避けて逃げた。それで、とうとう射ることが出来なかった。それで、尾代は、空に向かって射た矢が、海辺の上で、逃げまどい伏せたりする者二隊を射殺した。二袋の矢がとうとう尽きてしまった。それで船人を喚んで矢を探した。船人は、恐れて逃げた。尾代は、それで弓を立ててはずを持って、歌った()。唱え終わって自ら数人を斬った。また追いかけて丹波国の浦掛の水門に着いて、残らず迫って殺した。】とあり、標準陰暦と合致する。
ここの、万里の範囲は1里50mなら河内から西は筑紫、東は常陸、1里70mなら西が五島列島、東が気仙沼、1里400mなら西が台湾の高雄、東はカムチャッカ半島になる。
『梁書』には倭を「又東南行百里至奴國又東行百里至不彌國又南水行二十日至投馬國又南水行十日陸行一月日至邪馬臺國 即倭王所居」と台湾より南方に記述しているように見えるが、同時期に記述された『隋書』俀国に「夷人不知里數但計以日其國境東西五月行南北三月行各至於海」と里単位を知らないと記述し、すなわち、『梁書』の里程は中国人の知識で、『隋書』の日程が夷人の知識である。
『梁書』に新羅は「其國在百濟東南五千餘里」で1里400mなら5000㎞で太平洋のど真ん中、1里50mなら250㎞で朝鮮半島内に収まり、「中天竺國在大月支東南數千里地方三萬里」と天竺國が大月支の東南2000㎞に有って一辺1万2000㎞の国とユーラシア大陸が収まってしまうが、1里50mなら東南250㎞でヒマラヤ越えの距離、一辺1500㎞でパキスタンからバングラデシュの距離になる。
すなわち、南朝は梁朝まで1里50mの里単位だったことが解るが、同じ『梁書』に「文身國在倭國東北七千餘里・・・大漢國在文身國東五千餘里・・・扶桑在大漢國東二萬餘里」と扶桑国が倭国の東3万2千里で1里50mでも太平洋の中に比定されるが、扶桑国の大漢國から2500里125㎞との慧深等の話を南朝の梁は長里と考えた。
それで、南朝の里単位に変換して2万里とし、同様に倭国分身国間875里を7千里44㎞、分身国大漢国間を625里を5千里31㎞とし、分身国の西の国境が関門海峡、東の国境が広島県と岡山県の中間点で、大漢国は記述がほとんど無い事から領内を通らず、分身国大漢国間の国境からそのまま扶桑国との国境まで125㎞、明石近辺から扶桑国で、すなわち、分身国が「なか国」で大漢国は吉備国ということになる。
扶桑国までの距離は『梁書』の里単位と違い矛盾があることは確かであるが、長里を基本とする北朝で、南朝の短里の正史ではない史書を記述することを考えると、理に適う検証としてはこれに落ち着き、他の方法では『梁書』は間違いであてにならないので論証に使えないことになる。
史書というものは、現存して第一資料なのだから、否定する場合は特に同時代の史書を否定する第一資料を(※後代の資料は見方が異なるのだから証拠とはならない)探し出さなければならないが、肯定の場合は幾つかの補助資料が合致すれば論証となる。
『三国志』の南を東の間違い、里単位は間違いであてにならないなど、自分の論拠に合わないからと言って、間違いと切り捨てるのは証拠が無い妄想なのである。

2020年3月2日月曜日

最終兵器の目 雄略天皇16

 『日本書紀』慶長版は
十九年春三月丙寅朔戊寅詔置穴穗部二十年冬髙麗王大發軍兵伐盡百濟爰有小許遺衆聚居倉下兵粮既盡憂泣茲深於是髙麗諸將言於王曰百濟心許非常臣毎見之不覺自失恐更蔓生請遂除之王曰不可矣寡人聞百濟國者日本國之官家所由來遠久矣又其王入仕天皇四隣之所共識也遂止之二十一年春三月天皇聞百濟爲髙麗所破以久麻那利賜汶洲王救興其國時人皆云百濟國雖属既亡聚憂倉下實頼於天皇更造其國二十二年春正月己酉朔以白髮皇子爲皇太子
秋七月丹波國餘社郡管川人水江浦嶋子乗舟而釣遂得大龜便化爲女於是浦嶋子感以爲婦相逐入海到蓬萊山歷覩仙衆語在別卷二十三年夏四月百濟文斤王薨天皇以昆支王五子中第二末多王幼年聡明勅喚內裏親撫頭面誡勅慇懃使王其國仍賜兵器幷遣筑紫國軍士五百人衞送於國是爲東城王是歲百濟調賦益於常例筑紫安致臣馬飼臣等率舩師以擊髙麗秋七月辛丑朔天皇寢疾不預詔賞罰支度事無巨細並付皇太子
【十九年の春三月の朔が丙寅の戊寅の日に、詔勅して穴穗部を置いた。二十年の冬に、高麗王が、大軍を整えて、百済を討ち滅ぼした。ここに、ほんの少しの取り残された人々がいて、倉庫の下に集まっていた。兵糧も既に尽き、心配してますます深刻に泣いた。そこで、高麗の諸將は、王に「百済の心中は、尋常でない。見る度に、とても驚いて自分を見失っている。再度、蔓が伸びるようにまた復活することを恐れます。できましたら追い払いたい」と言った。王は「だめだ。私は聞いているのに、百済国は日本国の昔から官家だ。またその王は、天皇に仕えていることは隣りの4国もみな知っている」といったのでやめた。二十一年の春三月に、天皇は、百済が高麗に破れたと聞いて、久麻那利を汶洲王に与えて、その国を救って再興した。当時の人は、皆「百済国は、王族が既に滅んで、倉の下に集まって心配したが、誠心誠意に頼られて、天皇はその国を再興した」といった。二十二年の春正月の朔の己酉の日に、白髮皇子を皇太子にした。秋七月に、丹波国の餘社郡の管川の人で瑞江の浦嶋の子が、舟乗って釣をした。それで大亀を捕まえた。大亀はすぐに女に化けた。そこで、浦嶋の子は、心が動いて妻にし、二人で海に入った。蓬莱山に着いて、順に仙人らを観た。このことは別の本に記述されている。二十三年の夏四月に、百済の文斤王が、薨じた。天王は、昆支王の五人の子の中で、第二子の末多王が、幼くして聡明なので、詔勅して内裏に呼んだ。天皇親ら頭を撫でて、礼儀正しく戒めて、その国の王とした。それで兵器を与えて、併せて筑紫国の兵五百人を派遣して、国の衛士に送った。これを東城王という。この歳、百済の年貢はいつもより多かった。筑紫の安致臣や馬飼臣達は、軍艦を率いて高麗を撃った。秋七月の朔の辛丑の日に、天皇は、病気で寝込み、見通しが立たなかった。詔勅して、賞罰の基本を準備して、大事・些事区別なく皇太子に委ねた。】とあり、19年は標準陰暦と合致する。
しかし、二十二年春正月朔は己酉ではなう庚辰で、立太子は倭国の王朝交代なので、461年は宋書の「濟死丗子興」と親子相続で王朝交代が無く、「興死弟武立・・・順帝昇明二年遣使」と478年に興から弟武への倭国の王朝交代があったために、立太子がこの年に挿入された可能性が高く、478年から「天監元年・・・鎮東大將軍倭王武進號征東大將軍」と502年まで武が在位し、504年正月朔が己酉で倭国はこの時に武の弟若しくは叔父へ王朝交代した可能性が高い。
『三国史記』には475年、高句麗長壽王六十三年「九月王帥兵三萬侵百濟陷王所都漢城殺其王扶餘慶虜男女八千而歸」と雄略20年476年に記述し、雄略21年477年に百済を再興して三斤王が即位、478年高句麗長壽王六十六年「百濟燕信來投」、三斤王二年「春佐平解仇與恩率燕信聚衆據大豆城叛王命佐平眞男以兵二千討之不克更命德率眞老帥精兵五百擊殺解仇燕信奔高句麗收其妻子斬於熊津市」とやはり敗北して、479年三斤王三年「冬十一月王薨」と冬に死亡と、『日本書紀』の4月とズレがある。
そして、『三国史記』に480年長壽王六十八年「夏四月南齊太祖蕭道成策王爲驃騎大將軍王遣使餘奴等朝聘南齊」と474年長壽王六十二年「秋七月遣使入魏朝貢遣使入宋朝貢」以降休止していた南朝の朝貢を再開し、南朝を通して倭・百済・高句麗の友好を再開したようだ。

2020年2月28日金曜日

最終兵器の目 雄略天皇15

 『日本書紀』慶長版は
十五年秦民分散臣連等各隨欲駈使勿委秦造由是秦造酒甚以爲憂而仕於天皇天皇愛寵之詔聚秦民賜於秦酒公公仍領率百八十種勝奉獻庸調御調也絹縑充積朝庭因賜姓曰禹豆麻佐十六年秋七月詔宜桑國縣殖桑又散遷秦民使獻庸調十七年春三月丁丑朔戊寅詔土師連等使進
應盛朝夕御膳清器者於是土師連祖吾笥仍進攝津國來狹狹村山背國內村俯見村伊勢國藤形村及丹波但馬因幡私民部名曰贄土師部冬十月詔聚漢部定其伴造者賜姓曰直十八年秋八月己亥朔戊申遣物部菟代宿祢物部目連以伐伊勢朝日郎朝日郎聞官軍至即逆戰於伊賀青墓自矜能射謂官軍曰朝日郎手誰人可中也其所發箭穿二重甲官軍皆懼菟代宿祢不敢進擊相持二日一夜於是物部目連自執大刀使筑紫聞物部大斧手執楯叱於軍中倶進朝日郎乃遙見而射穿大斧手楯二重甲幷入身肉一寸大斧手以楯翳物部目連目連即獲朝日郎斬之由是菟代宿祢羞
愧不克七日不服命天皇問侍臣曰菟代宿祢何不服命爰有讚岐田?()別進而奏曰菟代宿祢怯也二日一夜之間不能擒執朝日郎而物部目連率筑紫聞物部大斧手獲斬朝日郎矣天皇聞之怒輙奪菟代宿祢所有猪名部賜物部目連
十五年に、秦の民を臣連達に分けて、それぞれの求めるまゝに使い、秦の造に委ねなかった。
それで、秦の造の酒は、とても心配しながら、天皇に仕え、天皇は、特別に可愛がった。詔勅して秦の民を集めて、秦の酒公に与えた。公は、それで百八十種の勝を引き連れて、固く絞った絹を奉納物にして奉献し、朝庭にいっぱい積んだ。それで姓を貰って禹豆麻佐と言った。十六年の秋七月に、桑に都合の良い國縣に桑を殖えさせた。又秦の民を散ら遷し作らせて産物を上納させた。冬十月に、「漢部を集めて、その代表者を決めろ」と詔勅した。姓を与えて直いう。十七年の春三月の朔が丁丑の戊寅の日に、土師連達に「朝夕の御膳を盛るけがれの無い器を献上しなさい」と詔勅した。そこで、土師連の祖の吾笥が、摂津国の来狹狹村と、山背の国の内村、俯見の村と、伊勢の国の藤形の村、および丹波・但馬・因播の配下の民達を献上した。贄土師部と名付けた。十八年の秋八年の朔が己亥の戊申の日に、物部の菟代の宿禰・物部の目の連を派遣して、伊勢の朝日郎を伐たせた。朝日郎は、官軍がやってくると聞いて、それで伊賀の青墓で防戦した。自ら上手く弓を射るとほこり、官軍に「朝日郎の腕に、誰があてられるか」と言った。その放つ矢は、二重の鎧を打ちぬく。官軍は、みな、怖じ気づいた。菟代の宿禰は、あえて進軍しないで撃ち合わなかった。相対峙して二日一夜が経った。そこに、物部の目の連が、自分で大刀を手に取り、筑紫の聞の物部の大斧手に、楯を手にして軍中に叫びながら、一緒に進軍した。朝日郎は、遠くから見て、大斧手の楯と二重の鎧を打ちぬいた。そして、3cm位の手傷を負った。大斧手は、楯で物部の目の連を翳して隠した。目の連は、それで朝日郎を獲えて殺した。これで、菟代の宿禰は、自分が勝てなかったことを恥じて、七日間、命に服しなかった。天皇は、侍臣に「菟代の宿禰は、どうして命に服しない」と問いかけた。そこで讚岐の田蟲の別という人がそこに居て、進み出て「菟代の宿禰は、二日一夜の間怯えて、朝日郎を捕虜に出来なかった。それなのに物部の目の連が、筑紫の聞の物部の大斧手を引き連れて、朝日郎を獲えて殺した」と奏上した。天皇は、それを聞いて怒った。それで菟代の宿禰の所有する猪使部を取り上げて、物部の目の連に与えた。】とあり、標準陰暦と合致する。
漢直は神功皇后に「是時俘人等今桑原佐糜高宮忍海凡四邑漢人等之始祖」と新羅の捕虜や漢の工人や呉の工人の集団のように感じるが、新羅人をなぜ漢人と呼ぶのか理由が解らない。
それに対して、応神天皇二十年「倭漢直祖阿知使主其子都加使主並率己之黨類十七縣而來歸焉」、履中天皇「時平群木菟宿禰物部大前宿禰漢直祖阿知使主三人啓於太子」と漢直の祖は十七縣を統治する王で、十七縣の漢人を十七縣の王が居るのに勝手に帰属させることなどできない。
すなわち、新羅の捕虜が阿知使主が支配する人たちの配下であり、新羅と戦って捕虜になった人々で、新羅と戦ったのは倭国、従って、阿知使主が倭王ということだ。
倭国は漢の倭奴国王を叙されて、漢の配下の王だったので、倭にいる漢の配下の王で倭漢王、雄略17年に正式に畿内政権の配下になり、倭国は編入され()漢直だ。

2020年2月26日水曜日

最終兵器の目 雄略天皇14

 『日本書紀』慶長版
十四年春正月丙寅朔戊寅身狹村主青等共吴國使將吴所獻手末才伎漢織吴織及衣縫兄媛弟媛等泊於住吉津是月爲吴客道通磯齒津路名吴坂三月命臣連迎吴使即安置吴人於檜隈野因名吴原以衣縫兄媛奉大三輪神以弟媛爲漢衣縫部也漢織吴織衣縫是飛鳥衣縫部伊勢衣縫之先也夏四月甲午朔天皇欲設吴人歷問群臣曰其共食者誰好乎群臣僉曰根使主可天皇即命根使主爲共食者遂於石上髙拔原饗吴人時密遣舍人視察裝錺舍人復命曰根使主所著玉縵大貴最好又衆人云前迎使時又亦著之於是天皇欲自見命臣連裝如饗之時引見殿前皇后仰天歔欷
啼泣傷哀天皇問曰泣耶皇后避床而對曰此玉縵者昔妾兄大草香皇子奉穴穗天皇勅進妾於陛下時爲妾所獻之物也故致疑於根使主不覺涕垂哀泣矣天皇聞驚大怒深責根使主對言死罪死罪實臣之愆詔根使主自今以後子子孫孫八十聯綿莫預群臣之例乃將斬之根使主逃匿至於日根造稻城而待戰遂爲官軍見殺天皇命有司二分子孫一分爲大草香部民以封皇后一分賜茅渟縣主爲負嚢者即求難波吉士日香香子孫賜姓爲大草香部吉士其日香香等語在穴穗天皇紀事平之後小根使主夜臥謂人曰天皇城不堅我父城堅天皇傳聞是語使人見根使主宅實如其言故收殺之根使主之後爲坂本臣自是始焉
十四年の春正月の朔が丙寅の戊寅の日に、身狹村主の青達を、呉国の使者と共に、呉が献上した手工芸者の、漢織・呉織および衣を縫う兄媛と弟媛達を連れて、住吉の津に停泊した。この月に、呉の客が通る道を造って、磯歯津の路につなげ、呉坂と名付けた。三月に、臣連に命じて呉の使者を迎え、それで呉の人を桧隈の野に留め、それで呉原と名付けた。衣を縫う兄媛を、大三輪神に奉納した。弟媛を漢衣の縫部とした。漢織と呉織の縫製工は、飛鳥衣の縫部で伊勢の衣縫の先祖だ。夏四月の甲午が朔の日に、天皇は、呉の人と宴席を設けようと、群臣に一人一人に「供物をそなえ、それを共に食べる者は誰が好いか」と聞いて回った。家臣が、ことごとく、「根の使主ならできる」と言った。天皇は、それで根の使主に命じて、供物をそなえ、それを共に食べる者とし、それで石上の高拔の原で、呉の人を饗応した。その時に密かに雑役夫を派遣して、装いを観させた。雑役夫は、服命して「根の使主が蔓のように巻いたヒスイは、はなはだ気品があって見た中でいちばん好い。また周りの人が、『以前に使者を迎えた時にも、着けていた』と言った」と言う。そこで、天皇は、自分でも見てみようとして、臣連に命じて、饗宴で装う時のように装い、殿の前へ引き出した。皇后は、上を仰ぎ観て咽び泣いて、さらに、声をあげて泣き悲しんだ。天皇は、「どうしてそんなに泣くのか」と聞いた。皇后は、床から顔を上げて、「この蔦のように巻きついたヒスイは、昔、私の兄の大草香の皇子が、穴穗の天皇の詔勅を受けて、私を陛下に進呈した時に、私の為に献上した物だ。どうしてと、根使主を疑い、知らず知らずに涙が流れ落ちて泣いたのです」と答えた。天皇は、聞いて驚きとても怒った。心の奥底から根の使主を責めた。根の使主は、「死罪です、死罪です。本当に私の罪です」と答えた。「根の使主は、これ以降、子子孫孫、八十代の果てまで連綿と、群臣の例に入れないぞ」と詔勅して、まさに斬ろうとした。それで根の使主は、逃げ隠れて、日根に着いて、稲城を造って待ち伏せて戦った。とうとう官軍に殺された。天皇は、 役人に命じて、二つに子孫を分けて、一方を大草香部の民として、皇后に封じた。もう一方をば茅渟の縣主に与え、袋担ぎの人足にした。それで難波の吉士の日香香の子孫を探して、姓を与えて大草香部の吉士とした。その日香香達の話は、穴穗天皇紀に在る。事が終わってから、小根の使主は、夜寝ころんで人に「天皇の城は堅固でない。私の父の城は堅固だ」と語った。天皇は、人伝にこの話を聞いて、人を派遣して根の使主の宅を見させた。本当にその言葉通りだった。それで、とらえて殺した。根の使主の後裔が坂本臣となったのはここから始まる。】とあり、四月甲午朔は3月30日で3月が小の月なら合致し、正月朔日は標準陰暦と合致している。
ここで、根使主の滅亡が記述してあるのに後裔が坂本臣と何か腑に落ちない記述がなされているが、坂本臣は『古事記』に「木角宿祢者(木臣都奴臣坂本臣之祖)」と解説文ではあるが 木角宿祢者の後裔と記述されている。
『古事記』「天津日子根命者(・・・山代國造・・・等之祖也)」、「天菩比命之子建比良邊命(此出雲國造・・・等之祖也)」、『日本書紀』「天津彦根命(是凡川内直山代直等祖也)」、「天穂日命(是出雲臣土師連等祖也)」とあるように、山代直と 山代國造、出雲國造と出雲臣は氏姓と役職の違いで同じことで、木臣は木国造の可能性が高く、根使主は木国造の可能性が高い。
『古事記』の允恭天皇に「定賜天下之八十友緒氏姓」と大量に賜姓し、『日本書紀』では允恭天皇までに延べ128個の氏姓の祖が出現しているが、『古事記』は延べ197個の氏姓の祖が出現し、文字数の断然少ない『古事記』に約70回の祖を多く記述して、雄略天皇の時記述した後、仁賢天皇の時までにそれだけの新たな氏姓を配下にしたことを意味している。
その象徴が建内宿禰の家系の氏姓で、『日本書紀』では「紀直遠祖菟道彦」、「甘美内宿禰・・・仍賜紀伊直等之祖」、「曰木菟宿禰是平群臣之始祖也」だが、『古事記』は「比古布都押之信命娶尾張連等之祖意富那毗之妹葛城之高千那毗賣生子味師内宿祢(此者山代内臣之祖也)又娶木國造之祖宇豆比古之妹山下影日賣生子建内宿祢此建内宿」、「波多八代宿祢者(波多臣林臣波美臣星川臣淡海臣長谷部之君之祖也)次許勢小柄宿祢者(許勢臣雀部臣軽部臣之祖也)次蘇賀石河宿祢者(蘇我臣川邊臣田中臣高向臣小治田臣桜井臣岸田臣等之祖也)次平群都久宿祢者(平群臣佐和良臣馬御樴連等祖也)次木角宿祢者(木臣都奴臣坂本臣之祖)次久米能摩伊刀比賣次怒能伊呂比賣次葛城長江曽都毗古者(玉手臣的臣生江臣阿藝那臣等之祖也)又若子宿祢(江野財臣之祖)」と雲泥の差の詳細記述である。
すなわち、雄略天皇の時にはまだ紀直や紀伊直、平群臣、坂本臣の氏姓しか無いか、有っても認めていないということで、平群王朝を倒す時にこれらの氏族が協力したことが考えられ、雄略天皇以降、祖の記述無しに記載され、根使主は実際は雄略天皇の後ろ盾だったことが解る。
だから、結果を見れば、雄略天皇の策略で根使主に命じて大草香を排除したが、皇后の手前、根使主は誅殺されたが、子孫は残され、城が天皇の城より立派だったのである。

2020年2月24日月曜日

最終兵器の目 雄略天皇13

 『日本書紀』慶長版は
十三年春三月狹穗彥玄孫齒田根命竊姧采女山邊小嶋子天皇聞以齒田根命收付於物部目大連而使責讓齒田根命以馬八匹大刀八口秡除罪過既而歌曰耶麼能謎能故思麼古喩衞爾比登涅羅賦宇麼能耶都擬播鳴思稽矩謀那欺目大連聞而奏之天皇使齒田根命資財露置於餌香市邊橘本之土遂以餌香長野邑賜物部目大連秋八月播磨國御井隈人文石小麻呂有力強心肆行暴虐路中抄劫不使通行又斷商客艖䑧悉以奪取兼違國法不輸租賦於是天皇遣春日小野臣大樹領敢死士一百並持火炬圍宅而焼時自火炙中白狗暴出逐大樹臣其大如馬大樹臣神色不變
拔刀斬之即化爲文石小麻呂秋九月木工猪那部真根以石爲質揮斧斲材終日斲之不誤傷刃天皇遊詣其所而恠問曰恒不?()中石耶真根荅曰竟不?()矣乃喚集采女使脱衣裙而著犢鼻露所相撲於是真根暫停仰視而斲不覺手?()傷刃天皇因嘖讓曰何處奴不畏朕用不貞心妄輙荅仍付物部使刑於野爰有同伴巧者歎惜真根而作歌曰婀拕羅斯枳偉儺謎能陀倶弥柯該志湏弥儺皤旨我那稽摩?()例柯柯該武預婀?()羅湏弥儺皤天皇聞是歌反生悔惜喟然頽歎曰幾失人哉乃以赦使乗於甲斐黒駒馳詣刑所止而赦之用解徽纒復作歌曰農播?()磨能柯彼能矩盧古磨矩羅枳制播伊能致志儺磨志柯彼能倶盧古磨
【十三年の春三月に、狹穗彦の玄孫の歯田根の命が、隠れて女官の山邊の小嶋子を凌辱した。
天皇が、それを聞いて、歯田根の命を、物部の目の大連に任せて、責めて問い詰めた。歯田根の命は、馬を八匹と大刀を八口で、罪過を許し免れた。それで歌った()。目の大連が、それを聞いて奏上した。天皇は、歯田根の命を、持っている財宝を隠さず見させ、餌香の市邊の橘の昔からの領地に置かせた。それで餌香の長野の邑を、物部の目の大連に与えた。秋八月に、播磨の国の御井隈の人で文石の小磨呂が、力持ちで強情だ。勝手気ままに乱暴なむごい仕打ちをして人を苦しめる。道の途中でかすめて奪い取り、通行をさせない。また商人の筏や小舟を遮って、残らず奪い取る。あわせて国の法を違えて、租税を治め入れない。そこで、天皇は、春日の小野の臣の大樹を派遣して、決死隊百人を率いて、松明を並んで持ち、邸宅を囲んで焼いた。その時、火炎の中から、白い犬が、暴れ出て、大樹の臣を追いかけた。その大きさは、馬の様だ。大樹の臣は、顔色を変えないで、刀を拔いて斬った。それは文石の小麻呂の化身だった。秋九月に、大工の韋那部の眞根が、石でできた、斧を振り回して材木を削った。一日中削っても、誤って刃先を傷つけなかった。天皇は、そこにやって来て、奇妙に思って「いつも石で失敗なく削れるのか」と問いかけた。眞根は、「最後まで失敗しない」と答えた。それで女官を呼び集めて、肌着を脱いで、褌姿で、目の前で相撲を取らせた。そこで、眞根は、すこしの間作業を止めて、仰ぎ視てから削った。思わず手技を誤って刃を傷つけた。天皇は、それで「何処のどいつだ。私を畏れないで、投げやりな心で、でたらめで軽率に答えた」と叱責した。それで物部に預けて、野原で処罰した。そこに連れの技術者がいて、眞根を歎き惜んで、作歌した()。天皇は、この歌を聞いて、後悔して考え直して、ため息をついて座り込み、「どれだけの人を失ったか」と言った。それで赦免の使者が、甲斐の黒馬に乗って、駆けつけて刑所に着いて、処刑を止めて赦免した。それで徴の纏いを解いた。また作歌した()。】とある。
 狹穗彦は垂仁天皇が殺害した正統な尾張朝廷の皇子で、その4世代後の人物が400年以上隔てて出現しているが、何度も書いている通り、狹穗彦の宮が4世代移った、すなわち、宮は1世代100年程度長男襲名があり、5世代程度の分家襲名が行われていることを示している。
雄略紀に現れた物部目大連は『日本書紀』には記述されないが『舊事本紀』に欽明天皇に「物部目連公為大臣」と大臣になっていて、この、『日本書紀』で消された大臣が欽明・敏達・用明・崇峻天皇の宮の主だ。
この時に得た狹穗彦の領地の餌香の長野の邑は「物部守屋大連資人捕鳥部萬將一百人守難波宅」と守屋の配下の萬が河内で死んだ、その地域である。
すなわち、目が尾張朝廷の地を得るということは、その姫も手に入れ、2つの朝廷の血筋を得ることになり、目の宮の最後の皇太子が守屋だったのであり、その宮の始まりが雄略天皇の時代だった。
『日本書紀』では目大連は雄略天皇にのみ出現するが、『舊事本紀』では「此連公磐余甕栗宮御宇天皇御世為連」、「此連公継體天皇御世為大連奉齋神宮」、「此連公磯城嶋宮御宇天皇御世爲大連奉齋神宮」、と清寧・継体・欽明の大連を襲名し、『日本書紀』で消された目大連が皇祖の祖廟を奉齋した天皇として記述されていたと思われる。