2023年5月19日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 崇神天皇3

  「六十八年冬十二月戊申朔壬子天皇崩」は正しい朔の日干支である。そして、『日本書紀』垂仁紀で「十月癸卯朔癸丑」、「葬御間城天皇於山邊道上陵」と記述される。ところが、崇神紀と『舊事本紀』は「八月甲辰朔甲寅」と記述されている。これは、十月癸卯朔は正しい日干支だが、甲辰は9月癸卯晦の記録と思われる。すなわち、物部氏は、崇神天皇と異なる暦を使用したということだ。それが、木国の王の可能性が高いことを示している。崇神紀は木国の記録、野洲王朝の記録が混在していることを示している。

 それは、前50年、「四十八年春正月己卯朔戊子」に比古由牟須美・沼河別と木國造の荒河刀辨の娘の子の豐木入日子が野洲の天皇を引継いだ。大毘古の娘、御眞津比賣の子の伊久米伊理毘古が大国・根国、山背の天皇を引き継いだ。『舊事本紀』で紀伊荒川戸俾の娘の中日女を妃にする伊香色雄の子の大新河が存在する。初代の大連で、大連は物部氏にとっての天皇を大連と呼んでいる。そして、大新河の子が武諸遇、やはり大連で、前38年、「六十年秋七月丙申朔己酉」に出雲の寶を検分した。すなわち、この時、天皇だったと述べて、豐木入日子の可能性が高い。そして、尾張氏の建諸隅も木国造の娘と思われる、節名草姫の子で、建諸隅は木国造を介して襲名し、継承されたと思われる。尾張氏の建諸隅は宇那比の子、伊迦賀色許賣の子の比古布都押之信は叔父で、交互に婚姻関係を持って、同一氏族になったと思われる。

 また、九州の暦の「六十二年秋七月乙卯朔丙辰」の「河内・・・開池溝」と河内に池を造った政権も、木国の影響下の政権と思われる。伊久米伊理毘古は河内の生駒の王で、御眞津比賣の子、御眞津比賣は大毘古と伊迦賀色許賣の子だ。倭得玉彦・坐王は大毘古の娘と思われる大伊賀姫を妃にした。伊迦賀色許賣の子の御真木入日子・大毘古は倭得玉彦の叔母の意富阿麻比賣を妃にした。さらに、御真木入日子・大毘古の子は倭得玉彦・坐王の子の沙本毘賣を妃にした。このように、互いに姻戚関係になって、倭得玉彦・坐王の子の恐らく丹波比古多多須美知能宇斯が皇位を簒奪した。御眞津にいた王の長男が色(師木)に婿入りし、生れた開化天皇家伊迦賀色許賣(大倭根子の妻)、その娘が崇神天皇家大伊賀姫(坐王の妻)、義娘が垂仁天皇家沙本毘賣(沼河別の妻)と師木王朝が継承された。


2023年5月17日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 崇神天皇2

  前97年、「春正月壬午朔甲午」に倭得玉彦・坐王が野洲王朝の天皇になったと思われる。それに対して、「二月辛亥朔丙寅」の「御間城姫爲皇后」、前94年、「十月庚申朔壬午」の「共安天下不亦可乎」の宣言は正しい日干支ではない。その他の暦のある記述の多くが正しくない日干支である。また、前91年、「二月丁丑朔辛卯」の、「八月癸卯朔己酉」、前90年、「夏四月庚子朔乙卯」、「十二月丙申朔乙卯」の大田田根子説話は正しい日干支である。しかし、前91年、「十一月丁卯朔己卯」の説話は正しくない朔の日干支で、伊香色雄と共に記述された説話である。しかし、同じ物部氏の穗積臣の遠祖の大水口宿禰の説話は正しい日干支だ。穗積臣は内色許男が祖で、伊香色雄は甥にあたる。

 違いは、伊香色雄は山代縣主祖の娘を妃にし、木国の影響下にいた。木国は珍彦の暦を使用している。すなわち、この頃は、木国の九州の暦を使う勢力と天文学的に正しい暦を使う勢力が混在した。そして、前86年の「三月丁丑朔丁亥」の「朕初承天位」、「九月甲辰朔己丑」の「御肇國天皇」は正しい朔だ。すなわち、この政権は正しい朔を使う政権でである。「猶不受正朔」と正しい朔でないと不満を述べて、侵攻した政権は正しい朔を用いる政権であった。

 すなわち、前88年の三道侵攻の、大毘古の高志道、沼河別の東方十二道は本来正しい朔を用いる地域に侵攻した。だから、大毘古達の侵攻は倭得玉彦・坐王にとっては侵略であった。すると、丹波道の侵攻は、大毘古達の出撃中に、坐王が侵攻し、活目長砂彦と似た名の玖賀御笠耳を殺害した。玖賀は山背久我直がいるように、山背の王と思われる。すなわち、大毘古が埴安彦を倒して、支配下にしたので、対抗して坐王が侵攻した可能性がある。坐王の子の丹波道主が大毘古の領地を侵略し、勝利した。


2023年5月15日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 崇神天皇1

  開化天皇の時、若倭根王朝と大国王朝が分裂した。内色許男の妃は活目長砂彦・那賀須泥毘古の妹の芹田真稚姫である。御炊屋姫は神国の御()河、野洲()王朝の師木の姫の意味、内色許男は山背の内、師国の神子の子達の意味だろうか。大物主の子の大田田祢古は河内にいて、生駒と同地域だ。そして、御真木にいた葛木氏が長砂彦に替わって伊久米・生駒に入ったようだ。生駒は根国の中心地で、そこの王の長砂彦は内色許男の時代は大倭根子の皇太子と考えられる。すなわち、天皇は物部氏の妃、内色許男は天皇の娘を妃にし、内色許男が皇位を奪取した。

 また、大毘古は大国王の意味で、大臣を意味し、大国主・大縣主も同じ意味だ。大縣主は雄略記に「志幾大縣主」が記述されるように、師木の天皇が襲名した。師木に大神を祀ったからと思われる。五十琴が磐余の事代、社の場所と述べた通り、大和川が「い」河と考えられた。すなわち、大毘古は大「い河」彦と考えられ、大伊賀彦とも呼ばれたと思われる。大伊賀彦の娘の大伊賀姫は建諸隅の子の倭得玉彦の妃だ。開化天皇は旦波の大縣主の由碁理の娘の竹野比賣を妃にしているが、大縣主は大臣と思われる。すなわち、大綜杵大臣で、大伊賀彦・大毘古は『古事記』に記述されない伊香色雄の可能性が高い。伊香色雄は山代縣主の祖の長溝の娘2人と倭志紀彦の娘を妃にしている。そして、垂仁天皇は佐波遲比賣の他に山代の大國の淵の娘2人を妃にして、構成が似ている。垂仁天皇は『古事記』では師木、『舊事本紀』では纏向に首都を置いている。そして、『舊事本紀』の伊香色雄の子が纏向大連で弟の建新川は倭志紀縣主の祖、『古事記』の首都志紀の王の天皇、倭志紀彦も天皇で倭得玉彦と思われる。すなわち、物部大毘古天皇は新しい志紀天皇の娘を妃にし、志紀天皇は大毘古・大伊賀彦の娘を妃にして、志紀天皇が皇位を奪取した。

 葛木氏の御眞津日子は師木津日子と記述されるように、渟名底仲媛を皇后とする神屋王朝配下の師木王だったが、天忍人に追い出されて、御眞津に逃れた。すなわち、師木津日子は倭志紀彦で、妹の真鳥姫が大国王の出雲醜の妃になったので、それを頼ったと思われる。出雲醜の弟に出石心がいて、天忍人の妃が葛木の出石姫、同じ地域の生れの姫である。その縁で内色許男が師木に、大毘古・御真木入日子が御眞津に入ったと考えられる。


2023年5月12日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 開化天皇2

  開化天皇の兄弟に、比古布都押之信という人物がいる。比古布都押之信は尾張連の祖の竟富那毘の妹の葛城高千那毘賣を妃にする。竟富那毘は孝元天皇天戸目の子の建斗米の子の建宇那比、妹は宇那比姫である。しかし、孝元天皇の子の比古布都押之信とは年代が合わない。そのため、尾張連の祖の奧津余曾・葛木彦を引き継ぐ建宇那比の子の建諸隅の妹の大海姫、亦の名、葛󠄀木髙名姫のことかと思われる。奧津余曾も大海姫も尾張連の祖と記述されている。比古布都押之信は木國造の祖の宇豆比古の妹を妃に、建内宿禰を生む。すなわち、孝霊天皇の子の比古布都押之信の妃が崇神天皇の妃の大海姫?。当然同一人物では理に適わない。葛木氏は比古布都押之信を襲名して、襲名した建諸隅の妹を妃にしたと思われる。それに対し、襲名した比古布都押之信の兄弟の葛󠄀木直祖大諸見足尼の妹の諸見巳姫が建諸隅の妃となったと思われる。諸見巳も諸隅も諸神の意味、諸神子・諸津神と考えられる。

 同様に、建内宿禰は『古事記』で若帯日子・帯中日子・品陀和気・大雀で説話が記述される。開化天皇と同時代の人物の子なのに、崇神・垂仁・景行の時代を飛ばして記述されている。さらに、同様に、建内宿禰の子の葛城曾都毘古は大雀の義父で、建内宿禰は大雀の義祖父だ。葛城曾都毘古の子の葦田宿禰は伊耶本和気の義父である。伊耶本和気は兄弟の允恭天皇が450年頃崩じているので、390年頃の生れである。すなわち、葦田宿禰は370年頃、葛城曾都毘古は350年頃なので、建内宿禰は330年頃の生れと言う事である。

 建内宿禰の子の木菟宿禰は、『日本書紀』で応神天皇時から記述される。建内宿禰の兄弟の甘美内宿禰も同様に応神天皇時に記述される。『日本書紀』の応神天皇は辰斯王殺害を応神三年に記述し、実際は392年だった。すなわち、この頃に建内宿禰の子達が活躍した可能性が高い。そして、375年の百濟肖古王薨が神功皇后55年に記述され、321年が元年の王朝が存在する。この王朝が建内宿禰を大臣にした王朝の可能性が高い。そして、『日本書紀』は建内宿禰が生れたのが、大足彦三年「二月庚寅朔」の時と記述している。しかし、この日干支は間違いで、321年2月1日が庚寅で、この年なら理に適っている。『古事記』の天皇の崩御の日付が始まるのが、御真木入日子の戊寅年十二月である。『日本書紀』の辛卯年と異なる。『古事記』は王の紀年が記述されていない。なので、戊寅年十二月はいつの戊寅年なのか特定できないのに使用している。すなわち、干支だけでは日付は特定出来ない。特定できるのは、間隔が60年以内の時に特定できる。すなわち、『古事記』の崩御間隔は60年以内と解る。従って、『古事記』の最後の推古天皇戊子年628年から遡ると、318年が戊寅年である。この時崩御した王の子の兄弟が推古天皇の一族の王朝を引き継いだことが解る。

 すなわち、大足彦が318年に襲名した比古布都押之信と述べている。忍代別は息長氏の支配地の忍坂にある社の王朝の分家と考えられ、恐らく、321年に建内宿禰を大臣にした。その、大臣にしたのが若帯日子である。従って、若帯日子は屋主忍男武雄心を襲名した人物で、建内宿禰が大臣すなわち大国王になった。それで、屋主忍男武雄心が父と『日本書紀』は理解した。建内宿禰が『古事記』では宇豆比古の妹の山下影日賣、『紀氏家牒』では「紀伊国造道彦之女」だ。すなわち、生駒生れの襲名した比古布都押之信・大帯日子が、若帯日子、帯中日子の分家をつくったと考えられる。

2023年5月10日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 開化天皇1

  葛木氏の孝元天皇は尾張氏に対抗して、物部氏との姻戚関係を受け入れた。すなわち、天皇は内色許男の妹の内色許賣や娘の伊迦賀色許賣を妃にした。また、内色許男は孝元天皇の妹と思われる、活目長砂彦(長髄彦)や大倭根子の妹を妃にした。その娘が伊迦賀色許賣と思われる。神屋王朝の葛木氏玉手見は賦登麻和訶比賣の兄と思われる和知都美に師木を奪われた。葛木氏の御眞津日子は、奧津余曾に追い出されて、物部氏のいる丹波大国の御眞津に移住した。出雲醜は和知都美に敗れた神屋王朝に代わって大国王大臣となって、尾張氏と別け合った。

  出雲醜の弟に大国王を継いだ出石心大臣が存在している。葛木氏にも天忍人の妃になった出石姫が存在し、出雲醜の妃倭志紀彦妹真鳥姫は葛木氏の可能性が高い。出石姫が出石心大臣の妹か娘の可能性がある。そして、出石心大臣の孫の大綜杵は髙屋阿波良姫、すなわち、高島・野洲・淡海の王の娘を妃にして、娘の伊迦賀色許賣は葛木氏の天皇の妃だ。それで、開化天皇は内色許男の子や伊迦賀色許男が大国・山背・師木を統治した朝廷である。

 それに対して、八井宮の後継者の繩伊呂泥は日子刺肩別を生み、若狭三方の王なのだろうか。そして、大吉備津日子、丹波と吉備の将軍と思われる子を生んだ。妹の蝿伊呂杼も日子寤間、若日子建吉備津日子を生んで、同じ系統の子である。共に大吉備諸進の妃の可能性が高く、尾張氏波延が後見していると思われる。内色許男大臣や伊迦賀色許男・大毘古によって、朝廷が分裂し、吉備と若国と倭国と根国に勢力圏が縮小したようだ。

 物部朝廷では、内色許賣の子の大毘古が『古事記』では内色許男の娘の、伊迦賀色許賣を妃にしたと記述する。天皇の長男が皇后の兄弟の娘を妃に、皇后の娘に皇后の兄弟の長男が婿になって皇位を引き継ぐ。だから、大毘古が内色許男の姫の伊迦賀色許賣を妃にした。それに対して、内色許男の甥の伊迦賀色許男は倭志紀彦の娘の真鳥姫を妃にした。伊迦賀色許男の子の建新川は倭志紀縣主の祖で、志紀は、師木水垣宮と朝廷がある場所で天皇である。建新川は沼河別の可能性が高い。このように、大毘古と伊迦賀色許男が皇位を継承した。そして、内色許男の妃は活目長砂彦、すなわち、生駒の難河の砂()彦の妹の芹田真稚姫・御炊屋姫と思われる。芹田真稚姫が生駒、すなわち、河内の青玉の娘の波迩夜須毘賣の可能性がある。

 前157年、春正月庚午朔癸酉の皇太后、十月丙申朔戊申の遷都、前153、二月丁未朔壬子、前98年の十月癸丑朔乙卯の葬天皇は正しい暦だ。孝元天皇から引き続いて、大国王の内色許男の子の伊迦賀色許男と大毘古の説話である。伊迦賀色許男が倭志紀彦の娘を妃にしたのに対し、倭得玉彦の妃が伊我臣の祖の大伊賀彦の娘の大伊賀姫を妃にしている。内色許男から倭得玉彦が皇位を奪取した。また、開化天皇の皇后が大綜杵の娘の伊迦賀色許賣で、葛木氏の妃である。前152年、春正月辛丑朔甲寅、春正月壬寅晦と有ったのを、書き換えたと考えられる。珍彦の暦を使っている葛木氏の妃の「伊香色謎命爲皇后后生御間城入彦五十瓊殖」の記事だ。


2023年5月8日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 孝元天皇

  孝霊天皇の最大の権力者は皇后の姻戚の尾張氏の建斗禾だった。建斗禾の子の建田背は「丹波國造但馬國造等祖」と記述される。丹波・但馬は大国、大国・三国の王の大神の大御氣主は大倭國民磯姫を妃にしている。大倭國民磯姫は天戸目の娘と考えられる。大御氣主は(山背)紀伊名草姫の子である。天戸目の子の建斗禾も(山背)紀伊國造智名曽の妹の中名草姫を妃にしている。すなわち、実質の最高権力者に木国(山背の紀伊)王が含まれる。すなわち、二王家が朝廷内の覇権争いをしている。

 孝霊天皇は『日本書紀』では兄弟がいないが『古事記』には大吉備諸進という兄弟が記述された。当然、大吉備諸進は剱根の家系の継承者ではなく、尾張氏の影響下の人物だ。同様に孝霊天皇の妃で、『日本書紀』に記述されない春日の千千速眞若比賣が『古事記』に記述される。当然、この妃も尾張氏と姻戚の妃だろう。春日は開化天皇の首都でなので、開化天皇は尾張氏と姻戚の葛木氏が皇位を奪取したことが類推される。そして、天忍人・波延の娘の繩伊呂泥と蝿伊呂杼の子に大吉備津日子と若建吉備津日子が記述される。すなわち、孝霊天皇の兄弟と見做された大吉備諸進の子と考えたほうが理に適う。すなわち、尾張氏と姻戚の葛木氏は若狭・野洲・根・河内・播磨・吉備が支配領域である。

 これは、剱根の後裔の孝霊天皇が尾張氏に実権を握られてしまったことになる。当然、それに対抗するため、大国で大神を祀っている大矢口宿祢と協力して、対抗したと思われる。大国の御眞津には尾張氏に追放された葛木氏の御眞津日子は物部氏と姻戚関係だったと考えられる。大科度美が天狹霧の娘の遠津待根を妃にした説話だ。出雲醜大臣の妃の倭志紀彦の妹は和知都美の父の葛木氏と思われる。出雲醜大臣は建甕槌を葛木氏の力を借りて追い出し大国の王、大臣になった。そして、孝元天皇は大矢口宿祢の娘の内色許賣を妃にした。兄の内色許男は大臣の大国王、すなわち、中国・但馬・丹波大国・三国が勢力圏だ。そして、天皇の勢力圏は木国・師木・葛木だ。更に、内色許男の娘の伊迦賀色許賣も妃にし、内色許男の甥の伊迦賀色許男と大毘古に皇位を奪われた。

  『舊事本紀』には「七年春二月欝色謎命立為皇后」と日干支を記述していない。しかし、『日本書紀』には「二月丙寅朔丁卯立欝色謎命爲皇后」と正しい日干支を記述している。すなわち、この時には、まだ、物部氏は暦の記録を、まだ、得ていないことを意味する。

 前214年、春正月辛未朔の「太子即天皇位」は「春辛未朔を春辛未晦」とおそらく記録してあった。それを、12月の辛未朔と変化したと思われる。前211年、春三月甲申朔甲午の「遷都於輕地」は甲申朔が甲申晦と記述されていたと思われる。前209年、秋九月戊戌朔癸卯の「葬大日本根子彦」は己亥朔を己亥晦と記録されていて、戊戌晦なのに、戊戌朔と記述したと思われる。そして、前208年、二月丙寅朔丁卯に欝色謎が皇后になって、尾張氏が継承した大神を祀る内色許男大臣の正しい朔の暦になったようだ。従って、九月壬申朔癸酉の「天皇崩」も正しい朔である。

 内色許男は師国王師子の配下の内王を意味し、師木の伊迦で生れた娘が伊迦賀色許賣を意味する。それで、伊迦賀色許賣の子の比古布都押之信も子が内臣だ。比古布都押之信の子は味師内宿禰と建内宿禰で山背の王になった。それで、内色許男に代わって、大綜杵の子の伊香色謎・伊香色雄兄弟が師木の天皇になった。


2023年5月1日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 孝霊天皇

  葛木彦が黒田廬戸宮で大倭根子・天皇に即位した。大倭根子は『続日本紀』にも、「大倭根子天之廣野日女」、「近江大津宮御宇大倭根子天皇」と記述する。文武朝廷の前の持統天皇と皇祖と呼ぶ天智天皇の職位である。初めて、天皇と呼べる人物が誕生した。廬戸宮は師木にある。恐らく、忍人の子の次代忍人に娘が無かったと思われる。そこで、先代忍人の妹の忍日女と葛木氏の師木津彦の娘が次代忍日女。その忍日女を皇后にしたのが、先代忍人の子の天戸目。そして、天戸目が皇位を継承した。先代の天忍人の弟の天忍男は、剱根の娘に婿入りして、葛木彦・葛木王になった。葛木彦の子は天戸目の妹の忍鹿比賣、すなわち、天忍人・葉江の娘の長媛を妃にした。天皇天戸目は葛木彦の娘の葛󠄀木避姫を皇后にした。そして、天皇師木縣主天忍人の娘の長媛・忍鹿比賣を妃にした葛木彦は皇位継承権を持った。葛木彦の娘を天皇天戸目が皇后にし、その娘細媛を皇后とする夫の孝霊天皇が葛木彦の孫である。細媛は「師木縣主大目之女」と首都師木の縣主天皇、後の大国王の大目の娘と記述されている。

 そして、天戸目の子の建斗禾は十市縣主、氏が建氏となった。『紀氏家牒』に「紀武内宿祢一或産二紀伊国一故名」と武内宿祢が紀伊国と命名したと記述される。従って、紀伊國造の紀伊はまだ無く、「山背國紀伊邑」の紀伊と思われる。それで、建斗禾は珍彦の子孫の木国造の智名曽の妹の中名草姫を妃にした。木国造は先々代の天皇の大神氏・建氏も娘の名草姫の婿である。中名草姫の子に手和迩、名草姫の孫は和迩君と、和迩氏の発祥が珍彦である。『古事記』木國造の祖の宇豆比古の娘の子が建内宿禰で、葛城襲津彦の父だ。

 前291年、「九月甲午朔丙午」に前天皇を埋葬し、「十二月癸亥朔丙寅」に廬戸宮を開いた。前290年、「正月壬辰朔癸卯」に葛木彦が即位した。忍日女が皇太后である。前289年、「二月丙辰朔丙寅」に細媛を皇后にした。

 葛木氏の『古事記』には日干支の紀年の記録を記述せず、紀年の記録を持っていなかったことが解る。しかし、孝昭・孝安・孝霊天皇と、正しい日干支の紀年が記述された。すなわち、紀年を記録したのは、朝廷ではなく、特定の宮が記録し保管したことを示す。正しい日干支の紀年は神武東征以前から残っていた。従って、九州の紀年の記録は高千穂宮にあり、珍彦が畿内に持って来て、宮柱を建てた宇迦能山の宮、そして、正しい紀年の須賀宮である。そして、葛木氏の宮には記録が無いので、建甕槌が須賀宮の記録を伊勢幡主に持ち込んだと思われる。そして、その伊勢幡主の記録が御井宮に保管され、記録を継続したと思われる。ところが、天忍人・波延の娘や妹が、皇太后や皇妃として、師木に移住した。そして、建斗禾が宇迦能山の王家と姻戚になった。それで、珍彦が高千穂宮の方法で始めた宇迦能山の記録を利用することになったと考えられる。その為、前215年、「二月丙午朔癸丑」の孝霊朝の崩壊の記録は晦が朔の九州の記録となった。