2025年4月30日水曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話38 眞若王

高穴穂宮世代以降の眞若王は、五百木之入日子と尾綱真若刀婢の子の品陀眞若、応神天皇妃の息長眞若中比賣、応神天皇の皇子の伊奢能麻和迦、応神天皇の子の若野毛二俣の妃の弟日賣眞若比賣と継承された。これらの眞若は全て地名付きの眞若で、同時代に、複数の眞若が存在したことを意味し、同時代の眞若は親子や兄弟、姉妹が想定される。尾綱根は品陀眞若から「奉久三口」と品陀眞若の娘達を奉じなさいと『舊事本紀』は記述する。

内色許男の妃の真稚姫は、穴穂宮太子の五百木之入日子の妃の尾綱真若刀婢が眞若比賣を継承した。すなわち、その父の建稲種の妃の大荒田の娘の玉姫も眞若比賣、母の大荒田の妃も眞若比賣と考えられ、伊迦賀色許男の姉妹の伊迦賀色許賣を継承していることになる。伊迦賀色許賣の娘は日子坐の妃の山代荏名津比賣(苅幡戸辨)は良く合致しそうで、その娘も苅羽田刀辨で、穂積臣の祖を引き継ぐ大荒田の妃だろう。

比古布都押之信の父は葛木垂見(足神)、すなわち、葛󠄀木直祖の葛木天皇(大諸見足尼)で、その娘が建諸隅の妃の諸見巳姫である。建諸隅の父建宇那比には二男、建諸隅以外にもう一柱の皇子が存在し、それが、葛木垂見の娘の鸇比賣を妃にした可能性が高い。鸇比賣の子が建豐波豆羅和氣で、丹波竹野別の祖である。

すなわち、竹野比賣の子の比古由牟須美、その義姉妹が日子坐の妃の苅幡戸辨(荏名津比賣)、その娘が苅羽田刀辨だろう。苅羽田刀辨の婿が、丹波竹野別の祖の建豐波豆羅和氣、その子が大荒田ならば相応しい。苅羽田刀辨の子には五十日帯日子が存在し、伊迦賀色許賣の名を引き継いでいる。

御眞木入日子は輕境岡宮天皇の姫の賦登麻和訶比賣(太眞稚比賣)の子の御眞津日子の末裔で、「しこぶちさん」がある安曇川のある輕と呼ばれる地域の王だった。その地域には大荒比古神社が存在し、そこの王と考えられる大荒田の娘の玉姫の子が輕島明宮大臣だった。穂積氏の祖の内色許男も伊迦賀色許賣も「しこぶちさん」に無関係とは思えない。この地域に眞若比賣がいて、眞若王の出身地なのだろう。

2025年4月28日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話37 御真木入日子

  伊久米伊理毘古、大帯日子は共に分家、その本家の御真木入日子は戊寅年318年12月に崩じたと『古事記』は記述する。319年から難波朝天皇は徴税を開始して権力を得、すなわち、御真木入日子は輕島明宮朝の天皇だったことを示す。最後の輕島明宮朝天皇が菟道稚郎子だったので、菟道稚郎子の崩御が318年12月だったということである。そして、若帯日子が後継者となる。

輕島明宮朝の大臣は尾綱根で妃は高木之入日女で、高木之入日女の父が品陀眞若、品陀眞若の父が穴穂宮太子の五百木之入日子である。それで、『舊事本紀』も『日本書紀』も輕島明宮朝の天皇を譽田天皇と呼び、五百木之入日子の分王朝で、その妃は尾綱真若刀婢である。すなわち、御真木入日子は八坂入日子・八坂入日賣・五百木之入日子・譽田の親子の王朝と解る。

御真木入日子は眞若王・眞若比賣の王朝である。伊久米伊理毘古は御真木入日子の姉妹の御眞津比賣の子とあるが、御眞津比賣の夫の比古由牟須美の子の大筒木垂根の娘の婿で、世代が異なる。御真木入日子は一世代前、垂仁朝が纏向と師木宮があった影響なのだろう。同様に世代にズレがあるのが、比古布都押之信の母の伊迦賀色許賣の父の穗積臣の祖の内色許男である。

内色許男の妃は芹田真稚姫(?千千速眞若比賣の娘)なので、伊迦賀色許賣は真稚姫でもある。比古由牟須美の子の2代目丹波道主の義兄弟に日子坐(伊迦賀色許男)の子の水之穗眞若(八坂之入日子)、その子が大筒木眞若だ。そして、伊迦賀色許賣の娘の御眞津比賣の娘に伊邪能眞若が存在する。そして、若建吉備津日子の娘(?)の伊那毘能若郎女の子に日子人之大兄の兄の眞若が存在する。眞若王は眞若比賣の子なので、眞若王の母が眞若比賣で、同時に複数の眞若王がいれば地名が付加される。

2025年4月25日金曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話36 大帯日子と伊久米伊理毘古

蝿伊呂杼の子の日子寤間と内色許男の娘の伊迦賀色許賣との子が比古布都押之信、姉妹が伊迦賀色許賣だ。日子寤間の兄弟の若日子建吉備津日子は同じく内色許男の兄弟の大吉備津日子と共(二柱相副)に吉備を得た。比古布都押之信の妃の高千那毘賣は、竟富那毘の義妹で、内色許賣の娘の倭迹迹姫と比定した。倭迹迹姫が『日本書紀』に「一云天皇母弟少彦男心」とあり、比古布都押之信(彦太忍信)の子は(忍武)雄心で、倭迹迹姫と少彦男心は一心同体だ。

少名日子建猪心を師木天皇の親の伊迦賀色許男・比古布都押之信としたが、少名日子は吉備小国王を意味する。すなわち、若日子建吉備津日子の子は伊迦賀色許男の姉妹と婚姻した。師木天皇の分家が御真木入日子、伊久米伊理毘古、大帯日子、その中の一人である大帯日子が若日子建吉備津日子の娘婿である。

垂仁妃は全て丹波道主の娘で、伊久米伊理毘古の妃は、大筒木垂根の娘の迦具夜比賣しか残っていない。大筒木垂根は比古由牟須美の子で、丹波道主の娘、おそらく、義娘の中の一人の婿である。名前から考えると、大根が大筒木垂根で娘の弟比賣の婿が大筒木眞若、兄比賣の婿が大碓だ。

大根は伊迦賀色許男の子で伊迦賀色許賣の娘婿、御真木入日子は伊迦賀色許賣の子、大帯日子の子(大碓)が大根の娘婿なので、大帯日子は大根と同世代の兄弟の可能性が高い。そして、迦具夜比賣は次の世代なので、迦具夜比賣の夫の伊久米伊理毘古は大帯日子の次の世代だ。すなわち、大碓が2代目の大帯日子と考えるべきで、大帯日子と伊久米伊理毘古が同世代になった。纒向珠城宮配下の王の大帯日子と師木玉垣宮配下の王の伊久米伊理毘古である。

大帯日子の妃は吉備臣の祖の()建吉備津日子の娘の伊那毘能大郎女である。小碓の妃の吉備武彦の娘の吉備穴戸武姫の子に讚岐綾君の祖の兒武卯王が存在し、吉備穴戸武姫は大帯日子の()娘に当り、孫が讚岐綾君の祖だ。大筒木垂根の兄弟に讚岐垂根が存在し、讚岐を支配した禰宜を意味し、讚岐垂根が大帯日子である。すなわち、御真木入日子の甥が伊久米伊理毘古と大帯日子で、伊久米伊理毘古と大帯日子は並行した宮の主である。このように、伊久米伊理毘古と大帯日子が御真木入日子の分家の為、伊久米伊理毘古と大帯日子の宮の崩御日が記述されない。

2025年4月23日水曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話35 武内宿禰

  建稲種は忍山宿祢で、その娘達は太子の妃だった。太子は五百木之入日子、若帯日子、倭建で、倭建は世代が前で、倭建の子とされる仲哀天皇の時に三つの首都があったので、倭建の子が他の太子と同世代である。従って、倭建が初代の膽咋、2代目の膽咋が大臣で、武内宿禰も大臣になった。同世代の五百木之入日子も建稲種の娘婿の尾綱根で、三代目の尾綱根が輕島明宮大臣・譽田天皇になった。

若帯日子の項で武内宿禰が大臣になったと記述するのだから、若帯日子が武内宿禰と考えるべきだろう。高穴穂宮の元年に膽咋が大臣になったのだから、高穴穂宮天皇は膽咋だったので、高穴穂宮に二人の大臣は不要だ。名が若帯日子なのだから角鹿笥飯宮が相当する。

武内宿禰は『日本書紀』によれば、屋主忍武雄心と紀伊國造の莵道彦の娘の山下影日賣との子で、『紀氏家牒』によれば、木國造の祖の宇豆比古(道彦)(山下)影日賣の兄にあたる。『古事記』は比古布都押之信と木國造の祖の宇豆比古の妹の山下影日賣の子と記述する。おそらく、比古布都押之信と竟富那毘の妹の高千那毘賣が味師内宿禰を生んだ。その味師内宿禰が木国(野洲)の紀伊國造の莵道彦、その娘が山下影日賣、その婿の屋主(野洲主)忍武雄心が武内宿禰・若帯日子を生んだ。すなわち、忍武雄心が木國造の祖の師木宮の天皇の伊迦賀色許男(日子坐)だった。

建稲種は五百木之入日子の義父で、五百木之入日子の子の品陀眞若の義父でもあり、輕島明宮大臣の父でもある。そして、『紀氏家牒』に「山下影媛居地同名紀里」とあるように、紀伊國造の宇豆彦道彦男が倭国平群県紀里に移住して、武内宿禰がその娘の宇乃媛に婿入りし、紀武内宿禰と呼ばれた。

これが、200年頃である。紀伊國造の宇豆彦道彦男が平群に移住する前、名前のとおり、宇津から木津にまたがる宇道の国造りだった。その頃の武内宿禰が徳勒津宮、紀伊國山代の内の大臣になり、宇乃媛の兄弟の葛城国造荒田彦、その娘の葛比売を妃に襲津彦が生まれたと考えられる。すなわち、『古事記』の忍山垂根は紀伊國造の宇豆彦道彦男、弟財郎女は宇乃媛だった。建稲種は大荒田や膽咋と同世代の忍山垂根だった。

2025年4月21日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話34 忍山垂根の娘婿の建部

  太子の一人の五百木之入日子の妃は尾綱根の妹とする尾綱真若刀婢で、義父が建稲種、義母が迩波縣君の祖の大荒田の娘の玉姫である。迩波縣君は建部君なので、玉姫の父の大荒田が建部君の祖の大玉(大国王)ならば良く合致し、大玉の娘の一人が稻依毘賣、夫が息長宿禰である。

初出の建部君の祖が大玉で、その後の建氏は倭建や若帶日子の義父の建忍山垂根なので、大玉は建忍山垂根と考えられる。忍山垂根は穴太足尼の後継者、宗教上の最上位者で、弟比賣の婿と考えられる。

五百木之入日子は建稲種の娘婿なので、初代の尾綱根の可能性が高く、子の品陀真若も襲名して、建稲種の孫の金田屋野姫を妃にした。五百木之入日子は高穴穂宮での名で、尾綱根は輕島明宮での名、品陀眞若が神功皇后の笥飯宮か小竹宮での名前だ。長女が継承すれば名が変わらず、次女や男子が継承すれば名が替わる。

布多遲(能伊理)毘賣は倭建の妃なので、倭建は高穴穂宮天皇の娘婿と解った。景行朝の時、景行天皇が穴穂に逃げているように、既に高穴穂宮が存在し、穴太足尼が十市根高穴穂宮天皇だった。この時期の高穴穂宮太子が娘婿の倭建で、倭建薨去後の131年に、膽咋大臣が継いだ。そして、建忍山垂根の娘の弟財郎女の婿も太子若帯日子と呼ばれ、成務三年大臣になった木国造の娘の宇乃媛の婿の建内宿禰と考えられる。

倭建は同じ高穴穂宮太子でも、景行朝と並立した穴太宮朝の太子だったと考えられる。倭建が『舊事本紀』には成務朝に、『日本書紀』や『古事記』では景行朝に記述される理由である。景行五十二年に伊那毘能大郎女が薨じ、八坂之入日賣が皇后になっているが、八坂之入日賣の家系が纏向宮天皇になったことを示すと考えられる。それが、膽咋宿祢と八坂之入日賣の娘の比咩古、その娘の清媛が皇后、天皇は物部武諸遇である。纏向宮天皇は子(義子)の多遅麻によって、240年頃まで存在した。

2025年4月18日金曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話33 建稲種

建稲種は乎止与と大印岐の娘の子で、乎止与は迦迩米雷、大印岐の娘は布多遲毘賣と考えられる。『舊事本紀』は布多遲能伊理毘賣を稻別と記述し、布多遲能伊理毘賣を倭建の妃とするが、世代的に布多遲毘賣が倭建の妃で、布多遲毘賣が稻別と考えられる。

沙本毘古の妃と考えられる阿邪美能伊理毘賣の娘の稻城の姫の阿邪美都比賣が布多遲能伊理毘賣と考えられ、稻比賣と呼ばれるべき人物だ。稻城が燃えて、娘の布多遲毘賣が稻別なら相応しい。その婿が迦迩米雷(稻別王)である。その子の息長宿禰が稻城の本家の山代の相樂近辺を領有する淵の娘の苅羽田刀辨の分家の綺戸邊の姫の稻依毘賣に婿入りした。

荒河刀辨の子と考えられる大國の淵、その娘の苅羽田刀辨の子は落別王と五十日帶日子、荒河刀辨の孫の沼羽田之入毘賣の子にも伊賀帶日子が存在し、苅羽田刀辨も沼羽田之入毘賣も木國の姫達だ。従って、見る氏族による別の名で、同一人物と考えられる。すると、石衝別の母の綺戸邊は同じく弟國に住む荒河刀辨の孫の比婆須比賣の子の可能性が高い。

大筒木眞若は弟比賣を妃に弟比賣を生み、『日本書紀』は八坂之入日賣の子に弟比賣を含むのだから、従妹同士が婚姻したことを示す。一世代60年なのだから、婚姻し合えば兄弟だ。子には、皇太子の若帶日子、五百木之入日子等が存在し、若帶日子の妃は建忍山垂根の娘の弟財郎女である。五百木之入日子の妃は建稲種の娘、もう一人の太子の倭建の妃は忍山宿祢の娘の弟比賣で、建稲種が忍山宿祢にあたる。

すなわち、三太子全て、建稲種の娘婿なので、高穴穂宮の天皇は十市根から建稲種に交代したことが解る。迦迩米雷の母は伊理泥(十市根)の娘、布多遲比賣は安國造の祖の意富多牟和氣の娘、安國は高穴穂宮も含む首都でその王なのだから天皇だ。すなわち、十市根のことで、十市根は穴穂天皇、すなわち、穴太足尼、娘婿は膽咋、すなわち、十市根の娘婿で、大臣になった膽咋には兄弟が他に2人いた。

2025年4月16日水曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話32 師木(弟國)の天皇

    多多須美知能宇斯と比古由牟須美は同一人物で、美知能宇斯が旦波大縣主の由碁理の娘の竹野比賣の娘の摩須郎女に婿入りした。そのため、『日本書紀』・『舊事本紀』には美知能宇斯の娘に名を引き継いだ竹野媛が存在し、本国に帰って薨じ、弟國の名がついた。

伊勢大神を託された比婆須比賣は伊勢遺跡に遷り、婿が八坂之入日子、朝廷別が豐木入日子にあたり、『古事記』と『舊事本紀』は八坂之入日子と大根を同一視している。それは、美知能宇斯の跡取りの比婆須比賣が伊勢に出され、跡取りの弟比賣の圓野比賣(竹野比賣)が薨じた。それで、弟比賣を沼羽田之入毘賣が襲名し、跡取りの沼羽田之入毘賣の夫が大根だったからだろう。

本来は八坂之入日子が弟國王、統治する師木天皇、大根は神に仕える人物だったのだろう。大臣と大連の関係だ。『日本書紀』は竹野比賣を弟比賣とし、高穴穂宮の時に但遲麻國造に賜姓された船穂足尼と同時期に弟國王竹野君が存在する。

すなわち崇神朝では、比古由牟須美(丹波道主・倭得玉彦)と日子坐(伊迦賀色許男大臣)の家系が婚姻し合って政権を維持していた。崇神六〇年、前38年に豐木入日子が纏向に分朝廷を開き、師木は妹の阿邪美能伊理毘賣の婿の沙本毘古(大根)が後を継いだ。

倭得玉彦は大稲日とも呼ばれて、沙本毘古は山代の相樂に稲城を築き、そこで妹の佐波遲比賣(歌凝比賣)と共に崩じた。相樂の北に稲という地域があり、迦迩米雷は稲別の婿、子の息長宿禰は稻依毘賣の婿で多遲摩國造の祖を生む。すなわち、葛城の高額比賣の子が竹野君と言える。

垂仁五年、おそらく、実際は豐木朝5年、崇神六四年から戦乱が起こった。紀元前30年に大根が大連になって、翌年師木(弟國)玉垣宮に遷都した。玉垣宮は比婆須比賣の為に埴輪を造った野見宿禰の領地の當麻で、當麻坂上君の祖は比婆須比賣の祖父の日子坐なので相応しい。

垂仁三二年、大根が崩じて、山代の大筒木眞若(印色入日子)が継承した。そして、垂仁八十一年、十市根が八坂之入日賣に婿入りして、垂仁八十七年に八坂之入日賣が皇位を継承して、高穴穂宮に遷都したのだろう。

2025年4月14日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話31 倭建の妃達

  稲別の娘の布多遲毘賣は安國造の祖の意富多牟和氣の娘、穴太天皇の娘だった。布多遲毘賣の子の息長宿禰が稻依別、妃が河俣稻依毘賣なので、河俣稻依毘賣は稲の比賣の分家に当たるようだ。

稻城王の沙本毘古の分家、山代の大國の淵の後継者は苅羽田刀辨の娘婿の落別、沼羽田之入毘賣の子と考えられる。沼羽田之入毘賣は弟國で死んだ圓野比賣に変わって、若しくは同一人物の弟比賣として、比婆須比賣と共に首都に残っている。分国した弟比賣の子の弟別王の沼帯別が苅羽田刀辨の子の落別で、その姉妹が弟比賣(妾の子)、婿が大筒木眞若である。その娘には弟比賣、高木比賣が存在する。高材比賣は息長宿禰の母、高材比賣の婿は迦迩米雷で大筒木眞若の子である。

美濃國造の神骨(大根・伊理泥)の子は十市根(2代目伊理泥)と兄(遠子)比賣と弟(遠子)比賣で、兄比賣の夫が大碓、弟比賣(阿治佐波毘賣)の夫が大筒木眞若だろう。十市根は大筒木眞若の妹の八坂之入日賣を妃にする。跡取りの弟(遠子)比賣が妾の子のことで、弟比賣や吉備之兄日子を生み、高木比賣は嫁である。大碓は世代を考えると、2代存在し、初代の大碓は大根の娘と、2代目の大碓は大根の孫を妃にしなければ、理に適わない。

大根の孫は弟(遠子)比賣の実娘の弟比賣、弟比賣の婿の大碓が義子の吉備之兄日子と考えられる。そして、弟(遠子)比賣の子が小碓で若木之入日子の可能性が高く、大碓とは義兄弟である。

布多遲能伊理毘賣と布多遲毘賣が親子と見做したように、倭建の妃の弟橘比賣、山代の玖玖麻毛理比賣、一妻、吉備穴戸武姫も弟比賣の親子や姉妹と見做すべきだ。忍山宿祢の娘には弟橘比賣と弟財郎女の二人の弟比賣が存在し、『舊事本紀』はそれを纏めて弟比賣としている。弟比賣は弟橘比賣が若建を、山代の玖玖麻毛理比賣の子の足鏡別の娘の一妻(弟比賣)が息長田別を生んだ。

若建の妃は杙俣長日子(品陀真若)の娘の三姉妹の長女の飯野眞黒比賣(高木之入日賣)なので、武部君の祖の尾綱根にあたり、丹羽建部君の祖の大荒田・武田の孫にあたり相応しい。息長田別は阿波君(淡海君)の祖なので、太子の五百木之入日子に当たり、稻依別(河俣稻依毘賣)の子の大多牟坂は丸迩意富美と考えられる。

2025年4月11日金曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話30 山代大国の木國造

  倭建の妃は世代的に布多遲能伊理毘賣ではなくその娘の布多遲毘賣と考えられる。布多遲能伊理毘賣の夫は沙本の穴太部別の祖の沙本毘古と丹波道主の娘の阿邪美能伊理毘賣の子の伊許婆夜和氣の可能性が高い。丹波道主の娘婿の沙本毘古は纏向天皇の丹波道主の子の豐木入日子に対抗する師木の天皇と考えられる。豐木入日子の子、品牟都和氣が沙本毘古の娘の阿邪美都比賣の婿の「倭者師木登美豐朝倉曙立王」だろう。後継の記述されない姫の婿が大新河・比古意須と考えられる。

布多遲能伊理毘賣の母は山代の大國の淵の娘の苅羽田刀辨(綺戸邊)で、淵は木國造の荒河刀辨と山代の荏名津比賣(苅幡戸辨)の娘を妃に生まれた娘の婿の大俣と考えられる。弟の小俣は當麻の勾君の祖、當摩蹶速を倒した野見宿禰は當摩の地を得て、土部連となった。領地は現代の東近江の土器町と考えられ、現代の野見宿禰の出身地の出雲は曙立の領地である。

荒河刀辨は遠津臣で、遠津臣の姫を妃にしたのが迦迩米雷で、同世代の荒河刀辨の子の淵の後継者の木國造は建内宿禰の祖父の莵道彦で苅羽田刀辨の婿である。すなわち、淵は大俣・豐木入日子と考えられ、子の品牟都和氣が沙本毘古の娘婿にあたる曙立、すなわち、伊許婆夜和氣(石衝別)で師木の天皇だ。布多遲能伊理毘賣の婿は豊国や朝倉も手中に収めた王朝を構成する最高実力者の師木の天皇で、その娘の布多遲毘賣の婿が迦迩米雷である。沙本毘古が大根、曙立が十市根、布多遲能伊理毘賣が八坂之入日賣にあたる。

また、山代の大國の淵の義父は木國造の荒河刀辨、豐木入日子の祖父で、日子坐の義父でもある。日子坐(伊迦賀色許男)は山代縣主の祖の長溝の娘を妃にしているのだから、荒河刀辨は長溝である。

2025年4月9日水曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話29 3大臣の朝廷

高穴穂宮は大中津比賣が神寶の管理を十市根に任せた垂仁八七年に遷都したと考えられ、天皇は十市根である。高穴穂宮天皇の十市根の子(義子)の膽咋は穴太足尼の娘婿、首都穴太の足尼は天皇十市根で膽咋は皇太子、131年に高穴穂(穴太)の大臣になった。

高穴穂宮天皇を継ぐ太子の名を背負ったのが若帯日子と五百木之入日子と倭建だ。倭建は『古事記』では大帯日子の項に含めているが、『舊事本紀』では成務の項に記述され、高穴穂宮の太子の世代である。仲哀天皇は紀伊國(師木)の徳勒津宮の天皇である。膽咋の妃に止己呂姫が存在するのは偶然ではく、徳勒津宮の皇后である。

また、伊勢國五十鈴宮の淡路屯倉を定めた、都奴賀の笥飯(気比)宮の天皇も存在し、淡路は淡海(近江)道を支配する天皇である。そして、もう一人、穴門豐浦宮と儺縣の橿日宮の天皇も存在し、倭建の妃の穴戸武姫と対応している。すると、淡路屯倉を支配する笥飯宮の比賣は意富多牟和氣の娘の布多遲能伊理毘賣、徳勒津宮は忍山宿祢の娘の弟媛の宮と考えられる。

布多遲毘賣は安國造の祖の意富多牟和氣の娘なのだから、高穴穂宮天皇の娘達の婿が太子、穴戸武姫の婿は高穴穂宮天皇の皇子と考えられる。『舊事本紀』と『古事記』を比較すると、布多遲能伊理毘賣と布多遲毘賣は同一人物、弟橘比賣と玖玖麻毛理比賣と一妻も同一人物になっている。大吉備建比賣は吉備穴戸武姫と名前が異なり、他の2系統の妃は景行朝の姫と成務朝の姫を表し、一妻は弟橘比賣の姉妹を示していると考えられる。それを示すように忍山宿祢の娘は弟橘比賣と弟財郎女が存在する。

膽咋の妃も倭建の妃も穴穂の太子も3柱、首都も3宮、大臣も膽咋、建内、丸迩の3大臣が存在した。そして、『古事記』の3家、御真木朝では丸迩臣の祖の日子國夫玖が活躍し、伊久米朝では十市根の跡を継いだ膽咋、大帯日子朝では建内大臣が生まれ、偶然とは思えない。

2025年4月7日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話28 纏向宮と高穴穂宮の並立

高穴穂宮天皇の膽咋は阿努(?阿刀)の建部君の祖の大玉の娘の鴨姫を妃にしたと記述している。『古事記』の建部君の祖は意富多牟和氣の娘の布多遲比賣の子の稻依別である。安國造の祖の意富多牟()和氣は高穴穂朝で淡海國造になっているので、高穴穂宮の天皇である。首都淡海の國造、すなわち、王なのだから、首都の王の天皇である。

布多遲能伊理毘賣は伊玖米天皇の娘となっているが、師木宮天皇の意味で、母は、山代の大國の淵の娘の弟苅羽田刀辨である。姉の苅羽田刀辨は沼羽田之入毘賣と同じだったが、弟苅羽田刀辨は『日本書紀』では綺戸邊、『舊事本紀』では眞砥野比賣としていて、子に石衝別は存在するが石衝毘賣は存在しない。すなわち、石衝別の妃が布多遲能伊理毘賣(石衝毘賣・稻別)、その娘が布多遲毘賣の可能性が高い。

『古事記』には残された弟比賣と弟國に返された弟比賣が存在する。そして、『舊事本紀』や『日本書紀』の布多遲能伊理毘賣の母は薊瓊入媛、『古事記』の阿邪美能伊理毘賣が相応しい。それがもう一人の弟比賣である。

すなわち、迦迩米雷の義父が沙本毘古の子(婿)の意富多牟和氣(伊許婆夜和氣・石衝別、妃が稻別)、子の息長宿禰が稻別の分家()の河俣稻依毘賣に婿入りして稻依別と呼ばれた。布多遲比賣は布多遲能伊理毘賣の娘の可能性が高い。

すなわち、阿治佐波毘賣が布多遲毘賣で婿が迦迩米雷である。稲城の沙本毘古、娘が稻別の阿邪美都比賣で夫がおそらく曙立王の彦狹嶋の倭武天皇、その娘婿が迦迩米雷、その子が分家の稻依別である。

『舊事本紀』の倭建は若帯日子と同世代で、景行朝世代の布多遲能伊理毘賣と成務朝世代の布多遲毘賣とは世代を異にしている。それは、景行朝の時に高穴穂朝が併存したための結果で、倭建が景行朝に記述する『古事記』・『日本書紀』と成務朝に記述する『舊事本紀』が存在する理由である。すでに、景行五八年に高穴穂宮が存在し、纏向天皇が遷ったと記されている。

2025年4月4日金曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話27 建部君達

  八坂入日子の子と推定した大筒木眞若、その孫の息長宿禰と河俣稻依毘賣の子は大多牟坂、多遲摩國造の祖だった。多遲摩國造の祖は建田背なので、竟富那毘の系統の息長宿禰ではなく、紀伊國造智名曽の妹の子の多遲摩國造の祖の建田背の系統が継承し、河俣稻依毘賣が継承したようだ。建田背は世代的に荒河刀辨で孫の豐鋤入日賣、婿は八坂入日子、その子の大筒木眞若の妃の「妾の子」と記述された弟比賣、その娘の弟比賣の婿が大荒田と考えられる。

建部君は阿努建部君の祖の大玉と近江建部君の祖の稚武と武部君の祖の稚武彦と丹羽建部君の祖の武田と建部君の祖の稻依別である。稻依別は布多遲比賣の子、稚武は弟橘比賣の子、但し、『舊事本紀』では布多遲能伊理毘賣の子達、稻依別の妃と考えられる稻入別、稚武彦、武田は忍山宿祢の娘の弟比賣の子達だ。稻入別は稻依毘賣のことで、同じ建部君の祖の稚武が夫の息長宿禰と考えられる。また、忍山宿祢の娘の弟比賣の子の武田は丹羽君の祖、大荒田の迩波縣君の祖を受け継いでいるのだから、弟比賣の婿の大荒田が忍山宿祢と言うことになる。

『古事記』の高穴穂宮天皇の妃は忍山垂根の娘の弟財郎女と記述されるが、『舊事本紀』では高穴穂宮天皇は穴太足尼とその婿の膽咋である。穴太足尼の後継が五百木之入日子と考えられ、その妃が尾綱真若刀婢で義父は建稲種である。五百木之入日子は十市根の子だが、同じく、十市根の子とされる膽咋が穴太足尼の娘の比咩古に婿入りし、三児が生まれたとある。しかし、親子関係は逆、膽咋は穴太足尼の実子ではなく膽咋が婿入りし、高穴穂大臣(天皇)になったことを示す。

膽咋は成務元年から大臣だったのだから、景行五八年に高穴穂宮に婿入りし、纏向宮は跡取りの娘、世代的には膽咋の姉の清媛の婿の物部武諸遇が纏向宮大連(天皇)を継承した。纏向宮大連の婿は息長宿禰の子の大多牟坂で、妃は清媛の娘の五十琴姫である。

建部君の祖は倭建の子や倭建の義兄弟が祖となっている。高穴穂宮天皇穴太足尼の太子の倭建(膽咋)の子が近江の天皇で、稚武王が近江建部君の祖、すなわち、天皇である。そして、この、膽咋の3柱の子や、膽咋の妃の比咩古の義兄弟が建部君の祖だ。

2025年4月2日水曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話26 志紀縣主の祖の乎止与

  建稲種は乎止与と大印岐の娘の子だが、乎止与の父母は記述されていないので不明だ。十市根の子の志紀縣主・遠江國造の祖の物部印岐美は名前から大印岐と同一人物かとも考えられる。しかし、遠淡海國造が伊迦賀色許男の子の印岐美とあるように、十市根の兄弟と『舊事本紀』は記述し、世代のズレがあり、伊迦賀色許男の子の遠淡海國造の祖の印岐美は乎止与の義父のほうの大印岐のようだ。遠江國造は大印岐が十市根の前の世代、景行世代の彦狹嶋が東方を侵攻する以前なので、遠江はまだ支配地ではなく、遠い津が草津だったように、大津近辺が淡海、草津以北が遠淡海を意味した可能性が高い。

大印岐は八坂之入日子の世代、十市根の親の纏向珠城宮の世代、倭得玉彦の世代である。しかし、倭得玉彦は師木水垣朝末の襲名した建諸隅と考えられるので、纏向珠城宮世代の弟彦と同じ世代である。八坂之入日子は比古布都押之信の子の日子坐と大海姫の子で纏向珠城宮世代である。すなわち、大印岐の婿の乎止与も印岐、皇太子の五百之入日子の義父の乎止与の子の建稲種が印岐美(印君)である。

大海姫の子の海部直の祖を引き継いだ八坂之入日子は伊勢遺跡のある伊勢宮の豐鋤入日賣に婿入りして、安直の祖の水穗眞若と呼ばれた。水穗眞若は丹波美知能宇斯と義兄弟で、水穗眞若の子の山代之大筒木眞若は丹波道主の孫娘と考えられる丹波能阿治佐波毘賣に婿入りした。

山代之大筒木眞若は三野國造の弟彦である。三野國造は三野領主の弟彦が國造になったので、三野領主は八坂之入日子だった。そして、水穗眞若の兄弟の神大根(八瓜入日子)は初代伊理泥(大根)で、丹波道主の娘を妃に十市根(二代目伊理泥)が生まれた。十市根は八坂之入日子の娘の八坂之入日賣を妃に、山代之大筒木眞若は大根の娘の丹波能阿治佐波毘賣(弟比賣)を妃にした。古代の婚姻形態である。

師木天皇が彦與曽・沙本毘古と解り、倭志紀彦と呼べ、その娘の真鳥姫・阿邪美都比賣の婿が倭志紀縣主の祖の建新川・大印岐だ。志紀縣主の祖の印岐美は十市根の()兄弟で、三野國造の祖の大根の子の兄弟の建新川が大印岐、その娘婿の乎止与が迦迩米雷と考えられる。