2022年12月16日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』継体天皇類書2

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『帝皇本紀』は続けて「丙寅遣臣連等持節以備法駕奉迎三國夾衛兵仗肅愗容儀警蹕前駈奄然而至於是男大迹天皇妟然自若踞坐胡床齊列陪臣既如帝坐持節使等由是敬憚傾心委令冀壹忠誠然天皇意裏尚疑久而不就適知河内馬飼首荒籠密奉遣使具述大臣大連等所以奉迎本意留二日三夜遂發乃喟然歎曰懿哉馬飼首汝若無遣使來告殆取嗤於天下世之幼論貴賤唯重其心盖謂荒籠乎及至踐祚厚加寵待也甲申天皇行至樟葉宮二月辛卯朔甲午大伴金村大連乃跪上天子鏡劔璽符再拜男大迹天皇謝曰子民治國重事也寡人不才不足稱領請迴賢者寡人不放大伴大連伏地固請男大迹 天皇西向讓者三南面讓者再者大伴大連等皆曰伏計之大王子民治國最冝稱臣等爲宗廟社稷計不敢忽幸(?+)承之庶聽納矣男大迹天皇曰大臣大連將相諸臣咸推寡人不敢承之乃受璽符也即天皇位尊皇妃立爲皇大夫人媛也庚子大伴大連奏請曰臣聞前王之宰世也非維城之固無以鎮共乾坤非掖庭之親無以継共趹萼是故白髮天皇無嗣遣臣祖父大伴大連室屋毎州安置三請則白髮部以留後世之名嗟矣可不愴欤復請納手白香皇女立爲皇后復遣神祇伯等敬祭神祇求天皇息允荅民望天皇曰可矣」、【丙寅に臣・連達を派遣して、任命の刀を持って輿を備え、三国へ迎えに行った。兵士達が刀をうやうやしく囲み、儀礼を疎かにしない隊列を整え、先ばらいとして駆けつけると、男大迹天皇は落ち着いて動ぜずに床几にかけていた。侍臣を整列させて、帝王のようで、迎えの刀をもった使いは、かしこまり、心を傾け、命を捧げて忠誠を尽くすことを誓った。しかし、天皇はここれに裏のあるとなお疑い、皇位に就かなかった。天皇は、河内馬飼首の荒籠を知っていた。荒籠は密かに使い送り、詳しく大臣・大連が迎えようとしている本意を伝えた。二日三晩留まって、ついに出発した。そして歎息して「よかった、馬飼首。もしお前が使いを送って知らせてくれなかったら、私は天下の笑いものになるところだった。世に“貴賎を論ずることなく、ただその心だけを重んずべし”というのは、思うに荒籠のようなものをいうのだろう」と言って、即位してから、厚く荒籠を寵愛した。甲申に天皇は樟葉宮についた。二月辛卯朔甲午、大伴金村大連はひざまずいて、天子の璽の鏡と剣を奉って拝礼した。男大迹天皇は「民をわが子として国を治めることは重大な仕事だ。私は才がなく、天子を称するには力不足である。どうかよく考えて、真の賢者を選んでほしい。自分では到底できないから」と辞退した。大伴大連は地に伏して固くお願いした。男大迹天皇は西に向かって三度譲り、南に向かってもう一度譲り、大伴大連らは皆「考えるに、大王は民を子として国を治めるのに、最も適任だ。私達は国家のために考えて、幸せにすることをおろそかにしません。どうか人々の願いを聞いてください」と言って土下座した。男大迹天皇は「大臣・大連・将相・諸臣が私を推すのなら、私も受けないわけにはいかない」と言って、璽を受けて即位し、また、皇妃を尊んで皇大夫人媛とした。庚子、大伴大連が「臣が以前から聞くところ、王が世を治めるのに、城を維持せずに天地の鎮められず、後宮を養わずに後継できない。このため、白髮天皇は、跡継がなかったので、私の祖父の大伴大連室屋を派遣して、国ごとに三つの白髪部を置き、名を後世に残そうとし、とてもいたましかった。手白香皇女を皇后とし、神祇伯を派遣して、地祇を祭り、天皇の跡継ぎを求めて、民の望みに答えてほしい」と願い、天皇は「わかった」と言った。】と訳した。

二月辛卯朔甲午」は『日本書紀』に辛卯朔が記述されず、『日本書紀』が「二月甲午」の資料を記述したことが解り、継体天皇に即位を求めたのは、物部氏の資料だったということだ。

すなわち、小長谷の後継者争い、小長谷の妃の春日娘子の不明な兄弟と、それに対して春日山田皇女の夫と思われる麁鹿火が皇位を争い、麁鹿火の娘の影媛を妃にできなかったので、小長谷の皇位継承者に成れず、それに対して、勾金橋天皇妃の許勢男人大臣女紗手媛、香香有媛は少なくとも一人は小長谷の妃と思われ、許勢男人が後継争いに勝利し、『日本書紀』は目連や麁鹿火の資料を用いて記述しているようだ。

倭彦と男大迹の皇位争奪は三尾君の娘の名が倭媛とあり、三尾君の祖石衝別は布多遲能伊理毘賣の兄で帯中津日子の母、足仲彦天皇五世孫の倭彦も三尾君の姻戚の可能性が高く、足仲彦と思われる彦狹嶋は北陸を含む東山道十五國の都督で、倭媛は巨勢男人の妃と思われ、男人が小長谷の後を継いだと考えられ、寵愛された河内馬飼首は彦狹嶋の影響下だった近江毛野臣に付き従っている。

手白香皇女の夫は蘇我稻目宿禰の可能性が高く、それは、巨勢氏は巨勢臣藥が豐足臣の子と記述されるように豊国を統治していたようで、豊国は『筑後國風土記』に「筑紫君石井・・・獨自遁于豐前國上膳縣終于南山峻嶺之曲」と磐井に勝って奪った地域で、蘇我氏と協力関係だったと思われるからである。

2022年12月14日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』継体天皇類書1

   『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天孫本紀』は続けて「十三世孫物部尾輿連公荒山太連之子此連公磯城嶋金剌宮御宇天皇御世為大連奉齋神宮弓削連祖倭古連女子阿佐姫次加波流姫各兄生四兒弟生三兒弟物部奈洗連公孫物部麻佐良連公木(?)大連之子此連公泊瀬(?)城宮御宇天皇御世為大連奉齋神宮須羽直女子古爲妻生二(?)兒弟物部目連公此連公継體天皇御世為大連奉齋神宮弟物部長目連公輕馬連等祖弟物部金連公借馬連野間連等祖弟物部具(?)足尼連公依羅連等祖此連公磯城嶋宮御宇天皇御世為宿尼弟物部建彦連公高橋連立野連都刀連横廣連勇井連伊勢荒比田連小田連等祖」とあり、訳は略す。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『帝皇本紀』は「諱男大迹天皇更名彦太尊者譽田天皇五世孫彦主人王之子也母曰振媛振媛活目天皇七世之孫也天皇父聞振媛顔容妹妙甚有媺色自近江國高嶋郡三尾之別業遣使聘于三國坂名井納以妃遂彦天皇天皇幼年父王薨振媛迺歎曰妾命遠離桑梓安得膝養天皇天皇壯大愛土禮賢意豁如也小泊瀨天皇八年冬十二月巳亥元無男女可絕継嗣大伴金村大連議曰方今絶無継嗣天下何處繫心自古迄今禍由斯起今足仲彦天皇五世孫倭彦王在丹波國桑田郡請試設兵仗夾衛乘輿就而奉迎之為人主大臣大連等一皆隨焉奉迎如計於是倭彦王遙望迎兵愕然失色仍遁山巓不知所詣元年歳次丁亥春正月辛酉朔甲子大伴金村大連更籌議曰男大迹王性慈仁孝順可承天緒冀慇懃勸進紹隆帝業矣物部鹿火大連許勢男人大臣等僉曰妙簡孫賢者唯男大迹王矣 」、【諱は男大迹天皇でまたの名を彦太尊は、譽田天皇の五世の孫で、彦主人王の子だ。母は振媛で振媛は活目天皇の七世の孫だ。天皇の父が、振媛は容貌が端正ではなはだ美人であることを聞いて、近江国高島郡の三尾の領地に、使いを派遣して三国の坂中井に迎え入れて妃として、彦天皇が生れた。天皇が幼いうちに、父王は薨じた。振媛は「私は、遠く故郷を離れて、どうやって天皇を養えばいいのか」と嘆いた。成人して天皇は、人を愛しみ、賢人を敬い、心が豊かだった。小泊瀨天皇は八年冬十二月巳亥にもとから男女の子がなく、跡継が絶えてしまい、大伴金村大連が「いま絶えて継嗣がない。天下はなにを心の拠り所としたらよいか。古くから今に至るまで、禍はこういうことから起きている。今、足仲彦天皇の五世孫の、倭彦王が丹波国桑田郡にいる。試しに兵を派遣して、輿を守り迎えて、人々の主としよう」と皆にはかっていった。大臣・大連は皆従い、計画どおり迎えることになったが、倭彦王は、迎えに来た兵士を遠くで見て恐れ、血色を失って、山中に逃れて行方がわからなくなった。元年丁亥の春一月辛酉朔甲子、大伴金村大連は「男大迹王は、情け深く親孝行で、皇位を継ぐのに相応しい。ねんごろに勧めて、皇統を栄えさせよう」とはかっていった。物部麁鹿火大連、許勢男人大臣らは皆「()孫を選ぶと、賢者は確かに男大迹王が優れている」と言った。】と訳した。

継体天皇は自ら水間城王から始まる王朝の「中興の祖」と呼び、元号も『二中暦』「年始五百六十九年」と継体元年513年から569年前の前53年からと記述し、水間城帝から始まったと補足し、『舊事本紀』も継体天皇から帝皇本紀と王朝交代を示し、崇神60年に「神寶藏于出雲大神宮」と大神の神寶を得て崇神65年に「武諸隅命為大連物部氏祖」と物部王朝が始まり、そして、いま、物部目が中興の祖となったと主張している。

目連の母異(?)媛の父は不明で「御太君祖」と記述され、里媛の兄弟が御太君なら御太君の妹で良いので、子の目連が「継體天皇御世為大連」、欽明紀「物部目連公為大臣」とあるように、大臣は大君、御太君その物で、目連の次の勾金橋宮大連は麁鹿火連とあるが、男大迹を推したのが麁鹿火大連なので、麁鹿火は武烈・継体・安閑で大連となり、目連と重なり、更に、宣化朝は甕栗宮目大連の子の荒山と麁鹿火の弟の押甲が共に大連と重複している。

これは、麁鹿火王朝と目王朝の並立を示し、目連の後を荒山が継承しているので、目大連の子の荒山は仁賢天皇億計の娘ではなく、物部氏の仁賢天皇木蓮子と里媛の娘で目連の兄弟の橘仲比賣を妃にしたと考えられ、荒山の子の尾輿も欽明天皇の大連、荒山の曽孫、尾輿の孫、御狩の子の目がまた欽明天皇の大連、木蓮子の子の目連の弟の呉足尼も欽明天皇の足尼で、欽明天皇は目連の弟にあたる王朝で、木蓮子の子の目連の義弟の荒山の子が継承した王朝だと『舊事本紀』は述べている。


2022年12月12日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』武烈天皇類書

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「小長谷若鷦鷯()()坐長谷之列木宮治天下捌歳也此天皇无太子故爲御子代定小長谷部也御陵在片(伊山)崗之石坏岡()也天皇既崩」とあり、訳は略した。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「諱小泊瀨稚鷦鷯尊者億計天皇太子也母曰春日大娘雄計天皇七年立爲皇太子天皇長好制理法令分明日(?)坐朝幽狂必達断獄得情又顯造諸惡不修一善几諸酷刑無不親堅國内居人咸皆震怖矣十一年八月億計天皇崩元年冬十一月戊寅朔戊子皇太子尊命有司設壇場於泊瀨列城宮陟天皇位遂定為都謂列城宮二年巳卯春三月丁丑朔戊寅春日娘女立為皇后物部麻佐良連公為大連八年冬十二月壬辰朔巳亥天皇崩于列城宮天皇無胤」、【諱は小泊瀬稚鷦鷯。億計天皇の皇太子で、母を春日大娘という。億計天皇七年に、皇太子になった。天皇は長じて法令を取り決め、日暮れまで裁くのを好み、朝から暗くなるまで朝廷に居て、調べて罪を裁くまで熱中し、一つの善政も無く、諸悪が蔓延しても、およそ、さまざまな極刑でないと興味を示さず、根国の人民はみな震え恐れた。十一年八月に、億計が崩じた。元年冬十一月戊寅朔戊子、皇太子は司に命じて祭壇を泊瀬列城宮に設けて、即位し、都にして、列城宮といった。二年己卯の春三月丁丑朔戊寅、春日娘女を皇后とし、物部麻佐良を大連とした。八年の冬十二月壬辰朔巳亥に、天皇は列城宮で崩じ、子はない。】と訳した。

長谷列木宮天皇には皇太子が記述されていないが、これまで示したように、天皇が即位できるのは、即位に足るバックボーン無くしては即位出来ないので、天皇は皇后の住む場所に婿入りして、皇后の兄弟や、皇后の子、皇后の兄弟の子が皇位を継承することで国を安定的に統治することができた。

すなわち、長谷列木宮天皇は母の前皇后春日大娘の兄弟の娘と思われる春日娘女を皇后にしていて、後継者は春日娘女の兄弟が皇太子候補で、『日本書紀』「春日大娘皇女大泊瀬天皇娶和珥臣深目之女童女君所生」とあるように、童女君の兄弟の子達、和珥臣深目の孫が皇太子になったと思われる。

継体24年に「及乎繼體之君欲立中興之功者・・・降小泊瀬天皇之王天下・・・朕承帝業於今廿四年」と継体帝は小泊瀬天皇が天下を治めていた時に即位して中興の天皇となって24年経ったと、すなわち、継体元年から24年、540年にこの宣言を行っている。

すなわち、大倭國勾金橋朝と桧隈廬入野朝は継体朝と別王朝で、大倭國勾金橋朝は長谷列木宮朝の継承王朝と考えられ、『古事記』は長谷列木朝も大倭國勾金橋朝も皇后を記述せず、『日本書紀』に記述される「億計天皇女春日山田皇女爲皇后・・・立許勢男人大臣女紗手媛紗手媛弟香香有媛物部木蓮子大蓮女宅媛」がこの2王朝と稲目の皇后と私は考えた。

継体天皇即位時、武烈天皇の後継者がいないと記述しているが、和珥臣深目の孫が皇位に就くのが当然で、それなのに、後継者を探すのは非論理的で、この後継者探しは、「廿五年歳次辛亥崩者・・・日本天皇及太子皇子倶崩薨」によって、後継者が死滅したので、継体天皇と対立する麁鹿火が、名目上の天皇を連れて来たと考えるほうが論理的だ。

継体25年の天皇の死亡は、継体23年の「巨勢男人大臣薨」が継体25年の2年前ではなく、継体28年の2年前の継体26年の死亡で、長谷列木宮天皇の後継の倭彦を推薦したが、麁鹿火に敗れて男人が死んだと考えられる。

麁鹿火の祖母異(?)媛は御太君の祖、おそらく、中興の祖の叔父目連・継体天皇・彦太が御太(みおう)・三国大国の新しい創始者()と思われ、異(?)媛は伊莒弗の子の甕栗宮の目大連がよく合致しそうで、玉穗宮継体天皇も磐余で磐余の時の物部氏の名が目連と考えられ、麁鹿火と目連が皇位を争ったと考えられる。

2022年12月9日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』仁賢天皇類書2

 『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「元年歳次戊辰春正月辛巳朔乙酉皇太子尊即天皇位都於石上廣髙宮及有天下都瀨引城二月辛亥朔壬子前妃春日大娘皇女立爲皇后大泊瀨天皇娶和珥臣除自之女童女君所生也遂生一男六女一曰高橋大娘皇女二曰朝嬬皇女三日斗日(?手白)香皇女繼體天皇后矣四日斗白(?樟氷)皇女五曰栺(?)皇女六曰小泊瀨稚鷦鷯尊七日真稚皇女次和珥臣日爪女糠君娘生春日山田皇女冬十月丁未朔己酉葬雄計天皇于傍岳磐杯丘陵七年春正月丁亥朔己酉立小泊瀨稚鷦鷯尊爲皇太子十一年秋八月庚戌朔丁巳天皇崩正寢冬十月已酉朔癸丑葬填口坂本陵天皇所生一男七女」、【元年戊辰の春一月辛巳朔乙酉に、皇太子尊は即位した。石上広高宮に都を造った。二月辛亥朔壬子、以前からの妃の春日大娘皇女を立てて皇后とした。春日大娘皇女は、大泊瀨天皇が和珥臣の深目の娘の童女君を娶って生んだ。皇后は、一男六女を生み、第一を高橋大娘皇女といい、第二を朝嬬皇女といい、第三を手白香皇女、継体天皇の皇后だ。第四を奇日皇女といい、第五を橘皇女といい、第六を小泊瀬稚鷦鷯といい、第七を真稚皇女という。次に、和珥臣日爪の娘の糖君娘は、春日山田皇女を生んだ。冬十月丁未朔己酉雄計天皇を傍丘磐坏陵に葬った。七年の春正月丁亥朔己酉、小泊瀬稚鷦鷯尊を皇太子とした。十一年秋八月庚戌朔丁巳、天皇は崩じた。冬十月已酉朔癸丑、埴生坂本陵に葬った。天皇が生んだ子は、一男七女。】と訳した。

市邊王の陵を狹狹城山君の領地の蚊屋野に造り、市邊王の母は羽田矢代宿祢の娘の黒媛で羽田矢代宿祢は八代の王、すなわち、野洲王と考えられ、野洲王は()倭直、 倭直は雄略紀に「狹狹城山君韓帒」、顕宗紀に「近江國狹狹城山君祖倭帒宿禰」とあるように、羽田矢代宿祢は淡海朝を受け継ぐ王で、その孫が『日本書紀』では市邊王を稚日本根子、飯豐皇女を稚足姫と考え、『古事記』は市邊王が大倭根子・天皇と億計が記述したと思われる。

実際の大倭根子・天皇は磐城皇子と思われ、弘計の妃の難波小野王が「雄朝津間稚子宿禰天皇曾孫磐城王孫丘稚子王之女也」とあるように、磐城王は泊瀬朝倉宮天皇で皇太子が真鳥、真鳥が伊波禮甕栗宮で即位したが、皇太子の鮪が殺害され、妃の角刺宮の稚足姫飯豐皇女の弟、若しくは甥の億計が皇太子になったと考えられる。

『日本書紀』は磐城を朝倉宮天皇の子と記述するが『古事記』は記述せず突然に石木王とのみ記述し、『古事記』を書いた億計にとって、磐城は本来正統な皇位継承者だったので都合が悪い人物だったから記述しなかったのであり、『日本書紀』は難波小野王が皇位継承者で、星川皇子から奪取し、『古事記』の志毘の説話が星川皇子の説話と考えられる。

真鳥が崩じると、最大勢力の平群氏が皇位継承に応じず、「定策禁中」と臣下の平群氏が平群氏の丘稚子の娘の難波小野王の夫の弘計を後継にしたとすると、「定策禁中」の意味が理解できる。

甕栗宮天皇の姓が『日本書紀』が武廣國押稚日本根子で、雄略紀から蘇我氏が書いているので、蘇我氏の姓武廣國押と葛城氏の稚日本根子の合体と考えられ、『古事記』は葛城氏が書いているので、平群氏の後継者なので大倭根子白髪、億計の娘が手白髪で袁本杼の妃、その子が天国押波流岐広庭と蘇我氏に皇位が継承されたと記述した。

七年春正月丁亥朔己酉立・・・皇太子」は『日本書紀』では「七年正月丁未朔己酉」で正月丁亥朔なら天文学的には513年にあたり、倭王武は「天監元年鎮東大將軍倭王武進號征東大將軍」と502年まで生存し、王朝交代なら513年が正しく、葛子が磐井の長男の皇太子が死んだため交代したと考えられる。

2022年12月7日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』仁賢天皇類書1

   『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「(袁祁王兄)意祁王坐石上廣高宮治天下也天皇娶大長谷若建天皇之御子春日大郎女生御子高木郎女次財郎女次久須毘郎女次手白髪郎女次小長谷若鷦鷯(雀)命次真若王又娶丸迩臣日爪臣之女糠若子郎女生御子春日山田郎女此天皇之御子并七柱此之中小長谷若鷦鷯(雀)之命(坐)者治天下也」とあり訳は略す。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「億計天皇諱大脚更大為字嶋即雄計天皇同母兄也天皇幼而総睿才敏多識壯而仁惠謙恕溫滋及穴穗天皇崩避難於丹波國余社郡白髮天皇元年冬十一月播磨國司山部連小楯詣亦求迎白髮天皇尋遣小楯持節左右舍人至赤石奉迎二年夏四月遂億計天皇立為皇太子之事具在雄計天皇紀五年白髮天皇崩以天下讓雄計天皇為皇太子如故事見雄計天皇紀三年夏四月雄計天皇崩」、【億計天皇は、諱は大脚。またの名は大為。字は嶋郎。雄計天皇の同母兄だ。天皇は幼い時から聡明で、才に敏く多識であった。壮年になってめぐみ深く、へりくだって穏やかだった。穴穗天皇の崩で、丹波国の余社郡に難を避けた。白髮天皇の元年冬十一月に、播磨の国司の山部連小楯が京に行き、迎えることを求めた。白髮天皇は小楯を引き続き派遣し、璽を持たせて左右の舎人をつけ、赤石に行って迎えた。二年夏四月、億計天皇を皇太子とした。雄計天皇の紀に詳らかである。五年に白髮天皇が崩じたことにより、天下は雄計天皇に譲られた。皇太子なのは元のままであった。三年夏四月に、雄計天皇は崩じた。」と訳した。

『古事記』は実質前項で記事が終了したが、『舊事本紀』が『日本書紀』とほゞ同じなのに対し、『古事記』はかなり差異があり、1番の違いは日干支の記述で、前項で述べたように、日干支記述は公式な朝廷の記録で、日付は会話や説話で言及される、日常に使用されたのが、現代まで残されたと考えられる。

ところが、葛城氏は天皇になっているので、『古事記』も数値表記で日干支表記の編年体を書いて、公式な史書として、残せていないということは、日干支の公式な記録を持つのは、朝廷ではなく、『舊事本紀』には『日本書紀』にない公式な日干支の記録が記載されているので、物部氏が日干支の公式な記録を持っていたと思われる。

すなわち、朔が朔日の記録を持つのは蘇我・葛城朝廷ではなく物部朝廷で、それに対して、紀元前600年以上前から朔が晦日の日干支の公式記録を持ったのは、『古事記』「日子穂々手見命者坐高千穂宮伍佰捌拾歳」とあるように、高千穂宮が、朔が晦日の日干支の公式記録を持っていた可能性が高い。

また、朔が朔日の公式記録は『舊事本紀』が記述し、『日本書紀』で初めて朔が朔日の日干支を残した三国王天日方奇日方で、「大神君祖天日方奇日方」と大神君、その大神を宇摩志麻治が「承奉齋大神」と大神を、首都の宮で祀り、伊香色雄が石上宮で天皇に即位して、大神を石上で祀って、以降石上神宮に公式記録を置いたと思われる。

『日本書紀』はこの公式記録に、『四志』・『諸記』等の記録を当て嵌めて正史とし、更に様々な史書や記録を付け加え、『舊事本紀』は正史と異なる事績を記述できず、正史の『日本書紀』の舒明天皇までの記事を基に物部氏の最後の天皇の小墾田宮ではなく豊浦宮天皇が記述して『帝皇本紀』を締めくくり、『天孫本紀』も公式記録の役職を解かれた麻侶で終えたと思われる。

それに対して、葛城氏の記録『古事記』は正史として編纂できず、『日本書紀』「或本云億計天皇之宮有二所焉一宮於川村二宮於縮見高野其殿柱至今未朽」と川村宮か縮見高野宮で書き続け、残った記録は安萬侶には解読できず、阿禮が読み上げ、安萬侶が纏めたものと考えられる。

2022年12月5日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』顕宗天皇類書6

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「元年己丑春正月己巳朔大臣大連等奏言皇太子億計聖德明茂奉讓天下陛下正統當奉鳴緒為郊社主承續祖無窮之烈上當天心下厭民望而不(?肯 正+)踐祚遂令金銀蕃國群僚遠近莫不失望天命有屬皇太子推讓聖德弥盛福祚孔章存殞而勤謙恭慈順冝奉兄命承統大業制曰可乃召公卿百僚於近飛鳥八釣宮即天皇位百官位者皆忻々焉都折甕栗宮立皇后難波小野王雄朝姪稚子宿祢天皇曽孫磐城王孫公稚子王之女也物部小前宿祢為大連三年四月丙辰朔天皇崩于八釣宮天皇無胤」、【元年春正月己巳朔、大臣・大連らが 「億計皇太子は聖明の徳が盛んで、天下を譲った。陛下は正統です。日嗣の位を受けて、天下の主となり、皇祖の無窮の業を受け継いで、上は天の心に沿い、下は人民の心を満足させてください。ですから、践祚を承知しないと、金銀を産する隣りの諸国の群僚など、遠近すべてのものが望みを失う。皇太子の推し譲られることで、聖徳はいよいよ盛んとなり、幸いは大変明らかです。幼いときからへりくだり敬い、いつくしみ順う心でした。兄の命令を受けて、大業を受け継いでください」と言った。ついに「ゆるす」と詔勅した。そこで公卿百官を、近飛鳥八釣宮に集めて、天皇に即位した。仕える官僚はみな喜んだ。甕栗宮を都とした。難波小野女王を皇后に立てた。雄朝津間稚子宿祢天皇の曾孫・磐城王の孫、丘稚子王の娘である。物部小前宿根を大連とした。三年四月丙辰朔、天皇は八釣宮で崩じた。天皇に子は無い。】と訳した。

『舊事本紀』はほとんどが日付を日干支で記述するが、「仁徳八十三年歳次丁卯秋八月十五日天皇大別崩」、「履中六年壬申年正月三日崩」、「聖徳太子來年二月五日必死」と数値で記述した部分があり、『三國史記』も同様である。

同じ推古天皇まで記述した『古事記』は「和銅四年九月十八日」、「和銅五年正月廿八日」、「若帯日子天皇乙卯年三月十五日崩」、「息長帯日売命壬戌年六月十一日崩」、「品陀和気命甲午年九月九日崩」、「大雀命丁卯年八月十五日崩」、「伊耶本和気王壬申年正月三日崩」、「男浅津間若子宿祢王甲午年正月十五日崩」、「大長谷若建命 己巳年八月九日崩」、「袁本杼命丁未年四月九日崩」、「広国押建金日王乙卯年三月十三日崩」、「沼名倉太玉敷命甲辰年四月六日崩」、「橘豊日王 丁未年四月十五日崩」、「長谷部若雀天皇壬子年十一月十三日崩」、「豊御食炊屋比売戊子年三月十五日癸丑日崩」と全て日付で記述している。

『日本書紀』は朝鮮や中国と関係した部分が日付でそれ以外は日干支を使用し、中国史書は『史記』卷六秦始皇本紀第六記秦始皇本紀後(班固)「・・・孝明皇帝十七年十月十五日乙丑」と班固の注釈文、『後漢書』「顯宗孝明帝紀二永平二年冬十月・・・令月(二月)元日」等と元日、『宋書』本紀第八465年「明帝永光元年十一月二十九日夜也」、『舊唐書』「大曆十四年十二月・・・詔元日朝會不得奏祥瑞事」と記録ではなく会話の内容などで日付を使用している。

おそらく、中国史書や『三國史記』は正式記録は日干支であり、日蝕記事を多数記述することで朔を示して、日干支を特定できるようにしたと思われ、日本は朔の日干支を記述することで何時の記事かを特定出来るようにしたと思われる。

『古事記』は水歯別、穴穂、白髪大倭根子、袁祁、意祁、小長谷若雀、建小広国押楯、天国押波流岐広庭の死亡日付が記述されず、 水歯別、穴穂は大雀の王朝、白髪大倭根子は大長谷の王朝、 袁祁、意祁、小長谷若雀は袁本杼の王朝、建小広国押楯、天国押波流岐広庭は沼名倉太玉敷の王朝が並立して存在した可能性がある。

2022年12月2日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』顕宗天皇類書5

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「初天皇逢難逃時求奪其御粮猪甘老人是得求喚上而斬於飛鳥河之河原皆断其族之膝筋以是至()今其子孫上於倭之日必自跛也故能見志米岐其老所在(志米岐三字以音)故其地謂志米須也天皇深怨殺其父王之大長谷天皇欲報其靈故欲毀其大長谷天皇之御陵而遣人之時其伊呂兄意祁命奏言破壊是御陵不可遣他人専僕自行如天皇之御心破壊以参出尓天皇詔然随命宜幸行是以意祁命自下幸()少掘其御陵之傍還上復奏言既掘壊也尓天皇異其早還上而詔如何破壊荅白少掘其陵之傍土天皇詔之欲報父王之仇必悉破壊其陵何少掘乎荅曰所以爲然者父王之怨欲報其靈是誠理也然其大長谷天皇者雖爲父之怨還爲我之從父亦治天下之天皇是今單取父仇之志悉破治天下之天皇陵者後人必誹謗唯父王之仇不可非報故少掘其陵邊既以是恥足示後世如此奏者天皇荅詔之是亦大理如命可也故天皇崩即意()祁命知天津日継(續也)天皇御年参拾捌歳治天下八歳御陵在片()崗之石坏崗上也」、【初め天皇は、災難に逢って逃げた時、その食料を奪った猪甘の老人を探した。見つけて、呼び寄せて、飛鳥河の河原で斬って、その族の皆の膝の筋を切った。それで今に至っても、その子孫は、倭に上る日は、必ず自然に跛行した。それで、それを見せしめにしたので、そこを志米須という。天皇は、とても父王を殺した大長谷天皇を怨み、その霊に報いを与えようとして、大長谷天皇の陵を壊そうと思って、人を派遣した時、兄意祁が、「この陵を壊すのに、人を派遣するべきでない。私自ら行って、天皇の思うままに、破壊しに行こう。」と言った。そこで天皇が「それならあなたが言うように行きなさい。」と言った。それで意祁は、自ら下って、少しだけその陵の傍を掘り、帰って復奏して「もう掘って壊した。」と言った。そこで天皇は、早い帰還を怪しんで、「どう破壊したか。」と問うと、「少しだけその陵の傍の土を掘った。」と答えた。天皇は「父王の仇に報いるのなら、残らずその陵を破壊すべきを、どうして少しだけ掘った。」と聞くと、「こうしたのは、父王の怨む霊に報いようと思うのは、理に適っている。しかし、大長谷天皇は、父の敵ではあるが、もとはと言えば從父で、亦、天下を治めた天皇だ。今ただ父の仇との思いで、天下を治めた天皇の陵をのこらず壊せば、後代の人はきっとそしるだろう。思いのままに父王の仇と報いてはいけない。それで、少しだけ陵の邊を掘った。もうこんな恥を見せつければ、後代に見せしめるのに足るだろう。」と答えた。この様に奏上すると、天皇は「それも理屈だ。あなたの振舞いでよかった。」と答えた。それで、天皇が崩じて、意祁が後継天皇となった。天皇の年、三十八歳。天下を治めること八年だった。陵は片岡の石坏の岡の上に在る。】と訳した。

大長谷の陵は河内の多治比で袁祁の陵は香芝市の片岡石坏で意祁は『古事記』に記述されず、『日本書紀』では羽曳野市の埴生坂本で、『古事記』に意祁が記述されないのは、本来、親子は同一地域に埋葬され、最後の王の陵をこれまで記述してきていて、それを踏襲して意祁の陵を記述せず若雀のみ記述したと思われ、『日本書紀』の埴生坂本陵は河内にあるので平群氏の陵の可能性が高い。

列城宮は巨勢氏の王朝の可能性が高く、531年に「大歳辛亥三月・・・日本天皇及太子皇子倶崩薨」と王朝の滅亡が有り、陵を創れなかった可能性が高く、袁祁・意祁の王朝の宗廟は香芝市で、意祁は『日本書紀』の億計在位11年から弘計の3年在位をさし引いた506年まで8年間だった可能性が高く、『古事記』の年令38歳は、これまでも、大長谷が年「壹佰貳拾肆歳」、袁祁在位年「捌歳」など歳を宮を建てから滅びるまでの年月を記述していると思われる。

『日本書紀』の「天皇崩于磐余玉穗宮」とあるように、玉穗宮天皇は巨勢男人が見つけ出した倭彦と考えられ、倭彦は伊玖米入日子伊沙知の兄弟で武内宿禰の子と考えられ、羽田矢代宿祢にピタリと当てはまり、『舊事本紀』に「息長地名在近江國坂田郡」と屋主忍男武雄心・息長宿禰(八坂入彦)、甥の羽田矢代が彦根近辺、活目帝皇子羽田矢代の兄弟大入來の孫で豊木入彦の子の彦狭嶋(倭武)、その子が仲足彦で『日本書紀』「足仲彦天皇五世孫倭彦王」と合致する。

若櫻宮天皇の木梨輕(天皇)の母忍坂大中姫の実家が輕と呼ばれる地で、後見人は大前大臣で淡海朝の後継者、その輕の王だったのが、『紀氏家牒』「巨勢川辺宿祢亦曰軽部宿祢家軽里星河辺」と巨勢氏と思われ、「川辺宿祢男巨勢川上宿祢男巨勢男人宿祢」と軽部宿祢の孫が男人で男人は淡海朝の人物である。

袁本杼は淡海朝の応神天皇の稚野毛二派で子が忍坂大中姫の兄弟意富富杼王で意富富杼は大男人とも書け、木梨輕と従弟の乎非(軽部宿祢)、子の彦主人(巨勢川上宿祢)、袁本杼が男人と考えられる。