2018年10月31日水曜日

最終兵器の聖典 筑紫倭国1

 古代史を神武天皇という神話・伝説の人物まで検証し、以降の歴史を記述する元となる史書の成り立ちを検証したが、日本列島中枢を中心にした中国からも尊敬された大人国や君子国、これらを破った隠岐の島の氏族の歴史に対して、3史(『日本書紀』は崇峻天皇まで)を書いた物部・葛城氏の出発地域の天の倭の歴史を検証しなければならないだろう。
史書の研究で『隋書』の俀国は訪隋した「蘇因高」の記事が「築紫語在別記」と筑紫の書からの引用で俀国=筑紫と論証し、俀国は『隋書』「安帝時又遣使朝貢謂之俀奴国」と『後漢書』「安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見」の国の後裔として倭奴国と呼ばれた国と記述した。
その、倭の初出は『山海經 海内東經』「蓋國在鉅燕南,倭北。倭屬燕。」で海内東經は黄海東岸の話で蓋国は今の蓋州市近辺でその南とあるのだから朝鮮半島西部及びその南部としている。
そして、『遼史』「渤海改爲蓋州,又改辰州,以辰韓得名」と蓋国以南は辰州、蓋国が蓋州なら辰州は辰国の意味で『後漢書』「韓有三種 地合方四千餘里,東西以海為限,皆古之辰國也。」に繋がり蓋国の南が辰国そして『三國遺事/卷第一』「後漢建安中以馬韓南荒地為帶方郡。倭韓遂屬」と一部が三韓となり、『後漢書』辰韓伝「弁辰與辰韓雜居,城郭衣服皆同,語言風俗有異。其人形皆長大,美发,衣服洁清。而刑法严峻。其國近倭,故颇有文身者」と倭の風習に近いと述べ、「馬韓・・・諸國邑各以一人主祭天神,號為天君」と天神を祀ってその神主が天君と呼ばれる。
極東の日本で「あまがみ」を天神と書き「あまがみ」の支配地域を「あまぎみ」と呼びその神主は神を代弁する王とする『後漢書』「鬼神道」とよび、日本では天神・天君と漢字化し、漢字に対しては極東は共通文化圏であることから韓地でも同じ対象を漢字として表記したと考えるべきだろう。
遼東半島の地域が蓋国と言われ、辰国が領有する以前に天神を祀る天君が治める倭人がいて、船をもつ倭人が韓地には轟B型縄文土器を持ち込み使われて西九州と同じ文化圏で倭は燕に属していた。
後の新羅となる辰韓は辰国と同盟し、倭と共同して新羅と戦う馬韓と『後漢書』「國出鐵、濊、倭、馬韓並從巿之」と倭人がいて「其國近倭」と風俗も倭に近い弁辰さらに南には倭国「北岸狗邪韓國」があった。
このように、倭語が朝鮮半島と九州西部に話されていた状況とその後日本各地に拡がり、朝鮮半島から追いやられた歴史そのもので、朝鮮語の日本語との近さと日本語の日本列島の局在が良く重なる。
そして『論衡』「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯 」、『漢書』「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」と漢以前はまだ倭と言い国と認めていないが、倭が海中と黄海に面していると記述し、そのため、越と一緒にに周を訪れている。
『 山海經』に九州を三身の国と記述しているが、『古事記』では「筑紫国謂白日別、豊国謂豊日別、肥国謂建日向日豊久士比泥別 熊曽国謂建日別」と4国としているが熊曽は日向国ができるまで敵国で、筑紫・豊・肥の三国が葛城王朝以前の領域で、残った熊襲が三身の国以外の倭の地域となり、轟式縄文土器の分布と重なる。
そして、『 山海經』は海中も中国大陸の黄海・東シナ海沿岸を海内と呼び、日本海沿岸を海外と呼び、海内の対岸が海中で、中国遠方を大荒と呼び、海に潜ることを水中と記述している。
すなわち、倭人は轟式縄文土器の前身が出土する南九州で漁業を生業としていた人々がアカホヤ噴火で五島列島や壱岐・対馬・隠岐・朝鮮半島などに拡がり得意な船を操り、海流を知り尽くして、南は会稽・沖縄から北は北海道、西は南アメリカに同系の土器が出土し交易をおこなった人々の起源のようだ。

2018年10月29日月曜日

最終兵器の聖典 史書の確認6

 前項で舒明天皇までを天智天皇が蘇我大臣に書かせたと書いたが、皇極天皇から天智天皇までのなかで乙巳の変のみ倭習記事となっているが、この記事は誰が書かせたのだろうか。
考えられるのは、既に有った舒明天皇の続きに天智天皇が書かせたか、天武・持統天皇を書かせた元明・元正天皇のどちらかだが、順当なら舒明天皇の続きで、天武天皇が皇極紀を追加したと考えるべきだろう。
すなわち、本来乙巳の変が4年となる別の後岡本天皇記事があった文書に皇極天皇の記事を追加した可能性があり、天智天皇の即位記事に「或本云。六年歳次丁卯三月即位」と667年即位記事と重なり、皇極天皇4年は本来1年少ない皇極天皇3年で終わっていた可能性があり、666年に大病をしている『野中寺 銅造弥勒菩薩半跏思惟像 本像台座の框』の中宮天皇の内容「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時」と合致する。
『日本書紀』は紀伝体のため、複数の天皇や大王を一纏めに記述し、舒明天皇の後の王達の記事おそらく入鹿の記事の後に天武天皇が豊財の記事を追加したことが原因と思われ、『日本書紀』の記述方法はある王の記録が完成すると同時代の宮に当てはめたことが良くわかる。
天智天皇7年即位まで6年間摂政で皇太子のまゝだったということは、天智天皇以外が天皇だったことから、その6年のなかに天智の母豊財がいて入鹿と重ね、その後、豊財の弟の豊日が即位したが数か月で崩じ豊財が皇位に就いた。
そして、皇極天皇から天智天皇までの記事には大化年号が記述されていて、『二中歴』「大化六年 乙未・・・自大宝始立年号而巳」と695年以降記述されたことが解り、書かせた飛鳥浄御原天皇は他王朝の年号も受け入れ、大化・白雉は宮の代わりに使用したもので、記述すべき宮がないために発生したとおもわれる。
白雉の足りない4年は皇極天皇と重なり、大化の5年は699年に天智天皇までを仕上げたことを意味するようで、本来天智天皇の後ろに付加されるべきものだったと思われる。
すなわち、皇極天皇から天智天皇までを書いたのは持統十年「假賜正廣參位右大臣丹比眞人資人一百廿人」と丹比眞人が持統三年「皇太子草壁皇子尊薨」、持統四年「別爲皇太子奉施於三寺安居沙門三百廿九」と草壁皇子ではない飛鳥浄御原天皇の次の長男、若しくは持統天皇の長男に命じられたと思われる。
そして、天武天皇からは当然ながら、『続日本紀』養老四年の「一品舍人親王奉勅。修日本紀」と元明・元正天皇が舎人親王に書かせたが、『続日本紀』慶雲元年704年の「始定藤原宮地」と『日本書紀』持統八年の「遷居藤原宮」が、持統十一年の「天皇定策禁中禪天皇位於皇太子」と持統11年にすなわち『続日本紀』慶雲四年707年の「天皇即位於大極殿」の皇位継承が対応している。
これまで、神話と史書について述べてきたが、神話は『三海經』の「坐而削船」と船を造る大人国の末裔が事代主で『古事記』「為鳥遊・取魚而往御大之前、未還来」と三保で、建御名方が「帯刀帯冠」の君子国の末裔で『古事記』「迫到科野国之州羽海」と諏訪で終わり、長髄彦が武埴安彦と証明したが、それによって、建御名方と同姓で長髄彦が君子国の末裔と考えられ、君子国→東鯷国(神倭国)→尾張氏ということだ。
このように、『三海經海外南經』「六合之閒,四海之内,照之以日月,經之以星辰,紀之以四時,要之以太歳,神靈所生」と『日本書紀』の「照徹於六合之内」、『先代旧事本紀』「葦原中國六合之内」、『古事記』「握乾符而摠六合、得天統而包八荒」と六合を使い、神霊が生まれる場所は六合のみで、これら三書には神産み神話があふれる。
このように、史書は王朝交代時に書かせているようで、まず、葛城王朝が『三国志』に倣って恐らく神倭・物部・尾張・葛城4王朝の『四志』を作成し、巨勢氏が『四志』に平群王朝、蘇我氏が巨勢・物部王朝、天智天皇が蘇我王朝、天武が天智王朝を記述し、新王朝がいつもその時にある資料を精査して真実に近い史書作りを名誉と考えた。

2018年10月26日金曜日

最終兵器の聖典 史書の確認5

  前項で『先代旧事本紀』は帝皇本紀を舒明天皇即位後すぐに記述したと書いたが、そこには「大禮小野臣妹子遣於大唐」と妹子の訪中記事が記述されているが、「築紫語在別記」と筑紫の史書を見てそれに合わせて記述していたため「蘇因高」を記述し『隋書』と合致した内容になったのであり、「筑紫=俀国」を証明している。
ところで「蘇因高=小野妹子」と言えるのだろうか、妹子の訪唐記事も607年記事なのか、と考えざるを得ない証拠がある。
小野妹子はその子毛人、その子毛野の死亡記事が残っているが、死亡年と地位を比べると、『続日本紀』の714年「中納言從三位兼中務卿勲三等小野朝臣毛野薨 小治田朝大徳冠妹子之孫 小錦中毛人之子也」と6番目の地位で薨じ、『小野毛人墓誌』の677年「御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上 小野毛人朝臣之墓 営造歳次丁丑年十二月上旬即葬」と9番目の地位で薨じている。
毛野が695年「賜擬遣新羅使直廣肆小野朝臣毛野」と16番目、10番目の地位だったのが702年「從四位上高向朝臣麻呂。從四位下下毛野朝臣古麻呂。小野朝臣毛野。令參議朝政」と出世し薨じる12年前に毛人死亡時とほぼ同格だ。
すなわち、毛野に対して毛人は若死して、本来は690年頃薨じると寿命を全う、その親妹子は660年頃に寿命を全うしていると考えられ、607年では若すぎるが630年頃30代なら、中国名ももらっているので先頭に立って外交に当たったと考えられる。
そして、この時高向玄理が恐らく20歳頃「遣於唐國學生倭漢直福因 奈羅譯語惠明 高向漢人玄理」と学生として同行し、640年「學生高向漢人玄理傳新羅而至之」と20代は学生、645年には「高向史玄理爲國博士」、646年「遣小徳高向博士黒麻呂於新羅而使貢質 遂罷任那之調 黒麻呂更名玄理」、647年「送博士小徳高向黒麻呂」、654年「遣大唐押使大錦上高向史玄理 或本云 夏五月 遣大唐押使大華下高玄理・・・押使高向玄理卒於大唐」と恐らく40代の若死と考えられる。
40代の「大錦上高向史玄理」なのだから、『続日本紀』が「小錦中」、『墓誌』で「大錦上」の毛人の年齢も傍証になって若死を推定できる。
妹子や玄理の年齢から、607年の訪中は妹子と別人の蘇因高と呼ばれた人物の訪唐ではなく訪隋で、小野妹子の訪唐は『旧唐書 東夷伝 倭國』の630年「貞觀五年 遣使獻方物 太宗矜其道遠 勅所司無令貢 又遣新州刺史表仁 持節往撫之 表仁無綏遠之才 與王子争禮 不宣朝命而還」記事のことだとわかる。
それでは、『日本書紀』の推古・舒明天皇は何時書いたかというと、『隋書』記事の訪唐記事の流用や『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』を参照して聖徳太子死亡記事に流用し、667年奉納『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』や666年奉納『野中寺 銅造弥勒菩薩半跏思惟像 本像台座の框銘文』を知らない665年以前に『先代旧事本紀』の執筆法と同じように皇太子が大臣に書かせたと考えられる。
『日本書紀』舒明天皇十三年に「是時東宮開別皇子年十六而誄之」と皇太子で天智天皇七年「皇太子即天皇位或本云 六年歳次丁卯三月即位」と667年まで皇太子で天智天皇七年「立古人大兄皇子女倭姫王爲皇后 遂納四嬪 有蘇我山田石川麻呂大臣女」と蘇我山田石川麻呂が書いた可能性が高い。

2018年10月24日水曜日

最終兵器の聖典 史書の確認4

 従って、雄略天皇から顕宗天皇までは原則『古事記』を基準に読み解くべきで、『日本書紀』の平郡氏の事件の武烈天皇即位前紀「億計天皇崩 大臣平群眞鳥臣 專擅國政」は『古事記』白髪大倭根子「即興軍囲志毘臣家 乃殺也」の時代が正しい事件で顕宗天皇が平群氏から政権を奪ったことが解る。
そして、『日本書紀』の雄略天皇から崇峻天皇までを書いた人物は500年頃に完成した『宋書』、530年頃に完成した『南斉書』を読んでいるはずなのに『日本書紀』に記述しておらず、『日本書紀』に記述した推古政権にとって、対中国に対する臣従記事は俀国の説話で分国した倭国、葛城氏の流れをくむ蘇我王朝や秦王国物部王朝の記事ではなく、俀国は扶桑国にとっては筑紫君という配下、再興の秦王国にとっては筑紫国造で警戒すべき敵国であった。
すなわち、『日本書紀』崇峻天皇までは俀国と敵対する秦王国の王の物部氏が完成させ、前項で述べたように『日本書紀』武烈天皇即位前紀は本来『古事記』の清寧天皇末で顕宗天皇前紀と同等で継体天皇は『古事記』の仁賢天皇、安閑天皇は『古事記』の武烈天皇、宣化天皇は『古事記』の継体天皇、欽明天皇は『古事記』の安閑天皇、敏達天皇は『古事記』の宣化天皇、用明天皇は『古事記』の欽明天皇、崇峻天皇は『古事記』の敏達天皇、推古天皇は『古事記』の用明天皇となる。
これは、『新唐書』の「次用明亦曰目多利思比孤」と対応しており、実際の『古事記』の推古天皇は『日本書紀』の皇極天皇となり、『古事記』完成は640年以降完成したことになり、すると、『日本書紀』の崇峻天皇紀までは640年に近い時期までの話となる。
しかし、『日本書紀』欽明天皇二年「百濟聖明王謂任那旱岐等言」は聖明王在任中で、異論があるが「高麗以正月丙午。立中夫人子爲王。年八歳。」、4年の誤差があるが欽明天皇十八年「百濟王子餘昌嗣立。是爲威徳王。」と記述し、「百濟本記云」のように百済系史書と突き合わせていて各記事はそれほどズレてはいない。
すなわち、雄略天皇から崇峻天皇は天皇は2代ずれているが、記事は概ね正しい可能性が高いことが解り、私が言う宮とその記事は概ね正しく、『日本書紀』継体天皇二五年「或本云天皇廿八年歳次甲寅崩。而此云。廿五年歳次辛亥崩者。取百濟本記爲文」のように、本来宮が継体28年まで続いたが、百濟本記に合わせ、継体28年死亡の天皇と継体25年死亡の2人の天皇がいたように、天皇個人は複数の王をその宮に当てはめていると言ことが証明されている。
次に『先代旧事本紀』の作成時期だが、前文には「修撰未竟太子薨矣撰録之事輟而不續」と太子死亡のため記述を終了したとしているが、敏達天皇「田眼皇女嫁息長足行廣額天皇」と記述され舒明天皇の時に記述されたことが解る。
従って、『先代旧事本紀』の「帝皇本紀」は命じた太子が薨じ、舒明天皇が即位することになった為に記述を中止し、「天孫本紀」はその後「淨御原朝御世・・・賜物部朝臣姓同御世改賜石上朝臣姓」、『日本書紀』朱鳥元年「次直廣參石上朝臣麻呂誄法官事」と686年頃に完成し、前文は『日本書紀』の皇極天皇以降はまだ完成していないため、舒明天皇までに記述したと思われる。
「物部鎌媛大刀自連公・・・宗我嶋大臣為妻生豊浦大臣名日入鹿連公」と馬子と蝦夷を混同しているが、嶋大臣の長男は嶋大臣すなわち、馬子の長男蝦夷は嶋大臣という概念がまだ続く『日本書紀』の宮天皇の世界であり、序文の「厩戸豊聰耳聖徳太子尊命大臣蘇我馬子宿禰等奉」の聖徳太子と「撰未竟太子薨」の太子が異なる人物で、その太子は入鹿の可能性も否定できない。
『日本書紀』皇極天皇四年の「蘇我臣蝦夷等臨誅 悉燒天皇記 國記」は正しく蝦夷が『天皇記』・『國記』 を執筆していたことを意味する。

2018年10月22日月曜日

最終兵器の聖典 史書の確認3

  『古事記』と『日本書紀』の安康天皇以前は巨勢氏が書いたと述べたが、『日本書紀』の安康天皇以前に巨勢氏が記述されていないけれど、『古事記』には大倭根子日子国玖琉「建内宿祢之子、并九・・・次、許勢小柄宿祢者、許勢臣・雀部臣・軽部臣之祖也」と記述し、元々は 許勢臣を名乗っていたのに『日本書紀』は正史なので天皇に氏姓は不要と許勢氏を記述しなかったように思われる。 
許勢氏は元々葛城長江曽都毘古が政権を取得したときに蘇賀氏・平群氏とともに配下として氏姓を与えられていたが、『日本書紀』安康天皇以前の執筆時に天皇で氏姓が無かったということだ。 
氏姓は王朝(王朝の王は氏姓が無い)が新しく支配した王(王には氏姓が無い)の氏族に新たに氏姓を与えることで、多くが地域名を氏姓につかい、正式に配下になる以前は祖、他王朝の氏姓を持っていた人物は他王朝の氏姓を得る前を遠祖としたと考えられる。 
『日本書紀』崇神天皇六〇年の「出雲臣之遠祖出雲振根 誅出雲振根。故出雲臣等畏是事」の出雲臣は臣従していない出雲臣で、仁徳天皇即位前紀「而謂其屯田司出雲臣之祖淤宇宿禰」は出雲淤宇宿禰が仁徳天皇に臣従したことを示している。 
巨勢氏が書いた『古事記』は499年の平群大臣滅亡を顕宗天皇即位前に記述していることから顕宗即位後、501年仁賢天皇即位でそれ以降に完成していることがわかる。 
『古事記』は『梁書』に対応して雄略天皇に「此時、呉人参渡来。」とし、『日本書紀』も雄略5年・8年・10年・12年・14年と呉国と交流しているが『宋書』 卷六本紀第六孝武帝大明六年「壬寅 以倭國王世子興爲安東將軍」以外対応していない。 
すなわち雄略紀の交流は『梁書』の扶桑国の記事と対応しているからで、内容も軍事ではなく「將呉所獻手末才伎漢織。呉織及衣縫兄媛。弟媛等。泊於住吉津」と文化交流だ。 
461年雄略天皇五年「呉國遣使貢獻」記事は『宋書』「孝武大明六年,詔授興安東將軍、倭國王」と同年だが、477・8・9年記事が記述されていないことから、扶桑国と無関係の記事と考えられる。 
そして、『古事記』は仁賢天皇の時作成していて、唐初完成の『梁書』を読んでいないので雄略天皇の記述は日本側の資料だとわかり、更に、『晋書』は640年頃、『宋書』は500年以降、『南斉書』が530年頃と『古事記』作成以降に日本に流入しているので、最終形が完成した時に書き換えていないし、推古天皇の時代まで記述しているので、書き換えるのなら仁賢天皇以降も追加して詳細を記述するはずである。 
そして、『古事記』の最終形が完成したのは、「日子人太子、娶庶妹田村王、亦名糠代比売命、生御子、坐崗本宮治天下之天皇」と舒明天皇が天皇になることを記述しているので舒明天皇の時代に完成させた。 
そして、天皇名は『日本書紀』・『先代旧事本紀』を継承していることから舒明天皇の王朝の王名を継承していると考えるべきで、広国押建金日や建小広国押楯・天国押波流岐広庭と役職名のような名前で舒明天皇の名は息長足行廣額と応神天皇の母息長帯日売と同姓で継体記「品太天皇五世之孫」と広国押建金日の父を記述しているようだ。 
舒明天皇が『古事記』を完成させたのだから、自分の父祖の名前を遠慮して書く必要が無く、至極当然の帰結であり、同じように、「太朝臣安万侶」が創作したのなら、少なくとも元明天皇まで系図を続けている。 


2018年10月19日金曜日

最終兵器の聖典 史書の確認2

 『日本書紀』応神37年「遣阿知使主。都加使主於呉。令求縫工女。爰阿知使主等。渡高麗國欲逹于呉。則至高麗。更不知道路。乞知道者於高麗。高麗王乃副久禮波。久禮志二人爲導者。由是得通呉。呉王於是與工女兄媛。弟媛。呉織。」・応神41年「阿知使主等自呉至筑紫。時胸形大神有乞工女等。故以兄媛奉於胸形大神。是則今在筑紫國御使君之祖支。」記事は『宋書 夷蛮伝 倭國』421年「高祖永初二年詔曰倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授」と425年「太祖元嘉二年讃又遣司馬曹達奉表獻方物」記事に対応して、421年・25年なら阿知使主が賛、都加使主が司馬曹達でやはり筑紫君の祖の話である。
同様に『百済本記』が欽明天皇まで言及しているので、少なくとも雄略天皇から欽明天皇まで百済2書を読んで記述していることや、推古天皇以降は百済2書以降で『隋書』の遣唐使記事を読んだ630年代以降に記述されたことが解り、まさしく、森博達教授の倭習による分類と同じである。
上限は403年の『四方志』の内容をまとめてあるようなので、457年平群王朝成立以降と考えられる。
物部連・尾張連など姓の始祖を調べると、安康天皇以前の祖は多くが雄略天皇以前に氏姓を授かり、幾つかは雄略天皇時に近いほど氏姓を授かっていないということは、雄略天皇の時代以降に滅びた可能性があり、雄略天皇以降に出現する祖は全て氏姓を伴って祖出現後に記述されている。
時雄略天皇二年に出現する 「婬於石河楯 舊本云 石河股合首祖楯」はまさしく雄略天皇の時に活躍をはじめて、雄略期に石河股合首を賜姓され舊本作成以降推古時までに石河(石川)の氏姓に代わったことが解る。
そして、『日本書紀』清寧天皇二年に「遣於播磨國司山部連先祖伊與來目部小楯」記事があるが、山部連は顕宗天皇即位前紀「白髮天皇二年冬十一月、播磨國司山部連先祖伊豫來目部小楯」・顕宗天皇元年「小楯謝曰 山官宿所願 乃拜山官 改賜姓山部連氏」と485年に山部連を改賜姓しており『古事記』と同時期、顕宗天皇が記述したことが立証される。
これは、『梁書』の「有文字 以扶桑皮爲紙・・・名國王爲乙祁」と『古事記』の「意祁命・袁祁命」と合致し、『日本書紀』の履中天皇二年「都於磐余 當是時 平群木莵宿禰 蘇賀滿智宿禰」や允恭天皇五年「先是命葛城襲津彦之孫玉田宿禰」と平群・蘇賀・葛城の氏姓は記述されているが、継体天皇元年「許勢男人大臣等僉曰」と巨勢(許勢)氏は雄略天皇以降にしか出現せず、雄略以前を書いた人物が天皇家巨勢氏だったから記述していない。
また『梁書』「大明二年 賓國嘗有比丘五人游行至其國 流通佛法」と457年の仏教流入記事が『日本書紀』に出現せず、欽明天皇六年「願普天之下一切衆生皆蒙解脱」が初出で、雄略天皇の仏教流入を巨勢氏の「國王爲乙祁」が見ているはずなのに記述していないことも巨勢氏が書いていない証拠である。
すなわち、『梁書』に「天監六年 有晉安人渡海 爲風所飄至一島」とあるように507年に安人が来日して扶桑国を見て確認して文字を扶桑の表皮で作った紙に書き、その書かれたものが『日本書紀』の安康天皇までと『古事記』と推古天皇の時参考にした『舊本』を記述したということである。
八世紀の官僚が書いたのとしたら、『三国志』の内容を書いて『後漢書』の内容を書かないのは片手落ち、氏族の祖を書きながら後代の人物を書いていない人物は『舊本』を使えばよいはずである。
すなわち、安康天皇までの『日本書紀』は巨勢氏が畿内の王朝史を485年以降『後漢書』流入前に書き綴ったものをほゞ記述通りに継承したものだということだ。

2018年10月17日水曜日

最終兵器の聖典 史書の確認1

 前項まで、所謂神話の世界の内容、すなわち伝承をもとに記述された時代の歴史を書き続けてきたが、これらは、全て、有名な説話の主語を変えて新しい説話に書き換えてきたことを示した。
主神は宇摩志阿斯訶備比古遅神の説話を狭霧神や国常立神・御中主に、同様に伊弉諾・伊弉冉も橿城根・吾屋惶城根の事績を書き換え、滴る「しずく」で建国し、国造は国引き神話を使わないで中国『山海經』「身生羽」「生火出其口中」「中容之國。帝俊生中容」と国産み説話を流用した。
この神話が何時成立したか解らないが、『日本書紀』「渾沌如鶏子」など確実に中国語で地名でも「六合」、『出雲風土記』にも「三身の綱」と『山海經』「三身國在夏后啟北」「六合之閒,四海之內」の影響が見受けられ、『山海經』も神産み説話は日本列島にしかないことから日本の影響と考えられ、それは当然で、『尚書 堯典』「汝羲暨和。朞三百有六旬有六日,以閏月定四時,成歲」と1年366日を中国に伝えたのは『山海經 大荒東經』「東海之外,甘水之閒,有羲和之國。有女子名曰羲和」と日本人の義和である。
そして、神武天皇も大巳貴の事績を挿げ替えて記述しているが、これらの史書が何時・誰がどのような立場で記述したかをまとめ、古代史分析の方法を示してみたい。
森博達教授は安康天皇までと推古・舒明天皇・乙巳の変・天武天皇以降を倭習・それ以外を中国習と分類し、『日本書紀』を8世紀の官僚が分担して造作した結果と論じられているようだ。
しかし、8世紀の官僚が全て書いた場合、元明・元正天皇に提出して最後が倭習なのだから、倭習の天皇が中国習の文章を理解し気分よく読んでもらえるはずが無く、不快に思うのは当然で、官僚は気分よく読んでもらうため天皇が理解できる文、天武天皇からを倭習にしたのだから、全て倭習で提出するのが当然だ。
英国女王に英語と米語・豪語が混じった公文書を提出することはないし、提出されたら英連邦女王としては何も言わないかもしれないが、英王室という立場としては不快に思うのは当然の帰結だ。
従って、天皇が理解できる倭習の文章で統一するのが当然の帰結、それなら、中国習は別の時代の天皇が理解できる文体で、元明・元正天皇は天武天皇以降が理解できればよかったのである。
従って、全てを8世紀に書いたのではなく、雄略天皇の時代に安康天皇までを、崇峻天皇までを推古天皇の時代、推古・舒明天皇を皇極天皇の時代、天智天皇までを天武天皇の時代、それ以降を元明・元正天皇の時代に書いたと考えるべきだ。
安康天皇までの記事は『山海經』の影響はもちろん、「魏志云 明帝景初三年六月 倭女王遣大夫難斗米等 詣郡求詣天子朝獻 太守鄧夏遣使將送詣京都也」と『三国志』の記事を記述している。
しかし、『後漢書』の「東夷倭奴國王遣使奉獻」記事は記述されておらず、雄略天皇が440年頃作成の『後漢書』が日本に流入する以前に書かれたと考えられ、『百済記』の記事が雄略紀から記述されていて、安康天皇以前は『百済記』を知らない時期に書かれ、雄略紀以降は『百済記』を読んで記述して記述時期が異なることを証明している。
そして、500年頃に完成した『宋書』、530年頃に完成した『南斉書』の倭の五王記事を記述せず、呉との交流記事は史書による流用ではなく、独自の資料である可能性が高い。
『日本書紀』雄略天皇五年「呉國遣使貢獻」と『梁書』「其俗舊無佛法 宋大明二年 賓國嘗有比丘五人游行至其國 流通佛法 經像 敎令出家 風俗遂改」の知識、『梁書』「貴人第一者爲大對盧 第二者爲小對盧」と高句麗の制度流入と『日本書紀』仁賢天皇六年493年の「遣日鷹吉士使高麗召巧手者。」から継体天皇十年516年「百濟遺灼莫古將軍。日本斯那奴阿比多副高麗使安定等來朝結好」の高麗との友好と適合し、後磐井の「外逢海路誘致高麗百濟新羅任那等國年貢職船」によって友好関係が崩れた。