2023年5月31日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 景行天皇1

   垂仁天皇の崩じた日が、紀元後70年、『日本書紀』は「七月戊午朔」、『舊事本紀』は「七月戊子朔」で、正しい朔は甲戌だ。七月戊午朔は78年、七月戊子朔は73年で全く合致しない。正しい朔を調べると、83年秋8月・9月の晦日が戊午・戊子だ。「悉平襲國」と熊襲を滅ぼし、御刀媛を妃にしている。纏向日代宮が豐国を平定して、五十琴彦と日向国造が生まれた年と考え、九州の暦と推定した。

景行天皇は纏向日代宮の天皇で、多遅麻大連・大中日子が天皇である。十市根の義弟の武諸遇の子の多遅麻大連だ。師木水垣宮天皇は武諸遇大連、豐木入日子だ。纏向珠城宮天皇十市根の子の膽咋宿禰は、志賀髙穴穗宮天皇側に付いて、丹波大国王の大臣になった。そして、128年に景行天皇多遅麻は志賀髙穴穗宮に逃れた。

 多遅麻の妃は五十琴彦の娘の安媛である。『舊事本紀』の天皇本紀では、『日本書紀』に記述されないが、五十琴姫が景行天皇の皇妃だ。五十琴彦は襲名されるので、五十琴彦の子も五十琴彦、娘も五十琴姫である。すなわち、多遅麻を追い出したのは、五十琴彦と膽咋宿禰と考えられる。膽咋宿禰は志賀髙穴穗宮の大臣、五十琴彦は膽咋宿禰の子で、仲哀天皇と思われる。

そして、纏向日代宮天皇多遅麻の後継者は多遅麻の娘の香兒媛の婿の五十琴宿祢ということになる。五十琴宿祢は磐余稚櫻宮の大連だ。ということは、朝廷は志賀髙穴穗宮に統一され、天皇は武諸遇大連を襲名する大陀牟夜別、能登臣の祖の大入杵である。道主の弟の安直の祖の水之穗眞若が伊勢大神を祀る豊鋤入日賣の婿になったと思われる。意富阿麻比賣の子が八坂之入日子、すなわち、八瓜入日子と大入杵だ。そして、息長水依比賣の子が八瓜入日子、丹波比古多多須美知能宇斯、水之穗眞若、神大根である。意富阿麻比賣と息長水依比賣は同一人物だ。道主が長女の婿、その娘氷羽州比賣が大中姫を生む。婿の大中日子は三野別、神大根は美濃王だ。

 景行天皇多遅麻大連の子に莵道稚郎子等の母の山無媛がいる。「和珥臣祖日觸使主之女宮主宅媛」と同一人物で、多遅麻は和迩臣の祖だ。坐王・倭得玉彦の叔父、日子國意祁都・建諸隅も和迩臣の祖だ。意祁都比賣の子は意祁都の子でもある。意祁都は母の兄弟の木国造に婿入りし、意祁都比賣の子の倭得玉彦が宇那比や建諸隅を襲名する。

2023年5月29日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 垂仁天皇4

天皇大倭根子は内色許男の娘の伊迦賀色許賣を妃に比古布都押之信を生む。そして、大毘古は大綜杵大臣の娘の竹野比賣に婿入りして、大綜杵・大新河を継ぐ大伊賀彦だ。さらに、伊迦賀色許賣を妃に御眞津比賣を生み、その婿が、比古布都押之信(御真木入日子)である。『日本書紀』には御間城入彦のみが記述され、『古事記』は御眞木入日子と御眞津比賣を記述する。しかし、御眞津比賣(御間城姫)は両書とも大毘古の娘で御眞木入日子の妃で、同名の兄妹の兄は婿を意味することが解る。そして、伊迦賀色許賣の子の比古布都押之信は御眞津比賣、襲名した伊迦賀色許賣の娘を妃にした婿の伊香色雄でもある。内色許男の娘の伊迦賀色許賣を襲名した弟の大綜杵の娘の伊迦賀色許賣の娘も当然伊迦賀色許賣だ。襲名した伊迦賀色許賣の御眞津比賣の娘にも伊賀姫が存在する。色許賣は師()国の子の娘を意味している。

 すなわち、比古布都押之信は御眞津の御眞津日子、大縣主(大臣)大綜杵に婿入りして襲名大綜杵。襲名大綜杵の娘は伊香色謎で、子は伊香色雄の御眞木入日子。開化天皇を構成する一人の大伊賀彦の妃は大縣主(大臣)大綜杵の娘の竹野比賣と伊迦賀色許賣娘は御眞津比賣と大伊賀姫と、男子は建沼河別(比古由牟須美)。大伊賀姫の婿は崇神天皇になる倭得玉彦。伊香色雄は開化天皇の倭志紀彦・大伊賀彦の娘の真鳥姫(御眞津比賣)を妃に十市根を生む。義弟は倭志紀縣主の祖の建新川、大中彦と思われる。十市根は建諸隅・道主の娘、襲名した武諸遇の妹の子の時姫・十市之入日賣・氷羽州比賣に婿入りした。そして、分王朝の纏向珠城宮天皇に即位し、大帯日子を生むが、『古事記』は天皇と記述しない。『古事記』が天皇とする師木玉垣宮天皇は建諸隅を襲名した豐木入日子である。

 垂仁天皇二七年、前3年に義弟の大中彦は「興屯倉于來目邑」と伊久米伊理毘古を襲名したと思われる。すなわち、須賣伊呂、皇太弟、大中比賣の婿になった。そして、垂仁天皇三十年、子達が「弓矢賜五十瓊敷命仍詔大足彦尊曰汝必繼朕位」と分裂した。すなわち、葛木氏は大国王の大帯日子と根国の印色入日子に分裂したと思われる。そして、垂仁天皇八七年に襲名した十市根の印色入日子から、大中姫の婿が継承した。それが須賣伊呂大中日子の多遅麻だ。多遅麻の娘は山無媛で、応神天皇の妃だ。また、大中日子は尾張国三野別の祖、八尺入日子と同一視する八瓜は美濃にいて、三野前国造である。そして、大碓が「封美濃」と三野の王になっている。そして、八尺入日子の娘の八坂之入日賣の子の五百木之入日子の孫が応神天皇の妃である。

2023年5月26日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 垂仁天皇3

  御真木入日子が御眞津比賣を妃、すなわち、婿入りして御眞津日子を継承した。対照的に、御真木入日女に御眞津日子が婿入りして、御真木入日子を継承したと考えられる。同じ国の集落に住む限り、同じことが代々50から100年程度繰り返される。出雲大社が60年毎に式年遷宮を行うのは、宮を造ると、祖神、神子、神孫が住む。60年位経過すると、神孫が死亡する頃にあたるからなのだろう。その頃になると、分家との勢力争いで、一番勢力の強い宮が取って替わる。そして、神孫の子たちは、新しい宮を造り、遷宮となる。 伊勢神宮は20年、一人の王の世代交代を示すのだろう。

従妹・従弟婚が続くと、遺伝的に不具合発生頻度が高くなるので、長続きしない。それで、外部から新しい婿を入れて存続させられる。その婿は、より強力な王族の子を招き入れ、結果的に、その王族の血統に入れ替わることになる。男子は祖母の兄弟の娘、母の兄弟の娘、さらに、自身の妻の兄弟や娘婿と、より強大な家系が実権を握ることになる。

 同じように、十市根は尾張氏の武諸遇の娘時姫を妃にした。おそらく、大海姫の娘の名前から考えると、十市之入日賣を妃にした。そして、倭志紀縣主の祖の弟建新川が印色入日子の妹の大中姫を妃にした。それによって、師木朝廷を奪取したと思われる。すなわち、天皇十市根の弟建新川が、須賣伊呂大中日子である。58年の「石上神寶盖是其縁」はその説話で、首都が纏向に統合された。『古事記』は娘婿の大中津日子を実子に含めたように、夫婦は一人の子と見做したようだ。

長女は跡取り、長男は長女の婿の妹に婿入り、次男以降は他家の婿になるため、大帯日子は葛木氏に婿入りしたと思われる。すなわち、襲名した伊久米伊理毘古の比古布都押之信が竟富那毘の妹、葛城之高千那毘賣の婿になった。尾張連の祖の奧津余曾・葛木彦が大倭根子、物部氏は葛木彦を大新河と呼び、大連・天皇に即位した。大新河の名の由来は、出石心の妃の新河小楯姫からと思われ、穂積臣の大水口宿祢を生む。そして、大綜杵や内色許男を生む。これらの人物が新河を継承したと考えられる。

2023年5月24日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 垂仁天皇2

  十市根が前29年、大連に即位した。前天皇の「葬于山邊道上陵」が、「明年秋八月甲辰朔甲寅」と「十月癸卯朔癸丑」と異なる埋葬日が記されている。しかし、八月甲辰朔は9月癸卯晦の変換ミスだった。どちらも、朔日から11日目だ。すなわち、これは、二王朝が記録を残したと考えられる。天皇の即位と皇太后即位は、共に、木国の宇迦宮の暦で、「立狹穗姫爲皇后」は正しい暦だ。しかし、前7年、垂仁二三年の、「譽津別王是生年既卅」と矛盾する。垂仁四年の「狹穗彦王謀反」の直前に生まれた子なら、19年後に30歳ではなく19歳だ。また、「狹穗彦王謀反」の日干支は一月違いの9月ではなく8月で、同様の年を探すと前57年がある。それなら、30歳は前28年で、それなら、「九月丙寅朔」は朔日ではなく晦日で、木国の暦となる。

 譽津別の鵠、すなわち白鳥伝説と倭武の白鳥伝説は同じ伝説を使用していると考えられる。豐木入日子が東国毛野君の始祖、倭武も東国に侵攻した。そして、豐木入日子の孫の彦狭嶋が「東山道十五國都督」、「能等國造」、「上毛野國造」だ。そして、彦狹嶋は「不得向任所而早薨」と若くして薨じて、倭武と合致、沼河別の記事の「遣東方十二道」とも一致する。倭武の伝説は野洲王朝の武氏の複数の王達の説話を併せた説話である。山邊道上陵は伊吹山から伊勢遺跡に向かう途中の陵墓と考えられる。「伊勢國能褒野陵」の伊勢国は滋賀県の伊勢遺跡の伊勢国と思われる。伊吹山から首都に帰るのに、亀山は逆だ。また、古代は1国15から20㎞四方程度で、亀山近辺を伊勢国とは呼べない。伊賀と名張間も15㎞で、亀山から三重県の伊勢まで50㎞もあり、これは『三国志』の国境間の距離だ。

 すなわち、前86年大毘古が遠征中に坐王が丹波道に侵攻して、皇位に就いた。沼河別が前58年に沙本毘古の反乱に遭い、そして、前50年に東方十二道に遠征して、帰路、三重菰野で薨じて、前29年に再度、首都野洲近辺で埋葬した。その結果、前28年に諸別王の説話へと繋がったと考えられる。伊吹山近辺は、息長氏の勢力圏で、近淡海の安直の祖の水之穗眞若や大碓の義父の神大根の勢力に敗れたと考えられる。

2023年5月22日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 垂仁天皇1

   『舊事本紀』にとっては大連が天皇で、垂仁天皇が大新河だったと記述した。大新河が垂仁「二十三年秋八月丙申朔丁巳」に「大連之號始起此時」と、大連の初代になったと記述している。ところが、崇神「六十五年春正月武諸隅命為大連」、「羸津世襲・・・池心朝御世為大連」と矛盾している。八月丙申朔は正しくない朔で間違った嵌め込み、前193年が当てはまる。孝元紀の内色許男が大臣の頃の年なら、武諸隅よりかなり前に大連就任だ。そして、大新河が襲名した初代御眞津日子・羸津世襲 ・御真木入日子と考えてみる。それなら、 葛木彦の羸津世襲・御眞津日子が襲名して葛木氏の天皇の大倭根子であると考えられ、理解はできる。羸津世襲が初代大新河で、内色許男の娘の伊迦賀色許賣を妃に比古布都押之信が生れる。そして、内色許賣の子の大毘古は大綜杵の娘の伊迦賀色許賣を妃に、御眞津比賣が生れる。すなわち、比古布都押之信は大毘古の娘の御眞津比賣を妃にし、御眞津比賣の夫は御真木入日子である。すなわち、御眞津比賣の兄妹の御真木入日子の名を襲名し、その子が大新河の子の伊香色雄と考えられる。伊香色雄は皇位を倭得玉彦に譲ったので、大連ではない。このように、前193年に大新河を襲名し、初代物部天皇の大連になったと考えられる。

  大新河の母は山代縣主の娘、比古布都押之信の子が山代の内臣の祖である。山代の内臣の祖の味師内宿禰と山代縣主は姻戚と考えるのが理に適い、伊久米伊理毘古の子の大帯日子は建内宿禰、若しくは、襲名した子と考えられた。そして、御真木入日子は荒河刀辨の娘を妃に、大新河も荒河刀辨の娘を妃にしている。荒河刀辨は木國造、木國造の娘と思われる節名草姫の子が尾張氏の建諸隅である。尾張氏の建諸隅は腋上池心宮の大臣で、大臣は天皇に次ぐ権力者だ。そして、木國造の娘の子は「和迩君」の祖や「手和迩」がいる。そして、「丸迩臣」の祖の妹の子が坐王、節名草姫の孫が倭得玉彦である。さらに、大新河の子が武諸遇で崇神六十五年に大連になっている。すなわち、葛木彦の家系が物部氏と交差して、大連を継承した、大新河だったと考えられる。

 崇神六十五年、前30年に、武諸遇の孫の豐木入日子が淡海朝廷の天皇、妹の豐鋤比賣が伊勢大神宮を祀って、朝廷が分裂した。大新河の師木朝廷を継承したのが大伊賀姫の夫の倭得玉彦。そして、倭得玉彦の叔母(恐らく従妹)の意祁都比賣・意富阿麻比賣と(恐らく従弟の)建諸隅。意富阿麻比賣の子の美知能宇斯、その子の氷羽州比賣。氷羽州比賣の子の印色入日子と大中姫兄弟が継承したと思われる。また、垂仁八十一年の「二月壬子朔」の十市根が「賜姓物部連」と物部氏に賜姓されて大連になったと記述される。しかし、この朔の日干支は違っていて、前30年の可能性が高い。前33年に武諸遇が分朝廷を開き、残った師木朝廷を前30年に大連として継承した。そして、前29年垂仁天皇元年に正式に即位したと考えられる。そして、大新河も纏向珠城宮で「賜物部連公姓」と分裂した朝廷が、互いに、物部連の姓を与えた。天皇には姓が無いのだから当然だ。


2023年5月19日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 崇神天皇3

  「六十八年冬十二月戊申朔壬子天皇崩」は正しい朔の日干支である。そして、『日本書紀』垂仁紀で「十月癸卯朔癸丑」、「葬御間城天皇於山邊道上陵」と記述される。ところが、崇神紀と『舊事本紀』は「八月甲辰朔甲寅」と記述されている。これは、十月癸卯朔は正しい日干支だが、甲辰は9月癸卯晦の記録と思われる。すなわち、物部氏は、崇神天皇と異なる暦を使用したということだ。それが、木国の王の可能性が高いことを示している。崇神紀は木国の記録、野洲王朝の記録が混在していることを示している。

 それは、前50年、「四十八年春正月己卯朔戊子」に比古由牟須美・沼河別と木國造の荒河刀辨の娘の子の豐木入日子が野洲の天皇を引継いだ。大毘古の娘、御眞津比賣の子の伊久米伊理毘古が大国・根国、山背の天皇を引き継いだ。『舊事本紀』で紀伊荒川戸俾の娘の中日女を妃にする伊香色雄の子の大新河が存在する。初代の大連で、大連は物部氏にとっての天皇を大連と呼んでいる。そして、大新河の子が武諸遇、やはり大連で、前38年、「六十年秋七月丙申朔己酉」に出雲の寶を検分した。すなわち、この時、天皇だったと述べて、豐木入日子の可能性が高い。そして、尾張氏の建諸隅も木国造の娘と思われる、節名草姫の子で、建諸隅は木国造を介して襲名し、継承されたと思われる。尾張氏の建諸隅は宇那比の子、伊迦賀色許賣の子の比古布都押之信は叔父で、交互に婚姻関係を持って、同一氏族になったと思われる。

 また、九州の暦の「六十二年秋七月乙卯朔丙辰」の「河内・・・開池溝」と河内に池を造った政権も、木国の影響下の政権と思われる。伊久米伊理毘古は河内の生駒の王で、御眞津比賣の子、御眞津比賣は大毘古と伊迦賀色許賣の子だ。倭得玉彦・坐王は大毘古の娘と思われる大伊賀姫を妃にした。伊迦賀色許賣の子の御真木入日子・大毘古は倭得玉彦の叔母の意富阿麻比賣を妃にした。さらに、御真木入日子・大毘古の子は倭得玉彦・坐王の子の沙本毘賣を妃にした。このように、互いに姻戚関係になって、倭得玉彦・坐王の子の恐らく丹波比古多多須美知能宇斯が皇位を簒奪した。御眞津にいた王の長男が色(師木)に婿入りし、生れた開化天皇家伊迦賀色許賣(大倭根子の妻)、その娘が崇神天皇家大伊賀姫(坐王の妻)、義娘が垂仁天皇家沙本毘賣(沼河別の妻)と師木王朝が継承された。


2023年5月17日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 崇神天皇2

  前97年、「春正月壬午朔甲午」に倭得玉彦・坐王が野洲王朝の天皇になったと思われる。それに対して、「二月辛亥朔丙寅」の「御間城姫爲皇后」、前94年、「十月庚申朔壬午」の「共安天下不亦可乎」の宣言は正しい日干支ではない。その他の暦のある記述の多くが正しくない日干支である。また、前91年、「二月丁丑朔辛卯」の、「八月癸卯朔己酉」、前90年、「夏四月庚子朔乙卯」、「十二月丙申朔乙卯」の大田田根子説話は正しい日干支である。しかし、前91年、「十一月丁卯朔己卯」の説話は正しくない朔の日干支で、伊香色雄と共に記述された説話である。しかし、同じ物部氏の穗積臣の遠祖の大水口宿禰の説話は正しい日干支だ。穗積臣は内色許男が祖で、伊香色雄は甥にあたる。

 違いは、伊香色雄は山代縣主祖の娘を妃にし、木国の影響下にいた。木国は珍彦の暦を使用している。すなわち、この頃は、木国の九州の暦を使う勢力と天文学的に正しい暦を使う勢力が混在した。そして、前86年の「三月丁丑朔丁亥」の「朕初承天位」、「九月甲辰朔己丑」の「御肇國天皇」は正しい朔だ。すなわち、この政権は正しい朔を使う政権でである。「猶不受正朔」と正しい朔でないと不満を述べて、侵攻した政権は正しい朔を用いる政権であった。

 すなわち、前88年の三道侵攻の、大毘古の高志道、沼河別の東方十二道は本来正しい朔を用いる地域に侵攻した。だから、大毘古達の侵攻は倭得玉彦・坐王にとっては侵略であった。すると、丹波道の侵攻は、大毘古達の出撃中に、坐王が侵攻し、活目長砂彦と似た名の玖賀御笠耳を殺害した。玖賀は山背久我直がいるように、山背の王と思われる。すなわち、大毘古が埴安彦を倒して、支配下にしたので、対抗して坐王が侵攻した可能性がある。坐王の子の丹波道主が大毘古の領地を侵略し、勝利した。