2021年6月16日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第五段9

  次の一書は、一書(10)一書曰伊弉諾尊勅任三子曰天照大神者可以御髙天之原也月夜見尊者可以配日而知天事也素戔嗚尊者可以御滄海之原也既而天照大神在於天上曰聞葦原中國有保食神宜爾月夜見尊就候之月夜見尊受勅而降已到于保食神許保食神乃廻首嚮國則自口出飯又嚮海則鰭廣鰭狹亦自口出又嚮山則毛麁毛柔亦自口出夫品物悉備貯之百机而饗之是時月夜見尊忿然作色曰穢矣鄙矣寧可以口吐之物敢養我乎廼拔剱擊殺然後復命具言其事時天照大神怒甚之曰汝是惡神不湏相見乃與月夜見尊一日一夜隔離而住是後天照大神復遣天熊人往看之是時保食神實已死矣唯有其神之頂化爲牛馬顱上生粟眉上生蠒眼中生稗腹中生稻陰生麥及大豆小豆天熊人悉取持去而奉進之于時天照大神喜之曰是物者則顯見蒼生可食而活之也乃以粟稗麥豆爲陸田種子以稻爲水田種子又因定天邑君即以其稻種始殖于天狹田及長田其秋垂穎八握莫莫然甚快也又口裏含蠒便得抽絲自此始有養蠶之道焉保食神此云宇氣母知能加微顯見蒼生此云宇都志枳阿鳥比等久佐」、【一書に、伊奘諾は、三子に「天照は、高天の原を御しなさい。月の夜見は、日に配して天の事を知らせなさい。素の戔嗚は、滄海の原を御しなさい」と勅任した。既に天照は天の上流にいて「葦原の中國に保食の神がいると聞いている。そこで月の夜見が、就任しなさい」と言い、月の夜見は、勅命を受けて降った。既に保食の神の許に着いた。保食の神は、首を廻して國に向けたら、口から飯が出た。又、海に向けたら、鰭を廣げ・鰭を狹み、亦、口から出た。又、山に向けたら、毛の麁・毛の柔を亦、口から出た。その品物全て備へて、お膳に貯へて饗した。この時に、月の夜見は、忿然と色を作って「穢いな、いやしいな、どうして口から吐く物で、敢えて私に饗応する」と言い、すなわち劒を拔いて撃ち殺した。その後に、命を復して、つぶさにその事を言った。その時に天照は、怒ること甚しく「お前は悪い神だ。顔を見たくない」と言い、月の夜見と、一日一夜、隔て離れて住んだ。この後に、天照は、また、天の熊人を派遣して調べさせた。この時、保食の神は、本当にもう死んでいた。ただし其の神の頂が、牛馬に化っていた。ひたいの上に粟が生れ、眉の上に繭が生れ、眼の中に稗が生れた。腹の中に稻、陰に麥及び大小豆が生れた。天の熊人は、残らず取り持ち去ってささげた。その時に、天照は喜んで「この物は、うつくしく蒼々と生え、食べて活きるものだ」と言って、乃ち、粟稗麥豆は、陸の田の種とした。稻を水田の種とした。又、それで、天の邑の王を定めた。即ちその稻種を、始めて天の狹の田及び、長の田に植えた。その秋には穎が垂れ下がり、八握に実って、とても快よかった。又、口の裏に繭を含んで絲に抽くことが出来た。これで始めて養蠶の道が出来た。保食神、を「うけもちのかみ」という。顯見蒼生、を「うつしきあをひとくさ」という。】と訳した。

この一書は『山海經』の対馬と思われる「在巫咸北兩女子」の女子國のその後の神話で、天照が追放された神話の様で、その場所を高国に書き換え、高国は既に農耕や牧畜・養蚕を行っていた国で、その種や卵や子牛や仔馬を手に入れたようだ

『山海經』では『海外東經』に八岐大蛇の出身地と考えられる「朝陽之谷」の北に「青丘國」に「五穀衣絲帛」、紀伊半島から北の太平洋岸の『大荒東經』に「三青馬」に「百穀所在」、紀伊半島から西の瀬戸内を含む『大荒南經』に「臷民之國」が「百穀所聚」、「焦僥之國」と隠岐と思われる「周饒國・焦僥國」の分国に「嘉穀是食」、「類之山」に「百穀所在」が有り、穀は耕すから穀で野草は穀とは言えず、「焦僥之國」か「青丘國」が高国に相応しそうである。

これまで検証した通り、国生み神話、神生み神話は本来それぞれの氏族の先祖の女神の子が支配者となり、男神はその女神に婿入りして、その子が女神の国の支配者となり、その娘が後を継ぎ、男は国を出て、新たな支配先を求めて天降ると考えられる。

伊弉諾・伊弉冉の神話は常立の国から伊弉諾が伊弉冉の国の一地域の磤馭慮嶋に来て、その子の日孁がその国の王となり、男の蛭子や素戔嗚を島外に追放して新たな伊弉諾となって、伊弉冉を探して新たな日孁を生む神話を意味する。

そして、素戔嗚は根国に天降って、『古事記』で足名椎・手名椎の跡取りの「櫛名田比賣」に入り婿し、その子が支配したのが「奴美」で、野見宿祢の「奴美」と考えられ、その子孫が大国主で、その大国主には別名がたくさん有って、多くの氏族の祖神を融合させた。

また、女王の伊弉冉が軻遇突智に代表される反逆者に殺されることで、国が纏まらず3国や5国や8国に分国してしまうという、日本の国の成り立ちを神話であらわされ、女王が氏族や国を纏めていることを示している。

『日本書紀』には、一説に伊奘諾は淡路に葬られ、他の説では天に上り復命し、日の少宮に留ったとあり、『日本書紀』の神話を最初に書いた葛城氏の建内宿禰の母方は『古事記』に「娶木國造之祖宇豆比古之妹山下影日賣生子建内宿祢」と建内宿禰が生まれたときはまだ木國造ではなく、葛城襲津彦が『日本書紀』を記述した葛城氏の神武天皇なので、 母影日賣の父珍彦が伊弉諾にあたり、九州曲浦より淡路に移り住み、この説話が記述されたと思われる。

2021年6月14日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第五段8

  次の一書は、一書()一書曰伊弉諾尊拔剱斬軻遇突智爲三段其一段是爲雷神一段是爲大山祇神一段是爲髙龗又曰斬軻遇突智時其血激越染於天八十河中所在五百箇磐石而因化成神号曰磐裂神次根裂神兒磐筒男神次磐筒女神兒經津主神倉稻魂此云宇介能美拕磨少童此云和多都美頭邊此云摩苦羅陛脚邊此云阿度陛熯火也音而善反龗此云於箇美音力丁反吾夫君此云阿我儺勢湌泉之竈此云譽母都俳遇比秉炬此云多妣不湏也凶目汚穢此云伊儺之居梅枳枳多儺枳醜女此云志許賣背揮此云志理幣提爾布倶泉津平坂此云餘母都比羅佐可尿此云愈磨理音乃矛()反絶妻之誓此云許等度岐神此云布那討()能加微檍此云阿波岐」、【一書に、伊奘諾が、劒を拔いて軻遇突智を斬り、三段にした。その一段は雷神、一段は大山祇神、一段は高龗となった。また、軻遇突智を斬る時に、その血が激くのり越えて、天八十河の中に在る五百箇磐石を染めて化り成った神を、なづけて磐裂神という。つぎに根裂神・兒磐筒男神。次に磐筒女神・兒經津主神。倉稻魂を「うかのみたま」という。少童を「わたつみ」という。頭邊を「まくらへ」という。脚邊を「あとへ」という。熯は火だ。龗を「おかみ」という。吾夫君を「あがなせ」という。竃泉之竈を「よもつへぐひ」という。秉炬を「たひ」という。不須也凶目汚穢を「いなのしこめききたなき」という。醜女を「しこめ」という。背揮を「しりへでにふく」という。泉津平坂を「よもつひらさか」という。尿を「ゆまり」という。絶妻之誓を「ことど」という。岐神を「ふなとのかみ」という。檍を「あはき」という。】と訳した。

次の一書は、一書()一書曰伊弉諾尊斬軻遇突智命爲五段此各化成五山祇一則首化爲大山祇二則身中化爲中山祇三則手化爲麓山祇四則腰化爲正勝山祇五則足化爲䨄山祇是時斬血激灑染於石礫樹草此草木沙石自含火之縁也麓山足曰麓此云簸耶磨正勝此云麻沙柯菟一云麻左柯豆䨄此云之伎音烏()含反」、【一書に、伊奘諾は、軻遇突智を斬り、五段にした。これが各五の山祇となった。一は首が大山祇。二は身中で中山祇。三は手で麓山祇。四は腰で正勝山祇。五は足で䨄山祇となった。この時、斬る血が激く灑き、石礫・樹草に染った。これが草木・沙石が自づから火をはなつ縁だ。山の足を麓という。これをはやまという。正勝を「まさか」という。あるいは「まさかつ」という。䨄を「しぎ」という】と訳した。

次の一書は、一書()一書曰伊弉諾尊欲見其妹乃到殯斂之處是時伊弉冉尊猶如生平出迎共語已而謂伊弉諾尊曰吾夫君尊請勿視吾矣言訖忽然不見于時闇也伊弉諾尊乃舉一片之火而視之時伊弉冉尊脹滿太髙上有八色雷公伊弉諾尊驚而走還是時雷等皆起追来時道邊有大桃樹故伊弉諾尊隱其樹下因採其實以擲雷者雷等皆退走矣此用桃避鬼之縁也時伊弉諾尊乃投其杖曰自此以還雷不敢来是謂岐神此本號曰来名戸之祖神焉所謂八雷者在首曰大雷在胸曰火雷在腹曰土雷在背曰稚雷在尻曰黑雷在手曰山雷在足上曰野(?里+)雷在陰上曰裂雷」、【一書に、伊奘諾は、その妻を見ようとして、もがりの處に着いた。是の時に、伊奘冉は、なお平生のように、出迎えて共に語った。すでに伊奘諾は「私の旦那様、お願いだから見ないで」と言った。言い終わって忽然と見えなくなった。その時は闇かった。伊奘諾は、一片の火を持ち上げて視た。その時に伊奘冉は膨れ上がって頭上を過ぎ去った。上に八色の雷公がいた。伊奘諾は、驚いて走り還った。この時に、雷達は皆起きて追って来た。その時に、道の邊に大きな桃の樹が有った。それで、伊奘諾は、その樹の下に隱れ、それでその實を採り、雷に擲げたら、雷達は、皆逃げ帰った。これが桃で鬼を避る縁だ。その時に伊奘諾は、その杖を投て、「ここから雷が還り、敢て来ない」と言った。これを岐の神という。本の號は來名戸の祖の神という。八の雷と謂ふ所は、首に在る大の雷。胸に在る火の雷。腹に在る土の雷。背に在る稚の雷。尻に在る黒の雷。手に在る山の雷。足の上に在る野の雷。陰の上に在る裂の雷。】と訳した。

次の一書は、一書(10)一書曰伊弉諾尊追至伊弉冉尊所在處便語之曰悲汝故来荅曰族也勿看吾矣伊裝諾尊不從猶看之故伊弉冉尊恥恨之曰汝已見我情我復見汝情時伊弉諾尊亦慙焉因将出返于時不直默歸而盟之曰族離又曰不負於族乃所唾之神號曰速玉之男次掃之神號泉津事解之男凢二神矣及其與妹相鬪於泉平坂也伊弉諾尊曰始爲族悲及思哀者是吾之怯矣時泉守道者白云有言矣曰吾與汝已生國矣奈何更求生乎吾則當留此國不可共去是時菊理媛神亦有白事伊弉諾尊聞而善之乃散去矣但親見泉國此既不祥故欲濯除其穢惡乃往見粟門及速吸名門然此二門潮既太急故還向於橘之小門而拂濯也于時入水吹生磐土命出水吹生大直日神又入吹生底土命出吹生大綾津日神又入吹生赤土命出吹生大地海原之諸神矣不負於族此云宇我邏磨穊茸」、【一書に、伊奘諾が追って伊奘冉のいる所に来て、「お前をいとしいとおもうから来た」と語った。「私を見るな」と答えた。伊奘諾は従わないで見た。それで、伊奘冉は、恥じ恨んで、「お前はすでに私の気持ちを知った。私もお前の気持ちを知ろう」と言った。その時に、伊奘諾はまた恥じて恨んだ。それで、帰ろうとした。その時に、ただ黙って帰らず、「お前を氏族を追放する」と誓った。「私の氏族は負けない」と言った。すなわち唾く神を、號けて日速の玉の男という。次に掃う神を、泉津の事解の男と名付けた。凡て二神。その妹と泉の平坂で闘うに及んで、伊奘諾が「氏族が悲く、思い哀れむことを、私は怯えている」と言った。その時に泉の守道が、「『わたしがお前と既に国を生んだ。どうして更に生きることを求める。私はこの国に留って、一緒に帰らない』と語った」と言った。この時に、菊理媛の神がまた言った。伊奘諾が聞いて善んだ。それで逃げ去った。ただし親ら泉國を見た。これは既に不祥だ。それで、その穢らしい悪を濯ぎ除おうと思って、往き粟門及び速吸の門を見た。しかし、この二門は、潮がとても急だった。それで、橘の小の門に還り向って、拂い濯いだ。その時に、水に入って、磐土を吹き生んだ。水を出て、大の直日の神を吹き生んだ。又入って、底土を吹き生んだ。出て、大の綾津日の神を吹き生んだ。又入って、赤土を吹き生んだ。出て、大の地海原の諸の神を吹き生んだ。不負於族を「うがらまけじ」という。】と訳した。

一書()から一書(10)は、軻遇突智によって分国した其々の国々の国の始祖の神を述べていて、5国への分国は壱岐・対馬(津岐)・隠岐・讃岐・八岐のことで、一書()と一書(10)は八岐が文字通り8国で、おそらく、野洲の「野岐」を「八」の文字に割り振ったと考えられ、8国名と8神名の説話と考えられ、大国・日国・土(津神)国・稚国・黑国・山国・野国・裂()国で、軻遇神と対の神の菊理媛とその子達八の祖神の魂神・事の 開神・磐神・大直日神・底神・大綾津日神・赤神・大地海原神と考えられる。

雷公の公は八岐大蛇に支配される宮主の脚摩乳を老公と呼び、垂仁天皇で初めて郡公と美濃国の弟彦で使用し、雄略天皇が一事主に対しても「公」と呼んでいる。

すなわち、雄略天皇が中国文献を読んで「公」の文字を使用し始めたことが解り、尾張姓を得るのが大臣尾綱根で、「伊我臣祖大伊賀彦」、「大彦命・・・伊賀臣凡七族之始祖」と大彦・大伊賀彦が母系で雷は伊賀槌と考えられ、弟彦の父尾綱根が尾張姓を賜姓されそれまで姓が無く、尾張朝廷の天皇だったと思われ、前の朝廷の家系の王に公の文字を使用したと考えられる。


2021年6月11日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第五段7

 一書()は続けて、「・・・伊弉諾尊既還乃追悔之曰吾前到於不湏也凶目汚穢之處故當滌去吾身之濁穢則往至筑紫日向小戸橘之檍原而秡除焉遂将盪滌身之所汚乃興言曰上瀬是太疾下瀬是太弱便濯之中瀬也因以生神號曰八十枉津日神次将矯其枉而生神號曰神直日神次大直日神又沈濯於海底因以生神號曰底津少童命次底筒男命又潛濯於潮中因以生神号曰表中津少童命次中筒男命又浮濯於潮上因以生神號曰表津少童命次表筒男命凢有九神矣其底筒男命中筒男命表筒男命是即住吉大神矣底津少童命中津少童命表津少童命是阿曇連等所祭神矣然後洗左眼因以生神號曰天照大神復洗右眼因以生神號曰月讀尊復洗鼻因以生神號曰素戔嗚尊凢三神矣已而伊弉諾尊勅任三子曰天照大神者可以治髙天原也月讀尊者可以治滄海原潮之八百重也素戔嗚尊者可以治天下也是時素戔嗚尊年已長矣復生八握鬚髯雖然不治天下常以啼泣恚恨故伊弉諾尊問之曰汝何故恒啼如此耶對曰吾欲從母於根國只爲泣耳伊弉諾尊惡之曰可以任情行矣乃逐之」、【伊奘諾は、還って、追ったことを悔い、「私はけがれた汚穢な所に行った。だから、わが身の濁った穢を濯ぎ去りたい」と言って、筑紫の日向の小戸の橘の檍原に行きついて、祓い除いた。それで身の汚い所を洗い濯ごうと、「上瀬はとても疾く、下瀬はとても弱い」と言って、中瀬で濯いだ。そこで生んだ神を、名付けて八十枉津日の神という。次に其の枉りを矯そうとして生んだ神を、名付けて神の直日の神という。次に大の直日の神。又、海の底に潜って濯いだ。そこで生んだ神を、名付けて底津少童という。次に底筒男。又、潮の中に潜って濯いだ。そこで生んだ神を、名付けて中津少童という。次に中筒男。又、潮の上に浮いて濯ぐ。そこで生んだ神を、名付けて表津少童という。次に表筒男。凡て九の神だ。その底筒男・中筒男・表筒男は、住吉の大神だ。底津少童・中津少童・表津少童は、阿曇の連達の祭る神だ。それで、左の眼を洗った。それで生んだ神を、名付けて天照の大神という。復、右の眼を洗った。それで生んだ神を、名付けて月讀という。復、鼻を洗った。それで生んだ神を、名付けて素の戔嗚という。凡て三神。すでに伊奘諾は、三子に「天照の大神は、高天原を治めなさい。月讀は、滄海原の潮の八百重を治めなさい。素戔嗚は、天の下を治めなさい」と詔勅して任命した。この時に、素の戔嗚は、年がすでに長じていた。復、八握の鬚髯が生えていた。それでも天の下を治めず、常に啼き泣いて恨だ。それで、伊奘諾は「お前はどうしていつも啼いている」と問いかけ、「私は母に根の國にいきたい思って、只、泣いているだけだ」と答えた。伊奘諾は嫌悪して、「思うとおり行ってしまえ」と言い、それで放逐した。】と訳した。

黄泉国は対馬の「狹」から伊弉冉の出身地の「竹野媛者因形姿醜返於本土則羞其見返到葛野自堕輿而死之故號其地謂堕國今謂弟國」と葛野がある山城の弟国に挿げ替えて、葬った地域を大国の「醜」と言う地域に書き換え、さらに、「醜」と言う地域の出身の『舊事本紀』で大國主と合祀した「葦原醜雄」に、そして、「出雲醜大臣命・・・申食國政大夫以爲大臣・・・大臣之号始起」と最初の大臣の「出雲醜」に、それが、「欝色雄」・「欝色謎」・「物部連祖伊香色雄」・「伊香色謎」へと受け継がれる。

八(神倭)国王懿徳天皇の義兄の建飯勝が「出雲臣女子沙麻奈姫」と出雲を手に入れ、「出雲色多利姫」の子の大国の王と思われる「出雲醜大臣」で建飯勝の義父若しくは義兄と考えられ、「倭志紀彦妹真鳥姫爲妻」と「八」国王と思われる志紀王の姫を娶った大国王の出雲醜大臣、子も出石心大臣と大国王で、『舊事本記』で饒速日が出雲醜で真鳥姫が御炊屋姫、志紀彦が長髓彦を表した物部氏の神武東征である。

安寧・懿徳天皇の時代は孔子が生きた時代で、安寧・懿徳朝の時代に君子国が存在していなければ、孔子の君子礼賛の君子に具体性が無く、孔子が生きている時代の中国の王は君子とは思っておらず、孔子は日本に憧れ、君子が日本に居た、それが『山海經』の君子国で、その後を継いだ、天皇名に大倭が付加される、『続日本紀』で大和が君子国と記述され、紀元前290年から始まる孝霊朝から丹波大国が支配する大八(大倭)国となったと考えられる。

2021年6月9日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第五段6

  一書()は続けて、「・・・後伊弉諾尊追伊弉冉尊入於黃泉而及之共語時伊弉冉尊曰吾夫君尊何来之晩也吾已湌泉之竈矣雖然吾當寢息請勿視之伊弉諾尊不聽陰取湯津爪櫛牽折其雄柱以爲秉炬而見之者則膿沸虫()流今世人夜忌一片之火又夜忌擲櫛此其縁也時伊弉諾尊大驚之曰吾不意到於不湏也凶目汗()穢之國矣乃急走廻歸于時伊弉冉尊恨曰何不用要言令吾恥辱乃遣泉津醜女八人(一云泉津日狹女)追留之故伊弉諾尊拔剱背揮以逃矣因投黑鬘此即化成蒲陶醜女見而口採噉之噉了則更追伊弉諾尊又投湯津爪櫛此即化成筍醜女亦以拔噉之噉了則更追後則伊弉冉尊亦自来追是時伊弉諾尊已到泉津平坂一云伊弉諾尊乃向大樹放尿此即化成巨川泉津日狹女将渡其水之間伊弉諾尊已至泉津平坂故便以千人所引磐石塞其坂路與伊弉冉尊相向而立遂建絶妻之誓時伊弉冉尊曰愛也吾夫君言如此者吾當縊殺汝所治國民日将千頭伊弉諾尊乃報之曰愛也吾妹言如此者吾則當産日将千五百頭因曰自此莫過即投其杖是謂岐神也又投其帶是謂長道磐神又投其衣是謂煩神又投其褌是謂開囓神又投其履是謂千()敷神其於泉津平坂或所謂泉津平坂者不復別有處所但臨死氣絶之際是之謂歟所塞磐石是謂泉門塞之大神也亦名道返大神矣・・・」、【その後に、伊奘諾は、伊奘冉を追って、黄泉に入って共に語った。その時に伊奘冉が、「あなたは、どうしてのんびりやって来たのです。私は、すでに泉の竈のものを食べた。それで、もう寝りについた。もう見ないで」と言った。伊奘諾は、聞かずに、陰で湯津の爪櫛を取って、その雄柱を牽き折って、松明にして見たら、膿が流れて蟲がわいていた。今、世の人が、夜一片の火を忌んだり、夜擲櫛を忌む縁だ。その時に伊奘諾は、大変驚いて、「私は、けがれた汚穢の國に来たとしらなかった」と言い、急いで走げ帰った。その時に、伊奘冉は、「どうして約束を守らないで、恥をかかせた」と恨み事を言って、泉津醜女八人、(あるいは、泉津日狹女という)を派遣して追い留めた。それで、伊奘諾は、劒を拔いて後ろに振り回して逃げた。それで、黒鬘を投げた。これが、蒲陶に化った。醜女、見て採って食べた。食べ終わってさらに追った。伊奘諾は、又、湯津爪櫛を投げた。これが筍に化った。醜女はまた拔いて食べた。食べ終わって更に追った。後で伊奘冉も自ら追って来た。この時に、伊奘諾は、すでに泉津平坂についた。そして、伊奘諾は、大樹に向って尿を放った。これが巨川と化った。泉津日狹女はその水を渡ろうとする間に、伊奘諾は、すでに泉津平坂に至った。それで千人引所の磐石で、その坂路に塞いで、伊奘冉と向かいあって立って、絶縁の誓を言った。その時に、伊奘冉が「愛しき旦那様、そう言うなら、お前が治める国民を、日に千人絞め殺そう」と言った。伊奘諾は、「愛しきお前、そう言うなら、私は日に千五百人産もう」と答えた。それで、「ここを越えて来るな」と言い、その杖を投げた。これを岐の神という。又、その帶を投げた。これを長道の磐の神という。又、その衣を投げた。これを煩の神という。又、その褌を投げた。これを開囓の神という。又、その履を投げた。これを道敷の神という。その泉津平坂で、あるいは、泉津平坂というのは、復、他には無い、但死に臨んで氣が絶える際をいうとある。塞がる磐石というのは、この泉の門を塞ぐ大神をいう。亦の名は道返の大神という。】と訳した。

「岐神」の「岐」は国のことで、『古事記』では伊弉諾を伊耶那岐と書き、最初は海の女神と岐の男神と考えられ、『舊事本紀』で「岐神」が「経津主・武甕槌」の先導役になった神話は神武東侵でも流用され、この説話は「高皇産霊」が大人国の「大巳貴」に国譲りを迫った事代主の神話のようだ。

「ふなと」神を「岐神」と表意文字にしたのは、港が国の象徴でそれを「国」神としたが、中国ではその国神を君子と記述し、日本では岐神子と呼んだと考えられ、君子国は岐神国を意味し、神武建国は君子国すなわち三国王三嶋溝杭が八国の野洲王八重事代主に支配され、その結果、事代主の婿が天皇になり、君子国の三国王に冠位の主を与えた結果、君主国となり、「八国」は神倭(みや)国となったとおもわれ、葛城氏はその配下となった。

経津主も同時期、武甕槌は溝杭の曽孫の建甕尻が「亦名建甕槌」と呼ばれ、母系が出雲臣で、その子豊御氣主は紀伊名草姫を娶って紀伊に入って、その子大御氣主は大八王と姻戚になり、八咫鏡の亦名で眞經津鏡と多紐文鏡若しくは三角縁神獣鏡と関係が有りそうである。

2021年6月7日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第五段5

  一書()は続けて、「・・・時伊弉諾尊恨之曰唯以一兒替我愛之妹者乎則匍匐頭邊匍匐脚邊而哭泣流涕焉其淚墮而爲神是即畝丘樹下所居之神號啼澤女命矣遂拔所帶十握剱斬軻遇突智爲三段此各化成神也復剱刃垂血是爲天安河邊所在五百箇磐石也即此經津主神之祖矣復剱鐔垂血激越爲神號曰甕速日神次熯速日神其甕速日神是武甕槌神之祖也亦曰甕速日命次熯速日命次武甕槌神復剱鋒垂血激越爲神號曰磐裂神次根裂神次磐筒男命一曰磐筒男命及磐筒女命復剱頭垂血激越爲神號曰闇龗次闇山祇次闇罔象然・・・」、【ある時に、伊奘諾は、恨んで「唯、一児と、私の愛しき妻と替えられない」と言い、則ち頭のあたりで腹ばい、脚のあたりで腹ばい、啼きに泣いて涙を流した。その涙が墮ちて神となった。これがすなわち畝の丘の樹の下に居る神だ。啼澤の女と名付けた。とうとう帯びた十握の劒を拔いて、軻遇突智を斬り三段にした。それぞれ神と化り成った。また、劒の刃から垂る血が、天の安の河邊に在る五百箇の磐石となった。すなわちこれは、經津の主の神の祖だ。また、劒のつばから垂れる血が、激しく飛び越えて神となった。名付けて甕の速の日神という。次に熯の速の日神。その甕の速の日神は、武の甕槌の神の祖だ。または、甕の速の日という。次に熯の速の日。次に武の甕槌の神。また、劒の切っ先から垂れる血が、激しく飛び越えて神となる。名付けて磐の裂の神という。次に根の裂の神。次に磐の筒男。他の言い方で、磐の筒男及び磐の筒女という。また、劒の頭から垂れる血が、激しく飛び越えて神となった。名付けて闇の龗という。次に闇の山祇。次に闇の罔象。】と訳した。

斬軻遇突智を切った十握剱は「噴之狹霧」とやはり『舊事本紀』の主神の狹霧を接頭語にした「田心姫・湍津姫・市杵嶋姫」を生んだ「須佐之男」の剱で、八岐大蛇を退治した剱でもあり、「須佐之男」を主人公にした「丈夫国」の神話で、速水の門近辺の曲浦で釣りをしていた珍彦は紀伊国造りの祖で岡縣主祖は熊鰐で、珍彦の神話と考えられ、宗像近辺の神話と考えられる。

すなわち、この啼いているのは、伊弉諾ではなく「此神有勇悍以安忍且常以哭泣爲行」と記述するように素戔嗚と考えられ、武甕槌は出雲臣の子の沙麻奈姫の子で、素戔嗚が根国に行く途中で住んだ場所が「出雲之清地」である。

そして、「龗」は『古事記』に速須佐之男と櫛名田比賣の子の八島士奴美とその妃で大山津見の娘の木花知流との子の布波能母遲久奴須奴、その妃の日河の父が「淤迦美」で丈夫国王が八国を支配下にしたことを記述しているが、出雲臣の子達が出現する神話なのだから、崇神天皇以降の神話で、『後漢書』の「女王國東度海千餘里至拘奴國」の拘奴国の神話の可能性が有る。


2021年6月4日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第五段4

 次の一書は、一書()「一書曰伊弉諾尊與伊弉冉尊共生大八洲國然後伊弉諾尊曰我所生之國唯有朝霧而薫滿之哉乃吹撥之氣化爲神號曰級長戸邊命亦曰級長津彥命是風神也又飢時生兒號倉稻魂命又生海神等號少童命山神等號山祇水門神等號速秋津日命木神等號句句廼馳土神號埴安神然後悉生萬物焉至於火神軻遇突智之生也其母伊弉冉尊見焦而化去于」、【一書に、伊奘諾と伊奘冉と、共に大の八の洲國を生んだ。その後に、伊奘諾が、「私たちが生んだ國は唯、朝霧のみ有って、薫り滿ちていない」といった。乃ち吹き撥する氣が神と化った。名を級長の戸邊という。亦は級長の津彦という。これは、風の神だ。又、飢た時に生む子を、倉稻の魂という。又、生まれた海の神達を、少童という。山の神達を山祇という。水の門の神達を速の秋の津の日という。木の神達を句句廼馳という。土の神を埴の安の神という。その後に、悉に萬の物を生んだ。火の神の軻遇突智が生れるに至って、その母伊奘冉は、焦れて化り去った。】と訳した。

この一書は本文より詳しく『古事記』と同じ背景の神話と思われ、信濃國直丁が鳥養部になる前、倭武以降に得た神話と考えられ、級長は信濃の「しな」で、『古事記』の「迫到科野国之州羽海将殺時建御名方神」と国譲りの御名方神の説話を知っている氏族の神話と考えられる

「少宮」は伊奘諾が「淡路之洲」で隠遁した宮で、また「玉依姫海童之小女」と神武天皇の母系が「少・童」の文字を使い、「少彦名」は『舊事本記』で「行到熊野之御碕」から常世に去り、海神となったと述べ、『日本書紀』は小女と少女のように漢字を使い、少彦は小彦と同義と思われ、少彦は吉備の小国の人物と考えられる。

風の神、風は伊勢の枕詞で、伊勢志摩の伊勢ではなく、伊勢遺跡の伊勢の神の可能性が高く、倉稻は『古事記』「宇迦之御魂神」「大国主神亦為宇都志国玉神而其我之女須世理毘売為適妻而於宇迦能山」の「うか」もしくは文字から考えると高倉下のいた「菟田高倉山で、さらに、「萬魂」の子は『先代舊事本紀」に「次萬魂尊兒天剛風命(高宮神主等祖)」と高の王の高木神である。

船着き場の神が豊国と呼ばれる前の速国の分国の安芸の津の日神で、日別は九州日国の分国で、『梁書』に「文身國」とあり、『山海經』に東シナ海と日本海西部と日本の太平洋側に日国「三身國」の海岸が有る国の分国が文身國で、祖の分国で安芸にいる日神と記述している。

現代に言われている蜻蛉野は神武天皇が三一年猶如蜻蛉之臀呫焉由是始有秋津洲之號也昔・・・浦安國細戈千足國磯輪上秀眞國・・・玉牆内國・・・虚空見日本國」のように秋津洲と命名していて、神武以降に建国した人物が作った神話である。

そして、土の神の埴安神は「河内青玉繋女埴安媛生武埴安彦命」と崇神紀で大彦と戦う人物の「八」国で、以前、この人物が長髓彦と証明し、この一書の氏族は君子国の流れをくむ、中の国出身の王朝であることを誇示している。

そして、その火神の軻遇突智、これはおそらく、木の神の句句廼馳と分岐した神で『後漢書』の「自女王國東度海千餘里至拘奴國」、「倭人」が「倭奴國」なら「拘奴國」には「拘人」がいて、『三国志』に「狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗」と、「狗古智」・「句句廼馳」は類似している。

すなわち、この一書は黒曜石や縄文土器の中心地の信濃から三国を支配した越国、越神の風下の野洲、そして、木国の木津、さらに、吉備の小国、安芸、豊前と大八国になる前の神倭(神八)国を建国した氏族の「火」を「か」と読む漢字と知っている、魏朝以降の神話と考えられる。



2021年6月2日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第五段3

  次に、一書()一書曰伊弉冉尊生火産靈時爲子所焦而神退矣亦云神避矣其且神退之時則生水神罔象女及土神埴山姫又生天吉葛天吉葛此云阿摩能與佐圖羅一云與曾豆羅」、【一書に、伊奘冉は、火の産靈を生む時に、子の爲に焦れて、神退った。または、神避るという。その神が退こうとする時に、則ち水の神罔象女、及び土の神埴山姫を生み、又、天の吉葛を生んだ。天の吉葛、これをあまのよさつらと云う。あるいは、よそつらという。】と訳した。

この神話は一書()の軻遇突智を稚産靈の父、産靈に置き換え、伊奘冉の後継者おそらく吉葛を娶った正当な王だと述べ、漢字理解が進んで「火」神と「日」神を「照らす」神と同等の意味と考えている。

ここの「稚」は「志賀高穴穗宮」の配下だった 稚国王の「 稚足彦」の子「足仲彦」が紀伊戻っており、その上司が息長氏で敦賀が居住地と理解され、「稚」足彦が支配していたのが敦賀だった可能性が高く、「稚」は若狭の「わか」だったと考えられる。

稚国王の子の足仲彦は「なか」国王となって中臣氏を配下にし、旧中国王の中臣氏の女王の「大中姫」、やはり日国の女王を示す姫を使用し、朝廷は山城王族の大酒主の娘の「弟媛」を皇后にしたようで、媛の文字を使っている。

仲哀天皇は葛城家の「なか」国王と尾張朝廷の仲哀天皇と、高穴穗の別朝廷・秦国物部朝廷とを記述している。

一書()一書曰伊弉冉尊且生火神軻遇突智之時悶熱懊惱因爲吐此化爲神名曰金山彥次小便化爲神名曰罔象女次大便化爲神名曰埴山媛」、【一書に、伊奘冉は、火の神、軻遇突智を生もうとする時に、熱に悶へ懊惱とした。それで吐いた。これが神と化った。名を金山彦という。次に小便が神と化った。名を罔象女という。次に大便が神と化った。名を埴山媛という。】と訳した。

この神話は土器を作り、農耕を行い、銅器を作り、漢字を理解した後の神話の様だ。

次に一書()一書曰伊弉冉尊生火神時被灼而神退去矣故葬於紀伊國熊野之有馬村焉土俗祭

 此神之魂者華()時亦以華()祭又用鼓吹幡旗歌舞而祭矣」、【一書に、伊奘冉は、火神を生む時に、灼かれて神退いて去った。それで、紀伊の國の熊野の有馬の村に葬った。土の俗、この神の魂を祭るには、花で祭った。又、鼓吹き幡旗を用いて、歌い舞って祭る。】と訳した。

一書()から()は伊弉冉の国を軻遇突智の説話を利用して産靈・魂の神話を接合した説話で伊弉冉を殺した軻遇突智(産靈)の子孫が若狭(わか国)に遷り国を建国した説話のようだ。

『日本書紀』の木の神「くくつち」が火の神「かぐつち」に変化し、「火()」を「か」と読むということを知っていることを示していて、知った時期は、まず第一が十干を理解した、五行説がまだない、紀元前667年頃に丙丁を「かのえ・かのと」と読んだかどうか、第二が五行説を認識できた前300年頃が考えられるが、第二なら干支は別の文字が使われ、第一なら既に「木火土金水」の順という考えがあったということになる。

また、『日本書紀』も『古事記』も「丁」を「よほろ」と読み、平郡朝では「丁」の音を「てい」と知っているので「孁音力丁反」と「りきてい」の反の「れい」と注を記述し、『古事記』も干支に読みを記述せず、「丙」を和語で使用していない。

しかし、五行説が無い周武王の時、『史記』に「甲子日紂兵敗」と干支で吉凶を占い、「十一年十二月戊午」と日干支を使っており、さらに、干支が別の文字で使われていたのなら『日本書紀』本文に読みが記述されると思われ、「干支」を「えと」のように「兄弟」と読み、「朔」の読みが「ついたち」で朔日と同じ読み、「晦」も同様で「晦日」と同じなので、前667年頃に日干支や年干支の文字と読みを使い、「火」を「か」と読んだ可能性が高く、『日本書紀』本文の軻遇突智は前667年以前の神話である。