2018年10月15日月曜日

最終兵器の聖典 神武東征6

 宮自体が天皇システムで皇太子と大臣の2人の皇太子は義兄弟(長男が同一人物とするため叔父甥もある)で例えば親が磯城彦、皇太子が兄磯城、大臣が弟磯城で、弟磯城が磯城彦と兄磯城を殺すと弟磯城が磯城彦で皇太子・長男が兄磯城で弟磯城が娘婿となって長男が権力を持ち続ければ長男が磯城彦で磯城彦の母が皇太后で長女が磯城足姫となる。
『古事記』に「神沼河耳命、坐葛城高岡宮」と耳の官名を貰った沼河は葛城に宮を置き、『古事記』は巨勢氏が記述しているため、巨勢氏は葛城氏の末裔で、三嶋溝橛耳を後ろ盾にして神沼河耳は氏姓として葛城氏を貰い、『古事記』は葛城氏の史書ということだ。
すなわち、神武東征説話は神国の領有国三輪(神倭)国の建国説話、兄磯城・弟磯城・高倉下の説話の磯城王兄磯城を悪者にして代わりに若御毛沼や狭野を上書きした説話で、高倉下を天香語山に置き換えて読め、高名な高倉下は天香語山のことと物部氏の史書『先代旧事本紀』は述べている。
『古事記』の神武記で高倉下は熊野から出ておらず、磯城という名前もまだ有ったか解らず、『日本書紀』の「神武天皇即位前紀戊午年」では「皇師大擧 將攻磯城彦」・「宜先遣弟磯城曉喩之 并説兄倉下 弟倉下」とすでに建国3年前に磯城は彦を官名にする領地で倉下兄弟も配下となって『古事記』の時代背景は『日本書紀』より早い。
そして、『古事記』では懿徳天皇の皇后すら「娶師木県主之祖、賦登麻和訶比売命、亦名飯日比売命」と神武天皇就任時に弟磯城に授与した磯城縣主が「師木県主之祖」と磯城縣主に就任しておらず、『古事記』の懿徳天皇大倭日子すき友は神武天皇就任以前の人物だとわかる。
そして、孝安天皇大倭帯日子国押人が大倭=磯城を治めた王で役職名大倭帯日子となり、孝安天皇の父孝昭天皇が倉下兄弟の一人、孝昭天皇の義兄の羸津世襲が弟磯城、その父劔根が磯城彦である。
『古事記』が早いのは当然で、『日本書紀』の神武東征は「年十五立爲太子。長而娶日向國吾田邑吾平津媛」と日向国の姫に婿入りし「日向国」から出発していて、『古事記』は「坐日向時、娶阿多之小椅君妹、名阿比良比売」と日向という地名で日向国ではなく、日向国は景行天皇の時代に「是國也直向於日出方。故號其國曰日向也」と名付けられている。
3史の神武天皇は時代背景が全く異なる時代で、『先代旧事本紀』の「庶兄者追伏・・・須世理姫爲嫡妻而於宇迦能山之嶺於底津石根宮柱太斯理於」と大国主すなわち弟宇迦斯が庶兄すなわち兄宇迦斯を追い出して底津石根宮を作った説話を、宇迦能山から高倉山に流用したものである。
すなわち、神武東征説話は弟宇迦斯大巳貴が宇迦斯事代主から大国を奪った説話を脚色して、それぞれの史書が自分たちの出自である大倭・磯城を統治した説話に挿げ替えたものである。
そして『古事記』はそれを葛城侵入説話に、『日本書紀』は葛城侵入説話の出発地に葛城王朝を建てた状況を加味した説話とした。
史書は勝者の歴史を書き、敗者の栄光を我が物の如く勝者の歴史として記述するもので、『日本書紀』は勝者が書き綴った史書だから、物部氏も尾張氏も配下として記述して、両氏の事績を自家の歴史として綴った。
それは当然のことで、自分の事績も後に配下になった人々の配下になる前の事績であろうとも、自分の配下の事績すなわち自分の事績なのである。
『古事記』には3道侵攻しか書いていないが、『古事記』を書いたとき西道が自領でなくなっていたことを示していて、少なくともこれらの史書は無い事を有る様に記述しているわけではなく、史書を書く時点で配下にある氏族・領域を自分のものとして、有名な説話の主語を変えて記述していて、古代史を検証する有力な手掛かりとなる書物なのだ。

2018年10月12日金曜日

最終兵器の聖典 神武東征5

 もともと、神武東征ではなく、彦五瀬の東征が始まりで、兄に代わって磐余を侵略した説話が始まりであり、実際は武甕雷神を祀る三輪神の後継者で熊野に住む高倉下が葛城氏である若御毛沼と共に磐余を侵略して高倉下が神国の山跡と言われていた地域の王となり、その配下の磐余の邑長に高倉下の義弟若御毛沼(弟倉下)が就任したことを意味する。
『出雲風土記』の国引き神話が隠岐の神話を脚色したように、「弟宇迦斯」の説話をもとに、「高倉下」の三輪山の地の征服譚を神武の東侵説話に流用したもので、征服した地の神に自身の神天照大神ではなく三輪神を祀ることは考えられず、元々の地名説話を新しい支配者が自分の国の説話に脚色したものが史書と考えられる。
史書は勝った人々が書いているので、勝った記録が史書、負けた人が前の支配者、勝った人が新しい支配者で、戦いの情景は新しい支配者が自分のことを出来ればみんなが知っている有名な戦いを新しい支配者に脚色していると考えるべきだ。
そして、『先代旧事本紀』の神武東征は『日本書紀』での4道侵攻で「 丹波道主命遣丹波」とまだ侵略する前に「丹波道主」と名がついているように、すでにある神国の国々を侵攻し、楠葉の武埴安彦との戦いが「長髄彦」との戦いと考えられ、「宇摩志麻治」は「長髄彦」の義弟だ。
『先代旧事本紀』皇孫本紀に「男軍越墨坂從後夾撃之斬其梟帥兄磯城等也十二月癸巳朔丙申皇師遂長髓彦連戰不能取勝時」と兄磯城・梟帥・長髓彦を義弟の宇摩志麻治が討って、宇摩志麻治が天皇の璽を神武天皇に献上するということは、宇摩志麻治が皇位にあったことを示している。
さらに、『日本書紀』の大田田根子の説話が『先代旧事本紀』の「天日方奇日方」と物部氏に関する説話とだぶらせてあり、「天日方奇日方」の子孫大田田根子が本来は三輪山の三輪神を祀ったのだが葛城氏の祖神大物主を祀ったことにして、物部氏が石上神宮を祀り、三輪神の末裔が三輪神ではなく大物主を祀るはずがない。
『先代旧事本紀』では「大神君祖天日方奇日方命並拜為申食國政大夫也其天日方奇日方命者皇后之兄也但申食國政大夫者今大連大臣」と神武天皇の皇后は「天日方奇日方」の妹で、すなわち、大神国を物部氏の狭野神武天皇が奪取して「五十鈴媛」の子に皇位を譲って名実ともに「大神国」を奪った。
その土地の姫が統治される人々の心の拠り所で、その姫の子であることが重要で、姫の子は姫の宮に居て、「天照大神」の子が天皇の血統で有る様に、姫の血が王の血統なのである。
従って、神武天皇はまだ名目上天皇ではなく、「宇摩志麻治命天日方奇日方命倶拜申食國政大夫其申食國政大夫者今之大連亦云大臣也」と「宇摩志麻治」・「天日方奇日方」がまだ名目上の天皇だった。
以前にも書いたが、天皇というものをまとめると、天皇が住む宮殿があり、皇太后という前皇后がいて、その後継者の姫と実質国を動かす皇太子が宮殿に住んでいることが天皇という存在で、皇后とその夫は神事を行う現生の象徴に過ぎず、皇太后の娘でない皇后は皇夫人と呼ばれる。
立太子という天皇の長男でない皇太子が現れると、現天皇も即座に地位を失い、新しく立太子された人物が住む宮殿に、新しく立太子された人物の長男が皇太子となり、原則、新天皇の母が皇太后となる。
天皇というシステムの宮には皇后の長兄若しくは弟が存在し、その人物が皇位を簒奪すると大臣と呼ばれ、その大臣が皇太子になればそれまで皇太子と呼ばれていた人物も大臣と呼ばれて殺害される、このようなシステムが天皇と考えられ、皇后若しくは皇后の姉妹を新しい大臣だった皇太子は妃にし、天皇の長男はいつも同じ宮を引き継いで天皇と同一人物と記述されている。
古代は通い婚で13歳以上の長男がいない時天皇の兄弟や叔父で宮殿以外の皇子が皇位を継承する時、その子を皇太子とし、皇位継承は天皇の実子であるという保証はなく、力ある豪族の皇子が実子と偽って政権を奪取することも当然起こるのだろう。

2018年10月10日水曜日

最終兵器の聖典 神武東征4

 『先代旧事本紀』では崇神紀を神武紀に記述したが、弟磯城が大彦と物語る部分が『古事記』にあり、それが「大毘古命、更還参上、請於天皇時、天皇答詔之、此者為在山代国我之庶兄建波迩安王、起邪心之表耳」で大彦の庶兄が建波迩安で建氏は尾張氏の姓で、『日本書紀』などでは「武埴安彦」が使われるが漢字の無い時代はどちらも「たけ」で、彦は王のことだとわかる。
すなわち、大彦が弟磯城で埴安が兄磯城、『日本書紀』にも痕跡があり、神武東征時の「潜取天香山之埴土。以造八十平瓮。躬自齋戒祭諸神。遂得安定區宇。故號取土之處曰埴安」と磯城八十梟帥との戦いの前の説話だ。
しかし、神武天皇が征服する前に領土を持たない天皇が敵領で祀る事などできないことから、磯城八十梟帥の事績でこの時埴安王に名前を付けたとすれば理に適い、すなわち、この埴安を自領としていた大彦神武の父の地名説話と考えるとよく理解できる。
そして、『先代旧事本紀』の狭野神武は「大神崇齋殿」と大神を齋殿に祀り、更に大神と異なる国神を「髙皇産霊神皇産霊魂留産霊生産霊・・・御巫齋祭」と御巫に祀らせこの中の1神が三輪神のことで祀る御巫を記述しないが『日本書紀』・『古事記』の崇神天皇の意富多多泥古説話なのだろう。
『先代旧事本紀』の狭野神武は「大神崇齋殿」に対して、『日本書紀』崇神紀に「天照大神。倭大國魂二神。並祭於天皇大殿之内 然畏其神勢共住不安。故以天照大神。託豐鍬入姫命。祭於倭笠縫邑」と倭大國魂神を宮殿に祀り、殿と付く宮殿は神武紀には出現しない。
『先代旧事本紀』に「天富命率諸齋部棒天璽鏡劔奉正安殿矣復懸瓊玉陳幣物而祭大殿次登宮門矣」と宮門がある天皇の宮殿大殿は『日本書紀』には「天照大神。倭大國魂二神。並祭於天皇大殿之内」と崇神紀に出現し、やはり『先代旧事本紀』神武=『日本書紀』崇神だ。
このように、『先代旧事本紀』の神武紀は『日本書紀』の崇神紀と同じ内容で、『先代旧事本紀』の神武天皇は『日本書紀』の崇神天皇と言え、『日本書紀』の「朕初承天位。獲保宗廟」・「稱謂御肇國天皇」は『先代旧事本紀』が物部氏の史書なのだから、初めて物部氏の宗廟を打ち立てた物部氏の初代天皇だったと言うことがわかる。
さらに『古事記』も、神武天皇が大物主の女五十鈴姫を皇后にし崇神天皇の時に「大物主大神、顕於御夢曰、是者我之御心故、以意富多ゝ泥古而、令祭我前者、神気不起、国亦安平」と大物主を祀らせる。
しかし、『日本書紀』では大物主は崇神紀に「倭迹迹日百襲姫命爲大物主神之妻」と大物主を祀った後百襲姫が大物主の妻となり、神武天皇の皇后は事代主の女でやはりここでも神武天皇=崇神天皇がある。
大殿も『古事記』は神武記に「不得聚軍者、欺陽仕奉而、作大殿、於其殿内作押機待時、弟宇迦斯先参向、拝白」と『日本書紀』崇神=『古事記』神武となっていて、磯城瑞籬に宮が有った時に狭野神武の侵略があり、物部氏が天皇になったと『日本書紀』は述べている。
人々は2人の初代天皇神武と崇神がいて、中には崇神が御間城に似た名が朝鮮半島にあることに着想して北方民族の侵略と主張する者が出る始末だが、説話は同じで複数の神武天皇を分散して記述しただけのことで、大巳貴の事代主からの国譲り説話と大彦の義兄埴安討伐説話をまとめた説話でその主語が物部氏・葛城氏・尾張氏の初代の王と挿げ替えた説話だった。

2018年10月8日月曜日

最終兵器の聖典 神武東征3

 その有名な説話が大巳貴が事代主から宇迦の地を奪った説話で、『先代旧事本紀』で国譲りの時に負けた大巳貴に「登陀流天之御巣而於底津石根宮柱太斯理」と宮を建てて祀りその後、大国主に負けて「宇迦能山之嶺於底津石根宮柱太斯理」と宇迦に宮を建てて国譲りしている。
すなわち、底津石根宮柱太斯理の底津石根宮は支配者の象徴の宮で、事代主から国を奪ったのは大巳貴であり、大巳貴から国を奪ったのは大国主で、大巳貴の都は「宇迦能御玉神」を祀る宇迦の山が舞台で前回述べた大巳貴と宇迦の宇迦斯兄弟の説話の元になった記述だ。
『古事記』でもこの説話を流用して、大国主に対して「天之御巣而、於底津石根宮柱布斗斯理、此四字以音。於高天原氷木多迦斯理多迦斯理四字以音」、番能迩ゝ芸が高千穂に至って「天忍日命・天津久米命二人・・・此地甚吉地詔而、於底津石根宮柱布斗斯理、於高天原氷椽多迦斯理而坐也」と久米氏を引き連れて国譲りさせ、所謂久米歌と適合し、神武東征以前のことだ。
そして、『先代旧事本紀』に「葛󠄀木一言主神 坐倭國玉上郡」と葛城氏の神が倭国の神、「天忍人命此命異妹角屋姫亦名葛󠄀木出石姫生二男」、「天忍男命葛󠄀木土神劔根命女賀奈良知姫為妻」 と尾張氏の先祖は葛城氏の皇子 、「羸津世襲命 亦云葛󠄀木彦命尾張連等祖天忍男命之子」と羸津世襲は尾張氏で葛城氏でもあり、葛城=磯城=倭=尾張氏で葛󠄀木彦羸津世襲は倭彦・磯城彦でもあり、連の中の連の大連なのだから彦の中の彦の大彦と呼ばれたとしても間違いはなさそうだ。
葛󠄀木彦も大彦も役職名、羸津世襲も恐らく役職名、妹「世襲足姫」は世襲を治める女王の意味で、『隋書』の「俀王姓阿毎字多利思北孤」も天氏を治める男王の意味、「氣長足姫」も氣長氏を治める女王の意味で、孝昭天皇は世襲足姫 のいる宮に婿入りしその皇太子孝安天皇は世襲足彦である。
もちろん、これらの彦は其々別人で尾張氏王と葛城王と磯城王と神倭王と大彦を一人の人物と思えと記述していることを忘れてはならない。
実際の神武東征は大彦が紀元前88年に『古事記』が「大毘古命者 遣高志道 其子建沼河別命者 遣東方十二道而 令和平其麻都漏波奴人等 又 日子坐王者 遣旦波国 令殺玖賀耳之御笠」、『日本書紀』が「以大彦命遣北陸 武渟川別遣東海 吉備津彦遣西道 丹波道主命遣丹波」と所謂4道侵攻であるが、『先代旧事本紀』には記述されていない。
『古事記』にも『日本書紀』にも記述される「大田田根子」説話と2分する侵攻説話で『先代旧事本紀』で共に記述されないのには意味が有り、実際は『先代旧事本紀』に崇神紀以前の詳細記述が神武紀以外なく、神武侵攻にまとめて記述されていると考えるほかない。
そして、『先代旧事本紀』では「髙倉下命曰予劔韴靈」と神武に神刀を与え『日本書紀』に「兄猾及弟猾者是兩人菟田之魁帥者也時」と兄弟猾がいて、「曰臣兄々猾為逆狀也聞」と兄猾が逆らい弟猾が恭順した。
「皇師大舉將以磯城彦」と磯城彦を攻め「兄磯城果有逆賊之」と兄は逆らい、「遣弟磯城曉喻之并諸兄倉下弟倉下如遂不歸順然後舉兵」と弟磯城と兄弟倉下が活躍する。
さらに、「夾擊之斬其梟帥兄磯城等也」と磯城彦軍を掃討し、「弟磯城黒速曰汝有兄磯城逆賊之機首奏之勇因裔為磯城縣主」と弟磯城を磯城縣主にするというフルキャストで詳細だ。
さらに、磯城彦の戦いで「菟田高倉山之巔瞻望域中時國見兵上有八十梟帥矣又於女坂置女軍男坂置男軍墨坂置焃炭其女坂男坂墨坂之号由此而起也覆有兄磯城軍布滿於磐余邑賊虜」と、高倉下と関係がありそうな高倉山が菟田にあり尾張氏「香語山亦云高倉下」が磐余を手に入れ、墨坂は『日本書紀』崇神紀に「依夢之教。祭墨坂神。大坂神」と墨坂神を祀って、高倉下が祀る神こそ墨坂神だったようだ。

2018年10月5日金曜日

終兵器の聖典 神武東征2


 一方、神武天皇は『日本書紀』に「倭國磯城邑有磯城八十梟帥 又高尾張邑 或本云 葛城邑也此類皆欲與天皇距戰・・・將攻磯城彦」と磯城を攻撃し、弟磯城が神武天皇側について勝利し、「弟磯城名黒速。爲磯城縣主。復以釼根者爲葛城國造」と弟磯城が磯城縣主に、なぜか初出の葛城氏釼根が葛城國造となり、磯城彦との戦いの場所が「因改號爲磐余」と呼び、「因改號其邑曰葛城。夫磐余之地舊名片居」と磐余は磯城=葛城にあった。
すなわち、『日本書紀』では、神武天皇が弟磯城を縣主に任命し、弟磯城の部下を葛城國造にして磯城縣の中に建国という矛盾を記述している。(伊都国=伊都縣∽奴国・邪馬台国<倭国)
そして、『先代旧事本紀』「天忍男命葛󠄀木土神劔根命女賀奈良知姫」と香語山・高倉下孫天忍男と釼根の姫の子が「羸津世襲命 亦云葛󠄀木彦命尾張連等祖 天忍男命之子」と尾張王朝の祖と言い、葛城氏の安寧天皇は「磯城津彦玉手看」と義父が治める磯城県の中の邑長になったような名前で、『古事記』の「県主波延之女」と記述して県主の姫を妃にしている。
そして、『先代旧事本紀』ではまだ葛城國造となっていない「天忍男命葛󠄀木土神劔根命女賀奈良知姫為妻」の子が羸津世襲葛󠄀木彦と孝昭天皇の大連、妹が皇后で葛城國造になったと様に見える。
すなわち、羸津世襲は孝昭天皇であり葛城王朝は孝昭天皇と神武天皇と葛城国造をだぶらせている。
また、『古事記』では「宇陀之穿也 故爾、於宇陀有兄宇迦斯 弟宇迦斯二人」の説話が「撃兄師木・弟師木之時、御軍暫疲」と挿げ代わり、「迩芸速日」の話に遷るが、『先代旧事本紀』の「於宇迦能山之嶺於底津石根宮柱太斯理於」と宇迦は大巳貴神説話が出自と思われる。
すなわち、大国の大巳貴と宇迦の宇迦斯兄弟の説話を師木兄弟そして、大巳貴の説話を迩芸速日の説話に挿げ替えたと思われ、『古事記』の神武東征説話は迩芸速日が主役の説話とわかる。
『先代旧事本紀』に「次稲倉魂神 亦云宇迦能御玉神」と記述され、『古事記』の神武東征の時に師木縣はまだ存在せず磯城邑で、磯城県での戦いでは無く宇陀の宇迦斯との戦いで、弟磯城は迩芸速日と共に戦った弟宇迦斯と言いたいのだろう。
磯城は『日本書紀』で神武天皇の時「爲磯城縣主」、『先代旧事本紀』も神武天皇時に「勇因裔為磯城縣主」と磯城県主になったが『古事記』では大倭日子すき友の妃もまだ「娶師木県主之祖」と御眞津日子訶惠志泥の時「彦火火出見」神武天皇が侵入して大倭日子すき友の義兄が磯城縣主、大倭日子すき友が葛城国造になったことがここでも理解できる。
『先代旧事本紀』では狭野尊の配下に高倉下・弟磯城が加わり、弟磯城と高倉下の子たちの兄倉下・弟倉下とで磯城の王者の兄磯城を破って狭野尊がその神倭王神武天皇、弟磯城が磯城縣主、高倉下が高官になったが、磯城と葛城と倭が同じ地域を示しているので、物部氏が宇迦斯を迩芸速日にした狭野神武の説話を尾張氏の天香語山が高倉下神武に、葛城氏が弟磯城を葛城彦神武にして、3人の神武天皇があたかも一人の天皇のように間違えさせた。
大巳貴が宇迦斯や久米氏の助けで出雲王になった説話を狭野尊=迩芸速日が高倉下と磯城彦の協力で天皇になった説話に更に天香語山が弟磯城の協力で天皇になった説話に変え、それを葛城氏が書き換えた。
『先代旧事本紀』に「天香語山命 天降名手栗彦命 亦云髙倉下命」、「先遣弟磯城曉喻之并諸兄倉下弟倉下如遂不歸順」と香語山が磯城縣主の弟磯城に思えるように記述され、「亦云」は別人と読むべきだが天香語山を髙倉下と、倉下兄弟の上司弟磯城が高倉下と思って読んでほしいと言っているように見える。
元々は弟磯城・倉下兄弟がいるのに高倉下が書かれないのは片手落ちで、高倉下の勢力が神武天皇の説話を書き換えたと考えるのが理に適い、ある有名な説話を其々の史書が主語を変えて流用している。

2018年10月3日水曜日

最終兵器の聖典 神武東征1

 神武東征というのは『古事記』に「若御毛沼命、亦名豊御毛沼命、亦名神倭伊波礼毘古命」と記述される「若御毛沼」の東征で、『契丹古伝』で述べたように、漢が朝鮮半島を征服しようとして辰韓・辰国と戦いをきっかけに、周時代から臣従していた燕へ朝貢を続ける倭人が呼応連携して、穂日や忍穂耳が伊都や出雲を攻撃した漢との辰国攪乱共同作戦ともいえる。
漢の膨張政策の中、大物主を祀る「若御毛沼」は同族の饒速日の協力で神倭の地を得ることができ、『古事記』は「美和之大物主神」の女と記述するがおそらく「葛󠄀木一言主」の女に婿入りした可能性が高い。
『古事記』「神沼河耳命坐葛城高岡宮治天下也」と「若御毛沼」は葛城に婿入りし、『先代旧事本紀』の「次葛󠄀木一言主神 坐倭國玉上郡」と葛城氏は倭(神倭・三輪)の神様を祀り、婿入りした義父は『古事記』に「娶師木県主之祖河俣毘売」と後に県主になる師木に住む人物で、「若御毛沼」神武天皇が即位後に磯城縣主を弟磯城に与えたのだから『古事記』の神武東征は『日本書紀』「磯城縣主女川派媛」と縣主になっている人物と同世代の「彦火火出見」神武天皇より前の話である。
そして、磯城縣主の娘こそ三輪神の孫(事代主の孫、大物主の孫)の「富登多多良伊須須岐比売」の妹と『日本書紀』安寧紀母曰五十鈴依媛命。事代主神之少女也」、『先代旧事本紀』「妹五十鈴依姫命此命葛󠄀城髙岳朝立爲皇后」と2史書に記述されている。
しかし、『古事記』はそれを否定して懿徳記「娶師木県主之祖、賦登麻和訶比売命」とまだ縣主にもなっていない「娶師木県主之祖、河俣毘売」だと記述して、「彦火火出見」神武東征は大倭日子鋤友以降の話だと述べているのである。
すなわち、同じ神武東征説話でも各史書によって、主人公神武天皇の本名や共に戦った人々、皇后すら異なっていたのである。
『日本書紀』に「倭國磯城邑有磯城八十梟帥。又高尾張邑 或本云 葛城邑也」と倭国=磯城=高尾張=葛城と記述され、『三国志』魏志倭人伝の国々でも一国の領域は千戸で十数キロ程度の現代の町村と考えられ、『先代旧事本紀』の「羸津世襲命 亦云葛󠄀木彦命尾張連等祖」とやはり尾張=葛城だ。
『三国志』の「伊都國」が『日本書紀』では仲哀天皇「筑紫伊覩縣主祖五十迹手」と同時代で千戸の地域が邪馬台国の国=『日本書紀』の県で神倭=磯城=葛城は千戸以上の国である。
ここで、高倉下に着目して3書を見比べると、まず、『日本書紀』に「帥軍而進至熊野荒坂津・・・皇軍不能復振。時彼處有人。號曰熊野高倉下」と高倉下が熊野に現れ、韴靈を「取而獻之天孫」と献上するがそれ以降出現しないし神話の世界だ。
『古事記』も「御軍皆遠延而伏此時、熊野之高倉下此者人名」と熊野に現れ、「専有平其国之横刀、可降是刀此刀名、云佐士布都神 亦名云甕布都神 亦名布都御魂」と布都御魂を献上して以降現れない。
ところが、『先代旧事本紀』ではまず、「兒天香語山命 天降名手栗彦命 亦云髙倉下命」と尾張氏の祖天香語山は髙倉下と読めと書いておいて、香語山は「木伊國熊野邑之時・・・予劔韴靈今當置汝庫裏宜取而獻」と熊野で韴靈を献上し、「髙倉下裒為侍臣也」と神武天皇の家来になった。
そして、「天孫陟彼㝹田高倉山之巔瞻望域中時國見」と高倉下の名前の由来となったような地名の高倉山で国見をして、以降は髙倉下が出現しないで、倉下兄弟が出現し、高倉下神武の始まりである。
すなわち『先代旧事本紀』は『古事記』・『日本書紀』が神話としている人物を現実の人物で尾張天皇初代の話だと述べている。

2018年10月1日月曜日

最終兵器によるミサ  最終兵器爆発から生還


 長い間のブログ休載をお詫びいたします。
少ない読者とはいえ、楽しみにしていただいている皆様にご迷惑をおかけしましたが、そろそろ復帰させていただきます。
休載の理由は、私に心筋梗塞という最終兵器が爆発し、生死を彷徨い、こちらの世界に戻されて、休養していたためで、神様はまだ私を必要な人間と認めてくださったようです。
私は、検査技師として医療に従事したので、医学を信じ、毎年健診を受け、本年も六月に受診して正常の診断、そして、私は、元々家族性の高コレステロール血症なので、15年程度薬で管理され、タバコも止め、酒もほとんど飲まず、栄養士の指導で毎日一時間の散歩、ごはんを1日100gにする減量で1年3Kg体重を落とすという優等生でした。
それにもかかわらず、私の体は動脈硬化という恐ろしい病魔が蝕んでいたわけで、今まで私が信じてきた医療統計という科学は真実を示すものではなかった、統計は所詮論理的ではなかった、正常者集団に検診結果が入るイコール正常者ではなかった、正常者に見えていただけだったわけだ。
コレステロールを見せかけの正常にするため、数字で消えたコレステロールは血管内壁に沈着して血管を蝕んでいたわけである。
医師の自己満足と利益のために私は踊らされていただけというわけだ。
私たちは集団化させられ%という数字で無理やり分類され、個性を無視される歯車で、マスコミも日本を戦争に突入させた一員であることを忘れ未だに多数の集団の代表者になって正義の味方を気取っている。
ところが、真実はその集団の外に有ったことが私の病からも証明してしまったわけである。
日本のほとんどが『三国志』も『日本書紀』も『古事記』も偽書、薬師如来や弥勒菩薩半跏思惟像の金石文も捏造としてこれらの文献と合わなくても平気で知識人ぶっている。
しかし、真実はそれらの文献を記述した時の真実と考えていることを切り取っているとするべきである。
そして、その時の真実、金石文と『日本書紀』との矛盾が、なぜ矛盾を生じたかを検証すべきで、たとえば、『三国志』と符合させる、『百済本記』と符合させる、『隋書』と符合させる、その他、現代に残っていない文献と符合させたために矛盾を生じたと考えるべきである。
その、現代に残らない文献を書いた人物は『日本書紀』に現れない国々・王朝が存在し、それらの内容が日本書紀に反映されていると考えた方が論理的である。
文献とかけ離れた空想、例えば邪馬台国は大和以外ない、北方民族の崇神天皇が朝鮮半島から日本を征服した、卑弥呼の墓は須玖岡本だなどと先に結論を作って論拠にするより数段論理的である。
私の今回の最終兵器心筋梗塞の爆発といつ再発するか解らない心臓は猶予があまりないことを考えると改めて私の使命を遂行するべき定めを感じ取った。
どうかみなさんも、私の文献を間違いとしないという研究から真実を求める方法に共感(結論に反論を持つ立場も含めて)していただけるのならこのブログの拡散と方法の広め方を私に教えてください。
今後ともよろしくお願いします。
また、私の方法で歴史を再考してみましょう。