『先代旧事本紀』でも同じように「饒速日」は「御炊屋姫」を娶って「宇摩志摩治」が後を継いでいるように、侵略地の姫を娶ってその子に王位を譲ることによってうまく王位を継承できる伝統があるようで、別王朝が王朝を継承する時いつも有名な姫が現れ、「閨閥」が重要な制度だ。
従って、「支石墓」の国は「八国」で稲作をはじめ、「甕棺」の「事代主」の国が征服し、伊都国の山のふもとに「彦火瓊瓊杵」が領地を分けてもらい住み着いたと考えられる。
「伊都国」は最後まで「甕棺」墓の中心で「三角縁神獣鏡」が出土して「一大率」があり、官名も「爾支」と「主」に似ており、国譲りは移住を受け入れてもらっただけで、「壱岐」と交換だった可能性すらある。
鏡の出土も伊都国や奴国の甕棺の中に有り、鏡の祭祀文化も事代主の祭祀の可能性が高く、多紐文鏡も事代主の国の祭祀で、倭国は自国で作成できず、すなわち、鏡を祭祀に使用していなくて、国境決定の測量に鏡が必要なため鏡を多数中国に要求した可能性もあり、伊都国には硯も出土し、文字を彫られた土器も出土するなど、文化的優位が解る。
そして、大国主から国譲りされたのは「饒速日」たちで、『日本書紀』の「拔十握劔倒植於地踞其鋒端而問大己貴神」に対して『古事記』は「抜十掬剣、逆刺立于浪穂、趺坐其剣前、問其大国主神」とする。
剣を倒してその端にしゃがんで対話をしているように見える『日本書紀』に対して、切っ先を突き付けて毅然と胡坐をかく『古事記』を見れば、『古事記』を書いた人々の無理やりの国譲りの態度が鮮明で、しかも、対象者も大己貴と大国主で異なる。
さらに、『古事記』は「葦原中国者、我御子之所知国」と支配する国と言っているのに対して、『日本書紀』は「欲降皇孫君臨此地」とある土地に天降りしたいと言っているだけで国を支配しようとまで言っていない。
これに対して、『先代旧事本紀』を書いた人々は『日本書紀』と同じ態度で、「揆十握劔倒刺立於地踞其鋒端而問大巳貴神」だが、「駈除平定汝意如」と平らげようとしているので中間で、すなわち、『日本書紀』は大巳貴の領域に住まわせてもらい、『古事記』は大国主の領域を奪い、『先代旧事本紀』は大巳貴の領域の一部を奪った話なのだ。
そもそも、福岡平野近辺は矛の地で「十握劔」自体が借り物の説話で、銅鐸を祭祀とする畿内政権の地の国譲りの説話を借りたものなのだ。
私はこの違いから、『日本書紀』の国譲り伝承は伊都国への天氏の移住、『古事記』は大物主の中国地方の支配、『先代旧事本紀』は饒速日の畿内への侵略の伝承と考えた。
従って、神武東征は『日本書紀』が伊都から事代主の地の猪野へ侵略した建国、『古事記』は安芸から事代主の地の筑紫の京都へ侵略した建国と安芸から三輪の地、大和への大物主の侵略、『先代旧事本紀』は大国の領域の畿内への侵略と建国の説話である。
私は、『日本書紀』を紀伝体で記述された史書で漢代初めから天氏が中国と交流し元号と対応を持つ天氏の宮の変遷を基準尺にして、多くの王を一まとめにしたと論じ、その一環としての神武天皇の説話であるとした。
畿内には神国(八国)、中国名で辰国や東鯷国と呼ばれた所謂縄文人の国があったが、
饒速日が移住して神国の姻戚となることができ、そのころ、天氏は伊都へ移住し、大物主は中国地方を領有した。
漢代になると、郡設置のように朝鮮半島への侵略と呼応して、大物主を主神とする人々が大和へ侵略し銅鐸を破壊し、祭祀道具の銅鏡や銅鏃・銅剣などの武器を作り、その中に『古事記』の神武天皇である磐余彦がいて、神国の配下に入り、『日本書紀』の神武天皇は猪野に建国した。
紀元前1世紀頃になると、出雲から畿内に『先代旧事本紀』の神武天皇が楠葉侵攻で神国を破って大倭国を建国し、1世紀にはもう一人の神武天皇が周防から筑紫の京都郡に侵略して建国した。
「若御毛沼命 亦名豊御毛沼命 亦名神倭伊波礼毘古命」と、『古事記』は若御毛沼の事績を豊御毛沼として流用したと白状している。