2018年5月23日水曜日

最終兵器の聖典 オーバービュー 遺跡2

 そして、磤馭慮嶋の意味は「大のコロ島」と思われ、大八島の「生隠伎之三子島」の別名を天之忍許呂別と「天之忍許呂」島から別れた島と呼び、隠岐は4島あるので、三子島でない「隠伎之」親島が「忍許呂」島とこの語幹も「コロ」島で磤馭慮嶋は隠岐の島後のことと思われる。
隠岐の島後には宮尾遺跡があり、爪形文・条痕文という1万3千年~1万千年前の南九州と同系の縄文土器が出土する。
さらに、伊弉冉は『古事記』に「僕者欲罷妣国根之堅州国」・『出雲風土記』に「嶋根郷」と今の松江出身のようだが、宮尾遺跡と同系の土器が板屋Ⅲ遺跡(飯南町志津見)や佐太講貝塚(松江市鹿島町)で発掘された。
そして、大八島と目される島々には縄文時代後期の隠岐の島町の湊遺跡、壱岐の名切遺跡(前期~晩期)・松崎遺跡(早期~後期)・鎌崎遺跡(前期~後期)、紀元前4千年頃の佐賀貝塚(峰町)から縄文人骨・阿高式土器(北部九州系)、紀元前3200年頃の志多留貝塚(上県町)から鐘崎式土器、佐賀県伊万里産の黒曜石や貝製腕輪、福江堂崎遺跡(ふくえどうざきいせき)の縄文土器(前期~後期)、小豆島の「ほら貝岩洞穴遺跡」の住居跡・大洞窟貝塚遺跡(豊島)、坂出の沙弥ナカンダ浜遺跡、宮島(厳島)の高島遺跡、児島の大明神遺跡と大坪遺跡(中期末ごろ)、中期後半の矢田ヶ瀬式から、後期初頭の三宮貝塚式へと移行する過程の藤塚貝塚遺跡の縄文土器は鳥取あたりに類例があり、大八島は縄文時代の国であることがわかる。
大八島の縄文土器のほとんどが縄文前期以降の土器でアカホヤで逃げ出した人々の船着き場的な活動領域なのかもしれない。
磤馭慮嶋をつくったとき使用した瓊矛も銅矛ではなく瓊すなわち玉のように磨かれた石矛おそらく柄の短い槍で国産みしたのではないだろうか。
とくに、天之忍許呂別(隠伎之三子島)、天之狭手依比売(津島)、天比登都柱(伊岐島)、天之忍男(知訶島)、天一根(大島)、天両屋(両児島)は「天照大日孁尊 此子光華明彩 照徹於六合之内」と、六合と呼び、『山海經』の「海外南經」に「地之所載,六合之閒,四海之內,照之以日月」とあるように玄界灘を中心にした黄海から日本海にある島々と符合し、「轟B式土器」も出土する(イ サンキュン 縄文前期 前半期 に お け る轟 B 式 土 器群 の 様相より)。
そして、スサノオは米などの食料を大八島を拠点にその対岸の人々と交換し、スサノオが出雲に天降ったとき、その地にはすでに主や耳を官位とする国があり、『山海經 海經 海外東經』に「君子國在其北,衣冠帶劍」・『大荒東經』に「有君子之國,其人衣冠帶劍」と冠をつけ帯刀した人々が東部日本海側から太平洋側にまたがっていた。
伊勢堂岱縄文遺跡から出土した中で、唯一完全な形で復元された伊勢堂岱縄文館の板状土偶には刀のようなものが真ん中左寄りに刻まれている。
ストーンサークルや石組といった石を組み合わせた祭祀を行い、石柱を使った日時計様の出土もあり、縄文遺跡の下船渡貝塚(岩手県大船渡市)には甕棺が出土し、縄文時代前期の蟹沢遺跡(八戸市)には胎児や乳児を甕棺に埋納し、支石墓や甕棺墓の前段階を思わせる。
石川県の縄文遺跡の「中屋サワ遺跡」では石刀や石冠が出土し東北地方の土器型の模様も見られ、愛知県の「マサノ沢遺跡」でも縄文時代の石刀を出土して日本海から太平洋に跨る君子国を証明し、石川県は越の国だ。
「八」岐の大蛇を退治した時素戔嗚が持っていた剣は大蛇が持っていた剣で簡単に折られてしまい、おそらく素戔嗚の十拳釼は石剣で草那芸之大刀は銅剣だったのだろう。
 『日本書紀』の「長田爲御田 時素戔鳴尊 春則重播種子」と米作が始まり銅剣が「ヤ」国に流入し始めた頃の説話であることがよくわかり、天孫降臨は稲作を行い青銅器を手に入れた弥生時代に起り、すなわち、すでにそこには甕棺による埋葬が行われていた。

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