2022年6月15日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』垂仁天皇類書10

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は『天皇本紀上』は「二十三年秋八月丙申朔已亥大新河命為大臣十市根命為五大夫一並宇摩志麻治今裔孫也同月丙申朔丁巳大臣大新河命賜物部連公姓即改大臣号大連九月丙寅朔丁卯詔群卿曰譽津別王是生年三十鬢鬚八掬猶泣如兒常不言何由矣因有司而議矣冬十月乙丑朔壬申天皇立於大殿前舉津別王子侍之時有鵠鳴度大虛王子仰觀鵠曰是何物耶天皇則知王子見鵠得言而喜之詔左右曰護能捕此鳥獻之於是鳥取造祖天湯河板舉奏曰臣必捕而獻即天皇勑湯河板舉曰汝獻是鳥必敦賞矣湯河板舉遠望鵠飛之方進尋詣出雲而捕獲或日得于但馬國矣十一月甲午朔己未湯河板舉獻鵠也舉津別命弄是鵠遂傳言語是以敦賞湯河板舉則賜姓而号鳥取造亦定鳥取部鳥養部譽津部」、【二十三年秋八月丙申が朔の已亥、大新河を大臣とし、十市根を五大夫の一人とし、ともに宇摩志麻治の子孫である。同月丁巳に、大臣の大新河に物部連の姓を賜った。そうして、大臣を改めて大連とした。九月丙寅が朔の丁卯、天皇は群卿に「誉津別王は三十歳になり、長い髭が伸びるまでになっても、なお子供のように泣いてばかりいる。そして声を出して物を言うことができないのは何故か。皆で考えよ」と詔勅した。冬十月乙丑が朔の壬申、天皇は大殿の前に立ち、誉津別王子はそのそばにつき従っていた。そのとき、白鳥が大空を飛んでいった。王子は空を仰ぎ白鳥を見て言った。「あれは何物か」と、天皇は、王子が白鳥を見て、口をきいたのを知り喜んだ。側近の者たちに「誰か、この鳥を捕らえて献ぜよ」と命じ、そこで、鳥取造の祖の天湯河板挙が言った。「わたくしが必ず捕らえてきましょう」と、天皇は湯河板挙に「お前がこの鳥を捕らえたら、必ず十分に褒美をやろう」と言った。湯河板挙は、遠く白鳥が飛んでいった方向を追って、出雲まで行き、ついに捕らえた。ある人は「但馬国で捕らえた」ともいう。十一月甲午が朔の己未、湯河板挙は白鳥を献じた。誉津別はこの白鳥をもてあそび、ついに物が言えるようになった。これによって、あつく湯河板挙を褒賞し、姓を授けて、鳥取造と名づけた。また、鳥取部、鳥養部、誉津部を定めた。】と訳した。

五大夫は「阿倍臣遠祖武渟川別和珥臣遠祖彦國葺中臣連遠祖大鹿嶋物部連遠祖十千根大伴連遠祖武日」だが、渟川別は天皇大彦の皇太子、國葺は和珥臣の祖の國意祁都が襲名した和珥臣の祖の建諸隅の中の一人と考えられ、4道侵攻後の勝利宣言の主要メンバーで、建諸隅は大臣で、大新河も大臣、かつ、子が物部武諸遇で、曽孫が和迩臣の祖の「日觸使主之女宮主宅媛」の物部山無媛なので、建諸隅・武諸遇は和迩氏を受け継ぎ野洲王朝を打ち立てたと言う事だ。

大新河・十千根の母が山代縣主祖で、山代は木国造の祖の珍彦の娘婿の比古布都押之信が山代内臣の祖を生み、建諸隅の母も紀伊國造の娘と思われる節名草姫、建諸隅の子の倭得玉彦は2代目大彦と伊香色謎の娘と思われる大伊賀姫・御眞津比賣を妃にし、伊香色謎の兄の伊香色雄は山代縣主祖の娘を妃にして、大新河・十千根の父である。

すなわち、五大夫は大彦天皇のもとに、皇太子と、皇太子と同等の大臣と仲国王と日本海の海の道と瀬戸内の海の道の王達で、大国・倭国・仲国・日本海・瀬戸内の朝廷が成立したことを示したようだ。

『古事記』には旦波大縣主すなわち初代大彦の娘の竹野媛と欝色雄の子の天皇の2代目の大彦天皇の伊香色雄の子の「彦小將箐命品治部君等祖彦湯産隅命」と品治部君の祖の比古由牟須美、その子が大筒木垂根、すなわち、武渟川別・比古由牟須美が春日朝の皇位を継承し、誉津別は武渟川別・比古由牟須美と沙本毘賣の子の大筒木垂根と推定できる。

ここで、鬱色謎と欝色雄、 鬱色謎 の子の大彦・由碁理と欝色雄の娘の伊香色謎、竹野比賣と2代目大彦の欝色雄の子の伊香色雄と大綜杵の子の伊香色謎、比古由牟須美と大綜杵の子の伊香色雄が開化天皇と思われるが、坐王はどの開化天皇の子かと言えば、大倭根子の姫の民磯姫の子の阿田賀田須・大諸見足尼の娘の諸見巳姫を妃にした建諸隅が開化天皇と考えられる。

大彦と共に坐王は丹波を攻略したにもかかわらず、五大夫に含まれず、これは、倭得玉彦が実権を握ったため、物部武諸遇・國葺が五大夫になったと考えられ、女系の皇位継承では、家内工業のように、夫も兄弟とその子や孫も一心同体の天皇や王と考えられる。

2022年6月13日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』垂仁天皇類書9

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「又随其后之白喚上美知能宇斯王之女等比婆須比賣命次弟比賣命次歌凝比賣命次圓()野比賣命并四柱然留比婆須比賣命弟比賣命二柱而其弟王二柱者因甚凶醜返送本主於是圓野比賣慚言同兄弟之中以姿醜被還之事聞於隣里是甚慚而到山代國之相樂時取懸樹枝而欲死故号其地謂懸木今云相樂又到弟國之時遂堕峻淵而死故号其地謂堕國今云弟國也又天皇以三宅連等之祖名多遅摩毛理遣常世國令求登岐士玖能迦玖能木實故多遅摩毛理遂到其國採其木實以縵八矛將來之間天皇既崩尓多遅摩毛理分縵矛四竿()獻于太后以縵四縵矛四竿()獻置天皇之御陵戸而擎其木實叫哭以白常世國之登岐士玖能迦玖能木實持参上侍遂叫哭死也其登岐士玖能迦玖能木實者是今橘者也此天皇御年壱佰伍拾参歳御陵在菅原之御立野中也又其太后比婆須比賣命之時定石祝作又定土師部此后者葬狭木之寺間陵也」、【又、后の言うまゝに、美知能宇斯王の娘達、比婆須比賣、次に弟比賣、次に歌凝比賣、次に圓野比賣の四柱を召した。しかし比婆須比賣、弟比賣の二柱を留めて、その弟王二柱は、とても醜くかったので、本国に返し送った。それで圓野比賣は恥じて、「同じ兄弟の中で、姿が醜いので還された事は、近辺に知られるので、甚だ恥となる。」と言って、山代國の相樂に着いた時、樹の枝で首を吊った。それで、そこを懸木といったのを今は相樂という。また弟國に着いた時、とうとう急峻な淵に墮ちて死んだ。それで、そこを墮國と言い、今は弟國と言う。また、天皇は、三宅連の祖の、名は多遲摩毛理を常世の國に派遣して、いつでも香りを放つ実を求めさせた。それで、多遲摩毛理は、遂にその國に到って、その木實を採って縵に八つ、矛を八矛を持ってくる間に、天皇は崩じた。それで多遲摩毛理は、縵を四つ、矛を四矛分けて、大后に献上し、縵を四縵、矛を四矛天皇の陵の戸に献じて、その木實を捧げて、叫んで「常世の國のいつでも香りを放つ実を持って参上した。」と言って、とうとう叫び哭いて死んだ。そのいつでも香りを放つ実は、今の橘だ。この天皇の年は、153歳だった。陵は菅原の御立野の中に在り、大后の比婆須比賣の時、石祝作を定めて、また、土師部を定めた。この后は、狹木の寺間の陵に葬った。】と訳した。

私は常世の国が済州島と主張しているが、それは多遲摩毛理が持って来た橘が日本固有種と異なる種で、そのような種は高麗橘のみが日本の萩に自生しているので結論付けた。

もし、他の種が現れたら再検証すれば良く、また、高麗橘であれば、少なくとも、この説話の国は萩から但馬を領有した、畿内の暦を使う王の説話であることが証明される。

私の古代史研究の基本が、「中国文献は天文学的朔が正確なので正しい、『日本書紀』は中国文献の挿入年代が正しい、『日本書紀』は天文学的朔が正しいものと間違いのものがある、間違いは中国文献の朔の日が晦日から朔日に変化した影響によると考えられ、間違いの日干支は燕や漢の配下であった九州の黄海側にいた倭の記録が『朔が晦』だったからと推論でき、『日本書紀』は複数の王権の資料を当て嵌めたとき、当て嵌める場所を間違えた。中国の史書は直接の記録。日本の史書は寄せ集めの記録。」と言うことが解り、研究できた。

そして、もう一つが出土物で、この高麗橘を済州島で船に乗って直接学んで栽培したように、稲も河姆渡から熊本県本渡市の大矢遺跡に約5000~4000年前導入され、日本からは赤漆を船で輸出して稲作を学んで帰国したのであり、沖縄・奄美群島・朝鮮に稲の古い遺跡は見つかっていない。

河姆渡遺跡の住民が船に乗って伝播したとは考えにくく、稲の原産地の『西山經』、『南山經』・『海内經』の稲は「西南黑水之閒有都廣之野后稷葬焉」とあり、后稷は『大荒西經』で「帝俊生后稷」のように生まれ、中国の西の国から遷って来た人々が営んだ河姆渡遺跡の記述と考えられ、さらに、日本海東部の『海外東經』に稲が記述される。

稲がある『海外東經』の「黑齒國」は『大荒東經』にも記述され、日本海から太平洋岸まで勢力をもち、河姆渡遺跡と「黑齒國」の中間に籾殻跡が残る縄文土器が発掘される大矢遺跡があり、「黑齒國」は「君子國」の東北方にある。

帝堯が羲和に命じて暦を作った時、羲仲が分命されたが、羲仲は『尚書』「羲仲宅嵎夷曰暘谷」と暘谷に住む、島に住む夷人で「黑齒國」の北には湯谷があり、羲和の国は『大荒東經』・『大荒南經』と太平洋にあり、紀伊半島か房総半島の地域だ。

2022年6月10日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』垂仁天皇類書8

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「即曙立王兎上王二王副其御子遣時自那良戸遇跛盲自大坂戸亦遇路()盲唯木戸是掖月之吉戸卜而出行之時毎到坐地定品遅部也故到於出雲拝訖大神還上之時肥河之中作黒巣橋仕奉仮宮而坐尓出雲國造之祖名岐比佐都美餝()青葉山而立其河下將獻大御食之時其御子詔言是於河下如青葉山者見山非山若坐出雲之石𥑎()之曽宮葦原色許男大神以伊都玖之祝大廷乎問賜也尓所遣御伴王等聞観()見喜而御子者坐檳榔之長穂宮而貢上驛使尓其御子一宿婚肥長比賣故竊伺其美人者蛇也即見畏遁逃尓其肥長比賣患光海原自舩追來故益見畏以自山多和引越御舩逃上行()於是覆奏言因拝大神大御子物()詔故参上來故天皇觀喜即返兎上王命()造神宮於是天皇因其御子定鳥取部鳥耳()部品遅部大湯坐若湯坐」、【それで、曙立王、菟上王の二王をその子に従わせて派遣した時に、那良戸から片足を引きずり、大坂戸からもまた片足を引きずって歩いた。唯、木戸は掖月の吉の戸と卜が出て着いた土地毎に品遲部を定めた。それで、出雲について、大神を礼拝し終わって還り上る時に、肥河の中に黒い巣橋を作り、仮宮で仕えていた。そこに出雲國造の祖の岐比佐都美は、青葉の山を飾って、その河下に立てて、大御食を献上する時に、その御子が「この河下に、青葉の山のようなのは、山に見えて山ではない。もし出雲の石の曾宮にいる葦原色許男大神が居ついて祀った大国の朝廷なのか。」と問うた。それで従って仕えていた王達は、聞いて喜んで、御子を檳榔の長穗宮に逗留して、驛使を貢上した。それでその御子は、一晩、肥長比賣と契った。それで、密かにその美人を見ると、蛇だった。それを見て畏れて逃げた。それでその肥長比賣は悩んで、海原を照らして船で追って来た。それで、益々それを見て畏れ、山のくぼみから船を引き越して逃げ上って行った。それで「大神を拜んだので、御子はしゃべった。それで、参上してきた。」と復命した。それで、天皇は歓喜して、菟上王を返して、神の宮を造らせた。そこで天皇は、御子に因んで、鳥取部、鳥甘部、品遲部、大湯坐、若湯坐を定めた。】と訳した。

この説話は『古事記』の神話の「神亦爲宇都志國玉神・・・於宇迦能山之山本於底津石根宮柱布刀斯理」を示し、出雲の地が宇都志國、すなわち、珍彦たちの出身地で、かつて三国・大国・筑紫・八国を支配した大神朝廷の帝の璽を盗られて衰退した宮殿跡を鎮魂し、宮を造らせ、形式上も三国朝廷が終焉したようだ。

出雲臣・土師連の祖が天穂日で野見宿禰は土師臣で土師連の祖、すなわち、この時点で出雲臣と土師連が分岐して、この宮を祀る出雲臣は権威で実態は中臣連の遠祖の中臣大鹿嶋が出雲を含む仲国の王になったことが解る。

それで、品牟都和氣は失脚して、朝廷も2つに分裂し、道主の朝廷は大和・丹波・播磨・吉備・仲国を支配し、淡海朝廷は三国・若狭・但馬・日本海・朝鮮半島を支配し、分裂前の朝廷に「阿倍臣遠祖武渟川別和珥臣遠祖彦國葺中臣連遠祖大鹿嶋物部連遠祖十千根大伴連遠祖武日」が中心人物で、武渟川別の子の品牟都和氣は品治部君だが、分裂した天皇の子の曙立王は伊勢の品遲部君で、この伊勢は野洲の伊勢遺跡の伊勢である。

品牟都和氣に代わって天皇になる弟彦に対して、大海部直の祖で八坂入彦の母は大海宿禰の娘の大海媛、すなわち、大国と淡海の女王で、弟彦は淡海國谷上刀婢の子、谷上刀婢は近淡海の御上の天之御影神の娘の息長水依比賣の可能性が高く、襲名した2代目弟彦の丹波道主と1代目弟彦の子の淡夜別の水之穗眞若なら理解できる。


2022年6月8日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』垂仁天皇類書7

  『日本書紀』は続けて概略、「廿三年秋九月丙寅朔丁卯と十月乙丑朔壬申に譽津別の説話、十一月甲午朔乙未に部を作った説話」に対して、『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「故率遊其御子之状者在於尾張之相津二俣椙()作二俣小舟而持上來以浮倭之市師池輕池率遊其御子然是御子八拳鬚至于心前真事登波受故今聞高往鵠之音始爲阿藝登比尓遣山邊之大鶙令取其鳥故是人追尋其鵠自木國到針間國亦追越稲羽國即到旦波國多遅麻國追廻東方到近淡海國乃越三野國自尾張國傳以追科野國遂追到高馬()國而於和那美之水門張網取其鳥而持上獻故号其水門謂和那美之水門也亦見其鳥者(於思)物言()()思尓勿言事於是天皇患賜而御寐之時覺于御夢曰修理我宮如天皇之御舎者御子必真事登波牟如此覺時布計()摩迩()占相而未()何神之心尓崇出雲大神之御心故其御子令拝其大神宮將遣之時令副誰人者吉尓曙立王食卜故科曙立王令宇氣比白因拝此大神誠有験者住是鷺巣池之樹鷺乎宇氣比給()如此詔之時宇氣比其鷺堕地死又詔之宇氣比活尓者(宇氣比)更活又在甜白檮之前葉広熊白檮命()宇氣比枯忽()令宇氣比生尓名賜曙立王謂倭者師木登美豊朝倉曙立王」、【それで、その子を連れて遊ぶ様子は、尾張の相津に在る二俣の榲を二俣の小舟に作って、持って上って、倭の市師池、輕池に浮かべて、その子と一緒に遊んだ。しかし、この子は、八国風の一拳の鬚が心臓の前に届くまでになっても全く口を利かなかった。それで、今、空高く飛ぶ鵠の声を聞いて、始めて「ああ」と言った。それで山邊の大鶙を派遣して、その鳥を取らせた。それで、この人はその鵠を追い探して、木國から針間國に到って、さらに追って稻羽國を越え、それで旦波國、多遲麻國に到って、東の方に追い回って、近淡海國に到って、それで三野國を越え、尾張國からつたって科野國に追い、とうとう高志國に追ひ到って、和那美の水門に網を張って、その鳥を取って上って献上した。それで、その水門を和那美の水門と言った。またその鳥を見ると、何か言うと思ったが、思ったようには言葉を発しなかった。それで、天皇は悲しんで、寝た時、夢見に「我が宮を天皇の御殿のように修理すれば、子は必ず言葉を発する。」と言った。この様にして目覚めた時、太占で占って、どの神の心だ求めると、その祟りは出雲の大神の心とでた。それで、その子をその大神の宮に礼拝するよう派遣した時、誰が一緒に行けばよいかを占った。すると、曙立王が卜うと良いと出た。それで、曙立王に言って、「この大神を拜むにあたって、本当に験が有るのなら、この鷺巣池の樹に住む鷺よ、神の誓いで落ちろ。」と誓約した。この様に言った時に、誓約したその鷺は、地面に墮ちて死んだ。また「誓約で活きかえれ。」と言うと、生き返った。また、甜白梼の前に在る葉廣熊白梼を、誓約で枯らし、亦、誓約で生き返らせた。そこで、名を曙立王に与えて、倭者師木登美豐朝倉曙立王と言った。】と訳した。

この説話は、『古事記』に「東方所遣建沼河別與其父大毗古共往遇于相津故其地謂相津也是以各和平所遣之國政而覆奏尓天下太平人民富榮於」のように、この、4道侵攻で尾張の相津に到着して、天下を平定したと述べた後の説話と考えられる。

この説話は、大彦・建沼河別・品牟都和氣の三代がこの相津での戦利品の船で遊んだ説話とと考えられ、後に、退位した建沼河別は垂仁朝(実際は崇神朝?)の臣下の5大夫として臨席した時、天皇が『日本書紀』「是以人民富足天下太平也今當朕世祭祀神祇豈得有怠乎」の説話に繋がったと考えられる。

曙立王の祖母は山代の荏名津比賣、亦の名は苅幡戸辨で、苅幡戸辨は垂仁天皇の妃の山背大國の不遲の娘で落別・祖別の子が曙立王と考えられ、次項で出雲に行く途中で品遅部を定めているが、順序で言うとまだ品遅部は出来ておらず、食い違っていて、建沼河別の朝廷滅亡後の品遅部が定められた後の説話なら話が通り、奇日方や鞴五十鈴の三国王朝が崩壊し、その権威を出雲氏が受け継いだのがこの説話で、その後で、曙立王の父は天皇になり、曙立王も師木登美豐朝倉の天皇となったと言っている。

すなわち、苅幡戸辨は荒河刀辨の娘の遠津年魚目目微比賣の可能性があり、落別・祖別は豐木入日子の可能性があり、豐木入日子は美知能宇斯王の子の朝廷別・弟彦に対する水穗眞若王・豐木入日子が落別・祖別は名前としても良く合致する。

2022年6月6日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』垂仁天皇類書6

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「如此逗留之間其所妊之御子既産故出其御子置稲城外令白天皇若此御子()天皇之御子所思齊()者可治賜於是天皇詔雖怨其兄猶不得忍愛其后故即有得后之心是以選聚軍士之中力士輕捷而宣者取其御子之時巧()掠取其母王或髪或手當随取獲而掬以控出尓其后有()豫知其情悉剃其髪以髪覆其頭亦腐玉緒三重纏手且以酒腐御衣如全衣服如此設備而抱其御子刺出城外尓其力士等取其御子即握其御祖尓握其()髪者御髪自落握其御手者玉緒且絶握其御衣者御衣便破是以取獲其御子不得其御祖故其軍士等還來奏言御髪自落御衣易破亦所纏御手之玉緒便絶故不獲御祖取得御子尓天皇悔恨而惡作玉人等皆奪取()地故諺曰不得地玉作也()天皇命詔其后言凡子名必母名何稱是子之御名尓荅白今當火焼稲城之時而火中所生故其御名宜稱本牟智和氣御子又命詔何爲日足奉荅白取御母定大湯坐若湯坐宜日足奉故随其后白以日足奉也又問其后曰汝所堅之美豆能小佩者誰解荅白旦波比古多多須美智宇斯王之()名兄比賣弟比賣茲二女王浄公民故宜使也然遂殺其沙本比古王其伊呂妹亦從也」、【この様に逗留しているうちに、妊娠した子は既に生み育ったので、子を稻城の外に出して、天皇に「もし子を、天皇の子と思うなら手元に置いてください。」と言った。それで天皇は「兄を怨んでも、后を愛しんで忍びない。」と言った。それで、后を得たいと思って兵士の中の力持ちで俊敏な者を選り集めて、「子を取る時、その母子共に奪い取れ。髮でも手でも、掴め取れるまゝに、掴んで引き出せ。」と言った。それで后は、もとからその気持ちを知っていて、残らず髮を剃り、その髮で頭を覆い、また玉の緒を腐食させて、三重を手に巻き、また酒で衣を腐食させ、普通の衣の様に着た。この様に備えて、子を抱いて、城の外に差し出した。それで、力持ち達は、子を受け取り、親を握った。しかし、髮を握れば、髮がポロッと落ち、手を握れば、玉の緒がチギレ、衣を握れば、衣は破れた。それで子を受け取れたが、親を得られなかった。それで、その兵士達は、帰って来て「髮がポロッと落ち、衣は簡単に破れ、また、手に巻いた玉の緒もちぎれた。それで、親を獲れず、子は受け取れた。」と言った。そこで天皇は悔み恨んで、玉を作った人達を憎み、その地を皆奪った。それで、諺に「玉作の土地を得た。」と言う。また天皇は、后に、「普通子の名は必ず母が名付けるが、子の名を付けろ。」と命じた。それに「今、火で稻城を焼いている時で、火の中で生れた。それで、名は本牟智和氣としましょう。」と答えた。また 「どうやって育てれば良いのか。」というと、「母代わりの養母を決めて育ててください。」と答えた。それで、后の言うままに育てた。また、后に「お前が堅めた美豆能小佩は誰が解くのか。」と問いかけると、「旦波比古多多須美智宇斯王の娘の、名は兄比賣、弟比賣、この二柱の女王が、穢れがない者だ。それを使ってください。」と答えた。それで遂に沙本比古王を殺したら、その妹も従った。】と訳した。

この戦いの勝者は、息長水依比賣の子の多多須美智宇斯王で政権を奪ったことを示し、活躍した人物は、第一が「上毛野君遠祖八綱田令撃狹穗彦」と上毛野君の遠祖八綱田で、上毛野君の祖は「豐城命令治東國是上毛野君・・・始祖」と豊城入彦で、豊城入彦の母が「紀伊國荒河戸畔女遠津年魚眼媛生豊城入彦」と遠津年魚眼媛、紀伊國荒河戸畔の孫が上毛野君の始祖、すなわち、遠津年魚眼媛が上毛野君の祖、紀伊國荒河戸畔が上毛野君の遠祖、紀伊國荒河戸畔が八綱田である。

そして、この戦いに付随して、當摩蹶速と野見宿禰が戦い、野見宿禰が勝って當摩蹶速の地を奪ったが、この當摩は但馬國造の祖の建田背・當麻坂上君の祖の彦坐王・多遲摩國造の祖の大多牟坂王と息長氏が領有し、淡海朝の勝利の説話で、その後、野見宿禰は土部臣、連ではなく臣を与えられ、物部連などの大和の朝廷では無い姓で、淡海朝崩壊後に連を賜姓されたようだ。

そして、恐らく「紀伊國・・・戸畔」は 紀伊国王を表すと思われ、「建斗禾命天戸目命之子此命紀伊國造智名曽妹中名草姫爲妻」、「建田背命神服連海部直丹波國造但馬國造等祖次建宇那比命此命城嶋連祖節名草姫生」と丹波国王の祖の建田背の弟建宇那比は父と同じく2代に渡って紀伊國造の娘を妃にし、建田背と建宇那比の子の建諸隅共に八綱田の候補で、建諸隅が有力である。

2022年6月3日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』垂仁天皇類書5

  『日本書紀』は続けて概略「四年秋九月丙戌が朔の戊申に、皇后の兄狹穗彦王が謀反を謀り、五年冬十月己卯が朔に、皇后が兄王の反状を奏し、上毛野君の遠祖八綱田に狹穗彦を撃たせ、稻城に狹穗彦が籠り、皇后も稻城に入って。後宮の事を丹波國道主王の娘、あるいは、彦湯産隅王の子に任せるよう言い残して死んだ。七年秋七月己巳が朔の乙亥に、當麻邑の當摩蹶速と出雲國の野見宿禰が相撲で戦い野見宿禰がかったので、當摩蹶速の地に野見宿禰に与え」、「十五年春二月乙卯朔甲子」・「八月壬午朔」に皇后の説話」がある。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は「此天皇以沙本毗賣爲后之時沙本毗賣命之兄沙本毗古王問其伊呂妹曰敦愛夫與兄歟荅曰愛兄尓沙本毗古王謀曰汝寔思愛我者將吾與汝治天下而即作八塩折之紉(槽)小刀授其妹曰以此小刀刺殺天皇之寝故天皇不知其之謀而枕其后之御膝爲御寝坐也尓其后以紉(紐)小刀爲刺其天皇之御頸三度擧而尓忍哀情不能刺頸而泣涙落溢於御面乃天皇驚起問其后曰吾見異夢從沙本方暴雨零來急洽(沾)吾面又錦色小蛇纏繞我頸如此之夢是有何表也尓其后以爲不應爭即白天皇言妾兄沙本毗古王問妾曰敦愛夫與兄是不勝面問故妾荅曰愛兄歟尓誂妾曰吾與汝共治天下故當殺天皇云而作八塩折之紉(紐)小刀授妾是以欲刺御頸雖三度擧哀情忽起不得刺頸而泣涙落洽(沾)於御面必有是表焉尓天皇詔之吾殆見欺乎乃興軍撃沙本毗古王之時其王作(往)稲城以待戰此時沙本毗賣命不得忍其兄自後門逃出而納其之稲城此時其后妊身於是天皇不忍其后懐妊及愛重至于三年故廻其軍不急攻迫」、【この天皇は、沙本毘賣を后とした時、沙本毘賣の兄の沙本毘古が、その妹に、「夫と兄とどちらが愛しい。」と聞いたら、「兄が愛しい。」と答えた。そこで沙本毘古は、「お前が本当に私が愛しいなら、私とお前とで天下を治めよう。」と言って、それで八鹽折の紐小刀を作って、妹に授けて、「此の小刀で、天皇が寢たところを刺し殺せ。」と言った。それで、天皇は、その謀略を知らず、后の膝を枕に、寢ていた。それで后は紐小刀で、天皇の頚を刺そうとして、三度、振り上げたが、哀しい気持で忍びず、頚を刺すことができず、泣く涙が顔に落ち溢れた。それで天皇が驚いて起き、后に「私は変な夢を見た。沙本の方から激しい雨が降って来て、急に私の顔にかかった。また錦色の小さな蛇が、私の頚に纏わりついた。こんな夢は、何の験だろうか。」と言った。それで后は、争えないと思って、天皇に、「私の兄沙本毘古が、私に、『夫と兄とどちらが愛しい。』と言った。こう面と向かって聞かれると勝てないと思って、私は、『兄が愛しい。』と答えた。それで私に 私に頼んで、『私とお前で天下を治めよう。だから、天皇を殺せ。』と言って、八鹽折の紐小刀を作って私に授けた。これで頚を刺そうとして、三度振り上げたが、哀しき思いが起って、頚を刺せず、泣く涙が顔に落ち濡らした。きっとこのためでしょう。」と答えた。それで天皇は、「私は危うく騙されるところだった。」と言って、挙兵して沙本毘古を撃った時、その王は、稻城を作って待ちうけて戦った。この時、沙本毘賣は、我慢できずに兄の元に、裏門から逃げ出て、稻城に入った。この時、后は妊身していた。それで天皇は、后が懐妊しているのを愛しみ三年間我慢してから、軍を回して、急襲した。】と訳した。

沙本毗古は妹を天皇の妃にして、皇位を奪取しようと目論み、この時の天皇は子の名前が本牟智和氣すなわち品治部君と考えられ、品治部君の祖は「次彦小將箐命品治部君等祖彦湯産隅命」と大縣主すなわち大彦の孫の彦湯産隅で母が竹野姫、竹野姫は落国伝説を記述した姫だが『古事記』は弟国に着いたとき弟姫が堕ちて死んだから「墮國」と名付けたが、弟国で生まれたから弟姫で、意味が通らず、竹野姫伝説はそれ以前、彦湯産隅の母の伝説と錯覚しているようだ。

論理的に言うと、大彦の子が品治部君の祖の建沼河別・彦湯産隅でその子が品治部君・本牟智和氣となり、大毘古が高志道を撃ち、子の建沼河別が東方十二道に派遣された崇神天皇の説話の続きで、丹波道主の娘・日女が建沼河別の妃になることで、丹波多多須道主・襲名した建諸隅・倭得玉の子の弟彦が皇位を奪ったことを示している。

この後で朝廷が分裂し、建沼河別の兄弟と思われる御眞津比賣・大伊賀姫の夫の倭得玉彦・坐王の子の丹波道主と苅幡戸辨・摩須郎女の子の祖別・朝廷別・落別が分裂し、建沼河別の子が大和の品治部君と退位し、落別の子の一人の曙立王が淡海の伊勢の品治部君と二人の品治部君が記述された。

2022年6月1日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』垂仁天皇類書4

  前回に続いて、燕の影響下でなかった朝鮮は燕の衛氏が侵略し、衛氏が滅びると、北部朝鮮は『漢書・ 地理志 第八』に「燕・・・上谷至遼東・・・北隙烏丸夫餘東賈真番之利玄菟樂浪武帝時置皆朝鮮濊貉句驪蠻夷殷道衰箕子去之朝鮮」と燕の支配地の朝鮮を記述し、玄菟、樂浪、濊、貉、句驪の地が箕子朝鮮の領域だったと記述、燕の支配下として黄海・東シナ海に倭人もいた。『漢書 西南夷兩粵朝鮮傳』にも燕の満が朝鮮王となり、「滿得以兵威・・・眞番臨屯皆來服屬方數千里」と大きく見積もって約250Km四方、現代の北朝鮮の領域を得たと記述され、「遂定朝鮮爲眞番臨屯樂浪玄菟四郡」と前漢朝によって滅ぼされて郡に統治された。

そして、『後漢書』には「朝鮮王准為衛滿所破・・・自立為韓王准後滅絶馬韓人復自立為辰王建武二十年韓人廉斯人苏馬諟等詣樂浪貢獻光武封苏馬諟為漢廉斯邑君」と衛の官吏が前200年頃韓王を名乗ったが絶滅し、馬韓人が辰王を名乗り西暦44年に廉斯邑君と漢の配下となったと記述する。

しかし、衛滿と闘った時は韓王で、そのころ、「眞番辰國欲上書見天子・・・元封二年」と前109年に既に辰国が存在し、『三国史記』で「温祚王・・・國號十濟是前漢成帝鴻嘉三年也」と前18年に百濟を建国していて、しかも、「元年夏五月立東明王廟」と扶余国王の後継者と記述し、建国地は扶余で高句麗と王位を争った可能性が高い。

百濟は温祚王三年秋九月靺鞨侵北境」、「國家東有樂浪北有靺鞨と前16年にはまだ靺鞨と北辺が接していて、東は樂浪郡で扶余の地に高句麗と共に玄菟郡に居て、「獲神鹿以送馬韓」と馬韓に贈り物をしていて、別国と解り、前6年十三年「遣使馬韓告遷都」、西暦9年二十七年「馬韓遂滅と馬韓を征服して、それ以前は「眞番辰國」配下の馬韓が存在し、百濟も辰配下の王と考えられ、中国も秦配下の馬韓と晋朝まで呼び続けている

新羅は前57年に赫居世居西干が建国し、「辰人謂瓠爲朴・・・爲姓居西干辰言王」と辰国人が朴姓を賜姓し辰国では新羅王を王と呼んでいたと記述し、前28年垂仁2年には「樂浪人將兵來侵」と楽浪郡が侵略して来て、日本に援助を求めたと考えられ、前20年に瓠公は馬韓に「我國自二聖肇」と聖人二人で国が始まったと、すなわち、赫居世居西干も辰王も聖人だと述べて、東沃沮の使者も赫居世居西干を「聞南韓有聖人出」と認めている。

そして、赫居世居西干は建国時前57年13歳で垂仁2年に長男が20歳前後と考えられ、南解次次雄は弟の長男なら、赫居世居西干六十一年には30歳程度、21年在位で50代で死亡なら、次の儒理尼師今が34年在位と長く矛盾はなく、新羅の最初の記録の「四年夏四月辛丑朔日有食之」は天文学的朔で、この頃、漢は晦を朔の日に記述し、『漢書』にも同じ日の記事があるが「五鳳四年夏四月辛丑晦日有蝕之」と晦の朔を記述し、新羅の最初の資料は畿内の資料と考えられ、その後、『漢書』の資料を使用している。

このように、辰韓の新羅は淡海政権と友好関係を保ち、燕の配下だった扶余族が南下し、倭が新羅を侵略する為、「新羅王子天日槍」が「近江國吾名邑」に住み、「天之日矛・・・泊多遅摩國即留其國而娶多遅摩之俣尾之女名前津見生子多遅摩母呂須玖此之子多遅摩斐泥此之子多遅摩比那良岐此之子多遅麻毛理次多遅摩比多訶・・・娶其姪由良度美生子葛城之高額比賣命此者息長帯比賣命之御祖」と但馬國に定住し、子孫が神功皇后の親になったように、淡海王朝を頼って援助を依頼した。

倭は畿内政権の分裂を好機と、縁がある扶余と組んで3韓の地の支配を目論んだのが、新羅への侵略と、熊襲の反乱と考えられ、百濟は西暦9年『三国史記』「温祚王二十七年夏四月二城降移其民於漢山之北馬韓遂滅・・・二十八年春二月立元子多婁為太子」と日本の朝廷の様式と同じく、王と太子がワンセットの倭国と同じ風習の王朝が成立し、新羅は6世紀の真興王から立太子の記述が始まり、新羅は畿内朝廷と同様に、王が決まると自動的に太子が決まったようだ。

すなわち、倭は天皇が20歳以上で、13歳以上の男の太子がいないと、弟や義弟が太子となって首都が変わる王朝交代が起こるが、畿内朝廷は天皇(皇后)が決まれば同じ首都に住む長男・長女の夫・皇后の兄弟が太子となって、互いの子の間で婚姻していたようだ。