2017年5月31日水曜日

最終兵器のミサ 璽

 日本書紀には何人かの天皇に璽の移動が有ったと書かれているけれど、皇位継承は必ず璽の継承がなければそれこそ天皇の「しるし」ではなくなってしまうのに、皇位継承時に必ず皇后の扱いや葬送記事や宮の記事が書かれているのに一番の重要な儀式を多くの天皇は無視しているのは異様で、実は璽の移動はこの時に王朝の移動が有ったと考える方が妥当な考えじゃないだろうか。
璽の移動は『先代旧事本紀』に天押穂耳尊から饒速日尊→宇摩志麻治→神武天皇に渡ったと書かれて、その後、日本書紀で允恭元年→清寧即位前紀→顕宗即位前紀→継体即位前紀→推古即位前紀→舒明元年→孝徳即位前→持統四年と璽が移動していると書いている。
これらの天皇で思い出すのが、履中天皇(古事記2代のズレで允恭)の「諸國置國史・四方志」→雄略天皇(古事記2代ずれて顕宗)の「日本舊記」→欽明天皇の「帝王本紀」→推古天皇の「天皇記及國記・臣連伴造國造百八十部并公民等本記」→皇極天皇の「悉燒天皇記・國記、燒國記而奉献中大兄」→斉明天皇の「日本世記」→天智天皇の「日本世記」→天武天皇の「帝妃・上古諸事」→元明天皇の「古事記・日本書紀」となにか関係がありそうで、以前の回ではこれらの史書を漢文の調子も違って新しい王朝が書いたと言ったけれど、この璽の移動が丁度王朝の移動を示している。
  『先代旧事本紀』
「正哉吾勝勝速日天押穂耳尊・・・天神御祖詔授天璽瑞寶十種謂贏都鏡一邊都鏡一八握劍・・・天祖以天璽瑞寶十種授饒速日尊・・・宇摩志麻治命日汝先考饒速日尊自天授來天璽瑞寶・・・天皇定功行賞詔宇摩志麻治命日汝勲功矣念惟大功也公之忠節焉思惟至忠矣是以先授神靈剱・・・」
   『日本書紀』
 允恭天皇元年十二月
「爰大中姫命仰歡 則謂群卿曰 皇子將聽羣臣之請 今當上天皇璽符 於是羣臣大喜 即日捧天皇之璽符」
清寧天皇即位前紀 「冬十月己巳朔壬申 大伴室屋大連 率臣連等 奉璽於皇太子」
 顕宗天皇即位前紀
「十二月 百官大會 皇太子億計 取天子之璽 置之天皇之坐 再拜從諸臣之位曰 此天子之位 有功者可以處之 著貴蒙迎 皆弟之謀也 以天下讓天皇」
継体天皇元年二月甲午 「二月甲午 大伴金村大連 乃跪上天子鏡劔璽符再拜・・・乃受璽符」 
推古天皇即位前紀 「皇后辭譲之 百寮上表勸進至于三 乃從之 因以奉天皇璽印」
 舒明天皇元年正月丙午 
「大臣及群卿共以天皇之璽印獻於田村皇子 則辭之曰 宗廟重事矣 寡人不賢 何敢當乎」
孝徳天皇即位前紀皇極天皇四年六月庚戌 「天豐財重日足姫天皇授璽綬禪位」
 持統四年正月戊寅朔 
「神祗伯中臣大嶋朝臣讀天神壽詞 畢忌部宿禰色夫知奉上神璽劔鏡於皇后 皇后即天皇位」

持統天皇の4年は平城京4年713年で古事記が712年に初代天皇のお祝いを書いているし、孝徳即位前期の文は蘇我氏滅亡の時の話で、舒明天皇元年の629年は崇峻天皇前年に物部守屋を滅亡させて、継体天皇の時日本の天皇や皇子が死んだと書かれ古事記の2代前まで書かれていたので武烈天皇で古事記の巨勢王朝が滅んだ。
ということは、ほかの推古天皇の前すなわち2代ズレて用明天皇の時に物部守屋が大伴氏を滅ぼし、清寧天皇の時志毘臣を、雄略天皇は都夫良意富美を、允恭天皇の時も大前小前宿祢大臣を、仁徳天皇の時も履中天皇の時に墨江中王を滅ぼしていて、政権が滅んだと考えるべきで、古事記を書いた仁賢天皇・日本書紀の武烈天皇の王朝も早くても仁徳天皇から奪った王朝ということで、古事記や日本書紀の神武天皇は璽を得ていないけれど、先代旧事本紀の神武天皇は璽を受け取っていて、先代旧事本紀は一番古い王朝を書いている。

2017年5月29日月曜日

最終兵器のミサ 女帝

 どうして、7・8世紀に女帝が多数現れたかというと、第一に皇位継承の不文律が有ったようで、有間皇子が謀反を起こした時19歳で成人でないとたしなめられているように、また皇太子は661年に天智天皇が16歳というように658年には13歳で皇太子になれたけれど、天皇には20歳以上でないとなれないようで、664年には天智天皇は19歳、孝徳天皇も658年にやっと20歳、古人皇子も658年に20歳と思われて、もしもっと高齢なら斉明天皇や皇極天皇が天皇を継続する意味がない。
  『日本書紀』
斉明天皇四年十一月庚寅 
「方今皇子年始十九 未及成人 可至成人而待其徳 他日有間皇子與一判事謀反之時」
舒明天皇十三年十月丙午
「殯於宮北 是謂百濟大殯 是時東宮開別皇子年十六而誄之」

そうすると、田村皇子がどうして推古天皇(吉備姫)と交代できなかったかと言えば、推古天皇は皇太子がいないと言っているように、田村皇子には皇太子となるべき兄弟が無く、古人皇子が皇太子の年齢に達していなかったからのようで、皇極天皇から斉明天皇への先祖がえりは古人皇子の皇太子になる人物が天智天皇で年齢が皇太子に達していないことが原因で孝徳天皇には有間皇子()がいたからだと思う。
   『日本書紀』 
舒明天皇即位前紀 「豊御食炊屋姫天皇廿九年 皇太子豊聰耳尊薨 而未立皇太子」

そして、茅渟王の皇位継承はというと、本来跡を継ぐべき皇太子がいたけれど、647年に皇太子の宮が焼けて人々が大驚恠したと書いていて、この時皇太子が亡くなって次の皇太子孝徳天皇は9歳のため茅渟王の後を妻の吉備姫が皇位を継承して、次の天皇候補を待って山代大兄皇子と田村皇子が争ったけれど糠手姫こと吉備嶋皇祖母の力で田村皇子が即位した。
   『日本書紀』 
大化三年十二月晦 「是日災皇太子宮時人大驚恠」

そして、押坂彦人大兄皇子からの皇位継承も皇太子茅渟王が20歳に達していなかったため糠手姫が皇位を継承したとゆうことで、押坂彦人大兄皇子も皇太子茅渟王が10代で押坂彦人大兄皇子も30代程度と考えられ、敏達天皇は用明天皇の皇子が小さいことから20代前半その弟敏達天皇も10代後半くらいで用明天皇の在位が36年なのだから押坂彦人大兄皇子は40歳程度で茅渟王15歳頃に即位している。
天皇2人制を考えると成人していないもう一人の皇太子がいるとき、誰かが支えないと2人制にならないが、その支える人物が皇祖母と思え、皇祖母が現れるのは皇極天皇の吉備嶋皇祖母、孝徳天皇の斉明天皇、天智天皇の嶋皇祖母こと豊財で、蘇我氏が実質天皇で意にそぐわない人物を排除したため皇位継承が混乱した結果なのだろう。
そのため、天皇2人制をとることができない新参者の元明天皇も元正天皇も孝謙天皇も称徳天皇も皇位継承者が若かったための皇位継承で、孝謙天皇にも称徳天皇(高野姫)にも本来皇位継承者がいたのだろうがそれが果たせず皇位が現在の天皇家に戻ったのであって、皇位継承者がいなかったらもともと天皇になれなかったはずで、皇位継承者がことごとく排除され、もちろん犯人は後の繁栄から勝者藤原氏以外にない。
権力者が暗殺するときには犯人が解っていても犯人と言えず怨霊の仕業と現在に言い伝えていて、奈良・平安時代は恐らく藤原氏の絶大な力で多くの人物が怨霊によって殺害されたのだろう。

2017年5月25日木曜日

最終兵器のミサ 船王墓誌

 668年頃に彫られた『船王後墓誌』という遺物があるけれど、この人物は乎娑陀宮の天皇のとき生まれて等由羅宮からその次の阿須迦宮で仕えたけれど阿須迦天皇の末年とゆうことは阿須迦宮から変わった前年641年に船王が亡くなり668年に奥さんが亡くなったので追葬して墓誌を作ったと書いてあって、船王は日本書紀通りなら遅くとも585年には生まれていて、56年間以上生きてその奥さんがさらに27年生きていることから80近く生きたことになり、641年は舒明天皇の末年で飛鳥には違いないけれど岡本宮天皇のはずで、そしてその前は推古天皇で小墾田宮が抜けてしまう。
   『船王後墓誌』
「惟船氏故王後首者是船氏中祖王智仁首児那沛故首之子也 生於乎娑陀宮治天下天皇之世奉仕於等由羅宮治天下天皇之朝至於阿須迦宮治天下天皇之朝天皇照見知其才異仕有功勲勅賜官位大仁品為第
三殞亡於阿須迦天皇之末 歳次辛丑十二月三日庚寅 故戊辰年十二月殯葬於松岳 」

新しい説で考えると、641年に宮を変える天皇は舒明天皇の2代前崇峻天皇になってしまうけれど、 『上宮聖徳法王帝説』で推古35年と年号は違うけれど干支では641年薨と蘇我馬子の死亡を書いていて、馬子の宮が終わった可能性が大きく日本書紀にも642年に遷都しているけれどもここでは蘇我氏の天皇説は別に書く。
   『上宮聖徳法王帝説』
「曾我大臣 推古天皇卅四年秋八月 嶋大臣【曾我也】臥病 爲大臣之男女 并一千人・・・ 
 又本云 廿二年甲戌秋八月 大臣病臥之 卅五年夏六月辛丑薨之」
   『新唐書』
「崇峻死 欽明之孫女雄古立 次舒明 次皇極」
   『日本書紀』
皇極天皇元年十二月壬寅 「天皇遷移於小墾田宮 或本云 遷於東宮南庭之權宮」

崇峻天皇前期に書いてある、用明天皇末年628年に難波を侵略していて、用明天皇の宮が九州で崇峻天皇が同じく九州の乎娑陀宮、そして、大阪の難波に宮を630年に建設して632年に難波の豐浦宮に遷ろうとしたけれど、崇峻天皇こと押坂彦人大兄皇子が死亡したので遷れず、その時の天皇(蘇我氏)は唐の高表仁に大阪への豐浦宮遷都の式典に招待し、押坂彦人大兄皇子の後継者の遷居は延期になり茅渟王即位後に蘇我天皇は636年に阿須迦宮に宮を遷した。
   『日本書紀』
崇峻天皇即位前紀用明天皇二年七月 「物部守屋大連資人捕鳥部萬 將一百人守難波宅 而聞大連滅」
舒明天皇二年十月癸卯 「天皇遷於飛鳥岡傍」
舒明天皇四年十月甲寅 「唐國使人高表仁等到干難波津」
舒明天皇八年六月 「天皇遷居田中宮」

崇峻天皇四年に語田天皇の陵に敏達天皇と全く関係がない皇后を追葬していて、これは崇峻天皇が欽明天皇の子ではなく敏達天皇の子の麻呂子でその皇后は糠手姫になり、その母を敏達天皇の陵に追葬したということで、実際は崇峻天皇自体の葬送と考えられて、子の田村皇子を即位させるため糠手姫が天皇及び皇祖母となって舒明天皇こと吉備姫を退位させて田村皇子を即位させたけれど、すぐに死んでしまって皇極天皇が即位した。
   『日本書紀』
崇峻天皇四年四月甲子 「葬譯語田天皇於磯長陵是其妣皇后所葬之陵也」

船王墓誌のおかげで、宮の移り変わりがわかり、阿須迦宮のあとは不明の宮(たいてい池邊大宮)そして難波長柄豐碕宮に遷ったけれど、天氏大王は別の岡本宮に住んでいた。

2017年5月23日火曜日

最終兵器のミサ 元明天皇

 『粟原寺鑪盤銘』という遺物に文が彫ってあるのだけれど、715年に中臣大嶋の子の額田というお姫様が、元明天皇のご主人の寺を建立したと書いてあるんだけど、694年に作り始めて715年までかかって、どうして文武天皇や元明天皇がすぐに作れなかったのだろう、すくなくとも701年には子が天皇に即位している。
ところが、この銘板には藤原不比等でもなく中臣大嶋が建立して、本来なら文武天皇か元明天皇の指示と書くべきなのに一言もふれないで藤原氏より下の地位の人物が建立しているのは異様で、実際は大嶋が日並の親で額田が日並の妻元明天皇か娘の元正天皇で、日本書紀を書く前の文なので全く変更されていないと思え、これらの天皇は本来天皇の位の名前を持っていて、701年に生まれた聖武天皇が天璽国押開豊桜彦と天皇らしい名前をもつことになった。
  『粟原寺鑪盤銘』
「此粟原寺者 仲臣朝臣大嶋 惶惶誓願 奉為大倭国浄御原宮天下天皇時 日並御宇東宮 故造伽檻之 爾故比賣朝臣額田 以甲午年始 至和銅八年」

元明天皇が中臣氏だということが解ったけれど、元明天皇の家系の活躍が欽明天皇からのようで在位年が書かれている古事記から解り、欽明天皇の時すなわち2代ずれて用明天皇のときに蘇我氏と姻戚になって、欽明天皇13年、2代ずれて用明天皇の13年に仏教を拒否、推古天皇もズレて天智天皇の時代の、おそらく大嶋の妻が額田部と呼ばれたかもしれず、天武天皇時代は日並と父大嶋の時代と考えられ、日並の妻が額田姫、娘が十市で鑪盤銘の額田と無関係とは思えない。
  『日本書紀』
欽明天皇十三年十月
「物部大連尾輿 中臣連鎌子同奏曰 我國家之王天下者 恒以天地社稷百八十神」
推古天皇即位前紀
「橘豊日天皇同母妹也 幼曰額田部皇女 姿色端麗 進止軌制」
天武天皇二年二月癸未
「天皇初娶鏡王女額田姫王 生十市皇女」
  『古事記』
「娶宗賀之稲目宿祢大臣之女 岐多斯比売、生御子 橘之豊日命」

とにかく、天皇名やその妃名・皇子名、特に日本書紀と古事記が共通する名は元明天皇の系図の可能性が高いことを頭に入れて考えないといけない。

2017年5月21日日曜日

最終兵器のミサ 乙巳の変と郭務悰

 乙巳の変が664年と証明してきたけれど、蘇我入鹿はなぜか天皇よりも遅く帯刀して現れているけれど、これはどう見ても入鹿の方が偉そうで、しかも、天皇が目の前にいるにもかかわらず刀を置くためとはいえ刀に手をかけさせていて、武器を持った人々は隠れていてその場にはいないのにも関わらず、このような無礼が許されるはずがない。
そして、天皇はわけもわからず天智天皇にどういうことか問いかけているということは、本来入鹿が一番偉くて、入鹿を殺害してクーデタをおこしたのだけれど、孝徳天皇は詳細を知らされていなくて驚いたということで、前回書いた664年5月の劉仁願・郭務と打ち合わせた秘密裡の計画で入鹿が自分は悪くなくて天子の責任と言っているように対中国戦の責任の話と思え、天智天皇たちは戦争の責任を蘇我氏に追わせようとしたのが乙巳の変の原因だ。
さらに、天智天皇が皇位を取り上げようとしていたと返事していてクーデタを実行しなければ孝徳天皇が殺害させられるかも知れないということでクーデタがおこり、更に結果として孝徳天皇の急死があって、中国と実際に戦った責任者等が許され無かったとしか思えない。
   『日本書紀』 皇極天皇四年六月戊申
「天皇御大極殿古人大兄侍焉・・・時中大兄即自執長槍隱於殿側・・・當居嗣位天之子也 臣不知罪 乞垂審察 天皇大驚詔中大兄曰 不知所作 有何事耶 中大兄伏地奏曰 鞍作盡滅天宗 將傾日位」

さらに、郭務は671年ではなく665年に来日して672年に帰っているけれど、672年の記事は695年のことで、665年から695年の31年間に及ぶ駐留だったようで、その駐留場所が筑紫都督府で、都督府は700年まで機能していて『那須国造碑』文の中国年号を伴った評督の役職だった。
   『日本書紀』
 天智天皇八年是歳 「大唐遣郭務等二千餘人」
 天武天皇元年五月庚申 「郭務等罷歸」

郭務に廃位させられた天武天皇は郭務のお気に入りの大友皇子から郭務の帰国を待って政権を奪取したため唐の支持を得られず、逆に唐の支持を得た文武天皇が政権奪取してしまったとしか考えられず、粟田真人が701年に大昇進した理由が文武天皇支援を都督府から取り付けたためだと思われる。
郭務の664年5月の会談の後の蘇我氏抹殺、10月の饗応と孝徳天皇の死そして12月の帰国も天智天皇たちが中国の支持を取り付けて蘇我氏から政権を奪っていて、701年に文武天皇も中国の支持を取り付けなければならなかったとゆうことで白村江の敗戦は40年間も日本の歴史を翻弄して、現代の情景を思い浮かべてしまいそうだけれどごっちゃにすべきではなく、証明できない人物を使ったり、証明できない同一人物を想定してしまったら、歴史ではなく空想の世界になってしまう。
『日本書紀』
天智天皇三年五月甲子 「百濟鎭將劉仁願遣朝散大夫郭務等進表函與獻物」
天智天皇三年十月戊寅 「饗賜郭務等」
天智天皇三年十二月乙酉 「郭務等罷歸」

歴史はロマンなどではなく、ロマンを持つのは良いが論証できる科学でなければいけなくて、間違っても、郭務鎌足説だの筑紫君薩野馬天武天皇説などを主張しても古文献にそんなことを書いたものが1つもなくて証明する方法がない。

2017年5月18日木曜日

最終兵器のミサ 摂政

 天智天皇は『藤氏家伝』に書かれている通り斉明天皇死後662年から摂政に就任しているけれど、摂政というのは天皇が政務を行えないから置かれる位で天智天皇がすでに即位している天皇がいるから天皇に就けない。以前書いたように孝徳天皇が658年に即位して664年死亡しているので天智天皇は皇太子で662年から孝徳天皇がいるのに天皇の役割が果たせない状況だったようで、さらに、孝徳天皇死後も前に書いたように中宮天皇が即位して668年に天智天皇に皇位を譲っている。
  『藤氏家伝』
「十四年 皇太子攝政 契闊早年 情好惟篤 義雖君臣・・・攝政六年 春三月 遷都于近江國」 

中宮天皇は665年に唐の天子と面会していて、666年は病気だったと「野中寺金銅弥勒菩薩台座框」に書いてあって中宮天皇は政務を遂行できない状態だったことが解り、そして、孝徳天皇に何が有ったのか考えると、この時は白村江で戦争を行い、日本は倭の5王の武が言っているように王自らが先頭に立って戦争を行っているように、孝徳天皇も朝鮮に赴いていたのではないか。
そして、大敗戦だったため孝徳天皇も拘束されて664年に郭務とともに水先案内人の役割を以て戦闘がおこらないようにするためのセレモニー的な帰国で、それが、 筑紫君薩野馬の記事で持統紀4年の天智天皇3年と天智天皇10年は天智天皇即位3年で同じ記事と考えられ、そうでなかったら博麻を売った金で薩夜麻達は豪遊でもしていたのだろうか。
  『日本書紀』
 天智天皇三年五月甲子
「百濟鎭將劉仁願遣朝散大夫郭務等進表函與獻物」
 天智天皇一〇年十一月癸卯
「對馬國司遣使於筑紫大宰府言 月生二日 沙門道文 筑紫君薩野馬 韓嶋勝娑婆 布師首磐 四人從唐來曰 唐國使人郭務等六百人 送使沙宅孫登等一千四百人 合二千人 乘船册七隻倶泊於比智嶋 相謂之曰 今吾輩人船數衆 忽然到彼恐彼防人驚駭射戰 乃遣道文等豫稍披陳來朝之意」
 持統四年十月乙丑
「天命開別天皇三年 土師連富杼 氷連老 筑紫君薩夜麻 弓削連元寶兒四人 思欲奏聞唐人所計 縁無衣粮 憂不能達 於是 博麻謂土師富杼等曰 我欲共汝還向本朝 縁無衣粮 倶不能去 願賣我身以充衣食」 

そのため、664年5月の郭務の日本到着記事が無く12月の帰国記事があり、帰国時に中宮天皇を連れて訪中して中国の天子に面会して665年9月に帰国し、天智4年に郭務悰が来日して天武元年まで帰国が無く日本往来とも合致し、ている。
  『日本書紀』
 天智天皇三年五月甲子
「百濟鎭將劉仁願遣朝散大夫郭務等進表函與獻物」
 天智天皇三年十二月乙酉
「郭務等罷歸」
 天智天皇四年九月壬辰
「唐國遣朝散大夫沂州司馬馬上柱國劉徳高等」
 天武天皇元年五月庚申
「郭務等罷歸」
  『旧唐書 仁軌伝』
「麟德二年 封泰山 仁軌領新羅及百濟・耽羅・倭四國酋長赴會 高宗甚悅」

すなわち、女帝も政務が行える立場にあれば摂政を置くことが無く、推古天皇に摂政が必要なわけでもなかったし、神功皇后が摂政に就いたのは応神天皇が3歳の幼児だったからなのだけれど、斉明天皇と孝徳天皇と皇太子の3人の統治の理由は太子が13歳と若かったため後見人が必要だったのが皇祖母なのか。
  『日本書紀』
 舒明天皇十三年十月丙午
「殯於宮北 是謂百濟大殯 是時東宮開別皇子年十六而誄之」

2017年5月16日火曜日

最終兵器のミサ 皇太子とは

 皇太子が天皇と同格すなわち天皇2人制と書いてきたけれど、その証拠が多利思北孤で夜が明けたら弟に政務を任せると太子利歌彌多弗利に、弟に任せると書いていて(男弟王の名前が解らないはずがなく、弟は太子利歌彌多弗利)弟と昼夜を交代する大王が存在して、端正という年号が推古天皇の端正と崇峻天皇の端正があり、天皇が変わって年号が変わらないとゆうことは無いし、後代文献のため天皇や干支を変更していると思われるけれど2代天皇がずれた用明天皇と敏達天皇の端正があって端正1年2年は本来敏達天皇だけど、文献自体が日本書紀に影響されていると思われて、2人の天皇の隋書と符合する。
  『隋書』
「俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言 俀王以天為兄以日為弟 天未明時出聽政跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰此大無義理 於是訓令改之王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子為利歌彌多弗利」
  『万福寺 子持御前縁起』
(中略)「推古天皇御宇端正元年癸丑十一月十三日午の刻」
  『黒沼大明神縁起』
「崇峻天皇御時端正二庚戌年六月十五日黒沼大明神ト申」

また、『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』に法興の元号を使用しているけれど、31年の間には他の多くの年号があって並列しているけれど、1つの王朝に2つの年号は有り得ず、多利思北孤が煬帝のように自分も天子だと言っているのだから法興帝とよんだとしても間違いとは思えないし、もう一人の上宮法皇が聖徳帝と呼ばれていたかもしれない。
   『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』
「法興元丗一年歳次辛巳十二月、鬼前太后崩。明年正月廿二日、上宮法皇枕病弗悆。干食王后仍以労疾」

そして、弟に委ねるということから皇太弟ということで日本書紀の立太子記事が必要なのだけれどその記事が書いてあって、しかも日本書紀でも「上宮」太子で「上宮」法皇と名前が同じで無関係とは言えないし、とゆうことは、立太子のない時期は長男の皇太子が存在して、上宮太子死後は用明天皇の長男の彦人皇子が皇太子になって用明天皇末年に宮を遷した。
その証拠が623年の日付の『隅田八幡神社人物画像鏡』には(押坂の宮の彦)日十()大王の男弟王に百済の武寧王から鏡を送られていて、上宮太子死後2年目の金石文でタリシヒコ大王33年にヒコヒト大王がいる。
   『日本書紀』
 推古天皇元年四月己卯
「立厩戸豐聰耳皇子爲皇太子・・・父天皇愛之令居宮南上殿 故稱其名謂上宮廐戸豐聰耳太子」
 用明天皇二年四月丙午
「遂作太子彦人皇子像與竹田皇子像厭之 俄而知事難濟 歸附彦人皇子於水派宮」
   『隅田八幡神社人物画像鏡』
「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻」

その後、立太子は有間皇子が殺害されたあとに即位した孝徳天皇までなくその間の皇位継承は女帝も存在するので夫婦間や長男が皇位を継承してきたのであって、そのような決まり通りでなければ天皇の継承が朝鮮や日本の標準時計にはなれないし、中国が時計になれなかったのは長期に続く王朝が無かったからで、日本の天皇家は日本の王者ではなかったけれど一貫して王朝をつないできたために標準時計とされた。
   『日本書紀』
 皇極天皇四年六月庚戌
「譲位於輕皇子 立中大兄爲皇太子」