2022年11月4日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』雄略天皇類書3

 『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「大長谷若建命坐長谷朝倉宮治天下也天皇娶大日下王之妹若日下部王(无子)又娶都夫良意富美之女韓比賣生御子白髪命次妹若帯比賣命(二柱)故爲白髪太子之御名代定白髪部又定長谷部舎人又定河瀬舎人也此時呉人参渡來其呉人安置於呉原故号其地謂呉原也初太后坐日下也()時自日下之直越道幸行河内尓登山上望國内者有上堅魚作舎屋之家天皇令問其家云其上堅魚作舎者誰家荅白志幾之大縣主家尓天皇詔者奴乎巳家似天皇之御舎而造即遣人令焼其家之時其大縣主懼畏稽首白奴有者()随奴不覺而過作其()畏故獻能美之御幣物布縶白犬著鈴而己族名謂腰佩人令取犬繩以獻上故令止其著火即幸行其若日下部王之許賜入其犬令詔是物者今日得道之奇物故都摩()杼比之物云而賜入也於是若日下部王令奏天皇背日幸行之事甚恐故巳直参上而弁能誰知能仕奉是以還上坐於宮之時行立其山之坂上歌曰久佐加弁能許知能夜麻登多々美許母弊具理能夜麻能許知碁知能夜麻能賀比尓多知耶加由流波毗()召久麻加斯母登尓波伊久美陀氣淤斐須恵弊尓波多斯美陀氣淤斐伊久美陀氣伊久美陀波泥受多斯美陀氣多斯尓波韋泥受能知母久美泥牟曽能淤母比豆麻阿波礼即令持此歌而返使也」、【大長谷若建、長谷の朝倉宮で天下を治めた。天皇は、大日下の妹の若日下部を娶った。子は無かった。又、都夫良意富美の娘の韓比賣を娶って、生んだ子は、白髮。次に妹の若帶比賣の二柱。それで、白髮太子の御名代として、白髮部を定め、又、長谷部の舍人を定め、又、河瀬の舍人を定めた。この時呉の人が渡ってきた。その呉の人を呉原に安住させた。それで、そこを呉原という。初め大后が、日下にいた時、日下の直越の道から、河内に行った。そこで山の上に登って国内を望みみると、堅魚を屋根に上げた屋敷を作った家が有った。天皇はその家を「その堅魚を屋根に上げて屋敷を作ったのは誰の家だ。」と問い詰めると、「志幾の大縣主の家だ。」と答えた。

そこで天皇が「奴は、自分の家を天皇の御殿のように造った。」と言って、人を派遣して家を焼かせようとした時、大縣主は怖気かしこまって、土下座して、「臣下であるのに、分をわきまえずに、過を犯したのはとても畏れ多いことでした。それで、謝罪の物を贈りましょう。」と言って、布を白い犬に懸けて、鈴をつけて、手下の腰佩という者に、犬の繩を取らして獻上した。それで、火を点けることを止た。それで若日下部の所に行って、その犬を与えて、「これは、今日道すがら手に入れた奇異の物で、求婚の物だ。」といって納めた。それで若日下部は、天皇に「日を背においでになって、とても畏れ多い事。それで、私は直に参上して仕えましょう。」と奏上した。それで宮に還り上る時に、その山の坂の上に行き立って歌った()。それでこの歌を持たせて、使を返した。】と訳した。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は『天孫本紀』は「十五世孫尾治金連次尾治岐閇連即連等祖次尾治知々古連久努連祖此連去來穂別朝御世爲功能臣供奉十六世孫尾治坂合連金連之子此連允恭天皇御世爲寵臣供奉次尾治古利連次尾治阿古連太刀四連等祖次尾治中天連次尾治多々村連次尾治弟鹿連 日村尾治連等祖次尾治多?()志連大海部直等祖十七世孫尾治佐迷連坂合連子妹尾治兄日女連十八世孫尾治乙訓与?()連佐米述子次尾治粟原連次尾治間古連次尾治枚夫連紀伊尾張連等祖」とある。

穴穂が大日下を殺害し、大長谷が長谷から日下に婿入りしたことを此処では述べ、長谷の王が、若日下部姫の住む日下に向かう途中の難波朝天皇の難波根子を継いだ、丸迩許碁登臣の大縣主の屋敷を襲って、珍犬を得て、引き出物としたという説話と考えられる。

すなわち、大日下は尾張氏だが日向髪長媛の子で去來穗別の姻戚で、穴穂はその妃の中帯姫を得て難波朝を受け継ぐととも、去來穗別を引き継ぐ若櫻宮朝廷の皇位継承権も獲得し、大長谷が若櫻宮襲津彦の後継権者の圓大臣・押歯を殺害して朝廷を統一したと考えられる。

建振熊は神功皇后摂政元年に「令撃忍熊王」と宇治で忍熊王を殺害し、仁徳天皇六五年に飛騨宿儺を討伐しているので、神功皇后摂政元年の説話は377年頃の説話と解り、この頃に難波朝大臣意乎巳と天皇になれなかった可能性が高く、建振熊が難波天皇となり、406年大別が「河内丹比柴籬宮」に遷都して、大別が427年丁卯に崩じた。

品陀眞若の娘の弟姫、その娘婿の木事、その娘が襲名した弟媛、その婿が若櫻宮を引き継いだ瑞歯別、品陀眞若の娘弟姫の従弟と思われる難波天皇の弟彦と日向髪長媛の子の大日下が大別のあと皇位を継承したと思われ、妹の若日下部姫を妃にすることで、大長谷が難波天皇を受け継ぎ、倭得玉彦と子の弟彦の磯城朝廷から続いた王朝が大日下と従弟の尾治金連を最後に皇室から排除されたようだ。

2022年11月2日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』雄略天皇類書2

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「元年十一月壬子朔甲子天皇令有司設壇於泊瀨朝倉即天皇位還定謁宮焉二年丁酉春三月庚戌朔壬子草香幡援姬皇女立為皇后妃葛城國大臣女日韓媛誕生白髪武廣國押稚日本根子皇子尊與稚足姬女女次妃吉備上道臣女稚媛生二男長日磐城皇子少日星川稚宮皇子次妃春日和弭臣深目女曰童女君生春日大娘皇女乎平群真鳥臣為大臣以大伴連室屋物部連因為大連二十二年正月己酉朔以白髮皇子立為皇太子物部布都久留連公為大連二十三年已巳秋八月庚午朔丙子天皇疾弥甚與百僚辞訣並握手戲欷崩于大殿年百二十四歳御陵在河内之多治比髙鸇也天皇所生皇子男女兒白髮武廣國押稚日本根子皇子尊次稚足姫皇女伊勢太神侍祠」、【治世元年十一月壬子朔甲子、天皇は司に命じて、即位のための壇を泊瀬の朝倉に設け、皇位に即いた。宮を定めて、朝倉宮といった。二年丁酉の春三月庚戌朔壬子、草香幡梭姫皇女を立てて皇后とした。妃の葛城円大臣の娘を、韓媛という。白髪武広国押稚日本根子皇子と、稚足姫皇女とを生んだ。つぎの妃、吉備上道臣の娘の稚姫は、二男を生んだ。兄を磐城といい、弟を星川稚宮という。つぎの妃を、春日和珥臣深目の娘の童女君という。春日大娘を生んだ。平群真鳥臣を大臣とし、大伴連室屋と物部連目を大連とした。二十二年春正月己酉朔、白髪を皇太子とし、物部布都久留連を大連とした。二十三年己巳の秋八月庚午朔丙子、天皇は病が相当重く、百官と別れのことばを述べ、手を握って嘆き、大殿で崩じた。年百二十四歳。御陵は河内の多治比高鷲原にある。天皇が生んだ子は、三男二女。白髪武広国押稚日本根子、次に稚足皇女、伊勢大神に侍って祀った。次に磐城。次に星川。次に春日大娘。】と訳した。

二年丁酉の丁酉は元年で元年十一月壬子朔は安康三年の安康天皇死後で実質雄略元年で、『日本書紀』にも「十一月壬子朔甲子即位」としているが、『日本書紀』は河内朝の交代で、『舊事本紀』は近江・若櫻朝の交代を述べていると考えられる。

立太子記事が晦日が朔の記事に戻ってしまっているが、北魏の『魏書』や梁時代に記述された『南齊書』や唐時代は朔が朔日だが『梁書』は『日本書紀』と同じように朔が朔日と晦日が混在して、北朝は晦日が朔の暦が朝廷の暦で、南朝の朔日が朔の暦の資料を混在させていることが解る。

雄略「廿二年春正月己酉朔以白髮皇子爲皇太子」の立太子は478年に倭国の武が即位した事を意味し、珍・斉・興は親子相続で王朝が変わらず、首都が火国にあったが、武に変わって宮が482年、486年、494年に遷都したと思われ、武は『梁書』「天監元年鎮東大將軍倭王武進號征東大將軍」と502年までは生きていて「日国」を支配し、494年仁賢七年「立小泊瀬稚鷦鷯尊爲皇太子」で「筑紫國造磐井」と筑紫(糟屋)に遷都し、502年以降、子の磐井に王位が遷り、八女に墓があるので、磐井の乱で敗れて、その子の葛子が後を継いで八女に遷都したと考えられる。

武は478年即位すると「順帝昇明二年遣使上表」と宋に上表文を持たせて遣使し「六國諸軍事安東大將軍倭王」を任命され、翌年、斉に「六國諸軍事安東大將軍倭王」、502年、梁に「征東大將軍」と王朝が交代するたびに使節を送って叙位され、南朝の臣下と思っているので、北朝支配となった時、同等の立場と考えたと思われる。

そして、百濟との融和を求めた炤知麻立干に対し、479年炤知麻立干元年『三国遺事』、四・八・十五・十九・廿二年『三國史記』に倭が新羅を攻撃し、その後、新羅が百濟に助けを求めて講和し、倭の新羅攻撃が無くなり、磐井の倭国が日本と敵対すると、百濟と新羅は525年に聖王「三年春二月與新羅交聘」と講和した。

しかし、554年聖王三十二年「新羅伏兵發與戰」のように新羅と百濟はまた戦い、戦いが続いたが、百濟と同じく隋に朝貢する倭なのに、新羅に干渉せず、すなわち、それは倭が日本に敗れ、倭が分裂して、別れた俀国は自身が天子と主張して隋に断交され、臣下の百濟は同じ臣下の倭と同盟し、俀国は新羅と同盟、俀国と倭が同盟関係の為、倭の新羅侵攻が無かったと思われる。

『三國史記』の白村江敗戦後の「仁軌領我使者及百濟耽羅倭人四國使浮海西還以會祠泰山」の倭人、『舊唐書』「麟德二年封泰山仁軌領新羅及百濟耽羅倭四國酋長赴會」の倭の酋長は敗れた倭国王ではなく、クーデタで倭国王蘇我蝦夷・入鹿及び白村江の戦に参戦した薩野馬・天萬豊日を殺害した未承認の俀国王中宮天皇だったからで、中宮天皇も責任をとってすぐに退位し、国名も日本と変え、天智天皇は占領下の天皇として一生を終えたと推論した。

2022年10月31日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』雄略天皇類書1

  内容が前の2項と同じで、原文が長いので、検証後に記述する。

『日本書紀』は白彦と同じように黒彦も眉輪達より先に殺しているが、『古事記』は眉輪と圓の宮殿に籠城し、黒彦は黒媛の子の市邊押磐の黒という地域に住む後継人と思われ、『日本書紀』の天皇の河内茅渟宮天皇大日下の後継者の大日下の子の眉輪と皇太子の圓大臣と磐余若櫻宮妃黒媛と姻戚で市邊押磐の後見人の若櫻宮にいた黒彦が籠城したと思われる。

『日本書紀』の雄略紀は蘇我氏が、『古事記』の大長谷記は葛城氏が記述しているので、その二つの氏族の立ち位置によって、残虐な、もちろん、実際は仏教を取り入れ、文字を普及したが、両氏と敵対する大長谷天皇に対する頼りない黒彦と、圓と共に闘った黒彦なのだろう。

そして、これら河内王朝の皇位継承権を持つ人物を全員殺害したのが大泊瀨で、穴穂が「市邊押磐皇子傳國而遙付嘱後事」と遠飛鳥宮の皇位継承者の市邊押磐を河内朝の皇位継承者に指名した、すなわち、王朝統一を述べ、大泊瀨は市邊押磐を殺害し、王朝を統一して即位した。

これまで示したように、皇位は指名ではなく、システマティックに決まり、変更する時は殺害し、殺害されると、王朝交代となり、その時の都の神の象徴の皇后が皇位継承者を決めていて、渟川別に狹穗姫が皇后となることで狹穗彦が皇太子になり、殺されるとき狹穗姫が次の皇后を日葉酢媛と指名し、実質の天皇の皇太子が弟彦に遷った。

同様に、天皇大日下が死亡し、皇后中帯姫は穴穂の皇后となり、そして皇位を簒奪して皇后の夫になった穴穂が死亡し、後継者が死亡した時、若櫻宮の姫の忍坂大中姫の子の中帯姫が次の皇后に指名したのが若櫻宮の荑媛で、「市邊押磐皇子傳國而遙付嘱後事」で、荑媛が皇后なら市邊押磐が天皇で、男系天皇なら別王朝の市邊押磐が天皇など有り得ない。

すなわち、大国・仲国の河内茅渟宮天皇の中帯姫・大日下、稚国・倭国の遠飛鳥宮天皇の麦入・全能媛、そして、麦入の姉妹の若櫻宮天皇の後継女王の忍坂大中姫であり、その後継者の忍坂大中姫の子の中帯姫という関係で、近江朝の血統を持つ山君の姻戚となったと思われる若櫻宮の皇子の市邊押磐と河内朝の姫の荑媛夫婦を近江朝の流れを汲む中帯姫は後継にしようとしたようだ。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「諱大泊瀨幼武尊者雄朝嬬稚子宿祢天皇五男也天皇産而神光滿殿長而忱健過人三年八月穴穗天皇意將沐浴幸于山宮遂登樓号遊目因命酒号肆宴尓乃情盤樂極閒以言談顧謂皇后曰吾妹汝雖親昵朕畏眉輪眉輪王幼年遊戲樓下悉聞所語既而穴穗天皇枕皇后膝晝醉眠臥於是眉輪王伺其熟睡而刺弒是日大舍人驟言於天皇曰穴穗天皇為眉輪王見殺矣天皇大驚召猜兄等被甲帶刀率兵自將逼問八釣白彦皇子皇子見其欲害默坐不語天皇乃拔刀而斬更逼問坂合黒彦皇子皇子見其將害嘿坐不語天皇忿怒弥盛乃復并爲欲殺眉輪王案劔所由眉輪王曰臣不求天位唯報父仇而巳坂合黒彦皇子深恐(?)疑竊語眉輪王遂共得間而出逃入圓大臣宅天皇使大臣以報曰蓋聞人臣有事逃入王室未見君王隱匿臣舍方今坂合黒彦皇子與眉輪王深恃臣心來臣之舍詎忍送欤由是天皇復益興兵圓大臣宅大臣出立於(?庭索)腳帶時大臣妻持來腳帶愴矣傷懷而歌曰云々在別大臣裝束已了進軍門跪拜曰臣雖被戮莫敢聽命古人有言匹夫之志難可奪方屬乎臣伏願大王奉獻臣女韓媛與葛城宅七道請以贖罪矣天皇不許縱火燔宅於是大臣與黒彦皇子眉輪王俱被燔死時坂合部連贄宿祢抱皇子屍而見燔死其舍人收取所燒遂難擇骨盛之一棺合葬新漢擬南丘冬十月癸未朔天皇恨穴穗天皇曽欲以市邊押磐皇子傳國而遙付嘱後事乃使人於市邊押磐皇子陽期狹獵勸遊郊野曰近江狹々城山君韓餓(?)言今於近江來田綿蚊屋野豬鹿多有共戴角類枯樹末其聚腳如弱木株呼吸氣息似於朝霧願與皇子今冬作陰之月寒風肅然之晨將逍遙於郊野聊娛情以與射市邊押磐皇子乃隨馳獵於是大泊瀨天皇彎弓驟馬而陽呼曰豬有即射殺市邊押磐皇子皇子帳内佐伯部賣輪扼驟(?)不能所由及反側呼號往還頭腳天皇尚誅矣」、【諱は大泊瀬幼武尊で雄朝嬬稚子宿祢天皇の第五子で生まれたとき、神々しい光が御殿を満たした。成長してたくましさは人に抜きん出ていた。先の天皇の治世三年八月、穴穗は、湯浴みをしようと、山宮にでて、楼に登って眺め、酒を持ってこさせ、宴席についた。そして、くつろぎ楽しさが極まり、いろいろな話を語り、ひそかに皇后に「妻よ、あなたとは仲むつまじくしているが、私は眉輪を恐れている」と言った。眉輪王は幼く、楼の下でたわむれていて、すべての話を聞いてしまった。そのうち、穴穗は、皇后の膝を枕にして昼寝をしてしまい、眉輪は、熟睡しているところを伺って、刺し殺してしまった。すぐに、大舎人が走って、天皇に「穴穗が、眉輪王に殺された」と伝え、天皇は大変驚いて、自分の兄達を疑い、よろいをつけ、太刀を佩いて、兵を率いて、先頭に立って、八釣白彦を責め問いつめ、皇子は危害を加えられそうなので、ただ座って声も出せなかった。天皇は即座に刀を抜いて、斬ってしまった。また、坂合黒彦を問い責めて、また、害されそうなので、すわったまま黙っていた。天皇はますます怒り狂い、眉輪王と共に殺してしまおうと思い、仔細を問い詰めた。眉輪は「私は皇位を望んだのではない。ただ、父の仇を報いたかっただけだ」と言った。坂合黒彦皇子は疑われることを恐れて、ひそかに眉輪と語り、ついに隙をみて、円大臣の家に逃げこんだ。天皇は使いを出して、引き渡しを求め、大臣は使いを返して言った。「人臣が、事あるときに逃げて王宮に入るとは聞くが、いまだ君主が臣下の家に隠れるということを知らない。まさに今、坂合黒彦と眉輪は、深く私をたのみとして、私の家に来た。どうして強いて差し出すことができようか」と返答し、これで、天皇は、増兵して、大臣の家を囲んだ。大臣は庭に出て立ち、脚帯を求め、大臣の妻は脚帯を持ってきて、悲しみに心を傷め、歌って[云々と別書にある]。大臣は装束をつけ、軍門に進み出て拝礼して、「私は誅されようとも、命令を聞けません。古人の言う“賤しい男でもその志は奪えない”とは、まさに私にある。伏して願うのは、私の娘の韓媛と、葛城の領地七ヶ所を献上し、罪をあがなうことを聞きいれてほしい」と言った。天皇は許さないで、火をつけて家を焼き、大臣と黒彦、眉輪はともに焼き殺された。そのとき、坂合部連贄子宿祢は、黒彦の亡き骸を抱いて、ともに焼き殺された。その舎人たちは、焼けた遺体を取り収めたが、骨を選び分けられなかったので、ひとつの棺に入れて、新漢の擬本の南丘に合葬した。冬十月癸未朔、天皇は穴穗が、かつて、従兄弟の市辺押磐皇子に皇位を伝え、後をゆだねようと思ったことを恨み、人を市辺の押磐のもとへ送り、騙して狩りをしようと、野遊びを勧めて「近江の佐々城山君の韓袋がいうには、“今、近江の来田綿の蚊屋野に、猪や鹿がたくさんいる。その頂く角は枯れ木の枝のよう。その集まった脚は、灌木のようで、吐く息は朝霧のようだ”と言っている。できれば皇子と初冬の風があまり冷たくないときに、野に遊んでいささか楽しんで、巻狩りをしたい」と言った。市辺押磐は、勧めに従って、狩りに出かけ、このとき大泊瀬は、弓を構えて馬を走らせ、「猪がいる」と偽って、市辺押磐を射殺してしまった。皇子の舎人佐伯部売輪は、皇子の亡き骸を抱き、驚いてなすすべを知らなかった。叫び声をあげて、皇子の頭と脚の間を狼狽えたので殺した。】と訳した。

2022年10月28日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』安康天皇類書4

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「自茲以後淡海之佐々紀山君之祖名韓帒自()淡海之久多綿之蚊屋野多在猪鹿其立足者如萩()原指舉角者如枯()樹此時相率市邊之忍齒王幸行淡海到其野者各異作假宮而宿尓明旦()未日出之時忍齒王以平止()随乗御馬到立大長谷王假宮之傍而詔其大長谷王子之御伴人未寤坐早可白也夜既曙訖可幸獦庭乃進馬出行尓()侍其大長谷王之御所人等白宇多弖物云王子故應慎亦宜堅御身即衣中服甲取佩弓矢乗馬出行倐一忽之間自馬往雙抜矢射落其忍齒王乃亦切其身入於馬縮與土等埋於是市邊王之王子等意祁王表()祁王二柱聞此乱而逃去故到山代苅羽井食御粮之()面黥老人來奪其粮尓其二王言不惜粮然汝者誰人荅曰我者山代之猪甘也故逃渡玖須婆之河至針間國入其國人名志自牟之家隠身伇於馬甘牛甘也」、【これ以降、淡海の佐佐紀山君の祖の韓帒が「淡海の久多綿の蚊屋野は、とてもたくさん猪や鹿がいる。その立った足は荻原のようで、伸びる角は枯樹のようです。」と言った。この時、市邊の忍齒を引き連れて、淡海に行って、その野に着いたら、其々野営を作って休んだ。そして明くる朝、日出前に、忍齒は、平然と、馬に乗ったまま、大長谷の野営の傍らに立って、大長谷の伴人に「未だ目覚めていないのか。早く起こせ。夜は既に明けた。狩場に行こう。」と言って、馬を進めて出で行った。そこで大長谷に仕える人達が「嫌なことを言う王子だ。だから、慎重にしてください。そして、武装してください。」と言った。それで衣服の下に鎧をつけて、弓矢を取って身に着けて、馬に乗って出で行って、たちまち、馬にのって近づき並んで、矢を拔き忍齒を射落して、切り付け、馬桶(?馬衣)に入れて埋めた。それで市邊の王子達の意祁、袁祁の二柱はこの乱を聞いて逃げ去った。それで、山代の苅羽井について、食事をした時、顔に入れ墨をした老人が来て、食料を奪った。それで二王は「食料は惜しくない。しかしお前は誰だ。」と言うと「私は山代の猪飼だ。」と答えた。それで、玖須婆の河を逃げ渡って、針間國について、その國の人で志自牟の家に入って、身を隠して、馬飼牛飼に仕えた。】と訳した。

韓帒は『日本書紀』「近江國狹狹城山君祖倭帒宿禰妹名曰置目・・・倭帒宿禰因妹置目之功仍賜本姓狹狹城山君氏」と倭宿禰の姓ではなく韓だが、「椎根津彦曰汝迎引皇舟表續香山之巔因譽爲倭國造」、「椎根津彥命爲大倭國造即大和直祖」、「珍彦爲倭國造」、「倭直祖長尾市喚野見宿禰」、「大倭直祖長尾市宿禰」、「大倭國造吾子篭宿禰」と倭と大倭、国造と直と宿禰、椎根津彦と珍彦は等しく、この時、韓帒は()倭国造、()倭直、()倭宿禰であった。

仁徳天皇即位前紀に「倭直祖麻呂曰倭屯田者元謂山守地・・・弟吾子篭知也適是時吾子篭遣於韓國」と倭直祖で、倭を実質支配していたのは大山守、374年仁徳天皇六二年に「時遣倭直吾子篭令造船」と吾子篭が倭直になっていて、この直前に、「珍彦爲倭國造」、「詔椎根津彦曰汝迎引皇舟表續香山之巔因譽爲倭國造」と倭国造を賜姓され、吾子篭若しくは麻呂が珍彦と椎根津彦と考えられる。

狹狹城山君は「大彥命是阿倍臣膳臣阿閇臣狹狹城山君筑紫國造越國造伊賀臣凢七族之始祖也」と大彦が始祖で、『舊事本紀』「明石國造輕嶋豊明朝御世大倭直同祖八代足尼兒都弥自足尼定賜國造」と波多八代宿禰は大倭直同祖なので、比古布都押之信を生む伊迦賀色許賣は大彦の娘と解り、「屋主忍武雄心命之嫡男母曰山下影媛紀伊国造道彦之女」と『紀氏家牒』も同じ観点に有り、珍彦は、代々日臣後の道臣の同族で、この珍彦は佐佐紀山君に婿入りしたと考えられる。

狹狹城山君は豊木入日子に敗れて配下になっていたが、額田大中彦と協力して大山守を排除して倭国造(野洲国造)になった4世紀末の説話で、市邊忍齒の殺害時も狹狹城山君は子達を逃すことで保険をかけたようで、山君は山部の支配者と考えられ、「山部連先祖伊與來目部小楯」と小楯を配下にしている。


2022年10月26日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』安康天皇類書3

 『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「大長谷王子當時童男即聞此事以慷愾忿怒乃到其()兄黒日王子(子王)之許曰人取天皇爲那何然其黒日王子(子王)不驚而有怠緩之心於是大長谷王詈其兄言一爲天皇一爲兄弟何無恃心聞殺其兄不驚而怠乎即握其衿控出抜刀打殺亦到其兄曰()日子王而告状如前後()亦如黒日子王即握其衿以引率來到小治田掘穴而随立埋()()腰時兩目走抜而死亦興軍圍都夫良意富美之家尓興軍待戰射出之矢如葦來散於是大長谷王以矛爲杖臨其内詔我所相言之嬢子者若有此家乎尓都夫良意(富美)?聞此詔命自参出解所佩兵而八度拝白者先日所問賜之女子訶良比賣者侍立()副五處之()宅以獻(所謂五村辰()宅者今葛城之五村苑人也)然其正身所以不参向者自往古至今時聞臣連隠於王宮未聞王子隠於臣之家是以思賤奴意富美者雖竭力戰更無可勝然恃巳入坐于随()家之王子者死()不棄如此白而亦取其兵還入以戰尓力窮矢盡白其王子僕者手悉傷矢亦盡今不得戰如何其王子荅詔然者更無可爲今殺吾故以刀刺殺其王子乃切巳頸以死()」、【大長谷王子は、その時少年だった。それでこの事を聞いて、憤慨して、その兄の黒日子の許に行って「皇位を奪った。どうしましょう。」と言った。それなのに黒日子は、驚かず、行動しようとしなかった。それで大長谷は、兄を「天皇であり、兄弟の兄が殺されたことを聞いて、頼り無いことに、何とかしようとせず、兄が殺されたことを聞いて、驚きもせず怠慢だ。」とののしって、その衿を握って引きずり出して、刀を拔いて打ち殺した。亦、その兄の白日子の所に行って、状況を同じように告げると、悠長なこともまた、黒日子と同じだった。それでその衿を掴んで引き出して、小治田に連れてきて、穴を掘って立ったまゝ埋めたら、腰までくると、両目を剥いて死んだ。亦、兵を起こして都夫良意美の家を圍んだ。兵を待ち伏せて戦い、射た矢が葦原のように飛んできて散らばった。そこで大長谷は、矛を杖にして、囲みの中を臨み見て、「私が言い交した乙女はもしかしたらこの家に居るのか。」と言った。そこで都夫良意美がこれを聞いて、自ら出てきて、着けた兵器を解いて、八度手を合わせて「先日聞かれた娘の訶良比賣を仕えさせましょう。亦、五ヶ所の屯宅も一緒に献上しましょう。(所謂五村の屯宅は、今の葛城の五村の苑人だ。)しかし私自身が、参上しない理由は、昔から今に至るまで、家臣が主の宮に隱れることはあるが、王子が家臣の家に隱れたとは聞いたことが無い。それで、賎しい私意富美では、力を尽くして戦っても、勝てない。しかし、私を頼みに我が家にいる王子は、死んでも見捨てられない。」と言った。この様に言って、亦、武器をとって帰って戦った。それで力尽き、矢も尽きたら、王子に「私は体中に手傷を負った。矢も尽きた。もう戦えない。どうする。」と言った。王子が「それならどうしようもない。もう私を殺しなさい。」と答えた。それで、刀で王子を刺し殺して、それから自分の頚を切って死んだ。】と訳した。

大日下を殺すきっかけとなった幡梭皇女と大長谷の婚姻の時、武内宿祢の子の坂本臣の祖の木角宿祢の子孫の根使主が寶の押木珠縵、すなわち、宝石で出来た髪飾り、女王の璽を奪い、根使主は「平群県紀里」が根国でその国()神・王の意味で、平群氏の本家が次の皇后の璽を奪ったことを意味する。

『紀氏家牒』には「紀武内宿祢者・・・屋主忍武雄心命之嫡男母曰山下影媛紀伊国造道彦之女」と「木國造祖」と異なり共に神武東征で協力した道彦の娘の子で、「事六代君凡春秋二百八十余歳家大倭国葛城県」と春秋と1年で2歳の二百八十余歳と6代140年余り葛城に一家を築いたとし、その後、蘇我氏を記述するので武烈朝までの期間の可能性が高い。

木国造は『舊事本紀』「天道根命爲紀伊國造」と根は神なので、天の道の神と読め、道臣・根臣と理解でき、木国造宇豆彦は大伴氏の祖の日臣からの分家で、壹與が日国造になって、前の日臣が道臣になった時以降、紀伊国造の祖と呼ばれる木国造の子の宇豆彦と呼ばれ、日向襲津彦の東征に協力した。

そして、『紀氏家牒』「宇豆彦道彦男也女宇乃媛一生二角宿祢」と紀国造の祖の宇豆彦(道彦)の娘の子が木国の角宿祢で「家大倭国平群県紀里」と武内宿祢が葛城に遷った時に木国から平群に遷り、平郡氏は木兎宿祢から大雀、そして、弟の根鳥と思われる紀角宿祢に別れたと思われる。

神功皇后政六十年然後家大倭国平群県平群里」、これは、神功皇后摂政五六年が『日本書紀』「百濟王子貴須立爲王」と376年なので、377年に根国の支配者が難波根子に変わり、神功皇后政六十年・380年に平群・根国が大田田根子から根使主が支配し、紀角宿祢・大田君と呼ばれた

紀氏は『紀氏家牒』「家大倭国平群県紀里初山下影媛居地同名紀里故名曰紀角宿祢」と遷る毎に木国の紀、平群の紀と地名も遷り、「紀辛梶宿祢弟建日宿祢河内国和泉県坂本里清寧天皇改氏賜坂本臣」と平群以降も河内の和泉の紀、そして、紀宿禰の根使主が賜氏で坂本臣と変化したことを示している。

2022年10月24日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』安康天皇類書2

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「穴穂御子坐石上之穴穂宮治天下也天皇爲伊呂弟大長谷王子而坂本臣等之祖根臣遣大日下王之許令詔者汝命之妹若日下王欲婚大長谷王子故可貢尓大日下王四拝白之若疑有如此大命故不出外以置也是恐随大命奉進然言以自()事其思无礼即爲其妹之礼()折令持押木之玉縵而貢獻根臣即盗取其礼物之玉縵讒大日下王曰大日下王者不受勅命曰()己妹乎爲等族之下席而取横刀之手上而怒歟故天皇大怨殺大日下王而取持來其王之嫡妻長田大郎女爲皇后自此以後天皇坐神材()而晝寐尓語其后曰汝有所思乎荅曰被天皇之敦澤何有所思於是其大后之先子目弱王是年七歳是王當于其時而遊其殿下尓天皇不知其少王遊殿下以詔大后言吾恒有所思何者汝之子目弱王成人之時知吾殺其父王者還爲有邪心乎於是所遊其殿下目弱王聞取此言便竊伺天皇之御寐取其傍大刀乃打斯其天皇之頸逃入都夫良意富美之家也天皇御年伍拾陸歳御陵在菅原之伏見岡也尓」、【穴穗は、石上穴穗宮で天下を治めた。天皇は弟大長谷のために、坂本臣の祖の、根臣を、大日下王の許に派遣して、「お前の妹の若日下を、大長谷に嫁がせたい。だから、差し出せ。」と言った。そこで大日下は、四回、手を合わせて「このような命令が有ろうかと思っていた。だから、嫁がせず置いておいた。かしこまりました。命令のまま差し上げよう。」と言った。しかし言葉遣いが無礼だったかと考え、妹の引き出物として、押木の玉縵を持たせて献上した。根臣は、その引き出物の玉縵を盜んで、大日下をそしって「大日下は、勅命を受けず、『わが妹を、身分違いの下郎にやれるか。』と言って、刀を振りかざして怒った。」とおとし入れた。それで、天皇はとても怒って、大日下を殺して、その王の嫡妻の長田大郎女を連れてきて皇后にした。これより後、天皇は祭壇の前で昼寝していた。后に「お前は何か不満が有るか。」と語りかけると、「天皇の手あつい情けがあるのに、何の不満が有りますか。」と答えた。大后の先王の子の目弱が七歳になった。この王は、その時丁度、御殿の下で遊んでいた。そこで天皇が、その子が御殿の下で遊んでいるのを知らず、「私はいつも思っている。何かといえば、お前の子の目弱が、大人になった時、私が父を殺したことを知ったら、邪心を持つのではないだろうか。」と言った。そこでその御殿の下で遊んでいた目弱が、この言葉を聞いて、密かに天皇が寝ているのをうかがって、その傍らの刀を取って、天皇の頚を斬って、都夫良意富美の家に逃げ入った。天皇は、伍拾陸歳だった。陵は菅原の伏見岡に在る。】と訳した。

この項の相関図を考えると、穴穂は天皇大日下に妹の若日下を大長谷の妃にするよう迫り、断ったために大日下を殺害し、皇后を穴穂の后とし、穴穂が即位したが、大長谷は黒彦・白彦・目弱・圓大臣を殺して天皇になって、しかも、大日下の妃は『舊事本紀』では中帯姫だが、『古事記』は長田大郎女、『日本書紀』の雄略以降の著者推古天皇は「中蒂姫皇女更名長田大娘皇女也」と同一人物と読ませようとし、穴穂を兄弟婚にして、平群氏の皇位の正統性を否定している。

すなわち、本来の正統な皇位は大日下・中帯姫・皇太弟圓大臣・年令的に継承権がない目弱・磐坂市邊押羽が皇位継承順で、皇位継承権者を全て殺してから、大日下の妹の草香幡梭姫皇女を皇后にして、大長谷が即位した。

すなわち、中帯姫は穴穂の妹長田大娘皇女ではなく、圓大臣の兄弟と考えられ、安康即位前紀の「大泊瀬皇子欲聘瑞齒別天皇之女等女名不見諸記」は大泊瀬皇子では允恭・雄略の天皇在位期間と安康元年が大日下妃が大后と呼ぶように前皇后なので、大日下が天皇と考えられることから、大日下が瑞歯別の娘を妃にした可能性が高く、圓大臣も瑞齒別の娘圓皇女と同じ名で同じ地に住んだ姻戚の一人と考えられる。

常識的に考えると、雄略天皇は允恭天皇の在位中に生まれたと考えられ、瑞歯別の孫や曽孫の世代、大日下も履中と権力争いを行っているので、2から3世代の襲名があり、圓大臣も履中2年から安康元年の50年以上大臣でやはり三世代程度の襲名、かつ、履中天皇の親世代である。

すなわち、葦田の王朝が反正の朝廷で、履中前紀羽田矢代宿禰之女黒媛欲爲妃」、これは『古事記』海部直の娘の黒日賣のことと思われ、また元年「立葦田宿禰之女黒媛爲皇妃」の2人の黒媛が存在し、羽田矢代宿禰の娘の黒媛の夫が住吉仲皇子で子が中帯媛、『公卿補任』「反正天皇御世・・・執政葛城圓使主・・・玉田宿禰子也」と玉田の子だが、『紀氏家牒』「葛城葦田宿祢児奉二仕履中反正允恭安康四朝」と葦田宿祢・圓を親子で襲名しているようなので、圓が葦田の娘婿で子が履中妃の二代目黒媛、同様に、羽田矢代と葦田の娘の子も初代黒媛で、二代目黒媛の中帯媛と二代目圓が兄弟の可能性が高く、圓は目弱を保護したと思われる。

2022年10月21日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』安康天皇類書1

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天孫本紀』は続けて「十二世孫物部木蓮子大連公布都久留太連之子此連公石上廣髙宮御宇天皇御世為大連奉齋神宮御太君祖女異媛爲妻生二兒弟物部小事連公志(?)連柴垣連田井連等祖弟物部多波連公依網連等祖孫物部荒山連公日()大連之子此連公檜前廬入宮御宇天皇御世為太連奉齋神宮弟物部麻作連公借馬連(?)原連等祖」、訳は省略した。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「諱穴穗皇子尊者雄朝嬬稚子宿祢天皇第二子也母曰皇后忍坂大中姬命稚渟毛二岐皇子命女也四十二年春正月天皇崩冬十月葬礼畢之時太子行暴虚淫于婦女國人謗之群臣不從悉(?隸 上++)穴穗皇子爰太子欲襲穴穗皇子而密設兵穴穗皇子復興兵將戰故穴穗括箭輕括箭始起于此時也時太子知群臣不從百姓乖違乃出之匿物部大前宿祢之家穴穗皇子聞則圍之大前宿祢出門而迎穴穗皇子歌日云々在別乃啓皇子曰願勿害太子臣將議由是太子自死于大前宿祢之家一云流伊豫國在薄元年十二月己巳朔壬午穴穗皇子即天皇位尊皇后曰皇太后追皇太后贈太皇太后以物部木蓮子連公為大連都遷石上謂穴穗宮二年春正月癸巳朔己酉中蒂姬命立為皇后甚寵初中蒂姬今生眉輪王於大草香皇子仍依母以得免罪常養宮具見別傳二年秋八月甲申朔壬辰天皇為眉輪王見殺天皇年五十六歳眉輪王七歳三年後乃葬於菅原伏見陵天皇無胤」、【諱は穴穂。雄朝嬬稚子宿祢天皇の第二子で母は、皇后・忍坂大中姫といい、稚渟毛二岐皇子の娘だ。治世四十二年の春一月、天皇が崩じた。冬十月に葬礼が終わったときに、太子の木梨軽皇子は、乱暴で婦女に淫らな行いをしていたので、人はこのことをそしった。群臣も信頼せず、穴穂についた。太子は、穴穂を襲おうとして、ひそかに兵士を集めた。穴穂もまた兵をおこして、戦おうとした。穴穂矢・軽矢はこのとき始めて作られた。太子は、群臣が自分に従わず、人もまた離れていくことを知った。そのため宮を出て、物部大前宿祢の家に隠れた。穴穂はそれを聞いて、大前宿祢の家を囲んだ。大前宿祢は、門を出てきて、穴穂を迎えた。穴穂が歌を詠んで「云々が、別の書に記されている。そうして大前宿祢が皇子に「どうか太子を殺さないでほしい。私が図りましょう」と言って、太子は、大前宿祢の家で自殺した。一説には、伊予国に流したともいう。治世元年十二月己巳朔壬午、穴穂は即位した。先の皇后を尊んで皇太后と言い、皇太后に追号して太皇太后を贈った。物部木蓮子連を大連とした。都を石上に遷した。これを穴穂宮という。二年春一月癸巳朔己酉、中蒂姫を皇后とし、寵愛した。はじめ中蒂姫は、眉輪王を大草香との間に生んでいた。そこで眉輪は、母の縁で、父の罪を免れ、いつも宮中で育てられた。詳しくは別の書にみえる。眉輪は七歳だった。二年秋八月甲申朔壬辰、天皇は眉輪のために殺された。天皇は五十六歳。眉輪は七歳。三年後、菅原伏見陵に葬った。天皇に子はいない。】と訳した。

元年十二月己巳朔は453年で『日本書紀』は元年春二月戊辰朔で454年、二年春正月癸巳朔は正しく455年、二年秋八月甲申朔は456年で、これは、453年に即位して翌年死んだ天皇がいて、454年に石上穴穗宮に即位した天皇もいて、457年に崩じた5年在位の天皇がいたことを示し、穴穂は平群家を455年に引継ぎ、翌年殺害されたことを示していると考えられる。

『日本書紀』は453年、『古事記』は「男浅津間若子宿祢・・・甲午年正月十五日崩」と454年と記述され、二人の天皇の死亡を記述し、『舊事本紀』は453年死亡、同年即位としている。

眉輪の後ろ盾が圓なのだから、眉輪の母中帯姫は圓の兄弟の姫で、共に皇位継承権を持っていることを示し、圓の父は玉田宿禰で、玉田宿禰は允恭天皇五年に前天皇の殯の中、酒宴していたと殺害されたが、『三國志』「他人就歌舞飲酒」と酒を飲んで歌って舞い、允恭天皇四二年には新羅の使者が「自難波至于京或哭泣或儛歌遂參會於殯宮也」と行進し、全く非礼ではなく、玉田宿禰は殺されたのは去來穗別の正統な後継者で、この允恭天皇五年が玉田宿禰から圓が大臣を継承し、457年に圓が死亡した。

布都久留の子の「物部木蓮子連公為大連」は、恐らく、葛城氏圓大臣に対する大連で、葛城襲津彦の本家が石上にあり、そこの物部氏が木蓮子を襲名したと考えられ、穴穗宮天皇の大連は麦入宿祢の子の大前宿祢で、遠飛鳥宮大前小前大臣は麦入を襲名した木梨輕、天皇木梨輕の皇太子が大前小前大臣で、穴穗宮大前大連(氷連)・近飛鳥八釣宮小前大連(田部連)と大前小前大臣の家系が2家系に別れたことを示している。