2025年2月17日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 尾張氏の神話8 縣主波延

  天戸目は葛󠄀木避姫を妃にして「生一男」、一男をもうけたと記述されているが、建斗禾と妙斗米が生まれたと記述しているので、一方は婿と考えられる。史書は女児をほとんど記述せず、妃を記述するのみである。男児は死亡率が高く、女児が多く残るのが本来の姿である。ところが、史書は女児を記述していないということは、本来の女児を男児と表現していると思われる。すなわち、男児は婿を記述していることが予想される。妙斗米は六人部連の祖であるが、六人部連の祖は伊香色雄の子の安毛建美で伊香色雄と妙斗米は同一の血筋である。

すなわち、天戸目の子の建斗禾が木国造の婿なので、妙斗米は物部氏、若倭部連や葛󠄀木尉直の祖の建箇草命は健額赤の子だから、健額赤は葛木彦・奧津余曾の妹の余曾多本毘賣の夫の御眞津日子(?多藝志比古)と考えられる。従って、余曾多本毘賣が葛󠄀城尾治置姫、建箇草が大倭帯日子国押人の可能性が高い。

『日本書紀』は孝霊を除いて綏靖から孝元天皇まで、皇后を磯城縣主や磯城縣主の弟の娘と記述した。安寧天皇の子が師木津日子とあるように、師木に皇太子がいる首都だった。彦湯支が(師木)縣主波延であり、彦湯支の妃は日下部の馬津の姫、吾田彦の子の日下部連使主は阿多氏である。安寧皇后の阿田都久志尼の娘の渟中底姫も阿多氏と考えられるので、ピタリと当て嵌まる。

宇摩志麻治の母は三炊屋姫で、三国の川神の師木の八姫を意味し、彦湯支は磯城八十梟帥と考えられる。子の大祢・師木津日子の妹が倭志紀彦の妹の真鳥姫で、その婿が出雲醜、出石心は世代が違うので、大祢の婿が和知都美・出石心なのだろう。大祢は現代の彦根の王、淡海の「ネ」は彦根と考えるのが理に適う。

孝安天皇の皇后に磯城縣主の娘と共に十市縣主の娘が存在するが、孝霊天皇の皇后では十市縣主の祖の娘とあるように、十市縣が消失して、孝霊皇后の父が磯城縣主大目となっている。これは、波延の住む宮から首都が十市縣に遷ったため、十市縣の主が天皇になったからと考えられる。すなわち、孝安天皇は葛木に婿入りした波延の分家の目だったが、目の分家の細比賣に孝霊天皇が婿入りしたことを示す。細比賣の兄は建斗禾で、孝安天皇・天戸目(磯城縣主大目)の子だ。栗東市に目川、愛知川の傍の愛荘町に目加田がある。

2025年2月14日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 尾張氏の神話7 大連誕生

  孝昭天皇の娘婿が大倭帯日子国押人だと考えられ、孝安天皇も娘婿の彦国押人・天戸目で、意富夜麻登玖迩阿禮比賣と蝿伊呂杼を生む。孝昭天皇・和知都美も二人の姫を生んだのだから、『日本書紀』の孝安皇后も、『古事記』の大倭帯日子の妃も姪、すなわち、孝安天皇と大倭帯日子は共に、孝昭天皇の娘婿(某姉・某弟)である。安寧天皇の曾孫なら孝昭天皇の子、考安天皇の子では世代が合わない。

孝昭天皇の義兄弟が奧津余曾と御眞津日子、孝昭天皇の娘の忍鹿比賣の婿が御眞津日子の子の大倭帯日子国押人、孝昭天皇の娘の押媛の婿が奧津余曾の子の彦國押人である。押媛は忍日女、忍人と対の天村雲の娘と同名の襲名した尾張氏の継承者である。

『日本書紀』に「觀松彦香殖稻天皇一云天皇母弟武石彦奇友背命」とあるように、多藝志比古は孝昭天皇の母・天豐津媛の弟である。そのことから、多藝志比古は奧津余曾の母の賀奈良知姫の弟で、息石耳の子なので、懿徳天皇や天忍男や天忍人の義兄弟である。奧津余曾大連は息石耳から継承したようで、息石耳の娘の天豐津媛の夫・出雲大臣の娘の子の建甕槌から天皇の璽の韴霊剣を得た。

天忍人は出石心大臣と記述したが、大臣は政策上の責任者で、宗教上の天皇が存在しない。『舊事本紀』は奧津余曾を大連と記述し、孝昭三十一年に大臣に賜姓と記述されている。これは、大連奧津余曾の子が出石心の婿になって大臣に、出石心の子が奧津余曾の娘婿の大連になったのではないだろうか。孝昭朝は83年続いているので、4代程度が交互に婚姻しあって王朝が続いたのだろう。

宗教上の権威は比賣・日子・大祢・大連・根子と呼ばれ、政権の実力者は政大夫・足尼(縣主)・大臣と呼ばれたようだ。宗教上の権威の天皇の史書の『日本書紀』と大連の史書の『舊事本紀』が似通って、政権の実力者の蘇我大臣の史書が異なる理由である。三種の史書は三氏族の王朝が存在したことを示す。

2025年2月12日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 尾張氏の神話6 天忍人

  天村雲の子である天忍人の妃は異妹の角屋姫で、別名を葛󠄀木出石姫という。角屋姫は母の阿俾良依姫の姉妹の娘にあたるので、葛木氏か阿多氏の娘であり、名前からも野洲国の津に関連し、天道根が祀る大屋姫とも関連していることがわかる。大屋神社の創建の大屋首は天村雲と思われる比古麻夜真止の後裔である。阿俾良依姫は阿多氏の王朝の分王朝の女王の名である。

天村雲の母の異妹の穗屋姫は天道根の娘と思われ、角屋姫も天道根の孫で従妹、初代の天忍人が出石姫、2代目が角屋姫に婿入りしたと考えれば、理に適う。天忍人は懿徳・孝昭朝の名なので2世代存在する。天道根は高御産巣日の子で、大物主の妃の三穂津姫(勢夜陀多良比賣)も兄妹で、同じ地域、三野穂国(?長浜)に居住していたようだ。

葛川近辺には、堅田に伊豆神社が有り、大原に読みが異なるが小出石がある。同世代に出石心と出石姫、ピタリと当て嵌まる。この時代に出石といえば誰もがその氏族を知っていた。

そして、彦湯支の妃である野洲の河が砂に染み込む河口の姫の淡海川枯姫の娘が新河小楯姫、その婿が大祢だろう。愛知川は天井川で、中流以降水面は土砂の下で涸れ(枯れ)ていたそうだ。出石心の妃は新河小楯姫で新川神社が野洲にあり、角屋姫の名も十分当て嵌まる。すなわち、天忍人と出石姫の子の出石心が淡海川枯姫の娘の新河小楯姫の婿(大祢)になって、和知都美を生んだと考えられる。

彦湯支は国名の無い彦の天皇で、また、国名の無い縣主の天皇(安寧)の縣主波延と同世代、妹の河俣毘賣は神沼河耳の妃で同世代にあたる。すなわち、彦湯支と縣主波延は同一人物と考えられる安寧天皇である。神沼河耳の兄弟が意富臣や阿蘇君の祖である神八井で、尾張氏意乎巳連大臣の祖先である。神沼河耳の兄弟とされたのは、神沼河耳の妹の婿だったから、すなわち義兄弟だったからだろう。

尾張氏は物部氏との兄弟と記述されているが、実際には饒速日と天火明は別人であり、香語山と宇摩志麻治は兄弟ではなく、香語山でない他の高倉下が物部氏の兄弟と考えられる。『舊事本紀』では香語山が高倉下とされるが、高倉下は世代的に劔根の娘婿の天忍男と考えられる。従って、高倉下である天忍男の兄弟で、葛木の出石姫の婿の天忍人は孝昭朝大臣の物部氏の出石心であったと考えられる。

2025年2月10日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 尾張氏の神話5 香語山と村雲

  天香語山は別名として手栗彦や髙倉下を持つが、天香語山と劔根との接点はなく、髙倉下は世代が異なり、劔根の娘婿の天忍男が髙倉下に相当するようだ。香語山については高浜に香山神社があり、手栗彦の「手」はナンバーツー、「ク」は久州、「リ」は天降った日神の子で九州から天降ったナンバーツーを意味していたのだろう。

天香語山の子である天村雲も、天五多底と別名を持ち、「出雲國五十田狹之小汀」とあるように、五十田を支配した手すなわちナンバーツーであったと考えられる。権力構造から考察した朝廷は、神武天皇が媛蹈鞴五十鈴で最高実力者が政大夫の宇摩志麻治、綏靖天皇が伊須氣余理比賣の婿と考えられる日子八井で、2代目の政大夫天日方奇日方と考えられる。しかし、日子八井は多藝志美美に皇位を奪取され、綏靖天皇が空位になってしまう。多藝志美美も皇位継承権があるが、名前は臣下の名である。安寧天皇が綏靖朝の足尼で政大夫だった縣主の波延・彦湯支であったので、日子八井の後の綏靖朝の皇位が空白になってしまう。

ところが、一人、天道根の孫の比古麻夜真止という人物が存在する。村雲は天道日女の孫にあたり、父の香語山の妃は異妹、母方の香語山の従妹と考えられる。すなわち、天道根の娘の穗屋姫で、その子が天村雲、妃が阿多君の家系の阿俾良依姫で、天村雲が比古麻夜真止という可能性が高い。

そして、皇位は倭志紀彦の妹の真鳥姫の夫の出雲醜が政大夫、さらに、懿徳朝大臣となって、師木津日子は天皇の名ではないので即位できなかった。食国の臣下の政大夫が上位者の存在しない大臣になったが足尼になっていない。大臣は統治の責任者で、神の神託を受ける、宗教上の責任者の足尼が存在するはずだ。それが大祢で、懿徳朝では彦根と呼ばれたと考えている。

出雲醜大臣の後継者が義弟の孝昭朝出石心大臣、すなわち、師木津日子にあたるが、1世代違うので、師木津日子の子の和知都美が出石心孝昭朝大臣と考えられる。そして、神の神託を受けるのは、足尼から大連に変わり、劔根の孫の奧津余曾が就位した。

2025年2月7日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 尾張氏の神話4 兄妹と罪

  火明の子である天香語山は、異妹である穗屋姫を妃にしている。異妹とは、母の天道日女の姉妹の夫の血統を持つ娘が穗屋姫と考えられる。異妹は母方の義妹、異母妹は父方の姉妹の義妹と考えられる。

伊波礼毘古は阿多小椅君の娘の阿比良比賣を妃にし、子の多藝志美美が大物主の娘の伊須氣余理比賣を妃にした。天村雲は阿比良比賣の娘か姪の阿俾良依姫を妃にしたのだから、父の香語山の妃の穂屋姫は大物主の妃の三穂津比賣の姉妹の可能性が高い。事代主は三穂津比賣の居る出雲國三穗之碕で薨じ、天道根は大屋彦・大屋姫を祀っている。すなわち、天道日女の姉妹や姪も天道根の出身地の三穗の姫であることを意味し、事代主の妹の髙照光姫も三穗にいたと考えられるので、天道日女の兄の天道根は髙照光姫を妃にした可能性が高い。三穗は三野穂国のことだろう。

異母妹や異妹の婚姻は、一王朝が100年以上続くことがある一世代なので、この婚姻は個人の兄弟姉妹の婚姻の意味ではありえない。いくら古代でも、血縁親族間の婚姻は遺伝に悪影響を及ぼすことを理解していたと思われる。氏族間の兄弟関係である。

『おお祓い』の祝詞には「己が母犯罪」と「己が子犯罪」を国津罪に入れている。しかし、木梨輕皇子と同じ母を持つ妹である輕大娘女との恋が「畏有罪而黙之」とされるように、この恋は罪と理解されている。つまり、同父母の妹である輕大娘女は母と同じと思われ、母は神であり、自分の娘も同じ神なので、娘も母の娘も祖神と一体であり、自分の神を犯すことになるから罪なのである。したがって、輕皇子がもし輕大娘女の娘である姪を犯すなら、子を犯す罪になる。ただし、輕大娘女は妹ではなく、母の妹の叔母の田井中比賣(弟比賣)のことである。

古代の王朝は、王と王妃、王妃の弟と王の妹が婚姻し、次世代はその従弟同士が婚姻するのが基本なので、王朝は長くて100年程度で崩壊する。だから、他氏の血を入れるため、婿や嫁の姉妹と婚姻する。すなわち、庶妹や異妹や異母妹は異なる姻戚氏族の娘を意味するのだろう。敏達天皇の子である小墾田皇女と彦人大兄皇子が婚姻しているが、実際は兄妹ではないため罪にならない。

史書の兄妹の婚姻は最低でも従妹や義妹の婚姻を示し、姉妹の婿の名が兄弟として記述されている。兄弟の記述でも男子が極端に多いのは、婿を記述しているからと考えられる。

2025年2月5日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 尾張氏の神話3 お天道様

  尾張氏の祖の天火明の妃は天道日女であり、天道日女は高御産巣日の子である天道根の妹と考えられる。名前は人物を特定する重要なもので、天道と言えばだれもが知っている、恐らく、淡海の道の王で、紛らわしい人物が存在しない人物だろう。

「国造本紀」に、紀伊國造は天道根が賜姓されたとあるが、『日本書紀』の紀伊国荒河戸畔、『古事記』の木国造荒河刀辨が説話での初出で、遠津年魚目目微比賣の父である。遠津氏は天狹霧の娘の遠津待根、天照大神の化身の狹霧から生まれた子である。

『舊事本紀』では紀伊国造の初出が天道根、次が建斗禾の義兄の智名曽であり、最後が『古事記』の伊勢大神の宮を祀った豐鋤比賣の祖父だ。そして、紀伊国造は野洲の神の大屋彦と大屋姫を祀る伊勢遺跡の人物である。野洲近辺の日野町に大屋神社があり、創建が『新撰姓氏録』には「大屋首ハ天道尼乃命孫比古麻夜真止乃命之後也」のように天道根の孫の比古麻夜真止の後裔の大屋首と記述されている。

『古事記』では木國造の祖を宇豆比古、『日本書紀』では珍彦に椎根津彦の名を与え、『古事記』では槁根津日子を倭國造の祖と記述している。倭國造は仁徳朝の比香賀君も祖としており、それ以前は倭國王が天皇であったと考えられる。倭國造が賜姓されるのは雄略天皇の時代であり、吾子篭が大倭國造として登場している。仁徳朝の時代には、倭屯田が山守の領地であり、山守を滅ぼした麻呂が倭直の祖と記述されるように、大山守が倭国を支配していたと思われる。

この倭、大屋神社がある夜真止の中に木国があった。大和は天皇が治める首都があり、その首都に国造を任命するのは矛盾している。実際は扶桑国大和の天皇が女国(淡海)の倭の天皇を名目上任命したと述べられているのだろう。大海姫を『舊事本紀』は尾張大倭媛と記述し、倭が海を意味することが解り、倭国造は海(淡海)国造である。女国の大臣は比布禮で、木国造が大臣になり、丸迩臣である。

高浜の皇子である天火明は、紀伊国造になる天道根の娘を妃にしたが、高御産巣日の子の天道根が高浜に縁がないのは奇妙だ。しかし、高浜の名を持ちながら婚姻が記述されていない人物もいる。事代主の妹である髙照光姫である。髙照光姫は天照大神と考えられ、私たちは日神を「お天道様」と呼んでいるが、天道根の名は偶然とは思えない。

2025年2月3日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 尾張氏の神話2 狹霧

  尾張氏が祀る神と考えられる尾羽張が八柱の神を生み、天照大神も八柱を生んだ。八国は八氏族の集まりだったから八国と漢字を当てたのだろう。誓約によって生まれた八柱は、天照と須佐之男が生んだことになっているが、実際には婚姻していない。実際に生んだのは氣吹の狹霧であり、これは天之狹霧と國之狹霧、つまり若狭国()の港に天降った天之狹霧と、氣吹(?伊吹山)を祀る神の國之狹霧と考えられる。八国の神の山は伊吹山であり、倭建は「伊服岐能山」の神に勝てず、多賀(當藝野)に逃げた。

正勝吾勝勝速日天之忍穗耳は速日別の国から来た皇子であり、天之菩卑は若狭の出雲に降った神である。天津日子根はおそらく大津の王(琵琶湖が天になった)、対馬の神なら天は不要と思われる。活津日子根は三方の生倉の王、熊野久須毘は小浜(久須夜神社)の王だろう。多紀理毘賣は但馬から隠岐に遷った周饒國女王、市寸島上比賣は狹依毘賣と書き換えられた女王であり、壱岐から若狭に来た女王の狭毘賣(狭霧)の分家の娘、多岐都比賣は但馬か多賀の女王だろう。狭霧神は若狭姫と若狭彦と考えられ、市寸島上比賣が亦の名が狹依毘賣とされたことから、若狭の分家で、高御産巣日の妃である可能性がある。

出雲の大乱で天照大神が大国主に国譲りをさせようとした際、天之菩卑や天若日子を派遣したが失敗した。次に尾羽張を派遣しようとしたが、尾羽張はこれを断り、代わりに建御雷之男を送った。建御雷之男は韴霊剣、すなわち尾羽張の劔を持って国譲りを成功させた。そして、尾張氏の天皇の璽は高倉下が受け取り、即位した。高島が高木神の国、その末裔の劔根の国であるため、尾張氏の出身地は高浜である可能性が高い。

高浜の王は高日子と高比賣兄妹と考えられ、高日子は多紀理毘賣の子の阿遅鍬高日子根、妹は高比賣、亦の名が下光比賣であり、天津國玉(?天津日子根)の子である天若日子の妃の下光比賣である。若日子が若狭彦、下光比賣が若狭姫と考えられ、狭霧神を祀った神である。そして、高浜の神が大山津見を降伏させた高御産巣日と考えられる。高御産巣日の子が天道根、香語山の母は天道日女で、高御産巣日は尾張氏の始祖でもある。