2026年1月30日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 舒明天皇1

  夏四月壬午朔辛卯の雹零は推古・舒明期間中に当てはまらず、全く不明である。但し、辛卯の日は4月15日、『古事記』の豊御食炊屋比売の崩御が3月15日、偶然なのだろうか。倭国は太陽暦、陰暦への換算ミスか。四月壬午は6日、3月6日は『日本書紀』の推古天皇の崩御日である。これも偶然か。推古・舒明・乙巳の変は天智天皇が記させた、天智天皇に都合の良いものだ。聖徳太子が記されたのも、俀国皇太子だったのだから当然だ。

舒明天皇が彦人大兄の子としているが、舒明天皇は倭王なのだから、豊浦大臣、田眼皇女(鎌媛大刀自)が皇后である。彦人大兄の子というのは、俀国の王が彦人の子の茅渟王だったのだろう。日本の史書は兄弟の妃も天皇の娘に組み込まれた。太子たちの彦人・豊浦・麻伊古の妃を彦人の妃に組み込んだのだろう。例えば、用明天皇の妃は豊御食炊屋姫の婿の親や、義理の姉妹を組み込んだ。葛城直磐村の娘の廣子と息長眞手王の娘の廣姫は同一人物、子の麻呂子(彦人)、菟道磯津貝皇女も酢香手姫も伊勢の女王になった。

舒明天皇息長足日廣額の名は息長眞手王の娘の子だからだ。田村王の子ならば田目皇子が可能性大だ。したがって、秋九月己巳朔の推古帝の殯も俀国の暦の634年くらいしか当てはまらない。俀国王の彦人の崩御だろうか。628年、恵佐古大連が崩御し、布都姫の後継者の鎌媛大刀自が夫の豊浦(田目)皇子に皇位に就かせたのだろう。倭国政権の誕生だ。皇太子は蝦夷、626年推古卅四年に馬子が薨じ、後を継いで豊浦皇子が倭王、皇太子蝦夷が大臣である。

 

年候補

壬午4653 330日晦日 596

己巳830日晦日  634 9月朔日 598

2026年1月28日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 推古天皇5

  廿七年夏四月己亥朔、廿八年十二月庚寅朔の珍現象は正しい日干支、畿内の記録だ。『舊事本紀』廾八年春二月甲午朔は間違いの日干支で『舊事本紀』の編纂は646年のこと。蘇我右大臣に、「侍卿、臣連 國造、伴造及諸百姓」を集めさせて即位を宣言した。この時、『舊事本紀』の作成と『日本書紀』の推古・舒明朝の記録を命じたのではないだろうか。一年で『舊事本紀』をまとめ切れるとは思えない。春三月甲子朔の「君后不忠者・妣に対する不孝者・それを隠した者」を重罪と宣言したのも646年だろう。

廿九年春二月己丑朔の「厩戸豐聰耳皇子」の薨は正しい日干支、麻伊古の薨去だったのだろうか。麻伊古の大連の賜姓は無いが、大連と記され、太子だった可能性が高い。上宮法皇は622年、「法興元丗一年歳次辛巳」621年の翌年の二月廿二日に薨去している。『舊事本紀』も壬午年622年だ。以降、俀国の記録が1年のズレを生じさせた。

卅二年夏四月丙午朔の「歸三寶具懐戒法」は前年、秋九月甲戌朔「校寺及僧尼」も、冬十月癸卯朔も前年の623年、この王は馬子の甥、彦人の子の茅渟王のようだ。卅三年春正月壬申朔は前年の624年、高麗王が僧惠潅を派遣した。隋と敵対する俀国と友好に務めたのだろう。これに対して夏五月戊子朔の大臣薨去は正しい日干支である。

卅六年春二月戊寅朔の「天皇臥病」は間違いの日干支で654年のようだ。654年に「高麗 百濟 新羅遣使奉弔」と弔問にやってきている。この頃、『古事記』から解るように、倭国は太陽暦を使用していたようで、崩御の戊子年の三月十五日癸丑、三月癸丑の日はピッタリだ。

三月丁未朔戊申の「日蝕」の日干支は九州の暦、戊申の日が朔である。2日に日蝕は起きない。

 

年候補

甲午2月朔 584 646

甲子3月朔 589 646

年候補

丙午4月朔 623 654

2026年1月26日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 推古天皇4

  十七年夏四月丁酉朔、五月丁卯朔は正しい日干支、百済外交で倭国の記事だろう。十八年冬十月己丑朔は俀国の暦、新羅との記事である。廿年春正月辛巳朔も俀国の暦、酒宴の記事だ。歌の中に「於朋耆彌(おほきみ)」、『俀国伝』の「阿輩雞彌」は同一人物なのだろうか。

廾年春二月朔は正しい日干支、「改葬皇大夫人堅鹽媛」は『古事記』の橘豊日の妃の「意富藝多志比賣(おほぎたし)」、『日本書紀』の石寸名(いしきな)と考えられる。堅鹽媛は推古五年に薨去していたのではないだろうか。推古即位は39歳推古五年である。崇峻崩後の5年間は天皇が居ないことになる。推古五年まで、皇大夫人が最高権力者だったのではないだろうか。

廿一年十二月庚午朔は正しい日干支、片岡に遊んだ太子は麻伊古だろうか。廿二年六月丁卯朔、廿三年十一月己丑朔は俀国の暦だが、百済は俀国と対立しているので、百済の記録なのだろう。朝鮮も中国の暦を使っている。

『舊事本紀』では廿二年六月丁卯朔の日干支の時に、麻伊古に代わって物部恵佐古連が大連(太子)になった。聖徳太子はまだ生存中だ。廿六年秋八月癸酉朔は正しい日干支、高麗からの貢献で、秦王国の記事だ。倭国は隋に朝貢しているのだから、隋と対立した高麗は倭国に朝貢しないだろう。

『舊事本紀』の廾七年冬壬戌朔は間違いの日干支、630年11月だろうか。この冠位制定は、秦王国から見た冠位、『日本書紀』では推古十二年604年、おそらく、倭国の冠位だったのだろう。秦王国の崩壊は629年の舒明即位によってだった。翌年、倭国の冠位を受け入れたのだろう。

 

年候補

冬壬戌朔(1012)

壬戌12月朔604年 10月朔625 11月朔630 12月朔661

2026年1月24日土曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 推古天皇3

  七年夏四月乙未朔、秋九月癸亥朔は正しい日干支、大地動が発生し、百済がその見舞いを行ったのだろう。三月甲申朔は俀国の暦で、新羅が領有する任那を守るために高麗・百済に使者を送った。冬十一月庚辰朔は正しい日干支、新羅攻撃を相談している。十年春二月己酉朔と夏四月戊申朔は俀国の暦、新羅討伐の将軍の來目皇子が筑紫にやってきた記事だ。

六月丁未朔は正しい日干支、來目皇子が病に臥し、新羅攻撃を中止した。十一年春二月癸酉朔と夏四月壬申朔は俀国の暦、筑紫での情報で、來目皇子が薨じ、兄の當麻皇子が将軍になったという知らせなのだろう。秋七月辛丑朔は正しい日干支で、當麻皇子が難波を出た。冬十月己巳朔の日干支は正しく、小墾田宮に遷都した。豊浦宮は倭国の宮で皇子が豊浦皇子なので、理に適う。それまでは倉梯宮が首都だったのだろう。

十一月己亥朔は俀国の暦、太子が「我有尊佛像」と述べている。俀国伝によく合う。十二月戊辰朔、十二年春正月戊戌朔は正しい日干支、畿内の記録だろう。『日本書紀』は「徳仁禮信義智」、俀国伝は「德仁義禮智信」と位順が違う。夏四月丙寅朔は俀国の暦、憲法十七條は上宮法皇の制定である。十三年夏四月辛酉朔、五月甲寅朔は正しい日干支、高麗から祝いが届き、倭国・秦王国の記事ならよく合う。与えた領土も坂田郡、息長氏の領地だ。

十五年春二月庚辰朔も正しい日干支で壬生部を定めた畿内の記事だ。秋七月戊申朔は正しい日干支、煬帝との面会が翌年大業三年なのだから、俀国に連れられて隋に渡ったのだろう。608年、十六年六月壬寅朔、秋八月辛丑朔、秋九月辛未朔の唐客裴世清の記事も正しい日干支で、俀国で不調だったので、倭国と友好関係になったのだろう。大業六年610年に倭国は隋に朝貢した。俀国は607年から隋と断交したので、よく合う。

2026年1月23日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 推古天皇2

  推古紀と舒明紀は倭国政権が記した。推古朝は秦王国の物部氏の政権ではあるが、倭国が実質権力者だったと考えられる。

元年夏四月庚午朔は俀国の日干支、立太子は、上宮法皇の説話で廄戶豐聡耳は「利歌彌多弗利」である。多弗が塔ならば、上塔、上宮とよく合致する。二年春二月丙寅朔は正しい日干支、「令興隆三寶」の太子は贄古の弟の麻伊古大連と考えられる。大連が二人同時に存在するのは、天皇の夫と皇太子が対等ということを示す。

『舊事本紀』の二年春三月丙寅朔は間違い、4月2日と考えられ、俀国の記録を正しい日干支に変えた可能性も否定できない。畿内では敏達六年にも造寺工が来て、大別王の寺を改修した。敏達十四年にも守屋が寺に詣でている。この年に寺を焼いたとある。用明二年にも攝津国に四天王寺などを建立、崇峻三年には櫻井寺があった。ただし、四天王寺は推古元年に造り始めているので、崇峻元年が推古元年のことである。

三年五月戊午朔は正しい日干支、高麗僧の惠慈が帰化した。高麗は秦王国の友好国、太子は麻伊古大連の可能性が高い。五年夏四月丁丑朔も正しい日干支、倭・秦王国の記事で、百済が朝貢した。

冬十一月癸酉朔は俀国の暦、新羅に使者を派遣し秋波を送っている。俀国は新羅、倭国は百済と友好国が決まり、白村江に繋がったのだろう。それに対して、新羅は六年秋八月己亥朔、正しい日干支、孔雀を秦王国に送った。冬十月戊戌朔は俀国の暦で、越が白鹿を献上した。外交の主導権を争っている。

 

年候補

丙寅3月朔 599 630

 丙寅230日晦日、3月2日該当なし

2026年1月21日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 推古天皇1

  推古天皇は『舊事本紀』によれば、576年18歳で妃になり、天皇は592年34歳で崩御した。592年崩御した天皇は崇峻天皇(守屋)で、崇峻天皇の婦人は布都姫夫人である。『舊事本紀』は『古事記』も『日本書紀』も知っているので、皇妃になった歳、死別した歳、天皇の在位期間5年を知っている。39歳即位は両書に対応させた結果だろう。『新唐書』は多利思北孤が用明天皇と理解しているので、推古天皇時は崇峻と用明は同時に天皇だったと理解されているはずだ。

豐御食炊屋姫の娘婿は俀国王と考えられる彦人、俀国皇太子聖徳、倭国初代天皇舒明だ。彦人は『隅田八幡神社人物画像鏡』によると、推古三十一年・623年に大王になったようだ。上宮法皇が薨去したのが622年、翌年皇太子を引き継いだのだろう。彦人の妃は贄古大連と布都姫の娘の小墾田皇女だ。小墾田宮で生まれたから小墾田皇女と名付けられるのは合理的だ。

入鹿は乙巳の変が664年に起こっているので、年齢的に鎌媛大刀自の孫にあたる。入鹿の祖母が弓削大連の妹、守屋の子が弓削と鎌媛大刀自(田眼皇女)、田眼皇女の夫は豊浦舒明天皇、子が蝦夷、孫が入鹿だ。菟道皇女は東宮聖徳妃、593年に皇太弟になった上宮法皇の妃によく合致する。

『舊事本紀』の冬十二月壬申朔の「皇后即天皇」は俀国の暦、東漢直駒の妃の河上娘が倭王に即位したのだろう。推古紀を記したのが蘇我氏、理に適う。推古天皇が39歳で即位となっているのだから、それまでは駒が倭王だったのかもしれない。元年春正月壬寅朔は正しい日干支、法興寺が建設中である。法興帝が即位した記念に建立するのは理解できる。法興帝の畿内出張所なのかもしれない。法興寺建立が588年の崇峻元年になっているが、『舊事本紀』に従うならば、593年になる。「法興」という漢語、文字が普及した秦王国と法興帝、どちらが相応しいのだろうか。

2026年1月19日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 崇峻天皇

  用明二年八月癸卯朔は正しい日干支、崇峻天皇が即位した。『日本書紀』は大臣が蘇我馬子宿禰、『舊事本紀』では誰も賜姓されていない。馬子すら大臣と記していない。『舊事本紀』においては、守屋が敏達十四年九月から大連という天皇だ。布都姫が皇后である。

倭国は崇峻元年三月に長谷部若雀が稲目の王朝を継承した。稲目の娘の小姉君の婿の薨後、小姉君の娘の穴穗部間人が倭女王、皇祖母となった。倭王位は夫から兄弟に遷ったに過ぎず、最高権力者は変わっていない。崇峻天皇に皇后が記されない理由だ。

 大伴糠手連の娘の小手子は日付を記述せず『古事記』にも記述がない。これは、俀国の記事と考えられる。馬子の子が夫ならば、馬子の娘婿が俀国皇太子と思われる東漢直駒と、互いに姻戚関係を密にしたことになる。政略としては理に適う。馬子の妃は不明だが、目大連の子に馬古が存在し、目大連、すなわち大伴氏(?小手子)の婿になったのだろう。同世代に有名人同士が同名はないのでは?

二年秋七月壬辰朔は正しい日干支、東国視察の記事は守屋が東方も勢力下にしたのだろう。四年夏四月壬子朔も正しい日干支、「葬譯語田天皇」は奇異で、591年は法興元年、前俀国王を埋葬したのだろうか。ただし、俀国は晦日が朔なので、倭王や秦王国王が参列した記録なのだろうか。それとも、小姉君が薨じたのだろうか。秋八月庚戌朔、冬十一月己卯朔は正しい日干支、朝鮮関係の外交は秦王国と倭国が完全に主導権を得たようだ。

 五年冬十月癸酉朔も正しい日干支で、守屋と馬子の確執の発端となった。そして、十一月癸卯朔も正しい日干支、馬子の娘の河上娘の婿の東漢直駒が泊瀬部天皇を殺害した。

2026年1月16日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 用明天皇

   九月甲寅朔戊午は正しい日干支、御狩が即位、太子が守屋だ。『舊事本紀』では、敏達天皇の崩御が587年、用明二年、守屋が大連と大臣を兼ねたということは、守屋が倭国の大臣を兼ねたのだろう。橘豐日は『古事記』によると585年の崩で、穴穗部皇子と考えられる。用明天皇が穴穗部間人皇女に婿入りして穴穗部と名乗った。実質の倭国の権力者は稲目の娘の石寸名の婿の馬子だ。

堅鹽媛は稲目を襲名した後継者の妃、小姉君は尾輿の妃、先代の稲目は弓削連の祖の倭古連と呼ばれたと考えられる。堅鹽媛の娘の豊御食炊屋姫も夫が守屋、弓削連と呼ばれる。

 元年春正月壬子朔は正しい日干支、穴穗部間人皇女を皇后にした。穴穗部間人が実質の用明天皇と解る。この世紀の倭国は皇祖母、夫人が治める女帝の時代とも呼べる。二年夏四月乙巳朔も正しい日干支で、新甞祭を行った。

六月甲辰朔も正しい日干支で穴穗部皇子は6月に崩じ、秋七月甲戌朔甲午は正しい日干支で、磐余池上陵に葬られた。7月に廐戸皇子が守屋と戦うが、「束髮」、すなわち、15・16歳と記している。これは、593年になれば成人、昼になったら弟に成務を任せられる。591年即位の法興帝の皇太弟にピッタリな年齢だ。菟道皇女を妃にしたのが聖徳法皇の可能性が高くなった。『新唐書』は橘豊日を目多利思比孤だと記している。多利思比孤は591年即位した。菟道皇女が干食王后なのか。それとも、聖徳太子が多利思比孤、菟道皇女が鬼前太后か。

2026年1月14日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 敏達天皇2

  五年春三月已卯朔も俀国の日干支だ。豊御食炊屋姫が576年18歳で皇后になったのならば、敏達十四年は廿七歳、『舊事本紀』によれば、卅四歳に渟中倉太玉敷崩御、この年が587年、587年は用明崩御の歳、卅九歳は592年で崇峻崩御である。すなわち、『舊事本紀』の豊御食炊屋姫は崇峻皇后の布都姫夫人である。そして崇峻天皇は守屋である。587年は用明天皇が崩御、584年、敏達十三年に三代目稲目の宮の王、おそらく、馬子の義母の小姉君が皇祖母で崩御した可能性がある。二人の推古天皇、この皇后は『舊事本紀』の推古天皇ではない。

六年春二月甲辰朔は正しい日干支、日祀部と私部を置いた。夏五月癸酉朔、冬十一月庚午朔も正しい日干支、百済に大別王と小黒吉士目を大使に派遣した。大別は仁徳天皇の末裔と考えられ、扶桑国王、既に寺を持っていた。七年春三月戊辰朔も正しい日干支で、橘豊日の皇子池邊皇子が菟道皇女を妃にした。代わりに酢香手姫が伊勢に派遣されたのだろう。この菟道皇女は東宮聖徳妃、彦人の(?義)弟が聖徳太子だ。彦人は俀国王、妃が小墾田皇女、廣姫の娘の菟道皇女は義姉妹を子に含めたのだろうか。それとも、俀国皇太弟、聖徳の妃として含めたのだろうか。『上宮聖徳法王帝説』には菟道皇女は妃とされない。『新唐書』には用明=俀国王、皇太弟が上宮法皇である。

十二年秋七月丁酉朔も正しい日干支で、任那復興のため百済に使者を派遣した。十三年春二月癸巳朔は俀国か朝鮮の日干支、難波吉士木蓮子を新羅に送り、任那に行った。十四年春二月戊子朔は正しい日干支、蘇我大臣が塔を建て、大法会を行った。三月丁巳朔は俀国の日干支、馬子は俀国から稲目の宮に婿入りしたのだろう。秋八月乙酉朔も正しい日干支で、『舊事本紀』も同様だ。御狩の崩御である。

2026年1月12日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 敏達天皇1

    敏達紀も基本的に欽明紀と同じ状況で、記述したのは馬子が中心だ。正しい日干支は秦王国と倭国、九州の暦は俀国と朝鮮記事だろう。天皇は世代を考えると秦王国が二代目の尾輿、太子が御狩、倭王は三代目の稲目?太子が馬子だろう。御狩の子が守屋の孫を妃にしているので、世代がもっと後だ。『古事記』によれば三代目の稲目の薨去は584年(敏達十三年)である。

元年夏四月壬申朔は正しい日干支、三代目の稲目が即位した。『舊事本紀』は物部大市御狩が大連だが、尾輿、天皇、世代的に皇太子になったのだろう。

『日本書紀』は守屋(初代?)が大連だが、初出は敏達十四年、大臣(弓削)になっている。馬子が倭王、皇太弟が守屋になったのだろう。五月壬寅朔も正しい日干支、高句麗の使者が大井宮に迎えられた。

二年夏五月丙寅朔は俀国の日干支、大伴氏の後ろ盾の吉備は俀国領だったようだ。吉備五郡も俀国領だったものを、倭国と秦王国で分けた。秋七月乙丑朔も俀国の暦ならば、この難波は福岡になる。もしかすると、高句麗の暦なのかもしれない。秦王国の暦ならば共に542年になる。

八月甲午朔、三年夏五月庚申朔、秋七月己未朔も正しい日干支で高句麗の使人についての説話である。冬十月戊子朔丙も正しい日干支で、馬子大臣がさらに俀国領の吉備から領地を奪った。

四年春正月丙辰朔は俀国の日干支、廣姫は俀国の后のようだ。菟道磯津貝皇女は橘豐日の妃にしたが、聖徳太子妃とある。『日本書紀』編者は橘豐日イコール聖徳太子と理解している。二月壬辰朔は間違いの日干支で、574年が正しいのだろう。馬子が倭国太子になって京に上り、復命ではなく命令された。夏四月乙酉朔は正しい日干支で、新羅・百済・任那に使者を送った。

 

年候補

丙寅5月朔日 542 666

乙丑7月朔日 485 542 609

壬辰2月朔日 517 543 574 641

2026年1月9日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 欽明天皇3

  十五年春正月戊子朔も正しい日干支だが、立太子なので俀国の王朝交代と考えられる。火中君が王になったのだろう。廿九年にも立爲皇太子の記事がある。三月丁亥朔と夏五月丙戌朔も正しい日干支で、百済関係の記事だ。秋七月己卯朔も正しい日干支で、倭国が吉備も配下にした。三月丁亥朔、夏五月丙戌朔も正しい日干支で、百済威徳が即位した554年以降598年まで、高句麗との戦乱がない。秦王国の仲介のおかげなのだろうか。秋七月己卯朔も正しい日干支、吉備五郡を倭国稲目と秦王国穂積氏とで分け合っている。

秋七月甲戌朔は俀国の暦で、備前兒嶋を葛城山田直に与え、備前兒嶋は俀国領だったのだろう。直と同じ、もしくはそれ以上の位の田令という地位だったのを追認したのだろう。十八年春三月庚子朔は正しい日干支、しかし、威徳王は554年(欽明十五年)に即位したことになっているがこの年に正式に王となったのか。百済は戦乱が続き、王位が空白だったのだろう。

秋七月己巳朔も正しい日干支、新羅が任那を滅ぼし、新羅人が河内に入植した。秦王国が新羅も援助していたことが理解できる。卅年春正月辛卯朔も正しい日干支、国が安定し籍を定めた。卅一年春三月甲申朔も正しい日干支、稲目が薨じた。稲目の宮は584年まで、廣國押武金日死後の宣化元年536年から渟中倉太珠敷崩御までの49年間続いている。建小広国押楯から続く宮だったのだろう。

夏四月甲申朔、秋七月壬子朔も正しい日干支、高麗使人が越に流れ着いた。即位若干の王、当然稲目の後継の倭王である。卅二年春三月戊申朔も正しい日干支だが、相手は新羅、秦王国は新羅の任那併合を許しているので、これも倭国の説話だろうか。倭国は白村江で百済側、新羅と敵対している。夏四月戊寅朔も正しい日干支、天皇寢疾不豫と危篤状態になった。秋八月丙子朔も正しい日干支、新羅の弔使も秦王国への弔使だ。

2026年1月7日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 欽明天皇2

  九年夏四月壬戌朔は正しい日干支、百済が劣勢で、秦王にも泣きついた。百済を北でなく、西藩と呼ぶのだから、畿内の国である。六月辛酉朔も太陽の位置計算では閏5月1日だが、正しい日干支の可能性が高い。高句麗からの攻撃は任那と百済で自衛するよう、見放している。閏七月庚申朔は俀国の記録で7月2日、閏月がずれているので、閏七月は7月、6月は小の月だ。十年夏六月乙酉朔は正しい日干支、高句麗に使者を送ったと記している。秦王国は高句麗と友好関係である。

十一年春二月辛巳朔も正しい日干支だが、内容は『百濟本記』の内容で、この天皇は俀国の天皇、百済に援助している。百済は3月11日を12日として、俀国と同じ暦である。夏四月庚辰朔も俀国の日干支で、高句麗の捕虜を俀国に送っている。十三年五月戊辰朔は正しい日干支、河内部阿斯比多の報告を受けている。十四年春正月甲子朔も正しい日干支、百済は秦王国にも助けを求めている。

夏五月戊辰朔は間違いの日干支で552年が正しい。河内国の説話で、552年4月に薨じた箭田珠勝大兄のために像を創ったと思われる。仏像の初出は501年に室屋大連が命じた。倭国への仏教伝来の前、『梁書』の扶桑国を思わせる。その後、545年、おそらく、俀国に百済から丈六佛像を贈られた。百済から援軍を求めて、釋迦佛金銅像や経典を贈られた。秦王国の仏教は別ルートで入っているので、稲目に任せた。

秋七月辛辛酉朔は正しい日干支、稲目が船史を賜姓した。敏達前紀に船史の祖、敏達三年に船史となっているので、この時秦王国で承認された。八月辛卯朔も正しい日干支、百済からの援軍依頼である。冬十月庚寅朔も正しい日干支、倭国と百済が友好関係を維持しているようだ。

 

年候補

戊辰5月朔日 428 552 645

戊辰430日晦日 588

戊辰52 516 578

2026年1月5日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 欽明天皇1

   539年冬十二月庚辰朔の天國排開廣庭の即位は正しい日干支で天國排開廣庭、大伴金村、物部尾輿、蘇我稻目宿禰が俀国、秦王国、倭国の天皇や太子になった。皇后を皇太后としたということは、秦王国の天皇である新皇后が決まったことを意味している。雄略天皇が皇太后を贈って以来の皇太后だ。皇太后は王朝交代時のセレモニー。伝統に法る秦王国誕生と考えられる。

また、『舊事本紀』はこの539年を元年としているので、欽明元年540年は倭国稲目の元年なのだろう。即位時が「時年若干」、廣國押武金日が435年に崩じ、皇太弟の初代稲目の武小廣國押盾も戦乱で崩じ、稲目は19歳で成人していなかったのだろう。そのため、年が明けて20歳で成人となり、元年となる。短期間の王の交代は正常な状況とは思えない。

 二月壬申朔の百済人の倭国投下は正しい日干支で、稲目の記録だろう。倭は太陽暦、正しい日干支に変換したのだろう。三月壬寅朔の蝦夷・隼人の帰属は3月2日、前月は小の月で俀国の暦だ。上殖葉の記録なのだろう。俀国は欽明十七年に葛子の婿と思われる火君と葛子の実子の火中君兄弟が即位しているので、火中君が皇太弟で、共に若いのだろう。

 秋七月丙子朔の遷都は正しい日干支で稲目が磯城嶋宮に住まいを遷した。九月乙亥朔の難波祝津宮行幸も正しい日干支で秦王国の首都が難波祝津宮のようだ。稲目が難波に参内、百済と通じて、任那の管理をした金村と倭王・秦王国王が対立したのだろう。二年冬十一月丁亥朔の津守連の任那派遣も正しい日干支、秦王の記録だ。

 七年春正月甲辰朔の百済の使者の帰国は九州の暦、百済に馬や船を与え、友好関係が見える。夏六月壬申朔は正しい日干支、秦王に百済が調(税)を納めた。九年春正月癸巳朔は九州の暦、百済の救援の依頼に助けると返事している。『江田船山古墳出土の銀錯銘大刀』の「事典曹人名无利弖」はこの時派遣されたのだろうか。