2024年11月29日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 三国の神話10 中国の神話と君子国

  孔子の言行録である『論語』には、理想的な人物像として「君子」について多く述べられている。後世の人々は、この「君子」を孔子が理想とする天子像と解釈している。しかし、中国神話の『山海經』には「君子国」という国が記されており、漢代の人物たちは、孔子の語る「君子」が実際にはこの君子国の王を指していると考えた可能性が高い。

抽象的な君子像を述べるのではなく、孔子が中国史に名を残す文命、天乙、周武王といった偉大な王たちを直接称賛すればよいが、孔子は君子を理想とする。これは、紀元前500年頃には、「君子」といえば多くの人が具体的にその存在を知っていたと推測される。そしてその「君子」は、『山海經』に記載された君子国の王であったという仮説が浮かぶ。もし、中国人が知らない理想の国王なら、君子の前に説明書きが必要だ。「尊敬できる君子」、「本来の君子」などである。

しかし、『漢書』には、君子国はもはや存在せず、君子国を忘れ、「會稽海外有東鯷人分爲二十餘國以歳時來獻見云」と記されている。東鯷国が君子国やその周辺の国々を統合し、漢が建国された紀元前200年代には君子国が東鯷国の支配下に入ったことを示している。孔子が居た紀元前500年も漢朝が出来た紀元前200年頃も都は輕にあったので、支配者が替わった。

孔子が生きた紀元前500年頃の日本では、孝昭天皇が君子国の天皇としての璽を建甕槌から受け継いだ。この頃、君子国の王は政権を失い、現代の島根県にあたる出雲に逃れたと考えられる。その後、彼らは『後漢書』に記録される拘奴国や熊襲の人々と合流した可能性がある。倭国は30国、東鯷国の20国を倭種と記述しないので、倭種の拘奴国が70国ならば『漢書』の「倭人分為百餘國以歳時來獻見云」と数が合う。金印は委奴国の倭種、後漢末に邪馬台国30国、倭種を纏めた委奴国王が大倭王・萩や長門にいた君子国の末裔なのだろう。

2024年11月27日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 三国の神話9 大神君

  『日本書紀』には、安寧朝から孝安朝まで、1云で波延の娘が天皇の皇后で、孝霊天皇妃も磯城縣主の大目の娘と書き直している。そして、和知都美の子は蝿伊呂泥と蝿伊呂杼であり、和知都美が安寧天皇波延の継承者である。孝昭天皇は、奧津余曾の子と和知都美の娘が皇位を継承したと考えられ、和知都美の娘が『日本書紀』に記された波延の娘・渟名城津媛であろう。

安寧皇后渟中底姫は建飯勝の妹、その子の師木津日子の娘、和知都美の兄弟のもう一方の名前が不明の人物は、渟名城津媛の夫に奧津余曾大連がピッタリだ。沼河耳が建飯勝ならば、妹が渟中底姫、夫は安寧天皇波延、安寧天皇の娘も懿徳朝の波延の娘も「渟」の名を継承したのだろうか。

建飯勝の子の建甕槌の妃である伊勢幡主の娘の賀貝呂姫は、伊勢主の娘であり、伊勢神麻績連の祖である八坂彦が子孫だろう。八坂彦の母は尾張連の祖・意富阿麻比賣である。建甕槌の子は豊御氣主であり、孝昭天皇の皇后には、倭國豐秋狹太雄の娘・大井媛が記述されている。

孝昭天皇の在位期間が83年にも及んだため、5代程度の継承が行われたと考えられる。和知都美の娘と奧津余曾の娘、そして建甕槌の孫娘がそれぞれ皇位を継承していったのだろう。それが、一云の皇后なのだろう。

豊御氣主は、大伴氏の祖の忍日と丸迩氏、天豐津媛の兄と共に筑紫を攻撃し、王となった。そのため、「豊」の名を持つようになったと考えられる。豊御氣主と紀伊名草姫の孫である阿田賀田須は、和迩君の祖であり、曲浦の王になったようである。孝昭天皇の皇后の父である倭國豐秋狹太雄の存在も、この点で一致している。

忍日が造った高千穂宮は西暦125年に室見川の沿岸に永宮が建てられたため、その頃に滅びたと考えられる。高千穂宮の歴史は580年続いており、紀元前460年より前の孝昭天皇の時代に宮が開かれていたと考えられる。建甕槌の後裔である大御氣持は、出雲鞍山祇姫を妃にしており、出雲臣の祖である出雲主振根は筑紫国との往来があり、神寶を崇神朝に渡さなかった。この後、『後漢書』の時代に和迩君が筑紫の大倭王であったなら、これらの姻戚関係は理に適っていると考えられる。

2024年11月25日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 三国の神話8 懿徳天皇

  政大夫は食国の賜姓を受けていたが、やがて、食国の配下でない大臣に即位することになった。天皇は権力が小さい宗教上の権威だったのだろう。出雲醜の妃は倭志紀彦の妹である真鳥姫であったが、倭志紀彦は師木津日子なのだろう。

鋤友の妃は師木縣主の祖である賦登麻和訶比賣であり、この構図は波延の妹である師木縣主の祖の河俣毘賣の事例に似ている。『古事記』の玉手見の子は鋤友と常根津日子の姉の婿であり、真鳥姫の夫、若しくは、師木津日子が常根津日子伊呂泥に相当すると考えられる。師木縣主の祖の賦登麻和訶比賣の夫の大倭日子鋤友が磯城縣主太眞稚彦であるならば、鋤友の子が出雲醜の娘・沙麻奈姫を妃とした建飯勝、太眞稚彦の娘・飯日媛が懿徳妃となる可能性が高い。

『日本書紀』が記述する「磯城縣主太眞稚彦女飯日媛」とあるように、鋤友の妃は賦登麻和訶比賣なので、鋤友が賦登麻和訶日子であったことになる。そして、その娘・飯日媛が2代目出雲醜の妃であり、義妹が沙麻奈姫である。懿徳天皇の在位期間は34年で2代の天皇がいたと推測され、建飯勝が懿徳天皇を継承したと考えられる。そして、次に皇位を継承するべき人物は、建飯勝と沙麻奈姫の娘であったが、長男の建甕槌が劔根と高倉下と共に反乱を起こしたようだ。

そのため、安寧天皇の後継者であった玉手見の娘の子である世襲足媛が皇位を継承したと考えるのが順当である。このように、初代の建飯勝と沼河耳が同一人物であると考えると、論理的に筋が通り、また、氏族の観点でも神沼河耳の氏は神氏なので、建飯勝の後裔である大友主が崇神朝で大神君を賜姓されている。

鋤友の子には、御眞津日子訶惠志泥と多藝志比古がいるが、多藝志比古は孝昭天皇の母懿徳皇后・天豐津媛の弟、息石耳の子だった。従って、多藝志比古も娘婿の可能性が高く、葛木氏の祖・劔根の娘の賀奈良知姫の夫の天忍男ではないだろうか。

玉手見とともに皇位を交互に継承しあった師木津日子の孝昭世代の子には、二人の王が存在した。一方の王は淡道の御井宮の王・和知都美であり、もう一方は不明であるが、恐らく、多藝志比古の娘婿の奧津余曾、当時の宮は首都を意味し、葛城の掖上宮を指していると考えられる。

2024年11月22日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 三国の神話7 建飯勝の矛盾

  安寧皇后渟中底姫の婿は縣主波延であり、渟中底姫の兄・建飯勝は、出雲臣の娘である沙麻奈姫を妃にしている。しかし、崇神朝に記述される出雲振根も出雲臣の遠祖なので、出雲臣は懿徳朝の大臣である。そのため、皇后の兄である建飯勝が大臣の娘を妃にしていることは、世代的に矛盾することになる。建飯勝は皇后が叔母、懿徳天皇の娘婿・皇太子にあたる。

この矛盾を解消するには、建飯勝が襲名して2世代以上存在していると考えるのが理に適っている。建飯勝から建氏と氏族が代わっているので建氏は日向賀牟度美良姫の血筋である。賀牟度は「神門」で三国の皇族、阿多君の孫が相応しい。阿比良比賣、すなわち、阿多の比良姫と美良姫は名が似ている。したがって、1代目の建飯勝として相応しい人物は、日子八井が2代目天日方奇日方の綏靖天皇ならば、妃の伊須氣余理比賣の子である沼河耳は有力である。

沼河耳は、安寧天皇波延の妹の河俣毘賣を妃とし、その子である師木津日子玉手見は、その名からも王の側近であり、重要な役割を果たしていたと考えられる。玉手見は、安寧天皇波延の娘・阿久斗比賣に婿入りしている。

『日本書紀』において、安寧天皇の子は息石耳と懿徳天皇とされ、後に書き直されて常津彦某兄、懿徳天皇、磯城津彦としている。『古事記』が息石耳を記述していないのは、皇位継承の常道に従い、安寧天皇の娘婿である玉手見(息石耳)が皇位を継承して2代目安寧天皇だからなのだろう。つまり、安寧天皇の子は阿久斗比賣、常津彦の某兄の玉手見(息石耳)と妹の真鳥姫、すなわち、常津彦の某弟の懿徳天皇と師木津日子(常津彦)であると推察される。

安寧朝が38年続いたため、2世代程度の継承があったと考えられる。波延の娘の阿久斗比賣の夫、玉手見(息石耳・2代目波延・師木津日子の義弟の猪手)の娘の泉媛と師木津日子との娘である天豐津媛(真鳥姫)が出雲醜妃となり、本来は皇太子である師木津日子が即位するはずであった。しかし、彦湯支と同様の政大夫だった出雲醜は大臣になった。すなわち、襲名した2代目師木津日子は、妹の婿の政大夫の出雲醜に皇位を奪われたのではないかと考えられる。宗教上の天皇は大祢の可能性が高く、醜の名前が安曇川周辺で祀られる「しこぶちさん」ならば、大祢が「彦根」だったのではないだろうか。

2024年11月20日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 三国の神話6 天日方奇日方の矛盾

  天日方奇日方が神武朝と綏靖朝の2世代にわたって存在しなければ、いくつかの矛盾が生じた。天日方奇日方の娘と、媛蹈韛五十鈴命の皇子との間に神武朝最後の天日方奇日方の子の日子八井が生まれた可能性がある。神武朝が76年にわたって続いたため、約4代の世襲があったと考えられるので、日子八井が天日方奇日方の子で襲名したことに矛盾はない。日子八井と伊須氣余理比賣とは従兄妹の関係で、伊須氣余理比賣は分王朝なので、天日方奇日方と呼ばないで日子八井と呼んだと考えられる。

美良姫との子の建飯勝は安寧天皇の皇后の兄なのだから、綏靖朝の鴨王、神武朝の天日方奇日方の子である。天日方奇日方妃の賀牟度氏の姫の子が鴨王なら良く当て嵌まる。日子八井は茨田連の祖であり、仁徳朝において茨田堤を築いた際に茨田連衫子を河神への生贄にした。茨田連は河内に住んでいた氏族であり、天日方奇日方の後裔である大田田根子も河内にいた。このため、日子八井が綏靖朝の天日方奇日方であれば、矛盾は生じない。

すなわち、綏靖朝廷の初期には、日子八井が天皇であったと考えられる。その後、阿多君の妹の子である當藝志美美が、綏靖皇后を妃として即位した。彦湯支は当初、綏靖朝の足尼であり、その後に政大夫となった。このため、綏靖朝の初めには、2代目の天日方奇日方、つまり日子八井が政大夫であり、彼が亡くなった後に彦湯支がその地位を継いだと考えられる。神武朝の時、天日方奇日方は政大夫ではなく、宇摩志麻治が政大夫だった。

その後、綏靖天皇當藝志美美は伊須氣余理比賣の子である沼河耳の反乱により敗北した。これにより、2代目の天日方奇日方の娘である渟中底姫安寧皇后が、夫である縣主波延と共に皇位に就いた。初代政大夫・宇摩志麻治の子(?孫)と義弟の沼河耳と共に、阿多君・鴨王(神君)の三国朝廷から物部氏の朝廷に権力が遷った。

2024年11月18日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 三国の神話5 政大夫の矛盾

『古事記』の神国(三国)の倭の王の神倭毘古にとっての主君(天皇)は阿多君でその娘を妃にした。皇位は、宇摩志麻治から璽を得て皇后の媛を名乗った媛蹈鞴五十鈴命、前に国名が無い媛が天皇で、その婿が阿多君である。そして子供は二人、すなわち「彦八井耳」と「神渟名河耳」と記述されたが、五十鈴依姫は妹でなく娘で、綏靖皇后だったため、彦八井耳は婿の可能性がある。皇位継承は皇后の兄弟の子を婿にするのが基本的な力関係なので、阿多君の男子よりも、事代主の男子の血統が優先される。

したがって、天日方奇日方の長男が媛蹈鞴五十鈴命の長女に婿入りするのが通常の流れなので、彦八井が婿の可能性が高い。また、媛蹈鞴五十鈴命の長男は、弟の天日方奇日方の娘に婿入りするのが通常の流れ、その婿が政大夫天日方奇日方(阿田都久志尼)であり、神武朝の76年間は交互に継承されたと思われる。

『古事記』によると、伊須氣余理比賣の子は神沼河耳であり、彼の妃はまだ縣主になっていない、波延の妹である河俣毘賣だ。そして、『舊事本紀』にも同じく伊須氣余理比賣を媛蹈鞴五十鈴命の妹に記述するズレがあるため、伊須氣余理比賣の子が師木津日子玉手見ではなく、沼河耳である可能性が高い。

問題となるのは、天日方奇日方が神武天皇の世代でありながら、安寧天皇の父でもあることだ。これにより、神武天皇から綏靖天皇の2世代間で矛盾が生じる。したがって、天日方奇日方は2世代存在していなければ矛盾する。

天日方奇日方は食国の政大夫だった。天皇に対して、食国の大神の月讀が伊邪那岐に指名された最高実力者で、月讀に賜姓された政大夫が実質の天皇だった。政大夫の宇摩志麻治が食国から天皇の璽を媛蹈鞴五十鈴命に渡し、神朝廷が開かれた。おそらく、媛蹈鞴五十鈴命は天日方奇日方にも政大夫を賜姓したが、それは2代目の天日方奇日方だった。実際に成務を行うのは政大夫で、最高実力者なので、二人居るのは不自然だ。

2024年11月15日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 三国の神話4 神武朝の矛盾

  国名がない「媛蹈鞴五十鈴命」が神武天皇である。史書を書いた人物にとって、誰もが知る最高位の人物の官位に国名など書く必要が無く、天皇(比賣・日子・縣主等)誰々だ。そうでない人物の官位には国名が付加される。『舊事本紀』によれば、事代主の子は「天日方奇日方」と「媛蹈鞴五十鈴命」であり、五十鈴依姫(伊須氣余理比賣)も媛蹈鞴(比賣多多良)を受け継ぐ姫だ。しかし、事代主の子は二児だったため、五十鈴依姫は媛蹈鞴五十鈴命の妹ではなく娘として記述されなければ、矛盾する。

すなわち、『舊事本紀』は媛蹈鞴五十鈴命を『古事記』の記述と合わせて、富登多多良伊須須岐比賣と同一人物としてしまったと考えられる。富登は神門(ミカド)に対する穂門の意味なのだろうか。媛蹈鞴五十鈴命の二児の子供には、五十鈴依姫と後継の長女の媛蹈鞴五十鈴命を襲名した媛が存在したのだろう。そして、『古事記』が記述するように、五十鈴依姫の子が神沼河耳だったと考えられる。日子八井命は襲名した媛蹈鞴五十鈴命の神八井耳は多藝志美美の娘婿の可能性がある。

『古事記』の神武天皇は神倭伊波礼毘古で、綏靖天皇は神沼河耳である。勿論、この名は臣下の名前で、神は「ミ」、君子国三国・神国を意味し、神国の臣下の倭の毘古であり、耳(三国の神)である。伊波礼毘古の倭は八国(野洲)を意味し、君子国配下の野洲の毘古(将軍)を意味し、伊波から野洲に遣って来た氏族を意味する。子の多藝志美美も若狭(出雲)の小濱に婿入りした耳(三国の神)、すなわち王族と言う意味だ。

神倭毘古は君子国の臣下であるが、神倭毘古の項に記述される王は阿多君のみ記述される。阿多君は出雲の大山津見の娘の神阿多都比賣の孫で、君は君子国の王の官位である。すなわち、君子国(神国)の王が阿多君ということになる。阿多君自体は阿多の君子国の王族だが、神倭毘古を配下に出来たのは、阿多君が媛蹈鞴五十鈴命の婿になったからと考えるべきだろう。

出雲は神倭毘古の頃は若狭にあったが、その出雲に神門臣という氏族がいたが、神の門は帝の意味で、初代天皇の一族がいた。門は河神の戸()なので、神神戸は意味不明、神国(ミクニ)の河神の「カ」の戸、「ミカド」臣が古い読み方と考えられる。神門臣の姫の名は大田田祢古の妃の美氣姫、気比の姫、崇神朝の頃の気比は神功皇后が伊奢沙和氣大神と氣比大神と名を交換する前なので大津にあった、大津の姫、大津に師木水垣宮があったと考えられる。