そして、素戔嗚の時代に既に青銅製の武器があり米作をして、主という官位があり、「衣冠帶劍」したのだから権力構造が有って青銅製の武器を甕棺の中に副葬しているので、藤尾氏が述べるⅢ期と呼ばれる時期にあたる(※藤尾慎一郎 国立歴史民俗博物館 九州の甕棺)。
母が甕棺埋葬しない豊国の姫で、よそ者の火火出見の家系は甕棺と無関係な墓制を持っていたと思われ、天氏が勢力を拡大するにつれて甕棺墓が縮小し、勢力が拡大したのに墓制が縮小する権力構造を私は思い浮かばない。
そして、分布図を見るとⅣ期には糟屋郡あたりが新しい政権の誕生地と考えられ、金印も出土して古田氏が言う卑弥呼の墓の須玖岡本などが副葬品として頂点に立ってはいるが、甕棺墓の主流が伊都に遷って、これでは九州王権が伊都国に遷ったとしなければならず『三国志』と符合しなくなる。
そして、天皇の璽に剣と鏡が含まれるが共に出土中心は出雲や畿内で、『三国志』は「兵用矛楯木弓」と矛を用い、『日本書紀』には出土する鏡ほど力点を置いて書かれていないことから、卑弥呼が祭祀に使うために鏡を得たのか疑問で、鏡に執着する説話は「出雲臣之遠祖出雲振根主于神寶・・・出雲人祭 眞種之甘美鏡」・「近江國鏡谷陶人」の説話のように出雲・畿内である。
畿内では弥生前期から方形周溝墓が墓制で古墳へと変化するが、その間に銅鐸が消え鏡の副葬が始まり、また鏡の副葬の消失、そして、日本中のみならず朝鮮にも前方後円墳が造られた。
『古事記』で神代に鏡が記述されるが、神武天皇以降は朝鮮からの献納のみで、興味を示していないことから、『古事記』を記述した王家が鏡を副葬したとは考えられず、『古事記』作成者にとって三角縁神獣鏡は神話の世界となってしまう。
それに対して、『先代旧事本紀』の作成氏族は古代から「群臣奏上鏡劔於武小廣國押盾尊」と宣化天皇の時代まで鏡に固執し、それも当然で、「饒速日命兒宇摩志麻治が神武天皇に璽の鏡を献納した三種の神器の1つだ。
また、甕棺に対して、遠賀川式土器が全国に流布し銅剣や銅鐸の領域を内包し、大きな文化圏が存在していたようで、それが、「八国」であり、弥生時代の始まりの頃に「辛酉年春正月庚辰朔。天皇即帝位於橿原宮」と畿内に建国され、根・出雲・天・空・日向・筑紫・菟狹・安藝・吉備・浪速・河内・紀伊・吉野・倭・葛城などは『日本書紀』の王の建国前に存在した国々である。
そして、弥生末には比恵・那珂・西新町・藤崎などには周溝墓や箱式石棺が現れ、魏志倭人伝と関係するところでは、壱岐の原の辻には伊都国系の弥生土器が多量に出土して一大率が伊都国に置かれたことと合致する。
これらの宗教儀礼の変化は宗教儀礼を先導する王の影響なしには語れず、朝鮮半島の前方後円墳と応神天皇の文字導入及び須恵器の流通が無関係とは考えられない。
また、畿内の須恵器は牛頸窯を圧倒する陶邑窯跡群があり、平城宮下層遺構の溝
SD6030上層からTK73
型式の須恵器にともなって出土した木器の年輪年代が412年であったため、5世紀前半には須恵器生産が始まったようで畿内と朝鮮の関係が裏付けられる。
古墳期の九州王権は、博多湾岸の遺跡規模や朝鮮系土器の出土数が減少して、さらに、伽耶国の副葬品銅器は福岡平野系の銅器類から畿内系の銅器類に変わり伽耶国での九州王権の力が弱まったようだ。
さらに、瀬戸内系土器や畿内のⅤ系土器・庄内式土器の流入、三角縁神獣鏡の副葬、前方後円墳と畿内の影響をかなり受けている(久住猛雄氏)ことから畿内>九州が解る。
しかし、割竹型木棺の那珂八幡古墳の被葬者が以降の葬送儀礼の規範を作り出し、5世紀には須恵器の窯が現れ福岡平野で使用され、筑紫国造磐井が豊や火の国を侵略してその後の葛子の子たちが筑紫・火の国を支配した結果、大宰府の牛頸窯の須恵器が筑後や肥後に横穴式石室とともに広まった。
そして、7世紀初頭まで筑前・筑後・肥後近辺のみで牛頸産の須恵器が流通した。
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