そして、『日本書紀』に記述される『日本世記』も天智天皇と同じ常識の書物と考えられ、「日本世記曰 内大臣春秋五十薨」と『日本世紀』は669年以降おそらく692年より後に書かれ、『日本書紀』の追記も更に後に書かれた。
乙巳の変を天武天皇が書かなかったということは、正当な行為ではなかったから書かなかった若しくは後から変質させて付け加えたと考えられ、同じことが天武天皇は正当な皇位継承だから天智天皇まで史書を書き、文武天皇のクーデタは不当なため天智・天武天皇をクーデタによる不当な政権とした。
もう一つの異変が天皇名で、「神倭磐余彦」に始まり「足中彦」までと「雄朝津間稚子宿禰・白髮武廣國押稚日本根子・勾大兄廣國押武金日・武小廣國押盾・天國排開廣庭」の名前で、本来王朝の主に氏姓など無く、名前すら不要で、若様・東宮・陛下・上皇などで一生を過ごす。
すなわち、「神倭磐余彦」に始まり「足中彦」までは氏姓を与えた権力者が他にいたことを示し、「譽田別」が中心王者になり、「瑞齒別」の子が「瑞齒別」まで『日本書紀』を書き、「譽田別」の家系ではあるが「瑞齒別」の子の臣下の「雄朝津間稚子宿禰」の子「大泊瀬稚武」が王朝の王者となって「穴穗」までを書き、この王朝は正規の中国風漢文を理解していないと言うことを『日本書紀』は示している。
以降推古天皇の時書いた部分では、稚武・弘計・億計・稚鷦鷯・男大迹・渟中倉太珠敷・橘豐日・長谷部若雀と天皇らしい名があり、この王が推古天皇時の血筋で、他は広国や豊国・天国の王名や息長足と息長氏の王名で、氏姓を持った臣下を示している。
そして、『日本書紀』は新しい王朝から公式に授与された王名をそのまま残していて、その王名は新たに授与されるまで相続されて長男に受け継がれたことが考えられる。
その為、『古事記』も『先代旧事本紀』も『上宮聖徳法王帝説』も同じ王名が記述され、『日本書紀』が元正天皇時に脚色されたとは考えられない。
私は『日本書紀』の天皇に複数の王を当てはめ、内容によって王名などの主語を変えたり、削除したりして完成させたと論じた。
王の当てはめが絶対年代から一定の割合(王の統治年分)でズレて記述されたと主張して、矛盾点は王の当てはめが矛盾していると主張するのである。
以降神話の時代から年代順に検証結果を述べていこうと思う。
0 件のコメント:
コメントを投稿