2024年10月4日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話4 分王朝の依姫たち

 『日本書紀』に記されている綏靖天皇の神沼河耳の親は、火火出見である。火火出見という名は2人存在しており、1人は神吾田津姫の子であり、もう1人は玉依姫の子である。神倭(神屋)王の事代主の妻は玉櫛媛(活玉依姫)であり、綏靖天皇の皇后は伊須氣余理比賣である。このように、依姫は王朝の後継者であり、別の王家の女王となったことを意味する。

火照は番能迩迩藝の長男であり、後継者と考えられ、阿多君の祖である。火火出見の子は、伊吹から流れる川の江の王である不合(吾江津)であり、その王妃は王家の後継者の名を持つ玉依姫である。伊吹山がある米原には天野川河口の宇賀野があり、鵜草の()葺にピタリだ。

『日本書紀』には、火闌降が「吾田君小橋等之本祖」と記されており、『古事記』では、火照が「隼人阿多君祖」とある。これらは、「火」を「ホ」と理解する、九州の速日別国の人物であり、加須屋の海祇の子孫であることを示している。「君」という称号は岐神を意味し、国名が付かない岐神は君子国(三国)の王の天皇である。

『古事記』では、長男が火照、『舊事本紀』では火明が長男、そして『日本書紀』と『舊事本紀』では火明が尾張氏の祖とされている。これにより、火照と火明が義兄弟であることが示唆されている。

また、『舊事本紀』では、火明の孫である天村雲の妃が阿俾良依姫と記されており、吾田君小橋の妹の姻戚であることが分かる。神八井耳は意富臣の祖であるが、大萑朝大臣の意乎巳連は尾張氏であるため、神八井耳と當藝志美美も義兄弟の関係にあると考えられる。それは、阿俾良依姫が阿比良比賣の娘であり、當藝志美美の妹であったと考えられる。すなわち、天村雲は神八井耳と同一人物と考えられる。亦の名の比賣多多良伊須氣余理比賣は天皇阿多君と皇后五十鈴命の娘であり、これらの関係性が当然の帰結である。火明は天皇阿多君の本家阿俾良姫の子の葛木氏と義兄弟の政権中枢の氏族の尾張氏だった。

2024年10月2日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話3 當藝志美美とその家系の謎

  若御毛沼の子の當藝志美美の妃は前王の妃である富登多多良伊須須岐比賣(伊須氣余理比賣)で、彼女は母の三穂津姫がいた穂の国の港、穂門の井州の集落の姫と考えられる。敦賀には井ノ口河があり、事代主の妃の玉櫛媛の名をもつ櫛川が河口にある。

磐余彦の「磐余」は、400年に伊耶本和気が天皇になった場所の宮の名だ。當藝志美美は白梼原に住み、敦賀には樫曲と言う地域がある。天皇は神倭()に住んでいて、その主である天皇は、国名のない女王、つまり比賣多多良伊須氣余理比賣である。「比賣」と「余理比賣」では意味が大きく異なり、「蹈鞴」は帯の意味なのだろう。媛蹈鞴五十鈴命は初代天皇で、その社(八国の代)の隣に建てられた「依り代」である新朝廷の天皇と考えられる。

また、天皇の宮殿は「神倭(みや)」と呼ばれ、国名を必要とせず、縣主も同様で縣主波延は安寧天皇である。比賣多多良伊須氣余理比賣は、綏靖天皇の皇后として記述されており、一代のズレが見られる。

さらに、『舊事本紀』には、事代主と活玉依姫(玉櫛媛)の子が「一男一女兒」を生んだと記されて、天日方奇日方と媛蹈鞴五十鈴命である。媛蹈鞴五十鈴命は「皇后誕生二兒」とあるように二人の子供を生んで、神渟名河耳と彦八井耳が生まれた。

しかし、次妹の五十鈴依姫についても記述があり、数が合わない。これは、神渟名河耳が彦八井耳の義兄弟であることを示しており、神渟名河耳は一代のズレがあるため、當藝志美美が義兄弟であることを意味している。河俣毘賣は、安寧天皇波延の妹であったとされており、神渟名河耳は安寧天皇の世代に属した。富登多多良伊須須岐比賣が伊須氣余理比賣と別人で、彦八井耳は富登多多良伊須須岐比賣の子であるので、彦八井耳も、阿比良比賣の子である當藝志美美も、五十鈴依姫の夫であり、共に綏靖天皇である可能性が高い。

三島溝咋の孫である媛蹈鞴五十鈴命も、富登多多良伊須須岐比賣も、事代主と大物主の王朝の妃になっている。したがって、三島溝咋の子も両王朝と姻戚関係にあったと考えられる。

大物主の王朝は、阿多小椅君の妹の婿が阿多氏を継承し、君は君子国(三国)の姓であり、三国の王であった。この襲名した阿多氏が大物主を継承し、阿田賀田須につながった。一方で、皇后の夫も阿多君であった可能性が高く、天日方奇日方の別名である阿田都久志尼は、阿多君の禰宜であった可能性が高い。

2024年9月30日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話2 大物主

  『古事記』は、大臣の説話集であり、御真木入日子から時期が特定できる歴史が始まる。御真木入日子の時代より前、若日子(若狭彦)の義兄弟である阿遅鍬高彦根の時代より前に、出雲で大乱が起きた。この大乱は、天菩比の侵入から始まり、その後、若日子の子の大国主が大山祇大神の勢力を衰退させた。胸形の神の牟遲、港に天降った津見から主の政権となった。

その結果、君子国の勢力が強まり、神屋楯比賣の子である事代主は、三島溝咋の娘、玉櫛媛(活玉依姫)を妃に迎え、神倭朝廷を開いた。神は月讀、政務は主だったが、大国主(大物主)と事代主の勢力が並び立つこととなった。

神倭朝廷の最高実力者の政大夫である天日方奇日方と宇摩志麻治は、神倭国を統治し、大国主は大物主と呼ばれた。天日方奇日方の後裔である建甕槌は、大物主の勢力と天菩比の後裔の勢力を伯耆以西に追放し、大国主を亀岡の出雲神社に祀った。

『舊事本紀』によれば、大物主の妃は高御産巣日の娘である三穂津姫である。大田田祢古の父の大物主は建飯賀田須だが、建飯賀田須の父大御氣主の妃は大物主の血筋ではない。男系は事代主の血筋なので、建飯賀田須の母である大倭國民磯姫が大物主の血筋、すなわち、三穂津姫の子の血筋と考えられる。

高浜の神、高御産巣日の娘である三穂津姫は、三国の岬の港の姫であり、三方の姫と考えられる。大倭國民磯姫は、世代的にも名前からも大倭帯日子の娘であり、孝安天皇の次の時代である孝霊天皇、葛木朝廷の姫と考えられ、大御氣主が婿入りして大吉備諸進になったのなら、大物主が吉備で生まれ、『播磨風土記』によると、大和三山の争いがおさまって、揖保郡上岡里から阿菩大神は出雲に行った。「カムオカ」は大国主を祀った出雲神社のある亀岡と無関係なのだろうか。神は地名を持って移動する。

2024年9月27日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 葛木氏の神話1 御井宮の住人

  『古事記』は、葛木氏の意祁王が記述した大臣の史書である。葛木氏の祖である高木神が最初に記述されるのは、若日子の殺害時のことだ。

『古事記』によれば、神武天皇は若御毛沼であり、曾都毘古の東征で伊奢沙和氣大神と御食津大神の名を交換し、伊耶本和気が皇位に就いた。これにより、葛木氏の王祖である御毛(御食)沼から、王祖の立場を継承したことが示唆された。気比は元々日吉神社の場所だった。

葛木の王である葛木彦に賜姓されたのは、孝昭天皇皇后の兄の奧津余曾の孝昭朝大臣だ。また、『古事記』には波延の孫として御井宮の王である和知都美が登場する。そして、『古事記』の波延は国名の付かない縣主すなわち天皇である。師木は少なくとも崇神朝から垂仁朝まで、師木が首都で、首都の王は天皇である。師木縣主になれるのは、景行朝の纏向や政務朝の穴穂に首都が遷って以降である。また、師木縣主の祖は波延ではなく、妹や弟の娘である。

和知都美の娘は蝿伊呂泥と蝿伊呂杼、すなわち、和知都美も波延を襲名した天皇である。つまり、葛木彦は天皇が婿入りした御井宮の住人であり、その御井宮の御井神は大穴牟遲と八上比賣の子で、この時大穴牟遲は八千矛神と言われた。

八千矛は沼河比賣を妃として建御名方を生んだ。建御名方は事代主と共に食国を統治していたとされている。食国の大神は月讀であり、食国の大臣を政大夫と呼び、その政大夫には天日方奇日方と宇摩志麻治、彦湯支、出雲醜がいた。そして、出雲醜大臣は食国の官位でなくなったため、祀るべき大神は食国の月讀ではなくなり、大国で祀られていた多賀の伊邪那岐の娘である天照が大神となった。出雲醜は食国配下の政大夫から、新しい王朝の大臣になって、政権交代が起こった。それを継承したのが葛木彦である。

2024年9月25日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 神武東征4 『古事記』と『日本書紀』の暦

  『古事記』には、伊久米伊理毘古や大帯日子や穴穂のように死亡日が不明な神話的な人物と、品陀和気のように歴史的な記録を持つ人物が混在している。帯中日子の崩は息長帯日売の記事に記述されどちらともいえない。このため、おそらく352年十月丁巳朔辛酉(『日本書紀』では前667年)、神武東征が起こり、伊奢沙和氣大神と御食津大神、現代の氣比大神の名前が交換した。御毛沼が追放され、現代の気比で仲国王の太子である豊御毛沼が王位に就いたのだろう。豊御毛沼(品陀和気)が伊奢沙和氣大神であり、その孫である若御毛沼(伊耶本和気)が磐余若櫻宮朝廷を奪ったと考えられる。

『古事記』の日付において、記述場所や品陀和気が32年後の崩から考えて帯中日子ではなく息長帯日売の崩御日と思われる、壬戌年六月十一日である。すると、『日本書紀』どおりなら242年にあたり、神功皇后の崩御は己丑269年、仲哀天皇崩御でさえも200年の庚辰年で、どちらも合致しない。干支は60年周期で繰り返されるため、記録としての有効性を保つには60年以内の間隔でないと意味がない。したがって、推古天皇の崩御が628年戊子の年に起こったのなら、それを遡ることで特定することが可能だ。『古事記』の日付は年月日で記されているが、『日本書紀』の日付は朔の日干支で表されている。つまり、年月日を用いる『古事記』は、日干支を記録しなかった政権下で編纂されたものだ。それに対して、日干支を用いる『舊事本紀』の大連の政権は朔を朔日(1日)の日干支で記録していた。

もちろん、『古事記』の年月日の記述は『隋書』からの影響が考えられるが、それに代わる記録を持っていたと考えられ、墓誌の記録が存在していた可能性がある。日本の羲和は、1年を366日と定めたため、夏至・冬至・春分・秋分からの日数が記録された可能性が高い。『紀氏家牒』には「春秋二百八十余歳」と夏至・冬至で1年を分けて、何回の春秋があったかを記録している。

中国では、頻繁に改朔が行われ、朔が朔日であったり、晦日(最終日)であったりするなど、都合によって月や年が変わることもあった。中国に臣従していた九州の記録も、それに合わせるために変換が必要となった。『日本書紀』を編纂した大伴氏も、中国の朔・晦・元号等の古い記録を保有していたと考えられる。その記録を天日方奇日方の朝廷の暦に合わせたため、歪みが生じた。

2024年9月23日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 神武東征3 神武東征と暦の謎

  神武東征は、記録を持つ歴史的な出来事として語られている。『日本書紀』には、最初の日付が「其年冬十月丁巳朔辛酉」「是年也太歳甲寅」とあり、紀元前667年と記述されている。しかし、丁巳朔の実際の日干支は閏11月朔日の日干支であり、冬至が11月にあるため、10月はありえない。これは、閏11月朔日を11月朔日、さらに10月晦日と考えた結果だと考えられる。つまり、この日付の設定は、朔(新月)を晦日と理解する王朝によって記述された可能性が高い。

暦の記録を知らない者が、この日干支を誤って挿入したとは考えにくく、むしろ、九州の王朝では晦日を朔とする暦を使用していたことが推測される。例えば、「三月丁未朔戊申日有蝕盡之」と推古天皇の時代に九州で発生した日蝕は丁未が朔日なのに戊申(2日)と記録されているのは、この暦の理解に基づいているからで、九州の王家の朔は30日目の晦、朔日は次の日、この時2月は29日まで、従って、3月1日は晦日、朔は2日だった。九州の王家は中国の影響で、日干支ではなく日にちを使っていた。

東征は、歴史的出来事として、352年の10月に起こった出来事が挿入された可能性も考えられる。この年には、近江山君が雌鳥皇女から皇位の璽を奪取し、政権交代があった。この時、曾都毘古が13歳で太子になっていたならば、394年に50歳代で薨去したと考えれば年齢的には理に適う。『古事記』には、御真木入日子が戊寅年12月、若帯日子が乙卯年3月15日に崩じたことが記されている。

しかし、息長帯日売の在位は69年間であり、宮は百年、5代程度続き、さらに、彼女の在位期間中に2度の壬戌年6月11日があるため、日付の特定ができない。『日本書紀』によれば、壬戌年は神功皇后の摂政42年目にあたるがそれ以降も生存しており、『日本書紀』とは異なる息長帯日売の姿が描かれている。同様に、仁徳天皇も在位87年間とされ、その期間に2回の年干支が存在し、また、死亡日が記されていない王も存在する。

干支で死亡日を特定するには、在位期間が60年以内であることが必要だ。『日本書紀』と同じ表記名でも、『古事記』の王は異なる王で、『日本書紀』は『古事記』の王の名を使用していることが解る。

2024年9月20日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 神武東征2 日向の神話

  倭国が呼んだ虚空津の対馬に対して、近江大津の出身の神子が穗穗手見と考えられる。穗穗手見は曾都毘古の妃の祖神の忍日の子と考えられ、豊国女王豊玉毘賣が妃、そして、玉依毘賣と記述されているが、実際は豊玉依毘賣が曾都毘古の妃の祖と考えられる。自分の国名は省略され、玉依は王の依り代にいる後継者であり、彼女の子孫が2代目曾都毘古の帯中日子の母なのだろう。忍日は紀元前480年頃に伊都の高千穂宮を開き、伍佰捌拾歳後の100年頃に高千穂宮は滅びた。

御真木入日子の宮は『古事記』の壹佰陸拾捌歳(168年)の間、318年まで続いた。伊久米伊理毘古は壹佰伍拾參歳(153年)、大帯日子は壹佰參拾漆歳(137年)、並行して続いた宮の系図である。

屋主忍武雄心が318年戊寅年12月に崩じた御真木入日子と考えられ、伊久米伊理毘古や大帯日子に崩御年の記述がないため、三代目曾都毘古と関連する葛比賣などの系図と考えられる。丹波道主の娘である比婆須比賣は、初代襲津彦の家系、神武東征の協力者は吉備王の若建吉備津日子の娘の伊那毘能大郎女で、神武東征は吉備の力で勝ち取った。

また、虚空津比賣の姉である息長帶比賣の夫の帯中日子の父である小碓は、曾都毘古の名を旧の豊国王である豊(日向)襲津彦から贈られたと考えられる。熊襲の王は熊襲津彦、日向は熊襲、建国だが、建国王の名ならば、建彦すなわち倭建だろう。日向髪長太田根と日向襲津彦は『古事記』に記述されておらず、大伴氏の家系である可能性が高いと考えられる。

同様に『古事記』に記述されない、襲武媛が大伴氏の祖の豊国別の子で、建沼河別の末裔の阿倍氏木事の娘の高田媛は、大伴氏が神武東征で大和に来た時に妃にした姫なのだろう。木事は反正天皇妃の父である。

同様に『日本書紀』に記述されない小碓の妃の玖玖麻毛理比賣が、日向襲津彦の妹か娘と考えられる。これは『日本書紀』の五十河媛と考えられ、伊覩縣主の祖の五十迹手の祖なのだろう。子の足鏡別が、「あし」すなわち安芸の吾神の帯中日子なのだろうか。玖玖は久久能智と同地域の名前である。