2021年5月21日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第四段3

  次に、一書()一書曰先生淡路洲次大日本豊秋津洲次伊豫二名洲次億岐洲次佐度洲次筑紫洲次壹岐洲次對馬洲」、【一書に。淡路の洲を先に生む。次に大日本の豐の秋津の洲。次に伊豫の二名の洲。次に億岐の洲。次に佐度の洲。次に筑紫の洲。次に壹岐の洲。次に對馬の洲。】と訳した。

一書()は、一書()の国生みの筑紫より前に隠岐を挿入しているので、隠岐の神話を一書()の王朝の神話に挿入した可能性が高く、大国が大八国に含まれず、懿徳天皇より前の神話である

次に、一書()一書曰以磤馭慮嶋爲胞生淡路洲次大日本豊秋津洲次伊豫二名洲次筑紫洲次吉備子洲次雙生億岐洲與佐度洲次越洲」、【一書に、磤馭慮の嶋を胞として、淡路の洲を生む。次に大日本の豐の秋の津の洲。次に伊豫の二名の洲。次に筑紫の洲。次に吉備の子の洲。次に億岐の洲と佐度の洲とを雙に生む。次に越の洲。】と訳した。

一書()は一書()のと同様で、筑紫が吉備子国を得ているので、「吉備兒嶋謂建日方別」と熊襲が吉備を配下にした時代の神話を挿入している。

隠岐と佐渡が双子の国とされる記事が複数あり、冠帶の周饒國は三小島より先に佐渡が領地の様で、対馬海流による船の経済圏をよく示して、やはり大国がないので懿徳より前の神話の様だ。

次に、一書()一書曰以淡路洲爲胞生大日本豊秋津洲次淡洲次伊豫二名洲次億岐三子洲次佐度洲次筑紫洲次吉備子洲次大洲」、【一書に、淡路の洲を胞として、大日本の豐の秋の津の洲を生む。次に淡の洲。次に伊豫の二名の洲。次に億岐の三子の洲。次に佐度の洲。次に筑紫の洲。次に吉備の子の洲。次に大の洲。】と訳した。

一書()は隠岐の王家の神話を挿入した神話で、神倭王の流れを汲む王家の神話の可能性が高く、懿徳以後の大八国の神話である。

次に、一書(10)一書曰陰神先唱曰姸哉可愛少男乎便握陽神之手遂爲夫婦生淡路洲次蛭兒

【一書に、陰の神先づ「とても美しい、可愛く若い男よ」と唱えた。便ち陽の神の手を握って、遂に夫婦となって、淡路の洲を生む。次に蛭兒。】

一書(10)は淡路国の蛭兒が、おそらく、「大日孁貴」と対の神で、淡路国出身の大蛭兒が大国の姫神と夫婦になった神話なのではないだろうか。

すでに、『日本書紀』以前の史書「諸國置國史記言事達四方志」と志があり、それらを知った人々が、自分たちの国や氏族が自分たちの王朝での地位・序列を考えた自分たちの氏の史書の『舊事本紀』や『古事記』などを作ったその神話部分を記述したと思われる。
『舊事本紀』の狭霧は葦牙彦舅や中主より前に記述されるが、実際の時系列は葦牙彦舅・狭霧・中主で狭霧は高天原という国がすでにある所で生まれていて、高天原を生んだ神が存在し、中主は「なか」国という数ある国の中の王で、多くの主がいて、その王の中の王の大王や「圓大使主」の大使主、「胸形大神是則今在筑紫國御使君之祖」の使君と王の王の大王がいて、大王は天皇ではなく、複数の大王がいて、大王の中で天皇の爾を得た人物が天皇となる。

2021年5月19日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第四段2

 次に一書()一書曰伊弉諾尊伊弉冉尊二神立于天霧之中曰吾欲得國乃以天瓊矛指垂而探之 得磤馭慮嶋則拔矛而喜之曰善乎國之在矣」、【一書に、伊奘諾と伊奘冉の二神は、天の霧の中に立って、「私は、國をえる」と言った、乃ち天の瓊矛を、指し垂して探ったら、磤馭慮の嶋を得た。それで矛を拔いて、「なんと善い國が在った」と喜んだ。】と訳した。

次に一書()一書曰伊弉諾伊弉冉二神坐于髙天原曰當有國耶乃以天瓊矛畫成磤馭慮嶋」、

【一書に、伊奘諾伊奘冉の二神が、高天の原に居て、「本当に國が有るのか」といって、それで天の瓊矛で、磤馭慮嶋を描いた。】と訳した。

この2つの一書は国生みの場所が異なり、本文と一書()は天の浮橋と天国の船から延ばした桟橋で磤馭慮嶋を生んでいるが、一書()は天国の霧という地域、一書()は髙国の天原という土地がありそこで磤馭慮嶋を生んでいて、この霧や天原は対馬の人物が隠岐を得た神話と考えられる。

次に一書()一書曰伊弉諾伊弉冉二神相謂曰有物若浮膏其中蓋有國乎乃以天瓊矛探成一嶋

 名曰磤馭慮嶋」、【一書に、伊奘諾伊奘冉の二神が、「物が有って浮ぶ膏のようだ。その中にもしかしたら國が有るかもしれない」と語り合った。それで天の瓊矛で、探って私たちの嶋となった。名づけて磤馭慮嶋という。】と訳した。

この一書(2~4)は「葦牙彦舅」の国の神話の影響を受けていない神話と思われ、一書()が一番古く、伊弉神が浮ぶ膏と比喩し、日本では膏はおそらく鯨油でクジラを磤馭慮嶋にたとえて得ている

次に一書()一書曰陰神先唱曰美哉善少男時以陰神先言故爲不祥更復改巡則陽神先唱曰美

哉善少女遂将合交而不知其術時有鶺鴒飛来搖其首尾二神見而學之即得交道」、【一書に、陰の神まず「美しい、善く若い男よ」と唱えた。その時に、陰の神の言葉が先だったので、不吉として、更にまた、改めて回った。それで陽の神がまず、「美しい、善く若い女よ」と唱えた。遂に接合しようとしたがその方法を知らなかった。その時に鶺鴒がいて、飛び来たってその首と尾を搖らした。二神が見て学び、それで方法を得た。】と訳した。

この一書は『山海經』の丈夫國の北の「有陰有陽」の「奇肱之國」の神に名が無い初段階の神話で、女性も先頭に立って土地を開墾していたが、男性が他領地を獲得をするようになった神話なのではないだろうか。

次に、一書()一書曰二神合爲夫婦先以淡路洲淡洲爲胞生大日本豊秋津洲次伊豫洲次筑紫洲次雙生億岐洲與佐度洲次越洲次大洲次子洲」、【一書に、二神夫婦が合して、先ず淡路の洲淡の洲を胞として、大の日本の豐の秋の津の洲を生む。次に伊豫の洲。次に筑紫の洲。次に億岐の洲と佐度の洲とを雙に生む。次に越の洲次に大の洲次に子の洲】と訳した。

一書()の神話は本文と同じように阿波や淡路島から逃れた豊秋津洲出身の王の流れを汲む王が筑紫の王とともに、伊予・隠岐や君子国の越を破り大人国の丹波や吉備を配下にした大倭国王となったと主張している。

ある王が国の成り立ちを述べる時、協力者になった順を重要視するのは当然の帰結である。

2021年5月17日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第四段1

   『日本書紀』の慶長版は続けて、先ず淡路洲、大日本豐秋津洲、伊豫二名洲、筑紫洲、億岐洲、佐度洲、越洲、大洲、吉備子洲の大八洲國を生み、さらに、對馬嶋、壹岐嶋の国生みを行う。

これは、伊奘諾伊奘冉が桟橋から矛を使って隠岐の於母島に侵略し、国のシンボルの宮殿の中柱を立て各地の州・船着き場に分国を建国し、大倭国が支配する国だと述べ、『山海經』の「冠帶」する「周饒國」出身の安芸を支配した王の天皇の神話と思われる。

『日本書紀』の国生み神話は「豊秋津洲次生伊豫二名洲」のように豊や伊予など支配者がすでに存在し、淡路島の船着き場の村で王が敗れて逃亡し、豊国の秋の津の船着き場で男王が八国の構成国の筑紫国や大国や越国などの船着き場に中継地を作って、八国が国を支配した神話を流用したもので、『山海經』の「周饒國」や「大人國」・「丈夫國」・「君子國」の神話が原点と考えられる。

それに対して一書()「一書曰天神謂伊弉諾尊伊弉冉尊曰有豊葦原千五百秋瑞穗之地宜汝往脩之廼賜 天瓊戈於是二神立於天上浮橋投戈求地因畫滄海而引舉之即戈鋒垂落之潮結而爲嶋名曰磤馭慮嶋二神降居彼嶋化作八尋之殿又化竪天柱陽神問陰神曰汝身有何成耶對曰吾身具成而有稱陰元者一處陽神曰吾身亦具成而有稱陽元者一處思敬()以吾身陽元合汝身之陰元云爾即将巡天柱約束曰妹自左巡吾當右巡既而分巡相遇陰神乃先唱曰姸哉可愛少男歟陽神後和之曰姸哉可愛少女歟遂爲夫婦先生蛭兒便載葦舩而流之次生淡洲此亦不以充兒數故還復上詣於天具奏其狀時天神以太占而卜合之乃教曰婦人之辭其已先揚乎宜更還去乃卜定時日而降之故二神改復巡柱陽神自左陰神自右殷()遇之時陽神先唱曰姸哉可愛少女歟陰神後和之曰姸哉可愛少男歟然後同宮共住而生兒號大日本豊秋津洲次淡路洲次伊豫二名洲次筑紫洲次億岐三子洲次佐度洲次越洲次吉備子洲由此謂之大八洲國矣瑞此云彌圖姸哉此云阿那而惠夜可愛此云哀太占此云布刀磨爾」、【一書に、天の神、伊奘諾伊奘冉に、「豐の葦原の千五百の秋の瑞穗の地が有る。お前が行って脩めなさい」と言った。すなわち天の瓊戈を貰った。そこで、二神は、天の上の浮橋(?桟橋)に立って、戈を投げて地を求めた。それで、滄い海をかきなでて、引き擧げたときに、戈の鋒より垂り落ちる潮が固まって嶋と爲った。名づけて磤馭慮嶋といった。二神は、嶋に降り、居住して、八尋の殿を作りった。又、天の柱を堅めた。陽の神は、陰の神に「お前の体に何の有るか」と問いかけた。「私の体に備わった、陰の元というのが一つある」と答えた。陽の神が「私の体にも備わった、陽の元というのが一つある。私の体の陽の元を、お前の体の陰の元に接合させたい云々」と行った。それで天の柱を巡ろうと「お前は左から回れ。私は右から回る」と約束した。それで分れ回って相遇した。陰の神が、まず「とても美しい、可愛く若い男よ」と唱えた。陽の神も、後に同じく、「とても美しい、可愛く若い女よ」と言った。遂に夫婦と爲って、先づ蛭兒を生んだ。それで葦の船に乗せて流した。次に淡の洲を生んだ。これも子の数に入れなかった。それで、元に戻って、天に上り詣でて、詳しくその事を報告した。その時に天の神は、占って、「婦人の言葉が先だったからだ。もう一度帰れ」と教えた。掛け声の順を占って決めて海流を降らせた。それで、二神は、改めて復、柱を回った。陽の神は左、陰の神は右回り、遭遇した時に、陽の神が、先ず「とても美しい、可愛いく若い女よ」と唱えた。陰の神が後に、「とても美しい、可愛く若い男よ」と同調した。その後に、宮で同居して子を生んだ。大の日本の豐の秋の津の洲という。次に淡路の洲。次に伊豫の二名の洲。次に筑紫の洲。次に億岐の三子の洲。次に佐度の洲。次に越の洲。次に吉備の子の洲。これを大の八の洲國といった。「瑞」、これを「みつ」と云う。「妍哉」、これを「あなにゑや」と云う。「可愛」、これを「え」と云う。「太占」、これを「ふとまに」と云う。】と訳した。

この一書は阿波出身の王が「豊葦原千五百秋瑞穗之地」と豊の葦の安芸がすでに存在すると述べるように、安芸の王家から朝廷を奪った、『日本書紀』を記述した王家と同族の神話で、この王家の時は、大国の王が配下でなく、大八国と記述しているが、実際はその前の八国の建国説話で、紀元前7世紀に君子国王の溝橛を八国王の八重事代主が支配して神八(倭)朝廷を起こし、懿徳天皇の時出雲大臣饒速日が畿内に乗り込んで、大八国王朝が始まった考えられ、世襲足姫の母系の葛城氏の神話と考えられる。

本文は矛を武器とする国が上位国であるのに対して、この一書は戈を武器とする国が上位国だったことが解り、暦と日干支を理解する人物は宮で神事を行う人々が、記録を含めて残したため、日本書紀の歴史部分となったが、多くの国は記録が無い神話の国々であったようだ。

ここに記述される「磤馭慮嶋」は『伊未自由来記』に「隠岐は小之凝呂島」と言い伝えられたり、『古事記』に「生隠伎之三子嶋亦名天之忍許呂別」と小島三島が忍許呂別なのだから於母嶋が忍許呂島で『山海經』の「周饒國」、三子嶋は「一身三首」の三首國」で丹波の「大人國」の於漏知に支配され、大己貴が於漏知・八王に勝って八国の八上比賣を娶って大人国王となったようだ

そして、「磤馭慮嶋」に柱を立てたのが、宮の太柱の始まりで王朝は夫婦でこの神殿建設の儀式をすることで建国したことになり、その場には神祖を祀り、前王の皇太后、そして男王と女王が居て、ここでは矛や戈を持つが、後代には天皇の爾を手にして王朝建国の宣言をしたのだろう。


2021年5月14日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第二・三段2

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は「三代耦生天神角杙尊亦云角龍魂尊妹活杙尊別天三降尊 獨化天神第二世之神也四代耦生天神埿土煮尊亦云埿土根尊妹沙土煮尊亦云沙土根尊別天合尊亦云天鏡尊獨化天神第三之神也五代耦生天神大苫彦尊亦云大戸之道亦云大富道亦云大戸麻彦妹大苫邊尊亦云大戸之亦云大富邊亦云大戸麻姫別天八百日尊 獨化天神第四之神也六代耦生天神青橿城根尊亦云沫薙亦云面足尊妹吾屋惶城根尊亦云惶根尊亦云蚊雁姫尊別天八十萬魂尊獨化天神第五之神也七代耦生天神伊弉諾尊天降陽神伊弉冉尊天降陰神別高皇産霊尊(亦名高魂尊亦名高木命獨化天神第六之神也)兒天思兼命(天降信濃国阿智祝部等祖)次天太玉命(志部首等祖)次天忍日命(大伴連等祖亦云神狭日命)次天神立命(山代久我直等祖)次神皇産霊尊(亦云神祝尊)次天御食持命(紀伊直等祖)次天道根命(川瀬造等祖)次天神玉命(葛󠄀野鴨縣主等祖)次生魂命(猪使連等祖)次津速魂尊兒市千魂命兒興登魂命兒天兒屋命(中臣連等祖)次武乳遺命(添縣主等祖)次振魂尊兒前玉命(掃部連等祖)次天忍立命(纏向神主等祖)次萬魂尊兒天剛風命(高宮神主等祖)巳上七代天神伊弉諾伊弉冉尊并八代天神並天降之神也」、【第三代の一緒に生まれた天神は角杙または角龍魂、の活杙。別の系統に天三降は一柱で変化して生れた天神の第二世だ。第四代の一緒に生まれた天神は埿土煮または埿土根。妻の沙土煮または泥土根。別系統に天合または天鏡。一柱で変化して生れた天神の第三世だ。第五代の一緒に生まれた天神は大苫彦または大戸之道または大富道または大戸麻彦。妻の大苫辺または大戸之辺または大富辺または大戸麻姫。別系統に天八百日。一柱で変化して生れた天神の第四世だ。第六代の一緒に生まれた天神は青橿城根または沫薙または面足。妻の吾屋惶城根または惶根または蚊雁姫。別系統に、天八十万魂は一柱で変化して生れた天神の第五世だ。第七代の一緒に生まれた天神は伊弉諾または天降陽神。妻の伊弉冉または天降陰神。別の系統に高皇産霊または高魂または高木は一柱で変化して生れた天神の第六世だ。高皇産霊の子の天思兼(信濃国に降り、阿智祝部の祖)次に天太玉(忌部首の祖)次に天忍日(大伴連の祖または神狭日)次に天神立(山代久我直の祖)次に神皇産霊または神祝。次に天御食持(紀伊直の祖)次に天道根(川瀬造の祖)次に天神玉(葛野鴨県主の祖)次に生魂(猪使連の祖)次に津速魂。津速魂の子の市千魂。子の興登魂。子の天児屋(中臣連の祖)次に武乳遺(添県主の祖)次に振魂。子の前玉(掃部連の祖)次に天忍立(纏向神主の祖)次に万魂。万魂の子の天剛川(高宮神主の祖)上記の第七代の天つ神、伊弉諾尊・伊弉冉尊、および第八代の天神は、天降った神だ。】と訳した。

また、『古事記』前川茂右衛門寛永版は「次成神名宇比地迩止神次妹須比智迩去神次角杙神次妹活杙神次意富斗能地神次妹大斗乃辨神次於母陀琉神次妹阿夜止訶志古泥神次伊耶那岐神次妹伊耶那美神上件自國之常立神以下伊邪那美神以前并稱神世七代」、【次に成り代わった神の名は、宇比地迩止、次に妻の須比智迩去。次に角杙、次に妻の活杙。次に意富斗能地、次に妻の大斗乃辨。次に於母陀流、次に妻の阿夜上訶志古泥。次に伊邪那岐、次に妻の伊邪那美。上の國之常立より後、伊邪那美より前を、併せて神世七代という。】と訳した。

  ともに、埿土煑・沙土煑、大戸之道・大苫邊、面足・惶根、伊弉諾・伊弉冉と亦の名を含めて同じで、建国の最初の王が「埿」すなわち素戔嗚に与えられた根の国の男が「沙」にやって来て、「沙」国が「大」国を併合し、その大国は 面足・惶根が建国した根国を併合していたことを述べ、「沙」の建国は伊弉諾が「沙」にやって来て伊弉冉が建国した国だったことを示し、『日本書紀』を作成した平郡氏も、『舊事本紀』を作成した物部氏も、『古事記』を作成した巨勢氏と元明天皇も伊弉冉の神話を伝承し、『魏略』の「前漢書 卷二十八下 地理志 燕地 顔師古注」に「倭在帯方東南大海中依山島爲國度海千里復有國皆倭種」と倭種の系統なのだろう。

  平郡氏は男系の葛城氏や女系の紀氏の出自を基本とはしたが、統合された王朝の史書を記述する責任から、多くの功績が有った日向王や倭国の漢氏等の氏族が納得するよう、『日本書紀』の神話に、その氏族の神話を取り入れて記述し、その後、巨勢氏の『古事記』が出来上がって、『古事記』を取り込んだ舒明天皇の推古天皇まで記述された『日本書紀』に沿って、『舊事本紀』を記述した。

  『古事記』は、父の磐坂市辺押磐皇子の姉妹が中蒂姫なので、「なか」国の神話を取り入れた史書として記述し、『舊事本紀』は蘇我氏(倭国なので母系は天氏)と物部氏が納得させる、しかし、基本は『日本書紀』・『古事記』で、それに、天氏と物部氏の神話を追加したと考えられ、その後の『日本書紀』を知らない元明天皇が『古事記』の神話部分を夫の日並・実質の天皇の藤原氏の出自の「なか」国の最高神に修正し、系図を付け加えたが、その後、『日本書紀』を手に入れて、それほど変更を加えず発布したと考えられる。

  そのため、『舊事本紀』は『日本書紀』の國常立尊神の前に『古事記』の天御中主尊、さらに、『舊事本紀』は月國狭霧や物部系の神を付け加え、多くの氏族の支配被支配の系統樹が出来上がり、物部氏・蘇我氏・巨勢氏・平郡氏の男系・女系の始祖が同じ伊弉諾・伊弉冉であったことが示されている。

  中国は水が湧く水源を「てん」・日本は中国が「天」とよぶ地域を「あま」と呼び、天にいる神を中国は「帝」・日本は「み」と呼び、さらに、日本では「み」を対馬海流上流の神の「うみ」・川の上流の神を「かみ」、山や原野の生命を生み出す神を、中国語では霊、日本語では「ち」と呼んだと考えられる。

  これは、倭人が1万2千年前の鹿児島の栫ノ原遺跡の丸ノミ石斧を使って、丸木舟を造り、海流を利用して遠くまで航海する方法を考え出し、対馬海流が流れ出して日本海の文明と交流し、アカホヤで日本海の文明の地に侵入して混血し倭種が形成され、鍾乳石の成長や噴火による噴煙から突如現れる火山島が出来た様子や7千年前のクジラ漁に必要な石器が大量に出土した平戸のつぐめのはな遺跡のように共同で漁をする必要があるクジラ漁がはじまりクジラが子を産む様子をもとに神話が作られたと私は考えている。

  物語を発明するには、それに類する体験が無ければ作り出すことが出来ず、祖先が解らない場合は卵生の祖、仏教の輪廻は死骸から虫が出てくる事から考え出され、天国はオアシスを投影したことに過ぎないと考えている。


2021年5月12日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第二・三段1

  次の一書の、一書()一書曰國常立尊生天鏡尊天鏡尊生天萬尊天萬尊生沫蕩尊沫蕩尊生伊弉諾尊沫蕩此云阿和那伎【一書に、國常立鏡を生んだ。天萬を生んだ。天、沫蕩を生んだ。沫蕩、伊奘諾を生んだ。沫蕩、此をばあわなぎと云ふ。】と訳した。

 この一書は『舊事本紀』「天祖天譲日天狭霧國禪月國狭霧尊・・・二代化生天神國常立尊・・・獨化天神第一世之神也四代耦生天神埿土煮尊・・・亦云天鏡尊獨化天神第三之神也・・・六代耦生天神青橿城根尊・・・別天八十萬魂尊獨化天神第五之神也七代耦生天神伊弉諾尊」の類型で「ね国」の埿土煮」の家系の臣下になった月(津岐)國を建国した王で後に物部と氏を名乗る狭霧の家系の神話で、多紐文の銅鏡を作成した時代の神話なのだろう。

日本書紀』の慶長版は続けて、凢八神矣乾坤之道相參而化所以成此男女自國常立尊迄伊弉諾尊伊弉冉尊是謂神世七代者矣【八は神が北西と西南からの道で出会って此の地の女神とペア神となった。國常立から伊奘諾伊奘冉迄を神世の七代という。】と神世七代を記述し、『山海經 海經 海外南經』地之所載六合之閒四海之・・・神靈所生【地の載せる所、六合の間、四海の内・・・神靈生まれる所】と、「六合」が中国からの海路と九州西部からの海路がぶつかる所と説明し、この一書の対象国は関門海峡の神話と考えられる

神話に八神など「八洲」の説話が現れるが、神武天皇以降では天武天皇の時に「明神御大八洲日本根子天皇勅命者」と出現するだけだが、その理由は、平郡王朝が『日本書紀』を編集する時、八国を『後漢書』の「大倭王」を「大八王」と理解し、倭の文字に対応させたと考えられ、神倭は「みや」で宮と考えられ、「脚摩乳手摩乳也故賜號於二神曰稻田宮主」と根国王が宮主、大三輪(大みわ)神社は大宮神社と理解できる。

すなわち、天武天皇の時代には、すでに、大八洲が自王朝の全領土を意味し、時代によって地名がインフレを起こして全く異なることが解る。

次の一書の、一書() 「一書曰男女(+)生之神先有埿土煑尊沙土煑尊次有角樴尊活樴尊次有面足尊惶根尊次有伊弉諾尊伊弉冉尊樴橛也【一書に、男女(?形どるように)神、先埿土煑沙土煑。次に角樴・活樴。次に面足・惶根。次に伊奘諾・伊奘冉。樴は橛なり。】と、埿土・沙土を神とする煑氏族の國狹槌神話で、角・活を神とする樴氏族と争ったことを示し、『日本書紀』では角樴の氏族『舊事本紀』に出現することから物部氏の臣下だったので扱わなかったと思われる。

神武天皇が支配した土地は三嶋溝杭という君主国の三国支配下の土地を八重事代主が奪った八国の土地で物部氏が天皇の爾を持っていて、樴の氏族を配下にしていたことが解る。

『伊未自由来記』の木葉比等とその同族の男女のように、独神は故郷の氏神の名、対の神は定住を始めた、定住先の氏神で母方の神名を名のり、妻の沙の煑という地域の神の女を埿と言う地域の夫が娶り、煑神を継承し、伊弉諾も同じく妻の伊奘の冉(神)の継承と思われ、侵入者のその地での同化の物語で、『山海經』の「奇肱之國・・・有陰有陽」と「三身國」の北にある奇肱国の神話を流用している


2021年5月10日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第二・三段1

  日本書紀』の慶長版は続けて、泥土煮尊・沙土煮尊(亦は泥土根尊・沙土根尊)次に大戸之道尊・大苫邊尊(一に大戸之邊・大戸摩彦尊・大戸摩姫尊・大富道尊・大富邊尊)、次に面足尊・惶根尊(亦は吾屋惶根尊・忌橿城尊・青橿城根尊・吾屋橿城尊)次に伊弉諾尊・伊弉冊尊とペア神イザナギ・イザナミの誕生である

 『日本書紀』は「天照大御神」の神話すなわち天(あま)を支配するの神話と考えられ、それを子孫に伝えた伝承が埿(という地域出身の埿土煑・沙と言う地域の女神の沙土煑の伝承であったと考えられ、それは、ペア神の最初に記述されているからである

そして、その神話が常立・狹槌・斟渟の三身国に引き継がれ、その氏族の持つペア神の「奇肱之國」の陰陽や「三身國」の「帝俊妻娥皇」の神話を接合したと考えられ、隠岐の3小島「三首國」を統治した「周饒國」の神話、隠岐・壱岐・対馬(津岐)の神話、三身国の神話、丈夫國の宗像3神の神話などがまとめられ、「奇肱之國」の王と思われる伊弉諾が伊弉冉がペア神となって国を生み、天照達3貴神を生んだ、それは、周饒国・丈夫国・君子国を中心とした神話を纏めたと考えられる。

しかし、神話の基本は始祖神がただ一人、神武天皇が「昔我天神高皇産靈尊大日孁尊」と神を「ひ」や「ち」と呼ぶ日孁で、神話を最初に話した人物は天照大神を祀る大国王で天国の東にあって天国を手に入れた(照らした)王の先祖が作ったのであり、その父は意味がなく、家族社会では母が中心の社会だ。

しかし、大国から男王が分国を作り、そちらが強くなると、分国の女王が地域を纏める源泉となり、本国の女王の下に夫婦の王という1セットができ、そして、分国では男王がそこの女王に婿入りして、その子たちが勢力を増やしていき、その男王の神話が伊弉諾の神話で、伊弉冉の死後に男王の国が3神(国)を生んだ神話となったと考えるのが理に適う。

本来の神話は『山海經』の「女祭女戚在其北居兩水閒」の「女戚」の神話の「草野姫」が国を作り、子達が「奇肱之國」の神話を継承した神話に「帝俊妻娥皇生此三身之國」と女神娥皇と征服者帝俊を付け加えた神話で、その後、新たな伊弉諾・伊弉冉という征服者が神を重層し、すなわち、神話の冒頭の神が征服者の先祖神で、征服されるたびに先頭に付け加えた。

侵略して建国する場合、初代の王は『三国史記』始祖赫居世居西干に「則徃觀之忽不見馬只有大卵剖之有嬰兒出焉」と両親がわからない卵から生まれる。

次の一書の、一書()一書曰此二神青橿城根尊之子也【一書に、此の二の神は、青橿城根尊の子とあり、この一書は一番偉い青橿城という根神が伊奘諾伊奘冉を生んだと述べているが、『日本書紀』は常立という「た」国の神が建国して伊奘諾伊奘冉が伝承を子孫に伝えたと主張している。

2021年5月7日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書第一段 4

   対して『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は「古者元氣混沌天地未割猶鶏卵子溟涬含牙其後清氣漸登薄靡為天浮濁重沈淹滞為地(?)謂州壤浮漂開闢別割是也譬猶游魚之浮水上于時天先成而地後定然後於高天原化生一神號日天譲日天狭霧國禪月國狭霧尊自厥以降獨化之外倶生二代耦生五代所謂神世七代是也神代系紀天祖天譲日天狭霧國禪月國狭霧尊一代倶生天神天御中主尊可美葦牙彦舅尊二代化生天神國常立尊亦云國狭立尊亦云國狭槌尊亦云葉國尊豊國主尊亦云豊斟渟尊亦云豊香節野尊亦云浮経野豊買尊(亦云豊歯別尊)天八下尊獨化天神第一世之神也」、【昔、もともとの状態は混沌として、天と地はまだ分かれていなかった。鶏卵の中身のように固まっておらず、中には、ほのかに何かが芽生えようとしていた。その後、澄んだ芽生えの状態は、立ち昇ってたなびいて天となり、浮き濁ったものは、重く沈み滞って地となった。いわゆる、国土が浮き漂い、開け別れたというのはこのことだ。たとえば、泳ぐ魚が水上に浮いているようである。すなわち、天が出来てから、地が出来た。その後に、高天原に生まれた一柱の神の名を、天譲日天狭霧国禅日国狭霧という。それ以降、ひとりでに生れた神の他に、共に生れた二代、二柱並んで生れた五代の、あわせて「神世七代」は、この神々である。天祖の天譲日天狭霧國禪月國狭霧、第一代の、一緒に生まれた天神の天御中主、可美葦牙彦舅、第二代の、ともに生まれた天神国常立または国狭立、または国狭槌尊、または葉木国といい、豊国主または豊斟渟、または豊香節野、または浮経野豊買、(または豊歯別?豊齧といい)、天八下は一柱で化り生れた天神の、第一世の神だ。】と訳した。

『舊事本紀』の史書部分は『日本書紀』・『古事記』の影響下の史書で一書や『古事記』の神話を併せていて、蘇我馬子が書かせた史書であることを裏付け、『舊事本紀』は、物部氏の祖神の「天狭霧國禪月國狭霧」が始祖となっており、推古天皇が物部氏であることを示している。

そして、『古事記』前川茂右衛門寛永版は「天地初發之時於髙天原成神名天之御中主神次髙御産巣日神次神産巣日神此三柱神者並獨神成坐而隠身也次國稚如浮胎()而久羅下那洲多陁用弊琉之時如葦牙因萌騰之物而成神名宇摩志阿斯訶備比古遅神次天之常立神此二柱神足亦獨神成坐而隠身也上件五柱神者別天神次成神名國之常立神次豊雲上野神此二柱神亦獨神成坐而隠身也次成神名宇」、【天地が初めて別れた時、高天の原に生れた神の名は天之御中主。次に高御産巣日。次に神産巣日。この三柱の神は、共に一人で生まれて、身を隱した。次に國が出来たばかりで浮いた脂のようにクラゲのように漂っているとき葦の牙のように芽吹き伸びた物によって生まれた神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遲、次に天之常立の二柱の神も、一人で居て、身を隱した。上のの五柱の神は、天の分国の神だ。次に生まれた神の名は、國之常立、次に豐雲上野。この二柱の神も、一人で居て、身を隱した。】と訳した。

『古事記』は元明天皇の祖神が御中主で、天国の配下の国で、『舊事本紀』同様、すでに国生みされた天国の中の高天原から分国した王朝の配下だと述べている。

『舊事本紀』は天国配下の狭という地域の出身の神が祖神で、『古事記』は天国の配下の、祖神ではなく中(なか)国の王が祖だと述べ、『三国志』に「伊都國官曰爾支・・・王皆統屬女王國」と女王国に属する伊都国王の官に「爾支」があるように、主という官名を与えた王、国主の冠位を与える国主の中の国主は、臣の中の臣が大臣、連の中の連が大連であるように、大国主、そして、君の中の君の大君・大王・御使君がすでに存在したことを示している。

その大国主の配下で「なか国」王の中国主が御中主で、中国主にはさらに配下の主がいて、その配下の主を使役する使い主、使主すなわち臣と呼ばれ、中臣と名乗ったと考えられ、平郡氏が物部氏の配下で連の姓を持つ表音「おみ」に表意文字で臣下を意味する臣を当て嵌め、平郡氏の配下に使った表音「おみ」に使主を表意文字としたと考えられる。

そして、狭霧を神祖とする氏族は御中主を祖とする氏族を配下にしたことを『舊事本紀』は示して、『古事記』を記述した安萬侶は、その事実を「舊辞削偽定實」と削除したようで、『日本書紀』の一書に「月國狭霧」を加えていないのは、『日本書紀』を記述した平郡氏の王朝時に、物部氏はまだ王朝として勢力があり、平郡氏と対抗していて臣下でなかったことを意味し、それが秦王国につながった。

『日本書紀』を記述した平郡氏は『後漢書』や『三国志』が記述した秦国を知っていて、雄略天皇が楼閣を作らせた時の説話に秦酒公が記述されるが、御田を物部に預けたと物部氏に付随した秦氏が存在し、雄略天皇は物部氏が支配した地域を秦国と理解していたと思われる。