2018年5月4日金曜日

最終兵器の聖典 プロローグ2・・・史書『日本書紀』の背景1

 『旧唐書』に「日本舊小国、併倭国之地」と倭国・日本を別国に書き、倭国を旧小国で旧日本と別国の旧倭国と呼ばれた地として、大きい旧日本の地を併合して新たに新生日本と呼ぶようになったと書き、更に『新唐書』は「日本古倭奴也」と新生日本は倭国と同じ旧倭奴とした。
すなわち、新生日本は倭国を併合した倭国と同種の小国で旧日本は『旧唐書』に「日本國者倭國之別種也」と書くように別種国ということだ。
『三國史記卷第六 新羅本紀第六 文武王』に「十年 十二月 ・・・倭國更號日本」とあるように、日本は670年に倭から日本に改名したので、それ以前は倭と呼ばれていたが、その倭は旧小国で、670年以前の倭は小国だった倭が併合した新しい倭で、以前は異なる国が統治していたと書いている。
しかし、日本では『三国史記』の「自言近日所出以爲名」と『旧唐書』の「倭国自悪其名不雅、改為日本」のみ信頼して「日本舊小国、併倭国之地」を無視した。
魏以前の話とすると唐も存在せず、日本のみ過去に辿って小国と書く必然性が無く、唐建国の618年時も670年頃の新生日本を建国した倭国は小国だったと理解せざるを得ない。
現に『新唐書』以降は日本が旧小国とは書かないで1つの王朝として書き、それ以前の歴史は古い史書で読めと言わんばかりに記述していない。
さらに『新唐書』は「次用明亦曰目多利思比孤」と記述し、『日本書紀』の推古天皇とは符合しないが、『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』や『隋書』とは『日本書紀』にも言及があり、『日本書紀』は用明紀も倭の歴史ではなく、倭を併合した倭と別国の俀国「多利思比孤」を先祖に持つ倭奴→倭国→俀国→新生日本の歴史であるから、合わなくて当然なのである。
唐建国の618年から631年「貞觀五年 遣使獻方物」までの間に倭が旧日本を併合して小「倭国」が大「倭国」となったのであり、まさに629年に崇峻天皇が即位前に物部守屋を滅ぼしている。
しかし、『日本書紀』はそのようなことが無かったかのように同じ王朝として書き続けているということは、それ以前も以後も同じように王朝が変わっても無かったかのように書き続けているはずだが、まさに、『日本書紀』は所々で異変を示している。

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