今回は『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』から、蘇我氏が天皇だった証明と天豊財が665年に天皇だったことを論じた発表です。
1・従来説
『法隆寺金堂薬師如来像』は福山敏男の論文「法隆寺の金石文に関する二、三の問題」等の発表以来7世紀後半の仏像とされた。さらに、奈良文化財研究所は『飛鳥・白鳳の在銘金銅仏』の論文によって、鍍金が文字に及んでいないことから仏像作成後に刻字されたとした。銘文がいかにも造作されたと言わんばかりの発表を行い『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』の内容を貶めている。仏像作成後の刻字は銘文内容に後代奉納と記述してあるので誤りではないが、像が7世紀後半との説がある中の発表は偽造説の決定的証拠としていると思わざるを得ない。仏像が7世紀後半としたのは薬師如来像が飛鳥佛ではなく白鳳佛ということ、日本の薬師信仰は天武朝以降ということ、天皇号は飛鳥池遺跡から「天皇」と記された木簡が発掘され天智朝以降の開始ということ、書風が隋唐風でその書風を使用した『金剛場陀羅尼経』(こんごうじょうだらにきょう)が朱鳥元年(686年)の年紀をもつこと、これらのことから7世紀後半天武朝以降の刻字と考えられた。
2.薬師信仰
薬師如来を説いた代表的な経典は、永徽(えいき)元年(650年)の玄奘(げんじょう)訳『薬師瑠璃光如来本願功徳経』(やくしるりこうにょらいほんがんくどくきょう)と、景竜(けいりゅう)元年(707年)の義浄訳『薬師瑠璃光七佛本願功徳経』(やくしるりこうしちぶつほんがんくどくきょう)だそうだが、玄奘訳がすぐに日本に流入したと考えられないこともないが政治情勢からもむつかしそうだ。そのほかに建武(けんぶ)~永昌(えいしょう)年間(317~322年)の帛尸梨密多羅(はくしりみたら)訳、大明(だいめい)元年(457年)の慧簡(えかん)訳、大業(たいぎょう)11年(615年)の達磨笈多(だるまぎった)訳が知られている。すなわち、『金剛場陀羅尼経』は達磨笈多訳以前帛尸梨密多羅訳以降の仏典をもとに書かれていることがわかり、4世紀前半から7世紀初頭に薬師信仰が入った可能性があり、『金剛場陀羅尼経』じたいも隋時代の書で、薬師如来像が白鳳時代との論を否定できるものではない。
薬師如来は東方浄瑠璃世界の教主であり、瑠璃光で人々の病苦を救うとされ、医薬の仏として信仰された。しかし、欽明天皇14年553年に医学や薬草の知識を取り入れた時、医博士(くすしのはかせ)や採薬師(くすりかりはかせ)の名前が僧侶風の名前で、630年には日本人の薬師が唐に派遣されているが、惠日(ゑにち)は僧侶の名前に感じる。これらの人物が帛尸梨密多羅(はくしりみたら)や慧簡(えかん)が伝えた薬師如来を信仰していたということは十分考えられ、以降、人名に薬の文字を使っている。すなわち、薬師信仰の証明はできないが信仰されていなかったと否定にもならない。
『日本書紀』
欽明天皇十四年六月 「所請軍者 隨王所須 別勅醫博士・・・又卜書 暦本種種藥物可付送」
欽明天皇十五年二月 「醫博士奈率王有悛陀 採藥師施徳潘量豊」
舒明天皇二年八月丁酉 「以大仁犬上君三田耜 大仁藥師惠日遣於大唐」
白雉四年五月壬戌 「學生巨勢臣藥 藥豐足臣之子」