2021年12月15日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』神武天皇類書4

 『日本書紀』は戊午年春二月丁酉が朔の丁未に難波之碕に着き、三月丁卯が朔の丙子に河内國草香邑青雲の白肩の津に着き、夏四月丙申が朔の甲辰に、膽駒山を踰え、中洲に侵入しようとしたが、孔舎衞坂会戦し五瀬が負傷し、日神子、引き返し草香の津(盾津)、五月丙寅が朔の癸酉茅渟山城水門に五瀬矢瘡が癒えず紀國の竃山に着いて薨じ葬った。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『皇孫本紀 』は「・・・戊午春二月丁酉朔丁未皇師即遂東舳艫相接方到難波之𥔎會有奔潮太急因以名浪速國亦曰浪花今謂難波訛也三月丁未朔丙子遡流而上(?)至河内國草香邑青雲白肩之津也夏四月丙申朔甲辰皇師勤兵趣龍田而其路狹嶮人不得並行乃還更欲踰膽駒山而入中州時長髓彦聞之曰天神子等(?)以來者必奪我國則盡起屬兵邀之於孔舍術坂與之會戰有流矢中五瀨命肱脛皇帥不能進戰天孫憂之乃運神策於沖衿曰今我是日神子孫而向日征虜此逆天道也不若退還示弱禮祭神祇背負日神之威隨影壓蹋如此則曾不血刃虜必自敗矣僉曰然於是令軍中曰且停勿覆進乃引軍還虜亦且不敢逼却至草香津植盾而為雄詰焉因改号其津日盾津今云蓼津訛初孔舎衛之戰有人隠於大樹而得免難乃指其樹日恩如母時人因号其地日母木邑今云飯悶迺奇訛矣五月丙寅朔癸酉軍至茅渟山城水門時五瀨命矢瘡痛甚乃掬劍雄詰之曰慨哉大丈矢被傷於虜手將不報而死耶時人因号其處日雄水門進到于紀伊國竈山而五瀨命薨千軍因葬竈山也・・・」、【戊午年の春二月丁酉が朔の丁未の日、皇軍はついに東へ。船はたがいに接するほどであった。難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって、大急ぎに着いたので、浪速国と名づけた。また浪花ともいう。今、難波というのはなまったものだ。三月丁未が朔の丙子の日、川をさかのぼって、河内国草香邑の青雲の白肩の津に着いた。夏四月丙申が朔の甲辰の日、皇軍は兵をととのえ、龍田に向かった。その道は狭くけわしくて、人が並んで行けなかった。そこで引き返して、さらに東のほうの胆駒山を越えて中国に入ろうとした時に、長髄彦が聞いて、「天の神子達がやってくるのは、きっと我が国を奪うのだろう」と言って、全軍が孔舎衛坂で戦い、流れ矢が五瀬の利き足の脛に当たった。皇軍は、進み戦うことが出来ず、天孫は悩んで、神の導きで「いま、自分は日の神の子孫にもかかわらず、日に向かって征伐するのは天の道理にさからっている。一度退却して弱そうに見せ、神祇を祀って、日を背に負い、日神の威光で踏みつぶそう。そうすれば、血も流さないで、敵はおのずから負けを認める」と吐露した。皆は「そのとおりです」言い、軍中に「いったん止まり、進むな」と言い、軍兵を撤退させた。敵もあえて追わなかった。草香の津に引き返し、盾をたてて雄たけびをした。それでその津を、盾津と名づけた。今、蓼津というのは、なまったものだ。はじめ、孔舎衛の戦いに、大きな樹に隠れて、難を免れることができた人がいた。それで、その木を指して「恩は母のようだ」と言い、人はこれを聞き、その地を名づけて母木邑といった。今、「おものき」というのは、なまったものだ。五月丙寅が朔の癸酉の日、軍は茅渟の山城水門に着いた。その時、五瀬は矢傷がひどく痛んで、剣をつかんで「残念だ。どこも悪くないのに敵の為に傷つき、報復せずに死ぬのか」と叫んだ。人は、そこを雄水門と名づけた。進軍して、紀伊国の竃山について、五瀬命は武装したまま亡くなった。それで、竃山に葬った。】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は「故從其國上行之時經浪速之渡而泊靑雲之白肩津此時登美能那賀須泥毗古興軍待向以戰尓取所入御舩之楯而下立故号其地謂楯津於今者云日下之蓼津也於是與登美毗古戰之時五瀬命於御手負登美毗古之痛矢串故尓詔吾者爲日神之御子向日而戰不良故負賎奴之痛手自今者行廻而背負日以撃期而自南方廻幸之時到血沼海洗其御手之血故謂血沼海也從其地廻幸到紀國男之水門而詔負賎奴之手乎死爲男建而崩故号其水門謂男水門也陵即在紀國之竃山也」、【それで、その國から上って行った時、浪速の渡を経て、青雲の白肩津に泊った。ここで、登美能那賀須泥毘古が戦いを起こした時、待ち受けようと 船に入れた楯を取って降り立った。それでそこを楯津と名付けた。今、日下の蓼津という。登美毗古と戦い矢が串刺しとなって五瀬が負傷した。それで「私は日神の子としては、日に向って戦うのは良くなかった。それで、賎しい奴に痛手を負った。今から回って、日を背にして攻撃しよう。」と決めて、南方から回った時、血沼の海に着いて、その手の血を洗った。それで、血沼の海と言った。そこから廻って、紀國の男の水門に着いて、「賎しい奴が手負いで死ぬだろう。」とをたけび死んだ。それで、その水門を男の水門と名付けた。陵は紀國の竃山に在る。】と訳した。

五月丙寅は天文学的に正しい朔だが、戊午年春二月丁酉は1月30日晦日で1月晦日朔と、四月丙申朔は3月30日晦日と3月晦日朔との、九州の暦の変換間違いと考えられ、 『舊事本紀』の三月丁未朔は『日本書紀』の丁卯と異なって、間違っている。

この三月丁未朔は紀元前515年2月29日晦日が丁未で3月29日が丙子で懿徳天皇の時代となり、建飯勝が出雲臣の娘を娶り、子の建甕槌、この神は葦原中国を平定した神で、建飯勝の義父が出雲大臣と考えられ、建飯勝の前に出雲大臣が葦原中国に侵略して長髄彦と姻戚になっていて、その後で建飯勝が侵入して長髄彦と闘ったと考えれば良く合致する。

五瀬は自身を『日本書紀』では天孫を「日神子孫」と日国の王と皇子と名乗り、長髄彦が自分のいる所を「中州」と呼んでいるように、「河内國草香邑青雲白肩津」の吉備からの侵略に日国からの安芸の葦原中国への侵略の説話をつなげたものと考えられる。

平郡氏が記述した雄略紀以前の『日本書紀』の朔の日干支は正しいものと、規則正しく間違うものがあり、推古紀以降に記述した『日本書紀』や『舊事本紀』が、この丁未朔や安閑紀以降の内容に1年違うものが有るなど、合理的に考えれば、記事発生日と朔の日干支が対なのではなく、記事を異なる資料の日干支に当て嵌めたのであり、計算とは考えにくいことが解る。


2021年12月13日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』神武天皇類書3

  『日本書紀』は十有一月丙戌が朔の甲午に筑紫國の岡水門、十有二月丙辰が朔の壬午に安藝國の埃宮、乙卯年春三月甲寅が朔己未に吉備國の高嶋宮にいて三年間で、舟・兵糧を蓄えて、平定の準備をした。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『皇孫本紀』は「・・・十一月丙戌朔甲午天孫至筑紫國岡水門十二月丙辰朔壬午至安藝國居于埃宮乙卯年春三月甲寅朔己未從入吉備國起行宮以居之是曰高嶋宮積三年間楯舟檝蓄兵食將欲以一舉而平天下也・・・」、【十一月丙戌が朔の甲午の日に、天孫は、筑紫国の岡水門にいた。十二月丙辰が朔の壬午の日に、安芸国の、埃宮にいた。乙卯年の春三月甲寅が朔の己未の日に、吉備国に入り、行宮を造っていた。これを、高嶋宮という。三年のうちに船・兵器・兵糧を蓄えて、一挙に天下を平定しようとした。】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は「神倭伊波禮毗古命與其伊呂兄五瀬命二柱坐高千穂宮而議云坐何地者平聞看天下之政猶思東行即自日向發幸御筑紫故到豊國宇沙之時其土人名宇沙都比古宇沙都比賣二人作足一騰宮而獻大御饗自其地遷移而於竺紫之岡田宮一年坐亦從其國上幸而於阿岐國之多祁理宮七年坐亦從其國遷上幸而於吉備之高嶋宮八年坐故從其國上幸之時乗龜甲爲釣乍打羽擧來人遇于速吸門尓喚歸問之汝者誰也荅曰僕者國神又問汝者知海道乎荅曰能知又問從而仕奉乎荅白仕奉故尓指渡槁機引入其御舩即賜名号槁根津日子此者倭國造等之祖・・・」、【神倭伊波禮毘古 その兄の五瀬と二柱は、高千穗宮に居て「どこに行けば上手く天の下の政権を取れるだろう。東に行こう。」と相談して、それで、日向を立って筑紫に行った。それで、豐國の宇沙に着いた時、その国の人で名は宇沙都比古、宇沙都比賣の二人が、足一騰宮を作って、大饗宴を開いた。そこから移って竺紫の岡田宮に一年いた。そしてその國から上って、阿岐國の多祁理宮に七年いた。またその國から遷り上って吉備の高島宮に八年いた。それで、その國から上った時、亀の甲に乗って、釣りを止めて来る人と、速吸門で遭った。呼び寄せて、「お前は誰だ」と聞くと、「私は國神だ。」と答へた。又、「お前は海の道を知っているか。」と聞くと、「よく知っている。」と答へた。又、「私に仕えるか。」と聞くと、「仕へます。」と答えた。それで梯子を指し渡して、船に引き入れて、名を与えて、槁根津日子と名付けた。倭國造の祖。】と訳した。

十一月丙戌朔は12月1日大寒で、11月では有り得ず、十二月丙辰朔も1月1日雨水で、 九州の暦の11月晦日朔、11月晦日朔の変換間違いも考えられるが、閏月によるズレも否定できず、乙卯年春三月甲寅朔は天文学的朔と合致し、朝廷の記録と考えられ、少なくとも、吉備国は畿内朝廷の勢力下だったと解り、『古事記』や『舊事本記』に「建日方別」と記述されているのは、後代の結果を反映させたのかも知れない。

天の海は黄海・シナ海で中国の領域と『山海經』は述べ、帝俊が『大荒南經』「帝俊妻娥皇生此三身之國」と九州南部と考えられる地域から侵略して日国を3国に分裂させたと記述しているので、建日を足がかりにした国で「肥国謂建日別」・「熊襲國謂建日別」・「吉備兒嶋謂建日方別」がその領域と考えられ、燕が帝俊の活動範囲と考えられ、倭人も行動を共にし、建日が倭奴国の基の国と考えられ、筑紫・豊はまだ倭奴国ではなく、六合の領域に入り、秦・前漢の時代に筑紫が倭奴国の領域になったと考えられる。

『古事記』には竺紫の岡田宮に一年、阿岐國に七年、吉備に八年居住したとしているが、『日本書紀』は筑紫が甲寅年、安藝國も甲寅年、翌年の乙卯年に吉備國、3年後の戊午年に出撃し、全く異なっていて、『古事記』の資料は葛城神武の記録と考えられ、『日本書紀』が葛城神武の東征を流用したと考えられ、この時期に中国の燕が北方民族に侵略され、倭人が東に膨張した結果、筑紫や豊前・豊後が影響を受けたのかもしれない。

従って、宗像の東の曲浦の王の珍彦が莵狭から木国造、さらに、反正天皇は「生干淡路宮」と淡路で皇太子が誕生していることから、淡路島の王となっていて、建内宿祢と姻戚になり、さらに、都が河内になったことで、倭国造となったことを示している。

応神天皇は270年即位の応神天皇、405年が応神天皇十六年で「百濟阿花王薨」の記事が当てはまる390年即位の応神天皇と、420年が応神天皇二五年で「百濟直支王薨」の記事が当てはまる396年即位の応神天皇が存在し、390年頃はまだ珍彦が木国造、396年に即位した応神天皇が406年に磐余稚櫻宮から河内柴籬宮に首都を移転し、この時、418年に記述される倭直吾子篭が倭国造となったと考えられる。

2021年12月10日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』神武天皇類書2

  『日本書紀』は冬十月丁巳が朔の辛酉に東征を初め、速吸之門で珍彦が曲浦にいて、天神子迎え、案内人とし、椎根津彦と名付け倭直部の始祖で、菟狹にき菟狹國造の祖の菟狹津彦・菟狹津媛が一柱騰宮で饗応し、天種子が菟狹国王を後ろ盾に中臣の遠祖と記述している。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『皇孫本紀』は「・・・是年也太歳甲寅冬十月丁巳朔辛酉天孫親帥諸皇子舟帥東征至速吸門時有一漁人乘艇而至天孫招之因以問曰汝誰也對曰是國神名日珎彦釣魚於曲浦聞天神子來故即奉迎又問曰汝能為我導耶對曰導之矣天孫敕授漁人椎梯末令執而牽納於皇舟以為海導者乃時賜名為椎根津彦此即倭直部始祖也行至築紫㝹狹時有㝹狹國造祖号曰㝹狹津彦㝹狹津姬乃於㝹狹川上造一柱騰宮而奉饗矣是時敕以㝹狹津媛賜妻之於侍臣天種子命其天種子命者是中臣氏之遠祖也・・・」、【この年は大歳の甲寅である。その年の冬十月丁巳が朔の辛酉の日に、天孫は自ら諸皇子と船軍を率いて、東征に向かった。速吸の門に着いた時、一人の漁師がいて、舟に乗ってやってきた。天孫は、呼び寄せ「お前は誰か」と聞いた。「私は国王で、珎彦だ。曲浦で釣りをして、天の神子が来ると聞き、迎えに来た」と答えた。また、「私のために、水先案内をしないか」と聞いた。それで「案内しよう」と答えた。天孫は、漁師に梯子を差し出し、つかまらせて船の引き入れ、水先案内にした。そこで、名を椎根津彦とした。これが倭直部の始祖だ。進んで、筑紫の莵狭に着いた。すると、莵狭国造の祖で、莵狭津彦・莵狭津姫がいた。莵狭の川上に、一柱あがりの宮を造っておもてなした。このとき、莵狭津姫を侍臣の天種子に娶あわせた。天種子は、中臣氏の遠祖だ。】と訳した。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上』は「・・・太歳甲寅冬十月丁巳朔辛酉親帥諸皇子發自西宮舩師東征見天孫紀・・・」、【太歳甲寅年の冬十月丁巳が朔の辛酉の日に、みずから諸皇子を率いて西宮を立ち、船団で東征した。[天孫本紀に見える]】と訳した。

甲寅冬の丁巳朔は11月1日で、閏月によるズレの可能性があるが、『海外南經』の西南陬、丈夫國宗像の東の結匈國の東南に「南山在其東南」と南山が有り、「蟲為蛇蛇號為魚」と蛇の様に蛇行する水上の魚の様に動くと、船の比喩にピタリに記述し、この南山が曲浦で、珍彦の神話の流用と考えられる。

珍彦は名前の通り「う津」の日国王で、天国王に従軍して菟狹に侵略して、菟狹王になり、天種子を婿にして、天種子が中洲に侵略して中の国王の中臣氏となった説話を葛城氏が流用し、珍彦の後裔の椎根津彦は葛城神武が4世紀に大和に侵略したとき、共に活躍して、『古事記』に「娶木國造之祖宇豆比古之妹山下影日賣生子建内宿祢」と建内宿祢の活躍で木国造になって、葛城氏と共に行動を共にしたと考えられる。

そして、『日本書紀』に「珍彦爲倭國造」と倭国造となったと考えられ、大和が首都なのに、大和王など全くの矛盾で、葛城氏が河内王朝を設立した時に、首都でなくなり、初めて大和王となったと考えられる。

最初の記録が10月朔の理由は莵狭津彦の元年の記録を、高千穂宮と考えられる伊都で朝廷を開いていた年表に当て嵌めて、紀元前667年の10月丁巳朔と記録し、それを、『日本書紀』に移行したと考えられ、この日は中国では10月が年始だったので、高千穂宮の元年が10月丁巳朔だった可能性が高く、莵狭津彦も任命したと考えられる。

『史記』前221年秦始皇二十六年「改年始朝賀皆自十月朔」と10月に年賀を行い、『漢書』前104年武帝太初元年五月に「正曆以正月為歲首」と1月を年始とし、前104年太初元年は「太初元年冬十月・・・十一月・・・十二月・・・二月・・・夏五月・・・秋八月・・・二年春正月戊申」と二月より前に10~12月があって10月年始が証明されていて、この東征開始説話は前104年より前の説話であることは理解できる。

2021年12月8日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』神武天皇類書1

  『日本書紀』は神武天皇即位前期には「諱は彦火々出見の第四子、母は玉依姫、海士神の娘で 十五で太子、日向國吾田邑の吾平津媛を妃とし、手耳を生んだ」とある。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『皇孫本紀』は「磐余彦命天孫彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊第四子母曰玉依姬命海童之小女也天孫生而明達意(?)如矣年十有五立爲太子長而曰向國吾田邑吾平津媛為妃誕生手研耳命次研耳命乃年四十五歳謂兄及子等曰昔我天神高皇産靈尊大日孁尊舉此豐葦原瑞穗國而授我天祖彦火瓊々杵尊之時開天關披雲路駈仙蹕以戾止是時運屬鴻荒時鐘草昧故蒙以養正治此西偏皇祖皇考乃神乃聖積慶重暉多歷年序自天祖降跡以迄于今即百七十九萬二千四百七十餘歳也而遼遙之地獨未霑王澤遂使邑有君村有長各自分壃用相陵礫抑又聞於鹽土老翁曰東有美地青山四周其中亦有乘天磐船而飛降者余謂彼地必當足以恢弘大業光宅天下蓋六合之中心手厥飛降者是饒速日欤何不就而都乎諸皇子對曰理實灼然我亦恆以爲念宜早行之・・・」、【磐余彦は、天孫の彦波瀲武鸕鷀草葺不合の第四子である。母は玉依姫といい、海士神の下の娘である。天孫は、生まれながらに賢く、志が確かだった。十五歳で太子となり、成長すると、日向国の吾田邑の吾平津媛を妃とし、手研耳、次に研耳を生んだ。四十五歳になって、兄や子たちに「昔、天神の高皇産霊と大日孁が、この豊の葦原の瑞穂国を我が天祖の彦火瓊々杵に授けた。天の関(海の波)を押し分け、海路の霧を押し分け戻らず先駆けて車駕を走らせた。このとき、運に従い世は荒れ、暗いので、まだ明るさも十分ではなかった。その暗い中にありながら、正しく、西の片田舎を治めた。皇祖は思うに神で、聖だったので、ますますよろこび輝き、多くの年月を経た。天祖が降ってから、百七十九万二千四百七十余年(?日)になる。しかし、はるか遠い国では、まだ帝王の恵みが及ばず、邑村に長があって、土地に境を設けて相争っている。また塩土老翁に聞くと、『東のほうに良い土地があり、青々とした山が取りまいている。その中へ、天の磐船に乗ってとび降ってきた者がある』という。思うにその土地は、広く統治をおこない、天下を治めるのにふさわしいであろう。きっと六合の中心だろう。そのとび降った者は、饒速日という者だ。どうしてそこに行かずにおけるか。」と言っていた。諸皇子たちも「そのとおりです。私たちもそう思うところです。すみやかに実行しましょう」と答えた。】と訳した。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上』は「神武天皇彦波瀲武鸕鶿草不葺合尊第四皇子也諱神日本磐余彦天皇亦云彦火火出見尊即少年時号狭野尊也母曰玉依姬海童少女也天皇

生而明達意礭如也年十五立爲太子長而娶日向國吾田邑君平津媛爲妃生手研耳命也・・・」、【神武天皇は彦波瀲武鸕鷀草不葺合の第四子で諱は神日本磐余彦天皇、または彦火火出見という。年少のときは、狭野と呼ばれた。母は玉依姫といい、海士神の下の娘だ。天皇は、生まれながらに明晰で、しっかりしていた。十五歳で皇太子になった。成長して、日向国吾田邑の吾平津媛を妃に娶り、手研耳を生んだ。】と訳した。

『舊事本紀』は皇祖を神で聖と『山海經』の『海外南經』の「六合之閒・・・神靈所生・・・唯聖人能通其道」を前提に、皇祖は日本海南部の六合を本拠にして生まれた神であり聖人と主張して、自分たちは六合出身だと述べている。

しかも、現在、六合から瑞穂の国に来て、その国は西の片田舎だと、すなわち、『海外西經』の地、宗像から壱岐・対馬の西だと述べ、天祖、すなわち、『海内經』が示している天から降って、百七十九万二千四百七十余年、恐らく年ではなく日にちで5千年と考えられ、アカホヤからの日数で、アカホヤによって逃げて来たのではないだろうか。

そして、六合の西の片田舎から東へ向かおうとし、それが六合の中心、『海外南經』は『海外西經』の丈夫國宗像より東、『海外東經』の大人國丹波大国より西なのだから、前項で述べたように、中州が目的地で、饒速日も中州に降ったと証明した。

2021年12月6日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』 類書 『舊事本紀』天孫本紀3

  舊事本紀前川茂右衛門寛永版『天孫本紀』は続けて、「・・・天孫磐余彦尊詔命有司始經帝宅大歳辛酉正月庚辰朔天孫磐余彦尊都橿原宮初即皇位号日元年尊皇妃姫(?)五十鈴姫命立爲皇后即大三輪神女也宇摩志麻治命先獻天瑞亦堅神楯以齋矣謂五十櫛亦云今木判繞於布都主剱大神奉齋殿内即蔵天(?)瑞寶以爲天皇鎮祭之時天皇寵異特甚詔日近宿殿内矣因號足尼其足尼之號自比而始矣髙皇産霊尊兒天富命率諸齋神部擎天璽鏡剱奉安正殿矣天兒屋命兒天種子命奏神代古事天神壽祠也宇摩志麻治命率内物部乃竪矛楯嚴増威儀道臣命帥來目部帯仗常其開(?)衛護宮門矣並使四方之國以観天位之貴亦(?)率土之民以亦朝廷之重者也于時皇子大夫率臣連伴造國造而賀正朝拝矣凡厥建都即位践祚賀正如是之儀並始此時也宇摩志麻治命十一月朔庚寅初齋瑞寶奉爲帝后鎮祭御魂祈請壽祚其鎮魂之祭自此而始者矣詔宇摩志麻治命日汝先考饒速日尊自天受來天璽瑞寶以此爲鎮毎年仲冬中寅爲例有司行事永爲鎮祭矣所謂御鎮祭是也凡厥鎮祭之日猿女君等主其神樂擧其言大謂一二三四五六七八九十而神樂歌儛尤縁瑞寶盖謂斯與二年春二月甲辰朔巳巳天皇定功行賞詔宇摩志麻治命日汝之勲功矣念惟大功也公之忠節焉思惟至忠矣是以先授神靈之剱崇報不世之勲令配股肱之軄永傳不貮之美自今巳後生々世々子々孫々八十聯綿必胤此軄永爲龜鏡矣此日物部連等祖宇摩志麻治命與大神君祖天日方奇日方命並拜為申食國政大夫也其天日方奇日方命者皇后之兄也但申食國政大夫者今大連大臣是矣凡厥奉齋瑞寶而祈鎮壽祚兼崇霊剱而治護國家如此之事裔孫相承奉齋大神具件如左」、【天孫磐余彦は、役人に命じてはじめて宮殿を造り始めた。辛酉年の庚辰が朔日の日に、磐余彦は橿原宮に都を造り、はじめて皇位についた。これを、皇位の元年とした。皇妃の姫蹈鞴五十鈴姫を皇后とした。皇后は、大三輪の神の娘である。宇摩志麻治がまず天の瑞宝を献上し、神盾を立てて祀って五十櫛、または、木を、布都主剣のまわりに刺し巡らして、大神を宮殿の内に祀った。そうして、天の璽の瑞宝を納めて、天皇のために鎮め祀った。このとき、天皇の寵愛は特に大きく、「殿内の近習になれ」と詔勅した。それで足尼と名づけた。足尼は、ここから始まった。(※役割は概略)天富は、天の璽の鏡と剣を安置した。天の種子は、寿詞を奏上した。宇摩志麻治は国を固めた。道臣は門番となった。それから、四方の国々に天皇の位の貴さを示し、国の民を従わせ、これが朝廷の重責とした。このときに、皇子・大夫は、臣・連・伴造・国造を率いて、賀正の朝拝をした。このように都を建てて皇位に即位し、年の初めに儀式をするのは、このときから始まった。宇摩志麻治は十一月朔が庚寅の日、はじめて瑞宝を祀り、天皇と皇后のために、魂を鎮め祭って長寿を祈り、鎮魂の祭祀はこのときに始まった。宇摩志麻治に詔して仰せられた。「お前の父の饒速日が天から授けられてきた天の璽の瑞宝をこの鎮めとし、毎年仲冬の中寅の日を例祭とし、ずっと鎮めの祭りとせよ」詔勅した。いわゆる“御鎮祭”がこれだ。およそ、その鎮祭の日に、猿女君達が神楽の主として言挙げして、「一・二・三・四・五・六・七・八・九・十」と大声でいって、神楽を歌い舞うことが、瑞宝に関わっているのはこのことだろう。治世二年春二月甲辰が朔の巳巳(乙巳)の日、天皇は論功行賞を行った。宇摩志麻治に「お前の勲功は大功である。お前の忠節は思えば忠この上ない。それで、神靈の剣を授けて類いない勲功を崇め、報いた。いま、一番頼みとする職と共に、永く二つとないと称えよう。今より後、子々孫々にずっと、必ずこの職を継ぎ、永遠に鑑となれ」と詔勅した。この日、物部連の祖の宇摩志麻治と、大神君の祖の天日方奇日方は、ともに、食国の政大夫に任じられ、天日方奇日方は、皇后の兄である。食国の政大夫とは、今でいう大連・大臣だ。そして宇摩志麻治は、天の璽の瑞宝を祀り、天皇の長寿と幸運を祈り、また霊剣をあがめて国家を治め護った。このことを子孫も受け継いで、大神を祀り、詳しくは以下に述べる。】と訳した。

辛酉正月庚辰朔は『書記』と同じで、天文学的日干支と合致するが、皇后は大三輪神ではなく事代主、宇摩志麻治は出現せず、地位も足が付く役職は足彦・足姫で道臣が『書記』と合致するのみで、二年春二月甲辰朔乙巳も『書記』と同じ日干支で、日付と日臣の内容を『書記』から流用したと考えられる。

日臣が祖という大伴氏は物部氏・中臣氏を含めて垂仁天皇の時にも賜姓されておらず、朝廷の官僚とは言えず、大夫も崇神朝に「諸大夫等歌之曰」と出現するのみなので、この説話は崇神天皇の時の説話と考えられる。

前660年十一月朔庚寅は丙子で、この日干支は物部氏の資料と考えられ、実際は孝元天皇が「立欝色謎命爲皇后」と欝色謎が皇后になって、その時に物部氏から天の璽を得たと考えられる、紀元前208年の11月晦日が庚寅で、物部氏にとっては、この皇后になった時の祭礼が物部氏にとっての神武元年で、それを、神武天皇の元年に当て嵌めたと考えられ、祭祀関係は晦日が朔の暦を使用していることが多い。

天神の天は『山海經』の海内で黄海に接していて、帝俊が「三身之國」を生み、中国は『三国志』以前は晦日に日食を記述して、朔が晦日だったため、黄海に接する九州や天神の出身地の六合も晦日が朔の習慣が有ったと考えられる。

以降に系図は記述する。

2021年12月3日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』 類書 『舊事本紀』天孫本紀2

  舊事本紀前川茂右衛門寛永版『天孫本紀』は尾張氏の系図を後回しにして、「弟宇摩志麻治命亦去味間見命亦云可美真手命天孫天津彦火瓊々杵尊孫磐余彦尊欲馭天下與帥東征往々逆命者蜂起未伏中州豪雄長髄彦本推饒速日尊兒宇摩志麻治命爲君奉焉至此乃日天神子豈有两種乎吾不知看他遂勒兵距乃天孫軍連不能戡也于時宇摩志麻治命不従舅謀誅殺佷戻帥衆歸順之時天孫詔宇摩志麻治命日長髄彦為性狂迷兵勢猛鋭至於敵戰誰敢堪勝而不(?)舅計帥軍歸順遂欵官軍朕嘉其忠節特加裒竉授以神剱荅其大勲凡厥神剱韴靈剱刀亦名布都主神魂刀亦云佐士布都亦云建布都亦云豊布都神是矣覆宇摩志麻治命以天神御祖授饒速日尊天璽瑞寶十種壹而奉獻於天孫大嘉特増寵異矣覆宇摩志麻治命率天物部而翦夷荒逆亦帥軍平定海内而(?)也・・・」、【天香語山の弟の宇摩志麻治、または味間見といい、または可美真手という。天孫天津彦火瓊々杵の孫の磐余彦は、天下を治めようと思い、軍をおこして東征したが、所々に命令に逆らう者たちが蜂のように起こり、従わなかった。中国の豪族の長髄彦は、饒速日の子の宇摩志麻治を君主として仕えていた。「天神の子が二人もいるはずがない。他にいるなど知らない」と言い、兵をととのえて防戦した。天孫の軍は連戦全て勝てなかった。このとき、宇摩志麻治は伯父に従わず、戻ったところを誅殺した。そうして軍を率いて帰順した。天孫は、宇摩志麻治に「長髄彦は性質が狂っている。兵の勢いが勇猛で、敵として戦ったが勝てなかった。しかし伯父に従わないで、軍を率いて帰順したので、官軍は勝てた。その忠節がうれしい」と詔勅し、神剣を与えて、大きな勲功に応えた。その神剣は、スパッと切れる霊剣、または布都主神の魂の刀、または、さす布都といい、または建布都といい、または豊布都というのがこれだ。また、宇摩志麻治は、天神の祖が饒速日に授けた天の璽・瑞宝十種を献上した。天孫はたいへん喜び、さらに寵愛した。また、宇摩志麻治は、天物部を率いて暴れる逆賊を斬り、また、軍を率いて海内を平定して復命した。】と訳した。

饒速日を降した場所が「葦原中國」で、長髄彦は中州の豪族と記述しているので、長髄彦は当然中州の王、中国の長の州の根王の意味・長門の王と考えられる。

畿内に「ながすね」という地域は無く、鳥見であったので、『古事記』には登美毘古と記述し、名前と侵略した土地の王の名が一致して、やはり、根国が複数有り、根国と言うのは、太柱の礎石を置く朝廷の宮殿を立てた地域が根国と呼ばれたことを意味し、始祖王・神が根、継いだ王が根子と解る。

そして、物部氏は、宇摩志麻治が大国の神「五十呉桃」の娘に婿入りし、子が「木開足尼」と大国の根を支配(足らす)し、大神「久流久美」の娘との子が「大祢」と大国の神となり、「出雲色多利姫」との子の出雲醜が出雲王と大国の王の一人となり、「倭志紀彦妹真鳥姫爲妻」と天皇の姫を娶って、義弟となり、すなわち、「 大祢」が饒速日で出雲醜が「宇摩志麻治」で「志紀彦」が「長髄彦」と、物部神話の神武紀の一つと言える。

大国王の大祢と姻戚になった尾張氏の葛城王は孝安天皇の時、倭足彦と八国王と出世し、「足尼次爲宿祢奉齋大神其宿祢者始起此時」と尾張氏が大国を統治して、物部氏は足尼を賜姓されたが、葛城氏が天皇の後継者の細姫を皇后にして政権を奪取すると、物部氏は大臣すなわち大国王に戻り、葛城氏は鬱色謎を妃にして大国を得て大八国の天皇となり、物部氏は天皇の姻戚として大国王の大臣・大尼を名乗った。


2021年12月1日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』 類書 『舊事本紀』天孫本紀2

  舊事本紀前川茂右衛門寛永版『天孫本紀』は続けて「・・・兒天香語山命天降名手栗彦命亦云髙倉下命此命隨御祖天孫尊自天降坐於木伊國熊野邑之時天孫天饒石國饒石天津彦々火瓊々杵尊孫磐余彦尊發自西宮親帥舩軍東征之時往々逆命者蜂起未伏中州豪雄長髓彦勒兵相距天孫連戰不能戡也前到於木伊國熊野邑惡神坐毒人物威瘁天孫患之不知出計爰髙倉下命在此邑中夜夢天照太神謂武甕槌神日葦原瑞穂國猶聞喧擾之響冝汝更往而征之武甕槌神對日(?雖口→ム)予不行而下吾平國彼時劔則自將手矣乃謂髙倉下命曰予劔韴靈今當置汝庫裏宜取而獻於天孫矣髙倉下命稱唯々寤而明日開庫視之果有劔倒立於倉底因取而獻焉天孫適寢忽然之曰予何長眠在此手尋而中毒士卒悉覆醒起矣皇師趣中州天孫得劔日增威積勑髙倉下裒為侍臣也」、【子の天香語山は、天から降った後の名を手栗彦、または高倉下という。天孫と一緒に天から降り、木伊国の熊野邑にいた。天孫の天饒石国饒石天津彦々火瓊々杵の孫の磐余彦が、西宮から出発して、船軍を率いて東征したとき、命令にそむくものが蜂のように起こり、服従しなかった。中つ国の豪雄の長髓彦は、兵と一緒に防いで磐余彦は勝てなかった。先に木伊国の熊野邑についたとき、悪神が毒気をはき、人々をやつれさせた。天孫は困って、何もできなかった。この邑にいた高倉下は、夜中に夢をみた。天照大神が武甕槌に「葦原の瑞穂国は、まだ騒がしいという。お前が出かけていって、これを討て」と言った。武甕槌神は「私が行かなくても、私が国を平らげたときの剣を下せば、平定されるだろう」と答えて、「我が剣の『霊斬り』を、お前の庫の中に置いておく。それを、天孫に献上しろ」と語った。高倉下は、こう夢をみて、「はいはい」と寝言をいって、翌日、庫を開けてみると、剣があって庫の底に逆さまに立っていた。それで、それをとって天孫に献上した。そのとき天孫はよく眠っていたが、すぐに目覚めて「どうしてこんなに眠っていたのだ」と言った。ついで毒気に当たっていた兵士も、みな目覚めて起きあがった。皇軍は中国に赴いた。天孫は剣を得て、日に日に威光が増した。高倉下に詔して褒め、近習にした。」と訳した。

香語山のまたの名から、「高」・「手」・「じ」・「彦」が役職名と解り、「高」は国名、「手」は「足・帯」に次ぐ地位、「彦」は将軍、「下・じ」は「あるじ」などの「じ」と考えられ、「葦牙彦舅」・「鹽土老翁」・「連」の「じ」も同じで、日本で最初の役職名なのだろう。

高倉下が建甕槌から剣を与えられるのだから、建甕槌は懿徳天皇の次の世代で孝昭天皇の世代となり、世襲足姫が孝昭天皇の皇后で、「天忍男命葛󠄀木土神劔根命女賀奈良知姫」のように「天忍男」の子で世襲足姫の兄の羸津世襲は葛󠄀木彦すなわち首都葛城の葛城王となり、葛城の地を支配した葛城氏が尾張氏の姻戚となって、政権中枢に躍り出たようだ。

綏靖天皇から孝霊天皇まで、皇后の亦の名の父が磯城縣主すなわち磯城彦だが、皇后の父が全く活躍せず、崇神天皇の時に磯城に都を置いて、天皇のいる土地に、その土地の王は存在しないことは当然で、磯城津彦が葛城氏の役職なのだから、息石耳の祖父の磯城縣主葉江すなわち磯城彦が平郡氏の史書の『日本書紀』は神武天皇と主張している。

これは、磯城津が磯城の河辺で、そこを葛城と呼び、葛城の初代の王が葛城彦で、その地の葛城に移住した人物が剱根という神(剱神を祀る王)となり、渟名川で磯城彦の配下となり、そして磯城津・葛城と任地が変わったことを示し、『古事記』の雄略天皇の項に「上堅魚作舎者誰家荅白志幾之大縣主家」と、磯城に大国を支配する王がいて、その王家の宮殿が朝廷の宮殿と同じ様式だったと、すなわち、この雄略天皇の頃でも、大国を支配する王家が以前朝廷だったことを示している。